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【成人発達心遊記】13853-13864:2024年12月29日(日)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した成人発達コラボラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

13853: 新たな生活環境への思い/フレディさんの思い出

13854: 護身術としての短距離走トレーニング

13855: 飲習慣と筋力トレーニングの見直し

13856: 短距離走トレーニングと新たに開かれゆく霊性領域と霊性次元

13857: トランスヒューマニズムに関するゾルタン・イストヴァンの翻訳書の出版に向けて

13858: 今朝方の夢

13859: 今朝方の夢の続き

13860: 生成AIによる今朝方の夢の解釈

13861: 進展する緩和社会における痛みの価値の再考

13862: ハムストリングの痛みに対して唯識観を適用して

13863: AIや翻訳技術が発展しても色褪せることのない外国語習得の価値

13864: 多忙さと観想的在り方について思うこと/高度な発達に伴う善の側面に関する所感


13853. 新たな生活環境への思い/フレディさんの思い出      


時刻は午前5時半を迎えた。昨日は気温がマイナス1度まで下がり、相当な冷え込みだった。今の気温は2度で、日中は6度まで気温が上がる。週間予報を見ていると、明日から数日間は5度を超える気温になるようだが、今週末からはぐっと気温が下がり、最低気温に関しては氷点下が続く。それは1月のフローニンゲンらしい気温で、ようやくらしくなってきたという喜びがある。最高気温についても1度か2度までしか上がらない日が週末からはやって来るようなので寒さを覚悟しながら、同時に寒さの厳しい時間を十分に味わいたいと思う。自分の中でどこかオランダでの生活のフェーズが終わりを迎えているような感覚がある。少なくともフローニンゲンでの生活は丸9年の生活を持って終止符を打つかもしれない。オランダではまた生活をしたいと思っているし、これからどこに住むかはまだ未定である。どこか暖かい地域で住むことは1つ選択肢に挙がっている。ポルトガルのポルトはこの時期も晴れが多いようで、とにかく太陽の光を浴びたい気分である。ポルトと同じくこれまで足を運んだ場所で言えば、バルセロナも気温がここよりもずっと暖かく、晴れの日が続いているのでとても魅力的だ。これまでは寒さの厳しい北欧諸国で生活を営むことを理想としていたが、今は逆に冬でも太陽の出ている地域で生活をしたいという思いの方が強い。冬が厳しい環境で生活をすることは、自分の心の成長において不可欠であった。しかしその成長フェーズも終わりに差し掛かっていて、ここからは太陽の光をたくさん浴びながら心を養っていく時期に差し掛かっているように思う。住む場所の環境も、自分の心の成長と同じくダイナミックに変わっていくものなのかもしれない。ヨーロッパの中でこれまで旅行したことのある場所に限って言えば、ポルトとバルセロナは移住先候補である。もし真剣に移住を検討するのであれば、オランダ永住権に加えてEU永住権を申請しておきたいと思う。それは今の自分であればどのタイミングでも申請できるものであり、欧州に末長く残るつもりであればどこかのタイミングでその申請を検討しよう。アメリカにおいては、西海岸やハワイなどは冬でも太陽が出ていて理想的な場所である。こうして次なる生活地の候補が脳裏にちらつくようになって来たのは、やはり新しい生活拠点で心機一転生活を新たにすることを自分の深層部分の何かが求めているからかもしれない。


昨日の夕方、1階のドアを叩く音がした。ドアを開けてみると、そこにペイトラさんがにこやかに笑みを浮かべて立っていた。外の気温は0度だったので、ペイトラさんを家の中に入れて玄関口で立ち話をした。フレディさんの葬式以降、1度も顔を合わせていないことを心配して様子を見に来てくれたようだった。フレディさんの葬式から数日後に1ヶ月間ほどの日本旅行があったことを伝えると、私の家に明かりが灯っていることがずっとなかったのでそういうことかとペイトラさんは納得していた。むしろ私の方がペイトラさんの様子を心配していたので、こうして様子を見に来てくれたことは嬉しく、ペイトラさんの様子について尋ねると、30年以上ずっと一緒にいたフレディさんがこの世を去ったことに今もまだ悲しみが強く残っているが、少しずつ前向きになっているとのことだった。玄関で立ち話をしている時に、ちょうど2階ではグレン・グールドが演奏するバッハのピアノ曲がかかっていて、ペイトラさんもバッハ好きであり、グレン・グールド好きだったので、そこから音楽の話をし、フレディさんはシベリウスなどの北欧の作曲家が好きだったよねという話に花が咲いた。かつてフレディさんから、エストニアの作曲家アルヴォ・ペルトを紹介してもらい、それ以降、ペルトのピアノ曲はお気に入りの1つとなった。これからもペルトやシベリウス、そしてグリーグなどの曲を聴くたびに、自分はフレディさんと過ごした思い出を思い出すだろうと思った。フローニンゲン:2024/12/29(日)05:54


