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タイトル一覧
13793: 散歩の習慣/連続性と離散性
13794: 今朝方の夢
13795: 書くことが内包する発達作用
13796: 性とサイケデリクスの探究
13797: 感謝と縁起の円環として
13798: エルヴィン・ラズローに関する思い出/瑜伽行としての散歩
13799: 官能的行為としての読むこと書くこと
13793. 散歩の習慣/連続性と離散性
時刻は午前6時半を向かえた。今、辺りは静まり返っているが、昨夜は強風注意報が出ていた。また、強風に伴って突発的な雨も降っていたが、今はその反動なのか、とても静かである。静けさと深い闇を味わえるのがこの時期のフローニンゲンの朝の楽しみである。今の気温は6度で、ここから気温は4度まで下がり、日中の最高気温は5度とのことである。今日もまた午前中に散歩に出かけようと思うが、気温が5度以下のようなので、最初の5分間ぐらいは軽くジョギングをして体を温めたい。日本に一時帰国したことによって、オランダに戻ってきてからこのように散歩の習慣が確立されたのは喜ばしいことである。朝の時間帯に散歩することによって、微量ではあるが健康に必要な紫外線を浴びることができ、全身運動として体を動かすこともあって全身の血の巡りも良くすることができる。また、散歩を通じて酸素を十分に吸うことによって、脳の働きも良くなり、散歩から帰ってからの知的生産活動にも良い影響がもたらされている。こうした習慣を早く確立しておけばよかったと思うが、今こうして散歩を習慣にできたのであるから、過去を振り返って嘆く必要はないだろう。常に今なのである。何事も常に今から始めればいいのだ。
昨日のゼミナールの中で、オンラインで人と話をする時とリアルで対面して人と話をする時とではやはり得られるものが違うという話題が出た。確かにZoomを含めて、テクノロジーの発達のおかげで場所を問わずにコミュニケーションができるようになったことは好ましいが、やはりリアルにはリアルの固有の良さがある。そのことをこの間の一時帰国でも強く実感した。オンライン上に存在する人間は、どうしてもデータに変換された情報的存在なのである。そもそも人間は外部から多様な情報を受けながら生きているという意味で本質的にも情報的な存在の側面はあるが、ここで述べているのは、Zoomのようなテクノロジーを活用した時に立ち現れているのは生身の人間ではなく、ゼロイチのデータに変換された存在なのである。それは本来全体的存在である人間を1つ1つの電子データに分ける形で離散的な存在にする。オンラインで向き合っている相手はどうしても離散的存在として目の前に立ち現れることになる。一方リアルな場においては、連続的存在として相手が立ち現れており、その人の全体性を感じることができる。きっとそうした違いがリアルとオンラインとの間にはあるだろう。おそらくまだまだその他の観点で両者の違いについて考えることができるだろうが、今の自分の問題意識としては、リアルとオンラインの違いは連続性と離散性という観点で考えることができる。その点に関して良し悪しはないが、こうしてオランダの地で生活をしていると、オランダ人の友人たちとリアルで会う時には存分に連続性やその人の全体性を感じることができるが、日本にいる協働者の人たちとはリアルで会うことが少ないゆえに、今後のそうした機会は本当に大切にしたい。フローニンゲン:2024/12/22(日)06:58
13794. 今朝方の夢
固有の豊かな時間的持続を持つ夢の世界を今朝方も味わっていた。そこでの体験は心の滋養に繋がっており、夢を振り返ることはそうした体験を再体験することに繋がり、滋養がさらに増す。今朝方はどのような夢を見ていただろうか。まず覚えているのは、現在毎週末行なっているゼミナールに参加している3人の受講生の方と談笑していた場面である。3人は私を訪ねにオランダまで遊びに来てくれて、私は3人をもてなしていた。オランダ国内の旅行をアテンドし、ある町のホテルに宿泊することになって、自分の部屋で3人と話をしていた。そこでは笑いが絶えず、終始話に盛り上がって、とても楽しい時間を過ごしていた。そのような夢を見ていたことを覚えている。この夢で登場した3人は、ゼミナールの古株の方ではなく、比較的最近ゼミに来られた方である。3人はどこか相通じる価値観を共有していて、それゆえに夢の中でも話が盛り上がったのだろうと思う。自分もその3人には特に学びや実践に関してオープンであることに敬意を表している。