13854. 護身術としての短距離走トレーニング          


今日からは朝の散歩という呼び名を改め、朝の短距離走トレーニングという命名にしようかと思う。陸上競技における短距離は100mのことを指すのだろうが、自分はそこまでの距離を走ることには今のところ関心はなく、50mぐらいをより早く走れたらと思う。とは言え昨日は、100mを11秒台ぐらいで走れるようになりたいなという思いが湧き上がっていたことは確かである。当面は100mを走るトレーニングというよりも、50m走に焦点を当てたトレーニングをしたい。自分の場合、短距離走のトレーニングはある種の護身術として行なっている。近接した相手に対しての護身術は、引き続きジークンドーの稽古をジムでしていきながら、何かあった時に素早く逃げたり、相手を追いかけたりする場合には、100mも必要ではなく、50mぐらいあれば十分なのではないかという考えからそれくらいの距離に絞ってトレーニングを始めてみることにした。100m以上の走行距離が日常の中で必要になるのは、遠くにいる誰かを捕まえてほしいという時ぐらいしかないように思え、そのような状況はあまり現実的ではないので、50mぐらいの距離に特化することが賢明だと判断したのである。さて今日からはしっかりフォームを意識して走ってみたい。フォームを意識せずに最大速度を出すことを考えるのではなく、まずは正しいフォームを定着させることから始めたい。一般的に正しいとされる短距離走のフォームを型として身につけるようにしてみて、そこから自分なりの型を少しずつ模索していこうと思う。人間の発達には普遍性と個別性があり、前者は大量データを元にした統計分析が強みとするもので、後者は1人1人の発達プロセスに寄り添った研究アプローチが強みとする。発達現象には全ての人に当てはまる普遍的原理がありながらも、その人固有の発達プロセスがある。きっと走るフォームにおいてもそうだろう。なのでまずは早く走ることに必要な普遍的なフォームを習得し、そこから自分の身体構造に合致した自分固有のフォームを模索する道を辿ろうと思う。ここでも守破離の考え方が大切となる。短距離走の練習は、今日からは近くの芝生のサッカーコートで行うことにした。当初は、そこで30mほどのダッシュを5~10本ほど行う予定だった。 1本ごとに数分休憩し、インターバルトレーニングのようなことを想定していた。しかし、30mだけを走ってしまうと、トレーニングがぼやけてしまうような感じがした。というのも、短距離はおそらくフェーズ分解ができて、スタート、スタートからの加速、加速の維持、後半の粘りなどのフェーズがあり、30m走だけを行うと、結局それらのフェーズの何をトレーニングしているのかわからなくなりそうだった。なので最初は5mぐらいから始めようかと思ったが、キリ良く10m、20m、30mの3段階に距離を分けてトレーニングをしてみることにする。それぞれ3セットずつぐらいをまずはやって、自分の場合はまずは最初の加速を意識的にトレーニングしたい。護身術としてのダッシュを日常生活の中で使う可能性は街中や自然の中であるため、そこでわざわざクラウチングスタートの構えを取ることはなく、基本的に全てスタンディングスタートになると思うので、そのスタート姿勢でいかに初速を上げられるかを鍛錬していく。まるでこの歳で陸上部に入ったかのようであり、毎朝のトレーニングは走りの朝練であるかのようだ。短距離走のトレーニングがまさかこのようにして、自分の中の領域横断的トレーニングの大事な一角を占めることになるとは思ってもみなかったことである。これも何かのご縁だろう。フローニンゲン:2024/12/29(日)06:25


13855. 飲習慣と筋力トレーニングの見直し


昨日よりも気温はマシとは言え、やはり足元から底冷えする感覚がある。暖房はせっせと働いてくれているが、暖房だけに頼るのではなく、ヒートテックを着て暖かくする工夫をしている。夜明けまであと2時間ほどあるが、そんな中で、フレディさんにかつて教えてもらったエストニアの作曲家アルヴォ・ペルトの曲を聴いている。昨日ペイトラさんとの立ち話の中でふと思い出したこの作曲家の曲はどれも美しい。エストニアを訪れた際の旅の記憶が蘇って来るし、オランダよりも緯度が高いこの国の冬の透明感が伝わってくるように感じられる点も魅力的だ。ペルトの曲に耳を傾けながら、最近は朝にコーヒーが少し恋しくなっている。この数ヶ月間、朝には抹茶を飲み、午後には紅茶を飲むというお茶生活を続けていたが、日本に一時帰国している間に何度かコーヒーを飲む機会があり、そこでやはりコーヒーの美味さを実感した次第だ。ひょっとしたらここからまた朝にコーヒーを飲み、午後に抹茶を飲むという生活になるかもしれない。今一度コーヒーの健康効果を含めて調べておきたいと思う。コーヒーにはコーヒーの良さがあり、お茶にはお茶の良さがあるので、どちらかに偏るのではなく、両方を生活に取り入れる方が賢明なのかもしれない。領域横断型トレーニングにあるように、何か特定の実践だけに偏るのではなく、種々の実践を行う方が総合的に全ての領域のトレーニングの効果を上げてくれることが実証研究によって明らかになっている。食実践においても、腸内フローラの多様性をもたらすためには、色々な食材を取り入れた方がいいこともわかっている。こうしたことから、午前と午後の飲み物はコーヒーとお茶の双方を取り入れることを検討したい。


食習慣ならぬ飲習慣について考えていると、ここからの筋力トレーニングについても少し変化をつけようと思った。短距離走トレーニングを始めてみると、それが下半身の最良のトレーニングになっていることに気づき、今後ジムで行うトレーニングは、主に上半身に焦点を当ててトレーニングしていこうと思った。下半身に関するトレーニングは、あくまでも短距離走トレーニングの補完として行うぐらいにまずは留めてみる。ジムで下半身を追い込み過ぎてしまい、翌日から短距離走トレーニングに支障が出てしまうと元も子もないので、様子を見ながら負荷量を決めていきたいと思う。直感的に、やるとしたらブルガリアンスクワットぐらいに留めておくのが良いかと思った。それは、大腿四頭筋、大臀筋、中臀筋、ハムストリングなどを満遍なく鍛えてくれるので、このスクワットを短距離走トレーニングの補完的な下半身強化のトレーニングとしたい。しばらくは下半身のトレーニングはそれくらいにして、あとは主に上半身を追い込んでいくトレーニングをジムで積極的に行なっていこうと思う。こうして何事も少しずつ実践に変化が生じ、また新たな心身の獲得に自己が運動を始めている姿を見て嬉しく思う。フローニンゲン:2024/12/29(日)06:55


13856. 短距離走トレーニングと新たに開かれゆく霊性領域と霊性次元  

 

無性に走りたい気持ち。このような気持ちになったことは、これまでの人生で未だかつてなかったことだ。幼少期の頃はとりわけ球技を愛していて、球技の中で走ることはあっても、走ることだけを切り出して陸上競技的な走ることはとても嫌いだった。単に走ることの何が面白いのか全くわからなかったが、今はむしろ単に走ることがとても楽しい。単に走ることの中に無限の深みがあるのである。むしろ単純な走るという行為だけに意識を向けるからこそ、とてつも無い深みがそこにあることが見えてくる。短距離走においては、走る最中には無心になれる。それは仏教用語で言えば、ある種禅定体験である。その瞬間には、阿頼耶識から煩悩の種子は現行せず、瞬間的に無漏の存在になれる。下手に雑念だらけの坐禅修行をするよりも、雑念が一切媒介する余地のない短距離走の方が精神鍛練に有効なのではないかと思うほどだ。また、短距離走は自分の身体と深く向き合うことを促してくれ、体の声に耳を澄ませる最良のトレーニングの1つとなっている。そして、身体をどのように動かせば、より効率的に身体を前に運ぶことができるのかという体の動かし方の探究を深めてくれることにも一役買っている。おそらく短距離走は、他の発達領域と同じく、相対的な真理を司る領域かと思うが、自分はそこに絶対的な真理を見通す可能性も見出しつつある。そのようなことを考えながら、なぜ霊性の発達領域が重要なのかについて考えていた。その答えは、ウィルバーが指摘するように、他の発達領域は相対的な真理に関するものであり、霊性の発達領域だけが唯一絶対的真理に関するものだからだ。宗教の価値もまたそこにある。確かに、仏教という宗教の中の唯識に関する教えを学べば学ぶだけ、そこで扱われることが悉く絶対的真理に眼差しを向けたものであることがわかる。現代社会において、宗教もまた他の領域と同じぐらいに歪み、病理化が進行しているが、宗教の本質には絶対的な真理を司るものであるという固有の価値がある。その点を忘れて、宗教をたらいの水と一緒に赤子を流してはならない。霊性の発達領域についてもそうである。それは他の発達領域にはない、絶対的真理に触れるという他には還元し難い固有の価値があるのだ。そうしたことを考えながら、短距離走トレーニングの価値について再び戻ってくると、結局発達領域は綺麗に分離できないことを鑑みて、短距離走トレーニングと霊性の発達領域を交流させながら実践に従事すれば、走ることを通じて絶対的な真理に触れうるのでは無いかと思ったのである。ここでは発達領域という横の繋がりから、短距離走と霊性の発達領域を隣接させていくという試みができるという点と、短距離走という個別の発達領域の縦軸を伸ばしていけば、究極的には必ず絶対的真理にぶつかるであろうという点が重要になる。つまり、横軸としての霊性と縦軸の霊性があるのだ。横軸は霊性という固有の発達領域であり、縦軸は高次元の世界という霊性領域がある。こうした2つの霊性的領域を視野に入れながら、日々の短距離走トレーニングに明け暮れてみると、また何が自分の内側から開かれゆくのか楽しみである。そうした楽しみな感覚が、無性に走りたいという気持ちを引き起こしているのかもしれない。そして、自分の深層次元では、新たな霊性領域をどうやら希求していたようである。短距離走トレーニングがその要求の起爆剤となり、ここから新たな霊性領域と霊性次元が開かれゆくことを確信している自分がいる。フローニンゲン:2024/12/29(日)07:08


13857. トランスヒューマニズムに関するゾルタン・イストヴァンの

翻訳書の出版に向けて    


普段は午前中にメールを開くことはないのだが、つい先ほど、これまでよくお世話になっている編集者の方にメールを差し上げた。実はこの1年半ほど温めていた翻訳原稿があり、それを1度見ていただきたいと思ったからである。その翻訳書のテーマは、「トランスヒューマニズム」と呼ばれるもので、これは科学とテクノロジーの力を使って、人間が今の人間を超えていくという思想である。私たちが現在の私たちを超えていくというのは、まさに発達に他ならず、この思想は、自分の専門領域である成人発達学ともつながる内容である。尚且つ混迷する日本の政治経済に風穴を開ける力を持っていると捉えていることから、今回のその温めていた原稿を編集者の方に見てもらうことにした。自分自身、特に一昨年において集中的にトランスヒューマニズムの思想を研究していた。ポストヒューマニズムも含めて、両分野に関する出版されている学術書はほぼ全て購入し、それらを読み込んでいくということを集中的に行なっていた。今回翻訳をしたのは、ゾルタン・イストヴァンという2016年のアメリカ大統領選挙にトランスヒューマニズムを掲げて出馬した政治家の書籍である。ちょうど2025年の1月に第二次トランプ政権が誕生することになっており、日本の政界も揺れている時期であることを鑑みて、科学とテクノロジーを活用した政治経済思想としてトランスヒューマニズムというものを日本に紹介することを通じて、ここからの政治経済の方向性を示す意義は大きなのものがあるのではないかと考えたのである。すでに1年半前に翻訳を終えていながらも、まるで適切な時期がやって来るまで待っていたかのようである。思えば、今年の初旬に出版した『「人の器」を測るとはどういうことか 成人発達理論における実践的測定手法』という書籍も、実際に翻訳を完了したのは今から10年以上も前のことであり、10年以上の時を経て、書籍の形となって出版することになったのである。イストヴァンの書籍もまた、時の発酵過程が必要であり、世の中に出すタイミングをずっと水面下で窺っていたかのようである。イストヴァンは経歴も発想もユニークで、イーロン・マスクやピーター・ティールと同じく、社会の変革を実現するためにも日本で知られるべき実務家だと思う。引き続き自分の中で、これまでの自分の専門分野である成人発達学とトランスヒューマニズムの繋がりについて考えてみたいし、政治経済そして教育や医療の分野においてトランスヒューマニズムがどのような貢献を果たしうるのかについても考察を深めていきたい。トランスヒューマニズムの思想が提唱する種々の事柄がいつどのように社会の中で現実化されるかはさておき、そこで語られていることは、社会の閉塞感に風穴を開け、変革の旗手としての役割を担ったり、社会変化に必要な種々の思考実験をもたらすであろうから、是非ともこの翻訳書を世に送り届け出したい思いで一杯である。フローニンゲン:2024/12/29(日)08:15