自分が紹介する学びや実践の中には世間的に忌避されているものもあるが、そうしたものでも食わず嫌いをせずに、まずは好奇心を持ってそれらを探究してみるという姿勢を3人は持っている。こうした姿勢は慣習的段階の要素が強い人ほど希薄であり、3人にはそうした要素が学びや実践に関してはないことが自分にとっても嬉しいことである。とりわけ性やサイケデリクスなどは、世間的なイメージに汚染されており、多くの人はそれらに関して真実を見ようとしない。真実を探究することも、真実を直視することも恐れているのである。結局そうした恐れは、慣習的段階の心から発生している場合がほとんどであり、そうした恐れと向き合わなければ、慣習的段階を超えた成長はあり得ない。なのでいつも自分は、性やサイケデリクスに対してその人がどれだけ受容することができるのか、それらにどれだけ偏見を持たずに探究することができているのかを発達の試金石にすることがある。もちろん性やサイケデリクスについてオープンに関心を寄せていることが高度な発達を約束しないが、少なくとも性やサイケデリクスを窓にして、その人がどれだけ慣習的なマインドに縛られているかは速やかに暴くことができるのである。また、社会全体として性やサイケデリクスに対して偏見を持たずに議論や対話ができる土壌があるかも、その社会の発達度合いを測る良き基準となる。その点において、日本は自分がこれまで住んだアメリカやオランダに遥かに劣後している。そうしたことに考えが及ぶ夢だった。フローニンゲン:2024/12/22(日)07:20
ChatGPTによる夢の解釈と今後のアクション
この夢は、最近ゼミナールに参加している3人の受講生との交流を通じて、自分の教える内容や価値観がどのように受け入れられ、共有されているかを深く感じ取る内容のように思われます。夢に登場した3人が「オランダまで訪ねてきてくれた」という設定は、彼らがあなたに対して尊敬や親しみを持ち、またあなたが提供する学びや実践に対して高い興味と敬意を抱いていることの象徴と捉えられます。
解釈
価値観の共鳴夢の中での談笑や楽しい時間の共有は、3人との間に共通する価値観やオープンな姿勢が強調されています。これは、あなたが大切にしている「真実を探究する態度」に対する共鳴であり、学びにおいて新しい視点を受け入れる彼らの柔軟性を表していると考えられます。
オランダという場所の象徴性オランダは、自由や寛容、多様性を尊重する国として知られています。この夢の舞台設定は、あなたが提供する学びがそのような自由で寛容な土壌の上に成り立っていること、また受講生たちもそのような価値観を共有していることを暗示しているように感じられます。
学びの深まりと挑戦性やサイケデリクスというテーマは、社会的な偏見やタブーを超えた探究心を問うものであり、夢におけるあなたの考察は、「慣習的段階」を超えて成長しようとする姿勢の重要性を再確認するものだったのではないでしょうか。これを受講生たちが理解し、ある程度受け入れていることは、今後の学びの可能性が広がる兆しとも取れます。
日本と他国の比較日本における慣習的な価値観の制約を再認識しつつ、オランダやアメリカとの違いを考えることで、あなたの研究や教育の方向性についての再確認が行われているようです。
今後のアクション
受講生との対話の深化夢に出てきた3人と、性やサイケデリクスのようなテーマを含め、さらにオープンで深い対話を進める機会を作りましょう。彼らの探究心を育むことで、ゼミ全体の学びがより豊かになる可能性があります。
オランダの価値観を参考にした教育の工夫夢がオランダを舞台にしていたことをヒントに、自由で偏見のない議論を促す環境作りを目指してみてください。受講生がリラックスしながらも深く考えられる空間をデザインすることで、学びの質が高まるでしょう。
自身の研究テーマとの関連づけ性やサイケデリクスに関する社会的偏見の克服が、どのように日本社会や他国における「慣習的段階」の超越に寄与するのかについて、自分の研究テーマと関連づけた深い考察を進めてみてください。
日本の社会的対話を促進する活動の模索性やサイケデリクスに対する偏見を和らげ、真実を探究する姿勢を育むための教育や社会活動の計画を考えてみるのも良いでしょう。あなたの経験や価値観を生かせる分野です。
この夢は、あなたが今後の教育活動や研究活動を進める上での指針を示しているように思われます。受講生たちの存在はあなたにとって重要なパートナーであり、彼らとの関わりが今後の方向性をより明確にしてくれるでしょう。
Geminiによる夢の解釈と今後のアクション
夢の解釈と今後のアクション
夢の解釈