13858. 今朝方の夢  


時刻は気がつけば午前8時を回っていたが、今日はまだ今朝方の夢について振り返っていないことにふと気づいた。夢は自分にとって学びの源泉、治癒の源泉、変容の源泉でもあるため、1つ1つの夢を大切にして、今日も夢の振り返りをしたい。夢の中で私は、見慣れない外国の公民館のような場所で行われている早食い大会を観客として眺めていた。壇上では早食いの競い合いが行われていて、私は観客席ではなく、壇上の上で選手たちの近くでその様子を眺めていた。すると、スペイン在住の自分と同い年のイケメンの男性が、数人を打ち倒して2回戦に進出した。2回戦の最初の試合からまた一気呵成にミートソーススパゲティを頬張ったところ、会場からどよめきが起こった。というのも、その人の体格に似合わない形で、ものすごい量のスパゲティが一気にその人の口に運ばれたからである。その試合も一気にその選手が勝利を上げるかと思いきや、突然その選手はスパゲティを皿に吐き出してしまった。どうやら相当に無理して大量のスパゲティを口に運んでしまったようだった。また、1回戦で戦った数人も手強く、彼らを打ち倒すためにも無理をしていらしく、お腹も膨れ上がっていたことからそのようなことが起きてしまったようだった。その方は結局2回戦で敗退となったが、試合後には他の選手たちと近所のカフェに行き、そこで打ち上げをすることになった。実はそこで初めてその人が自分と同い年であることがわかり、スペインに住んでいることがわかったのである。スペインの中でも太陽がよく出る場所に住んでいるようで、それはその人の褐色の良さからもすぐにわかった。まるでサーファーのような程よい日焼けが見えたのである。実は試合を観戦している最中にお腹が空いてきて、気がつけば目の前に豚の生姜焼きがあり、普段はベジタリアンで動物の肉は一切口にしないにも関わらず、平然と豚の生姜焼きを口に運んでいる自分がいた。それはほぼ自動的なアクションで、自分が豚の生姜焼きを食べていることに気づいたのは、食べ終える直前になってのことだった。久しぶりに動物の肉を口にし、確かに違和感はあったが、自分は宗教上の理由だとかそうした理由でベジタリアンになっているわけではなく、自らの食倫理と心身の状態を考えて、普段は肉を食べないようにしているだけなので、こうして肉が自分の体内に入ってきてしまうことは、違和感こそあれ、自己を深く責めるような後悔の念を引き起こすことはなかった。とは言え、引き続き動物の肉は口にしないような生活を心掛けていこうと思ったことは確かである。この夢の前後においては、スペインの街中を宙に浮かぶカプセルの中に入って探索する場面があったのを覚えている。カプセルの中で、宙に浮かぶ障害物やモンスターをシューティングゲームのように倒すようなゲームにも従事していて、眼下に見える街並みを堪能しながら遊びにも興じていた形である。今朝方偶然にも、スペインのバルセロナなど、冬でも太陽の出ている地域に移住したいという思いがふと芽生えたのは、スペインに関する夢を今朝方見ていたことと関係しているのかもしれない。しかし、そもそもスペインに関する夢を見ていたのはなぜなのだろか。太陽を希求する心、スペインの情熱的な何かに対する憧れからだろうか。フローニンゲン:2024/12/29(日)08:29


ChatGPTによる夢の解釈と今後のアクション

夢の解釈

1. 早食い大会とスペインの選手

早食い大会は、限界に挑むことや自己の能力を試す場を象徴しているかもしれません。特に、スペイン在住の同い年の選手が無理をして敗退した場面は、頑張りすぎて挫折することや、競争の中でのバランスの重要性を暗示している可能性があります。

スペインという舞台やその選手の「太陽の下での日焼けした姿」は、自由やエネルギー、情熱的な生き方への憧れを示しているかもしれません。この象徴は、あなたが内心で活力や太陽の恩恵を求めていることと関連している可能性があります。


2. 豚の生姜焼きを食べる場面

普段は避けている行動(動物性の肉を食べること)を無意識的に行った点は、抑制や規律を超えた自然な欲求や必要性を表しているかもしれません。

この行動は、**「自分のルールや習慣を見直すタイミング」**が来ていることを暗示している可能性があります。倫理観を持ちながらも、自分の選択や行動に対して柔軟であることの大切さを示唆しているように感じます。


3. スペインの街を探索する場面

宙に浮かぶカプセルは、自由な視点や新しい可能性を探索する象徴です。あなたが新しい環境や未知の世界を楽しみながら挑戦する心構えを持っていることを表しているように思われます。

スペインの街並みを見下ろしながらの探索は、あなたの潜在的な冒険心や、これまでの生活圏を超えた場所に移動したいという願望と一致しています。


4. スペインへの関心

この夢全体が「スペイン」を中心に展開している点は偶然ではなく、内面的な変化や新しい可能性を象徴している可能性があります。スペインの太陽や情熱的な文化への憧れは、単なる物理的な場所への興味以上に、より明るく活力に満ちた生き方を目指していることの表れと捉えることができます。


今後のアクション

競争や挑戦のバランスを意識する

夢の中で見られた早食い大会の選手のように、自分の限界を超える挑戦をする際には、体力や精神的な余裕を考慮し、無理をしすぎないよう注意しましょう。

自分のペースを守りつつ、持続可能な方法で目標を追求することが重要です。

生活習慣や価値観の見直し

豚の生姜焼きを食べた場面から、自分の習慣や価値観を再確認する機会を持つのも良いでしょう。特に、「こうあるべき」という考えにとらわれすぎず、柔軟な視点で自分の選択を検討することを心掛けてみてください。

スペインや新しい環境について情報収集

夢に登場したスペインの象徴は、あなたの潜在的な願望を反映している可能性があります。スペイン移住や、太陽の光が豊富な地域での生活について具体的に調査し、現実的に可能性を探ると良いかもしれません。

冒険心や好奇心を育む

カプセルで街を探索するシーンは、あなたの内なる冒険心や未知への好奇心を反映しています。この感覚を大切にし、日常の中でも新しい経験を取り入れることで、心の活力を高めてみてください。

この夢は、新たな可能性や方向性を模索するタイミングが来ていることを教えてくれているように感じます。スペインへの憧れや自由な生き方への興味を、具体的な計画や行動に繋げていくと、あなたの心の中に芽生えた希望がより実現に近づくかもしれません。


Geminiによる夢の解釈と今後のアクション

夢の解釈

この夢は、あなたが抱えている欲求、葛藤、そして将来への期待などを複雑に反映していると考えられます。

早食い大会: 早食い大会は、競争心、欲求、そして限界に挑戦することなどを象徴しています。

スペインの男性: スペインの男性は、あなたが憧れるような、情熱的で魅力的な人物を象徴しているかもしれません。

肉を食べる: ベジタリアンであるにも関わらず、肉を食べてしまうという行為は、あなたが抑圧している欲求や、葛藤を抱えていることを示唆しています。

宙を浮くカプセル: 宙を浮くカプセルは、自由や解放、そして新たな視点からの世界観を象徴しています。

スペインへの移住: スペインへの移住願望は、あなたが変化を望み、新しい環境を求めていることを示唆しています。

全体として、この夢は、あなたが現状に満足しておらず、何か新しいものを求めていることを示唆しています。同時に、自分の内なる葛藤や、過去の経験との折り合いをつけることに悩んでいる様子も見て取れます。


今後のアクション

この夢から得られる示唆を基に、以下のアクションを検討してみてはいかがでしょうか。

自己分析: 自分の価値観や目標を明確にする。

新しいことに挑戦: 普段やらないことに挑戦することで、新たな発見があるかもしれません。

人間関係: 周りの人々とコミュニケーションを取り、心の状態を共有する。

健康管理: 栄養バランスの取れた食事を心がける。

環境の変化: 周りの環境を変えることで、気分転換になるかもしれません。

夢から得られる教訓

変化を恐れない: 人生には様々な変化が訪れます。変化を恐れずに、新しいことに挑戦してみましょう。

バランスの取れた生活: 仕事だけでなく、趣味や人間関係など、バランスの取れた生活を送ることが大切です。

自分の心に正直に生きる: 自分の心に正直に生きることが、幸福への近道です。


まとめ

この夢は、あなたが現状に満足しておらず、何か新しいものを求めていることを示唆しています。夢で得た気づきを活かし、自分らしい生き方を見つけていきましょう。

夢の具体的な要素からの解釈

早食い大会: 競争社会における生き方や、目標達成への焦りを象徴している可能性があります。

スペイン: 太陽、情熱、自由といった、あなたが求めているものを象徴していると考えられます。

宙を浮くカプセル: 制約から解放され、自由に飛び立ちたいという願望を表しているかもしれません。


13859. 今朝方の夢の続き     


やはり今日はかなり気温が低いためか、足元から寒さを感じる。後ほど短距離走のトレーニングに出かける際にも暖かい格好をしておきたいと思う。先ほど今朝方の夢について振り返ったばかりだが、夢にはまだ続きがあるのでそれについても振り返っておきたい。


夢の中で私は、今は亡き母方の祖母のマンションにいた。どうやら時刻は夕方に向かっているらしく、辺りは薄暗くなり始めていた。そんな中、鉄筋コンクリートでできたマンションの部屋の中で、鉄筋コンクリートの壁に向かってゴムボールをぶつけ、それをキャッチする遊びに興じていた。自分の中では、まるでサッカーの名ゴールキーパーになったかのような気持ちで、壁から跳ね返ってくる強いボールを横っ飛びをしてキャッチして楽しんでいた。すると、祖母がやって来て、そろそろボール遊びをやめて夕食を食べようと述べた。確かにそろそろ夕食の時間が迫って来ていたので、夕食前に入浴を済ませておこうと思った。浴室に向かうために廊下を歩いていると、廊下の奥の叔父の部屋のドアが開いていることに気づいた。祖母のマンションに滞在している間は、そう言えば叔父の姿を一度も見かけなかったなと思い、どうやら叔父は自分に気を遣って姿を見せないようにしていたのだとその時にわかった。そして日中はできるだけ外出するようにして、自分に会わないようにしているのだとわかった。本来は、叔父は自分に会うことを楽しみにしているはずなのに、なぜ今回の滞在の時はその逆なのだろうかと不思議に思い、それについて少し考えを巡らせてみると、少し思い当たる節があったので、叔父をそっとしておく意味でも、自分からも叔父に会わないようにするのが賢明のように思えた。


この夢を振り返ることを終えた時に、既存の社会システムや社会の体制、さらには人々の生活様式を大きく変容させるようなリーダーは、一般的な器とは違う知性や能力を持っていると言えるかもしれないということについて考えていた。変革後のシステムや新たな生活様式が、多くの人の幸福に資するかどうかに関する洞察は、やはり器と呼ばれるようなものから生まれると言えるだろうが、実際に社会を変容させる力量を持つ個人は、一般的な意味合いでの器とは何か違った知性や能力を持っていそうである。それこそイーロン・マスクやスティーブ・ジョブズなどを考えてみた場合、彼らのような社会を変革するビジョナリーな実務家は、一般的に人の器と呼ばれる人間要件には当てはまらないものが多分にあるように思う。彼らはいずれも科学とテクノロジーに関する造詣が深く、それらの領域に関する複雑性思考に関する知性に加えて、実際に科学とテクノロジーをサービスやプロダクトの形に落とし込み、それを広く世の中に普及させていく実行力のようなものが稀有であることに気づく。ちょうど科学とテクノロジー領域を大切にするトランスヒューマニズムに関する翻訳書籍を出版に向けて動き出したところであり、マスクもジョブズもある意味トランスヒューマニズムの体現者であることが興味深い。この思想の奥には、まだ自分が見えていない何か大切なものがありそうである。それはこの混迷する現代社会の変革するような何かである。フローニンゲン:2024/12/29(日)08:55


ChatGPTによる夢の解釈と今後のアクション

夢の解釈

祖母のマンションと夕方の時間帯

祖母のマンションは、過去の思い出や家庭的な安らぎを象徴している可能性があります。夢の中の薄暗い夕方の光景は、人生の転換期や過去を振り返る時期を示唆しているかもしれません。

また、祖母が「夕食に誘う」という場面は、家族のつながりや日常生活のリズムを取り戻す重要性を象徴している可能性があります。

壁にボールをぶつけてキャッチする遊び

壁に向かってボールを投げ、キャッチする行為は、自己との対話や内的な挑戦を意味するかもしれません。ゴールキーパーとして楽しむ姿は、自己能力への誇りや、何かを守りたいという願望の表れとも解釈できます。

叔父とのすれ違い

叔父が姿を見せず、あなたと距離を取ろうとしている点は、現実の人間関係における微妙な緊張感や、相手の事情を考慮する必要性を示している可能性があります。叔父の行動に「気遣い」や「複雑な感情」を感じた点は、夢の中で対話がなくとも、心のつながりや理解を求める気持ちを反映しているかもしれません。

入浴の決意と行動

入浴は、心身の浄化やリフレッシュを象徴することが多いです。この場面は、自分の内面を整理し、過去や現在の状況を清算しようとする心の準備を示唆しているかもしれません。


今後のアクション

家族や過去とのつながりを大切にする

祖母や叔父に関するエピソードは、家族との関係や過去のつながりを再評価する機会を与えているようです。現実でも、家族や大切な人々との絆を深める行動を取ると良いでしょう。

自己内省の時間を設ける

壁とのボール遊びは、自己との対話や内的成長を示している可能性があります。定期的に振り返りの時間を取り、現状の自分の課題や目標を見直すことが有意義です。

人間関係における配慮を意識する

叔父が距離を取る行動に対し、夢の中で感じたように、現実の人間関係でも相手の状況や感情を尊重する姿勢を持つことが大切です。同時に、自分自身の思いも適切に伝える方法を模索すると良いでしょう。