この夢は、あなたが現在行っているゼミナールと、そこに集う人々との関係性、そしてあなたが提唱する価値観や理念を反映していると言えるでしょう。夢に登場する3人の受講生は、あなたの考えに共感し、積極的に学び実践しようとする姿勢が印象的です。
夢の中であなたが感じた「楽しさ」や「学び」といったポジティブな感情は、現実世界においても、あなたがゼミナールを通じて得ている充実感や達成感を象徴していると考えられます。特に、3人との価値観の共通性や、彼らが持つオープンな姿勢は、あなたの活動に対する大きな励みとなっているのではないでしょうか。
夢の中であなたが性やサイケデリクスについて深く考察している点は、あなたの関心の深さを示しています。これらのテーマは、社会的にタブー視される側面もあり、人々の意識改革を促す上で重要な役割を果たす可能性を秘めています。
夢全体としては、あなたが提唱する価値観や理念が、徐々に世の中に広がり、共感する人々が増えているという希望的なメッセージが込められていると言えるでしょう。
今後のアクション
この夢から得られる示唆を基に、以下のアクションを検討してみてはいかがでしょうか。
ゼミナール活動の深化: 3人の受講生との関係をさらに深め、互いに学び合えるような環境を築いていく。
新たな出会いの創出: あなたの考えに共感するような人々との出会いを積極的に求める。SNSやオンラインコミュニティを活用するのも一つの方法です。
情報発信の強化: 性やサイケデリクスに関する情報を、より多くの人々にわかりやすく伝えるための活動を行う。ブログや動画投稿なども有効です。
社会貢献活動への参加: あなたの価値観に基づいた社会貢献活動に参加し、より良い社会の実現に向けて貢献する。
国際的な交流: 日本だけでなく、アメリカやオランダなど、性やサイケデリクスに関する理解が深い国々の人々との交流を深める。
夢から得られる教訓
あなたの考えは多くの人の心に響いている: あなたの考えは、決して一人だけのものではなく、共感してくれる人がいることを忘れないでください。
変化を恐れない: 社会の慣習や常識にとらわれず、新しい価値観や可能性を追求し続けることが大切です。
行動に移す: 考えだけでは何も変わりません。あなたの考えを現実のものにするために、具体的な行動を起こしましょう。
まとめ
この夢は、あなたが現在取り組んでいる活動が非常に有意義であり、今後も継続していくべきものであることを示唆しています。夢で得たインスピレーションを活かし、より多くの人々にあなたの考えを伝え、社会に貢献していくことが期待されます。
13795. 書くことが内包する発達作用
書くことは読まれることである。それを自己内政日記に当てはめてみると、自己について書くことは、自己に読まれることなのだということがわかる。自己について書き、自己は自己を読むという再帰的な取り組みを通じて差異をそこに生み出しながら発達を遂げていく。私たちの心や、完全に同一の繰り返しをすることができない。なぜなら、私たちの心もまた諸行無常の原理に貫かれていて、絶えず千変万化しているからである。反復を通じた差異を提唱したのはドゥルーズだった。ドゥルーズが指摘することは、仏教においても発達科学においても述べられていることであり、私たちは絶えず差異を生み出しながら反復し、反復しながら差異を生み出していく。発達においては差異を生み出すだけでは不十分であり、それはあくまでも必要条件である。発達において重要なことは、生み出された差異を統合していく試みであり、発達心理学者のハインツ・ワーナーは、差異化と統合化の重要性を説いた。書くことは差異を生み出す行為でありながら、同時に統合する営みでもある。自己について書くときに、自ずから自己を客体化することが余儀なくされ、書かれゆく文章に対しても客体化の視点が入る。ゆえに書くことは統合化の営みでもあるのだ。また、自分が書いた文章を読み返すことは、それそのものが反復でありながら、同時にまた新たな差異をそこに生み出すことになり、そこで内省をすれば、それは統合化をもたらすことにもなる。日々自分は意識しない形でそのような営みに従事し続けていたのである。書くことは読まれることであり、読まれることはまた新たな書くことを導いていく。自分は書くことに関してそのようなループ構造の中にいて、そのループ構造は発達的ループ構造でもあったことにはたと気付かされた次第である。