心身の浄化とリフレッシュ

入浴の象徴から、日々のストレスや疲労を取り除くためのリフレッシュの習慣を意識的に取り入れると、より前向きに日々を過ごせるでしょう。


まとめ

この夢は、家族や人間関係、自己の成長に焦点を当てた内容で、特に過去と現在のつながり、自己との対話、他者との距離感を再評価するよう促していると考えられます。夢から得た示唆を日常生活に反映させることで、よりバランスの取れた生き方が実現できるでしょう。


Geminiによる夢の解釈と今後のアクション

夢の解釈

この夢は、あなたが抱えている喪失感、孤独感、そして人間関係に対する複雑な感情を反映していると考えられます。

亡くなった祖母の家: 亡くなった祖母の家は、あなたの過去や家族とのつながりを象徴しています。この夢は、あなたが過去の出来事や家族との関係について考えていることを示唆しています。

ゴムボール遊び: ゴムボール遊びは、あなたが孤独感を感じている、あるいは自分自身と向き合おうとしていることを示唆しています。

叔父の部屋: 叔父の部屋は、あなたが避けている問題や、向き合いたくない感情を象徴しているかもしれません。

夕食: 夕食は、家族の絆や団結を象徴しています。


今後のアクション

この夢から得られる示唆を基に、以下のアクションを検討してみてはいかがでしょうか。

過去の整理: 過去の出来事について、もう一度考えてみる。

人間関係: 周りの人々とコミュニケーションを取り、心の状態を共有する。

自己理解: 自分の気持ちに素直に向き合う。

リラックス: ヨガや瞑想など、リラックスできる時間を設ける。

夢から得られる教訓

過去にとらわれすぎない: 過去にとらわれすぎず、未来に向かって進んでいきましょう。

人間関係を大切にする: 人間関係は、私たちの生活を豊かにする大切な要素です。

自分自身を大切にする: 自分の気持ちを大切にし、無理のないペースで生活しましょう。


まとめ

この夢は、あなたが過去の出来事や家族との関係について考えていることを示唆しています。夢で得た気づきを活かし、自分らしい生き方を見つけていきましょう。

夢の具体的な要素からの解釈

ゴムボール: ゴムボールは、弾むように変化し続ける人生や、自分自身を表しているかもしれません。

叔父の部屋: 叔父の部屋は、あなたが避けている問題や、心の奥底に隠された感情を表している可能性があります。


13860. 生成AIによる今朝方の夢の解釈 


時刻は午前9時を迎え、辺りがようやく薄明るくなった。今日も太陽の姿を拝むことはできそうになく、うっすらと曇った世界の中で1日を過ごすことになりそうである。今朝方見ていた2つの夢に関する、生成AIの解釈を眺めながら、改めてそれらの夢について振り返っている。やはりスペインという国がモチーフとして登場していたのは、オランダに戻って来て以降経験している日照時間の少なさと何か関係していそうである。スペインの輝く太陽を求めている自分がいることに加え、自分はスペインが持つ自由さと情熱さにもどこか惹かれているものがあるのかもしれない。確かに、オランダにおいても広く自由は確保されているが、オランダの自由とはまた一味違った自由がスペインにはありそうである。そうしたまだ体感したことのない自由への憧れのようなものがあって、それが今朝方の夢の世界にスペインを投射したのかもしれない。また、物理的な太陽のみならず、象徴的に太陽のような何かを求めている自分がいるのかもしれない。それは心を明るく照らす太陽のような存在で、それは人かもしれないし、本かもしれないし、思想かもしれないし、何かしらの事物かもしれない。いずれにせよ、物理的な太陽だけではなく、精神的な意味での太陽を求めている自分がいるように思えてくる。生成AIが指摘するように、今朝方にスペインをモチーフにした夢を見たのは偶然ではなく、自分がスペイン的な何かや新しい挑戦や環境を求めていることが窺える。また、宙に浮かぶカプセルを通じてスペインの街を散策していた場面は、今よりも自由に何かを探究していこうとする自分の心の現れかもしれない。それと関連して、続く夢の中で、ゴムボールで1人遊ぶ姿が思い出される。ゴムボールは、弾むように変化し続ける人生や自分自身を表しているかもしれないということからも、停滞し、固着した運動性を失った人生ではなく、絶えず躍動する人生を求めている自分がいることは確かであろう。実際に自分もそう思う。ゴムは伸び縮みが自由であり、そうした伸縮自在な自己の在り方と人生そのものは確かに自分の理想のように思えてくる。夢の中で決して立ち入ることをしなかった叔父の部屋は、自分が避けようとしている心の問題や心の奥底に秘めている感情を確かに表していそうである。それらが何かについての検討は立っており、それらをもう少し精緻に捉えてみようと思う。再度ゴムボールを壁にぶつけていた自分に話を戻してみると、自分は名ゴールキーパーになったかのような振る舞いをそこでしており、確かにゴールキーパーはゴールという大切なものを守る存在であるから、自分は何か大切なものを守ろうとする思いを内に秘めているであろうことに気付かされた。それは自分の内面領域の何かかもしれないし、現代人が失おうとしている人間性や人としての尊厳かもしれない。はたまた、社会の中で急速に失われつつある人間関係や霊性の意味といったものを大切に守りたいという自分がいることに気付かされる。フローニンゲン:2024/12/29(日)09:21