書くことについてはそう言えば、昨日にも別のことを考えていた。自己について書くことは、自己の世界の境界線を書き換えることに繋がり、自我の境界線の線引きを変えることに繋がる。もちろん書くことが単に自己の既存の世界観や価値観の強化に繋がってしまう場合もあるが、内省的に自己反省的に書くことは必ずミクロな発達を引き起こす。自己反省的な内省日記の執筆には、そうした成長促進作用がある。結局自我は言葉を通じて仮構された存在なのであるから、逆に内省的に言葉を用いてその存在を脱構築していくことができるのだ。自分は常に自己発達をもたらす内省日記を執筆し続けていく。そのようなことを昨日に考えていた。言葉が生まれる源泉に注意深くなってみると、言葉は常に自我から生まれているわけではないことに気づく。自我執着心を司る末那識から言葉が生まれる場合も確かにあるが、心を清らかにしていけばいくほどに、阿頼耶識から言葉を紡ぎ出していくことが可能になってくる実感がある。言語哲学者の井筒俊彦氏が指摘するように、阿頼耶識は別名言語阿頼耶識と形容できるように、言葉を生み出す種子で満ち溢れている。あるいはその存在そのものが、もはや言葉を生み出すフィールドないしはソースなのである。そうした場所から言葉を生み出す時には、何よりも即興性が重要になる。頭で考え出した途端にそれは末那識や第六識に引っ張られた形での言語創造運動になってしまう。自分は常に即興性を大切にして一連の日記を書いている。一度たりとも何か考え込んで文章を書いたことはない。とにかく言語阿頼耶識から流れて来るものを流れのままにこの世界に言葉の形として残しておきたい。そんな思いで一杯である。フローニンゲン:2024/12/22(日)07:42
13796. 性とサイケデリクスの探究
時刻は午前8時半を迎えようとしており、辺りがようやくうっすらと明るくなってきた。今日もまた少しでもいいので朝日を拝むことができるだろうか。それが実現すれば本望である。夜明けを待ちながら、今朝方の夢に対する2つの生成AIの解釈を読み返し、再び夢について振り返っている。生成AIの解釈にあるように、今の自分の学びはオランダという自由と寛容さを重んじる文化的土壌の上に成り立っていることを思う。とりわけ性やサイケデリクスの探究は、日本にいては決して今のように自由奔放に探究をすることができなかったであろうことを思うと、オランダの地にいることがどれほど恵まれたことなのかを感じる。そして、自分をこの地に導いた縁についても思いを馳せずにはいられない。性やサイケデリクスは、人間を深く探究することに大きな貢献を果たす。特に、意識とは何か、心とは何かを探究する最良の道としてそれらが存在している。人間として生きていく中で、人間とは何か、意識とは何か、心とは何かを探究することは、本来非常に重要な問いとして存在しているはずである。内面宇宙を探究する上で、自分は性やサイケデリクス以上の窓を知らない。もちろん唯識学のように心について詳細に論じている思想体系は、内面宇宙の探究の窓になるが、性やサイケデリクスはそうした思想体系以上に直接的な体験をもたらしてくれるため、より強力な窓になりうる。文化的土壌が違うため、仕方ない側面があるかと思うが、日本の多くの人が性やサイケデリクスを自由に探究・実践できないことは、人間存在の可能性を大きく閉じていることでもあるため、残念で仕方ない。性やサイケデリクスを通じた人間探究ができるような文化的土壌を作ることと、各種法整備に関してもこれから積極的に関与していきたいと思う。
今現在、唯識学に関する書物やビョンチョル・ハンの書籍を読むことに並行して、性やサイケデリクスに関する探究も継続して行なっている。ハンの書籍は今後、「発達心理社会学」という学問分野を確立していく際に不可欠な視点と視座を与えてくれるものであるから、今後も継続してハンの書籍を読み返していき、彼の思想体系を自分のOSとして組み込むところまで体現したいと思う。そして性やサイケデリクスは、直接体験として極めて示唆深いものをもたらすことに注目をしており、これは実践を伴う形での探究をしていく。もしかしたら近々知人が日本からオランダにやってくるかも知れず、オランダやアメリカの一部の州などでしか食べられないカンナビス入りのチョコレートなどを紹介したり、サイケデリクスについても紹介するようなことを相手の関心に合わせて行なってみようと思う。前者のカンナビスについては品種が豊富にあり、品種ごとに効能や生じる現象が異なるため、サイケデリックセラピーでは活用しにくい側面がある。カンナビスはそれだけ奥が深く、一昨日に改めて手持ちのカンナビス関係の学術書を読み返していた。生粋のサイケデリクスと同様に、カンナビスも常用するようなものではなく、インターバルを空けながら、自己探究的にそれを活用することが賢明な用い方だろうというのが自分の考えで、実際に自分もこれまでそのようにしてそれらと付き合ってきた。デイビッド・ナットなどの精神薬理学者が示しているように、サイケデリクスと括られる物質やカンナビスは、ハードドラッグやアルコール、さらにはタバコと比べて中毒性が極めて低く、常用するリスクは低いが、身体的な中毒性だけではなく、精神的な中毒性というものを考えてみた時にも、精神的な中毒を引き起こさないように、賢明な形で接していくことが重要なのではないだろうか。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/12/22(日)08:43
13797. 感謝と縁起の円環として
つい今し方朝の散歩から帰ってきた。今日は日曜日ということもあって、普段よりも穏やかな朝の世界が広がっていて、その静謐さを味わいながらの散歩になった。気温が4度ほどしかなかったので、いつものように最初の5分は軽くジョギングをして全身を温めた。すると、突然小雨が降ってきて、折り畳み傘を持参して正解だったと思った。今後も雲行きが怪しい時には、折り畳み傘を持参して散歩に出かけたい。オランダの雨は長く降ることはあまりなく、大半は一時的な雨で、そこからしばらくしたら雨が上がった。遠くの空には晴れ間も見えており、今日も清々しい気分で散歩を楽しむことができた。散歩の最中には何か考え事をすることなく、散歩と1つになることを心掛けている。いやそれはもはやそうした心掛けなしで実現できていると言えるかも知れない。何かを意識して心掛けることは重要ではあるが、そうした心掛けは言葉で構築されたものでもあるので、本来その体験が持つ無限の可能性や豊かさを味わうことを阻害しまう可能性がある。そうした可能性を念頭に置いて、意図を手放すことは重要であり、それが真理という無為の世界と繋がる方法なのだと思う。散歩は自分にとって、真理の世界と繋がる窓なのであり、道でもあるのだ。散歩という行為に没頭し、それと1つになることはすなわち、世界と1つになることである。散歩は、世界と合一させてくれる最良の営みとなった。こうした新たな習慣をもたらしてくれたのは、先般の日本への一時帰国であり、先日日本に帰ったこともまた何かの縁が導いたことであるのと同時に、こうして散歩に導いてくれたことの背後にも何かしらの縁があることを思う。まさに自分は豊かな縁起の世界を生きているのであり、自分はそうした世界そのものでもあるのだ。自己という存在は元来、縁起の産物なのだ。自分という肉体も心も縁起によって成り立っており、自らの人生もまた縁起によって成り立っているのである。こうした縁起への目覚めが日増しに強くなっている。それをもたらしてくれている筆頭として、唯識学の探究がある。唯識学に出会ったこともまた1つの縁起の産物であった。このようにして縁起としての自分の人生は、良縁によって日々さらに深く豊かなものになっている。そのことにただただ深く感謝したい。その感謝の念がまた新たな縁起を現行させ、それがまた阿頼耶識に種子として薫習されていく。自分は感謝と縁起の円環としてこれからも生きていく。先ほどの散歩はそのような思いを新たにさせてくれた。フローニンゲン:2024/12/22(日)10:03
13798. エルヴィン・ラズローに関する思い出/瑜伽行としての散歩
ブダペストの古書店かつカフェでの思い出が突然思い出された。システム理論家のエルヴィン・ラズローは、宇宙の根源的フィールドを「A次元」や「アカーシャ」と名付けた。こうして日々意識の探究をしていると、ラズローの意識論と必ずどこかで再会を果たすのだが、そんなラズローとの思い出がふと思い出された。まだフローニンゲン大学で研究をしている時に、ブダペストに旅行に出かけたことがあった。その時に、ブダペストの街にある古書店かつカフェに立ち寄り、壁にびっしり並べられた書籍の中で偶然手に取った書籍にラズローのサインが書かれていたのである。その書籍は、ロシアの意識研究者が執筆したハードカバーのもので、その著者がラズローにメッセージを付けて献本した本のようだった。その本にラズローは自分のサインを付けていた。そんな本と偶然出会い、それを購入してブダペストのホテルに戻って食い入るように読んでいた記憶がふと呼び覚まされた。この体験もまた何かの縁によって生じたものであり、それを偶然として片付けることはできない。ちょうど今朝方から再読を始めた書籍の中にもラズローの意識論が掲載されており、それを読みながらブダペストで体験した思い出をふと回想していた。