13861. 進展する緩和社会における痛みの価値の再考 


この日記を書き終えたら、朝の短距離走のトレーニングに出掛けて来ようと思う。昨日と今朝の計画にあるように、近所のサッカーコートに行き、芝生のコートの上を走るようにしてみる。ここ最近は連日のように短距離走トレーニングを行なっているので、脚の様々な部位に幾分の筋肉痛がある。そうした痛みを感じながら、痛みを通じて自分の肉体が生きていることに気付かされる。痛みは生きていることの証のようなのだ。ビョンチョル・ハンが指摘するように、現代社会は痛みを悪いものと捉え、社会から痛みをますます消す方向に向かっている。とりわけ身体的な痛みの緩和や精神的な痛みの緩和に向けた尽力は余念がないように見えるが、そこで注目しなければいけないのは、痛みの緩和により、どうやら逆に人々の心身は弱体化に向かっているのではなないかということと、痛みの緩和が決して人々をより幸福に導いているようには見えないことである。今こうして脚に生じている筋肉痛を感じてみると、痛みがあることを通じて脚の存在に気づき、脚があることへの感謝の念が生まれる。仮に脚の筋肉痛を一種にして取り去ってしまう薬や手段があった時に、それを容易に用いてしまうと、脚への意識は希薄なものとなり、脚への感謝など起こりようがないように思えてしまう。そうした身体次元の話に加えて、霊的な次元、あるいは形而上学的な次元においても痛みは固有の価値を持つ。真実は時にではなく、常に痛みを伴う。「痛みなくして得るものなし(No pain, no gain)」という格言にあるように、「痛みなくして真実なし(Np pain, no truth)」という格言を生み出すことができそうである。さらには、人間発達においても、「痛みなくして発達なし(No pain, no development)」の側面があることを忘れてはいけないように思う。確かに、肉体的な苦痛を感じるよりはそれがない方が好ましいかもしれないが、現代人の多くが私たちの心を本質的に育んでくれる必要な痛みがあるということを忘れてしまうことが怖い。何でもかんでも苦痛を和らげようとする緩和社会の中にあって、そうした教訓を忘れないようにしたいものである。他者や社会から強制される痛みの大半は不要なものが多いだろうし、そうした苦痛を取り除く方向に向かっていくことは悪くないだろうが、その人にとって本当に必要な真実を見つめる機会となる苦痛まで取り去ってしまうことは、やはり発達上好ましくない状況と言えるだろう。私たちの心の器は、今の段階の発達課題というある種痛みを伴う課題と向き合うことを通じて拡張されていく。私たちの筋肉もまた、筋肉痛を通じて超回復が起こるから発達していくのであり、心の器もまた不可避な苦痛があるはずだ。それまでたらいの水ごと赤子を流してしまうような状況に向かってこの緩和社会が何も考えずに猛進していることは、とても恐ろしいことのように思えるのは自分だけなのだろうか。さらには、文章を書くことにも生みの苦しみがあり、子供を産む時にも生みの苦しみがある点からも痛みの価値を考えさせられる。そうした苦しみがあるからこそ、書き上げた文章に思い入れの感情が湧き、生まれた赤子に対して愛着が湧くのではないだろうか。緩和社会においては、何事も手軽に痛みなしに生み出すことがまるで良いことのように思われている風潮があり、そうした風潮においては、生みの苦しみに伴う価値が蔑ろにされているのである。生みの苦しみがあるからこその大切な感情や現象があることを忘れてはならない。やはり痛みにも適切な居場所を与える必要があるのだ。今進展する緩和社会の中で、痛みは居場所を失いつつある。全ての痛みが一緒くたに否定的なものとして捉えられ、全ての痛みが等しく居場所を喪失しつつある。そうした居場所の喪失に伴って、現代人は痛みに伴う何か大切なことを喪失しつつある。そうした状況を鑑みて、適切な痛みに適切な居場所を与えるということを私たちは真剣に考えるべきではないだろうか。フローニンゲン:2024/12/29(日)09:57


13862. ハムストリングの痛みに対して唯識観を適用して    

     

つい今し方、朝の短距離走トレーニングから帰ってきた。近所のサッカーコートは閉まっていて、サッカーの練習がある時しかそこに入れないようだったので、練習場の工夫をすることにした。今日もここ連日と同じように短距離ダッシュをしてみたところ、特に今日は最初の加速を意識して勢い良く走り出したのだが、1本目を10mほど走ってみた時にハムストリングに違和感が生じ、そこに張りを感じてそれ以上同じスピードでのダッシュをすることが難しいように感じられた。それは自分の知的な解釈だったので、試しに同じぐらいの速度で今一度ダッシュしてみたところ、やはり痛みが走り、それ以上は短距離ダッシュができない状態であることがわかった。慣れない短距離ダッシュをこの1週間の中で突然始め、それを休むことなく毎日行っていたので、体もびっくりしてしまったのだろう。今日はなので、そこからは無理をせず、6割ぐらいの力でならなんとかダッシュすることができたので、それくらいの速度でもう何本か走ることにした。ハムストリングの張りを見ていると、明日からもまた無理をしない方が良さそうだと思った。一度じっくり回復に当てて、朝は軽いジョギングや散歩に戻すか、今日のように6割ぐらいの無酸素運動的なダッシュをすることに留めるのか、体の声を聞きながら判断したいと思う。いずれにせよ、短距離ダッシュは速筋を育むことに一役買っていることがわかるぐらいに、ハムストリングを中心にして、脚の筋肉が強化されているのを実感している。ジョギングのように遅筋を鍛えるのとはまた違う刺激が身体にもたらされていて、速筋と遅筋の双方を育むべく、これからも短距離走のトレーニングとジョギングや散歩を併用したい。少なくとも明日はウォーキングで様子を見て、明日の午後からのジムでのトレーニングは、ハムストリングにはあまり無理をさせないようなトレーニングに留めたいと思う。


ハムストリングに痛みを感じることは自分にとっては喜びで、ハムストリングの存在を深く認識することに繋がり、短距離ダッシュを通じてその部位の筋肉がまた大きく育とうとしていることを実感した。自宅に向かう帰り道にその感覚を味わいながら、「痛み」というものについて唯識観の実践をしていた。唯識観の要諦は、私たちが用いる言葉の名称と意味内容には不変的な実体はなく、言葉を通じて明らかにされる属性もまた不変的な実体を持たず、言葉で指し示されるあらゆるものには本質的な実体はないということを明らかにすることである。例えば、「痛み」という言葉は、そもそも日本語という言語的な縛りがあり、日本語という条件的な縁があって初めて生み出される名前となる。そして痛みが指し示す意味内容は、十人十色であり、一口に決まらない。そこでも痛みというものが何か特定の不変的な実体を持たないことがわかる。また、痛みに固有であろうと思われる属性を考えてみても、それは決して痛みだけが持つような属性ではないものが混在しており、ただ痛みだけに当てはまる属性を特定できない。そもそも痛みに固有な属性を考えようとしてみた時には、痛みではないものとの関係性によってそれを考えることになり、そこでもまた痛みが縁起の産物であることがわかり、関係性を離れた不変的な実体を持つものではないことが見えてくる。では最後に痛みの本質について考えてみても、結局同じことが言える。痛みにのみ当てはまるような本質は属性と同じく見当たらないのである。痛みの本質のように思えるものまた関係性の産物であり、言葉の産物なのだ。そうしたことからも、痛みはことごとく不変的な実体を持つものではないことがわかり、それはその他の全ての言葉に対しても当てはまる。トレーニングからの帰り道、フローニンゲンの日曜日の朝にウォーキングを楽しむ人たちに挨拶をし、痛むハムストリングをさすりながらその痛みに対して唯識観を適用してそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/12/29(日)10:44