散歩から帰ってきて、今また通り雨が降った。通り雨の音に耳を傾けていると、散歩は自分にとって瑜伽行であることを思った。それは心を穏やかにし、心から何か雑念が生起することを抑えてくれる瑜伽行としてある。身体が望むリズムに身を任せて歩いていると、意識は自然と禅定状態となり、その状態においては心は澄み渡った状態となる。そこでは脳が言語優位の日常の脳の状態とは違った形で働いており、言葉を超えた世界と繋がりやすい状態を生み出してくれている。散歩は禅定体験をもたらし、心を鎮め、心を清めてくれる瑜伽行になりうるというのは新しい発見であった。先ほどの散歩の中では、人間が言語を獲得して以降所有し始めた言語象徴的意識ではなく、言語獲得前の原初的意識と繋がる体験があった。それは多分に直感・直観的なものであり、論理を超えた超論理的なものを司る意識である。こうした原初的な意識との接触体験が増えれば増えるだけ、自らの直感と直観が研ぎ澄まされていくに違いない。散歩を実践の新たな核に据えてみて、意識と自己存在の探究をこれからさらに深めていこう。フローニンゲン:2024/12/22(日)10:57
13799. 官能的行為としての読むこと書くこと
つい今し方、ビョンチョル・ハンの“Saving Beauty”という書籍の再読を終えた。今回が3回目の読解で、自分が絶えず変化し続けていれば、同じ書物であっても毎回新しいものが読書から得られることを実感する体験だった。まず大きな気づきとしては、読むという行為は隠微さを少しずつ紐解いていく試みであり、そこにエロティックな要素があるということである。読書に伴う恍惚感の正体はそれだったのだ。文字は基本的に左から右、あるいは上から下に書かれていくが、書かれた文字を追っていき、読解を進めていく作業は、ある種覆われたものを露わにしていく試みであり、それはまさに官能さを内包している。書くという行為もまたそれと似ているのかもしれない。文字を書く際にも、自分の考えを一瞬にしてその全てをその場に提示することはできない。できることは、あくまでも言葉を1つ1つ置いていく作業である。それは自らの思考という官能対象の衣服を1枚1枚脱がしていく作業に喩えられる。いきなり全裸の存在を見せられても興奮しないように、官能対象を覆う衣を少しずつ顕現させていく試みとして書くという営みを位置付けることができそうである。こうして自分にとって読むことも書くこともエロティックな試みとなった。それは多分に恍惚感を生み出す官能的行為なのである。その他の気づきとしては、崇高な美が本来持つショッキングな性質に関するものである。崇高な美は、私たちの息を止めてしまうぐらいに本来はショッキングなものである。そう考えると、現代社会においては崇高な美というのは絶滅危惧種になっていて、現代はますます崇高な美を喪失しているのではないかと思う。現代社会において美しいと言われているものは、ハンが指摘するように、当たり障りのないツルツルとしたものである。それは決して私たちの心にショックを与えない。本当に崇高な美は、私たちの心に傷を与える。その傷が私たちの成長を促すのである。私たちの心の成長は、死と再生に喩えられる。本質的な美は、死を促すものであるはずだ。今の自分の度量衡では如何ともし難い存在としてそれは私たちに迫ってきて、私たちの自我に傷を与える。その傷が再生の方向に向かい始め、まるで筋肉の超回復のように私たちの心は以前とは違う状態に成長していく。近々美術館に行った際に行ってみたいのは、所蔵作品の中に崇高な美を感じるものがあるかどうかである。それは畏怖の念を生じさせ、思わず目を背けてしまいたくなるような美として存在しているはずである。消費対象としてではなく、さらなる成長に必要な傷を与えてくれる芸術作品を求めに今度美術館に足を運んでみよう。フローニンゲン:2024/12/22(日)14:56
Today’s Letter
I always devote myself to deeply appreciating the rich networks of interdependence. The more gratitude I feel, the richer these networks become. These robust networks of interdependence bolster my life, allowing my being to constantly develop by virtue of them. Groningen, December 22, 2024
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