13863. AIや翻訳技術が発展しても色褪せることのない外国語習得の価値  

 

トランスヒューマニズムのテーゼの1つに不老不死の実現があるが、死を超克しようとするその発想に、生の全体を見通す眼の欠如を見る。生と死はまさに陰陽の関係を成していて、生があるから死があり、死があるから生があるという関係性を結んでいるはずである。仮に科学とテクノロジーが進化して、不死が実現した時に、人類はそこで生を犠牲にしているということに気づくだろうか。不死の実現はおそらく、生をより輝かせることには繋がらない可能性があることが見えてくる。陰陽の片方の側面が欠落した状態で、どうやって生が充実するというのだろう。トランスヒューマニストの中で不老不死を声高に主張する人たちの中には、随分とナイーブな死生観が見られる点には注意しなければなるまい。そこからふと、どれだけAIや翻訳技術が発展しても、今後も依然として外国語を習得することの価値は揺るがないということについて昨夜就寝前に考えていたことを思い出す。ある外国語を習得することによって得られる内的経験の価値は今後も色褪せることはないだろう。外国語を翻訳することとそれを運搬することの違いは、サッカーコートで行われているサッカーを外から眺めるのと、実際にコートの上でサッカーをプレーすることの違いとして喩えることができる。AIや翻訳技術の進展によって私たちが恩恵をもたらされるのは、まさにサッカーコートで行われているサッカーをより眺めやすくすることであり、決してサッカーそのものをコートの上でプレーすることを味わわせてくれるわけではない。手軽に翻訳機能を使って外国人の会話や外国語の文献を翻訳して得られるのは、前者の体験であり、決して自らがその言語空間に浸って外国語を活用することによって得られる内的体験ではないのだ。もちろん私たちは様々な関心があり、能力の種類も質も異なるし、社会的に置かれている環境も異なるのだから、全ての人が何か外国語を習得する必要があるとは言わない。むしろ全世界的に英語が支配的な言語となる言語的画一化が進む時代にあって、母国語を大切にすることはこれからさらに重要性が増すだろう。そうしたことを鑑みながらも、外国語を習得することは、日本語とは全く違う言語阿頼耶識の世界に私たちを飛び込ませてくれ、日本語を運搬している時とは違った感覚と視点を持って世界を生きることを可能にしてくれるのだ。それは日本語という言語によって構築された自我を別の角度から見つめ直す機会にもなり、自我を脱構築することも手伝ってくれる。自分はまさに自己変容作用としての外国語習得の価値を味わった1人である。それを通じて、少なくとも日本語の単一言語を扱っている時よりは、遥かに豊かな視点と感覚を世界を生きれているように思う。また、価値観や世界観の変容もまた外国語の習得なしには成し得なかったことを思う。確かに外国語の習得課程において種々の痛みが伴ったが、まさにそうした痛みがあったからこそ、これまで気づけなかった自己の真実に気づき、発達現象が起きたとも言える。AIや翻訳技術の発展によって外国語の習得は不必要であるという論調がどれだけ馬鹿げたことであるかは、外国語習得に伴う固有の価値を考えてみると明らかである。現代は外面的な発展を受けて、内面的に大切な価値を色々と見失いつつあるようで、それには本当に危惧の心が絶えない。フローニンゲン:2024/12/29(日)11:14


13864. 多忙さと観想的在り方について思うこと/

高度な発達に伴う善の側面に関する所感    


早朝より、エストニア旅行の記憶を呼び覚ましてくれるエストニアの作曲家アルヴォ・ペルトの音楽を聴いている。ペルトの曲に漂う清澄な美しさと哀愁を誘う感覚がなんとも言えなく良い。彼が考案したティンティナブリ様式は、まさに鐘の音が波のように幾重にも重なりながら波紋が広がっていくが如しである。ペルトの音楽に耳を傾けていると、自然と観想的な意識状態となる。さて現代人は、多忙になったから観想的な生き方を喪失してしまったのだろうか。否、現代人は多忙であるから観想的に物事を考えたり、何かを味わったりすることをやめてしまったのではなく、観想的な態度を放棄してしまったから多忙になったのだと思う。これもおそらく鶏と卵の問題かもしれないが、世間一般の考えとして、多忙であるから静かな生活ができないという発想が支配的なように思えることから、その逆の発想を投げ込んでみた次第である。そもそも私たちは観想的な静かな生活の価値を見失い、それを放棄してしまったから多忙地獄に生きるようになってしまったのではないだろうか。


確かに高度な発達には固有の限界がまた新たに生じ、固有の病理も生まれるのだが、総じて高次の発達は低次の発達よりもより広く深い視点や真実を内包している。その点において言えば、やはり発達は善であると言える。そもそも仏教の唯識思想において、善はどのように定義されているかというと、それは悟りに繋がるものとして定義付けられている。すなわち高度な発達段階である悟りの段階に向かうために必要な考えや行いは善であるとされており、それには今見えていない自己の限界や真実に目を開いていく必要がある。その点を考えてみると、より広く深い視点を私たちに与え、これまで見えていなかったより広く深い真実を開示してくれる高次な発達は、仏教の唯識的にも善なるものとして捉えることができそうである。高度な発達に向かうことによる社会への不適合や新たな課題を持ってして、発達は一概には善なるものではないと確かに言うことができるかもしれないが、発達理論に習熟しておらず、その言葉だけを聞いた人は誤解をし、発達に伴う方向性を見失って逆に混乱してしまう現象が見られる。そうしたこともあって、唯識思想が述べる善の定義に則って上記のように考えてみれば、発達が持つ善の側面についての方向性に関する視界がよりクリアになるのではないかと思う。またそもそも、高度な発達を実現して社会不適合になるというのは、根本的に社会の側に問題があるのであって、そうした社会から降りていくことが究極的には幸福追求の道で求められることではないかと思う。自分にとってみれば、高度な発達を通じて組織や社会に対して不適合になることは大変好ましい現象であり、上昇する愛を抑圧せずに、高度な発達を通じてこの不健全な社会を変革していくという志が欲しいものである。フローニンゲン:2024/12/29(日)11:52


Today’s Letter

Byung-Chul Han points out that our society has become palliative. In such a society, people constantly avoid pain, but certain types of pain are necessary for our development. As the saying “no pain, no gain” goes, I believe that without pain, there is no development. I’m contemplating what kinds of pain should be preserved in this palliative society. Groningen, December 29, 2024

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