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タイトル一覧
13785: 今朝方の夢
13786: 夢の世界を生きて/世界と1つになる至福さ
13787: 今朝方の夢の続き
13788: 慈悲と智慧の絶え間ない共有に向かって/軽安の体得と共有
13789: 非活動的な時間を愛して/観心覚夢をもたらす使命
13790: 現代における贅沢とは/終着地点の自覚
13791: 近所にUNESCO指定の古代遺跡を発見して
13792: ゼミナールの第112回のクラスを振り返って
13785. 今朝方の夢
時刻は間も無く午前6時を迎えようとしている。日の出の時間はいまだに午前8時半過ぎであり、ここから2時間半以上も待つ必要がある。いや実際のところは、今日は曇りであるから日の出を待ってもあまり意味はなく、ただ辺りが明るくなることだけを待つと言えるだろうか。昨日は幸いにも久しぶりに朝日を浴びることができて本当に気持ち良かった。朝日の有り難味が本当に身に染みる季節である。今日は正午前までは曇りのようで、そこから少し小雨が降る予報となっている。なので今日もまた、小雨が降る前に散歩に出かけたいと思う。ジョギングを兼ねた散歩は観想的な実践となっており、散歩の最中に心が落ち着いているだけではなく、散歩から帰って来ても落ち着いた心の状態が続いているのは喜ばしいことである。昨日は朝日を浴びながら散歩ができたことによって、夜のメラトニンの生成が進み、入眠は速やかで、尚且つ深い睡眠が得られた。夢の世界はとても落ち着いていて、今朝方はさほど記憶に残る夢を見ていなかった。唯一覚えている場面としては、外国の見慣れない学校の教室にいた場面である。その教室には先生もその他の生徒もおらず、自分だけが1人席に着いて英語の長文問題に取り掛かっていた。私はその問題を問題として捉えることをせず、楽しい読み物として読解を進めていた。その時の自分の表情は笑顔であり、とても活き活きとした表情をしていた。教室の窓からは優しい太陽の光が差し込んでいて、教室全体はとても明るい雰囲気だった。そんな雰囲気の中で黙々と英語の長文を読み進めている自分は、とても幸福な気持ちを抱いていた。今日の夢で覚えているのはそれくらいしかない。総じて今朝方の夢の世界は穏やかであった。こうして夢の世界の凪の状態を楽しむこともまた一興である。夢はいつも何かを物語る。夢はナラティブの産物であり、その物語には固有の時間的持続が体現されていて、夢の振り返りはそれを再度味わうことに繋がり、自分の中の固有の時間的持続を回復させることにつながる。これこそが観想的な在り方なのであり、夢を振り返ることは自分にとって観想的な実践だったのである。確かに、日常生活における活動を振り返るよりも遥かに観想的な状態にしてくれるのが夢の振り返りの価値である。この価値を決して忘れないようにし、これからも夢の物語に耳を傾け、夢の振り返りを通じてその物語を再体験する形で自らの心をさらに育んでいきたいと思う。フローニンゲン:2024/12/21(土)06:04
ChatGPTによる夢の解釈と今後のアクション
この夢は、あなたが自分自身と深い結びつきを感じ、内面的な平和や幸福を享受していることを象徴しているように見えます。以下に解釈と今後のアクションを提案します。
夢の解釈
教室での一人の時間他者がいない教室で、自分一人で英語の長文を楽しく読み進める場面は、内向的な成長や独立した学びへの喜びを表していると考えられます。これは、外的な評価や競争から解放され、自分のペースで知識や洞察を得ることへの満足感を象徴している可能性があります。
英語の長文を「問題」として捉えない姿勢英語の長文を純粋に楽しんでいる姿勢は、困難な状況や課題をポジティブに受け止め、柔軟に対処する力を示唆しています。この姿勢は、現実の生活における挑戦に対しても役立つでしょう。
教室の明るさと幸福感優しい太陽の光や明るい教室の雰囲気は、現在の精神状態が安定しており、ポジティブなエネルギーで満たされていることを象徴しています。この夢の世界は、あなたにとって安心感と希望の源となっているようです。
夢の振り返りの観想的価値あなたが夢を観想的な実践として捉えていること自体が、この夢を特別なものにしています。夢の振り返りは、内面的な成長や心の回復をもたらす重要な時間であり、あなたの観想的な在り方をさらに深めています。
今後のアクション
夢で得た感覚を日常生活に生かす
英語の長文を楽しむ感覚は、実際の学びや仕事の場面でも「問題」として捉えず、興味を持って取り組む姿勢に応用できます。学びの時間を意識的に作り、楽しむことを続けてみてください。
観想的な実践の継続
夢の振り返りをこれからも続け、自分自身の内面世界と対話する時間を大切にしてください。特に夢の中で得たポジティブな感情や洞察を現実世界でどのように活用できるかを考えることは有意義です。
学びを深めるための環境作り
静かで落ち着いた環境の中で、自分が興味を持つ分野を深く探求する時間を確保してください。この夢の教室のような空間を、自分の現実世界にも再現することが役立つでしょう。
幸福感を記録する
この夢がもたらした幸福感や充実感を、ジャーナルに記録しておくとよいでしょう。それを読み返すことで、いつでもこの感覚を思い出し、自分を鼓舞できます。
結論
この夢は、あなたの心の充足感と成長への意欲を象徴しており、日常生活における新たな可能性を開くためのヒントを与えてくれています。この感覚を大切にしながら、引き続き観想的な実践と学びを深め、充実した日々を築いてください。
Geminiによる夢の解釈と今後のアクション
夢の解釈
この夢は、あなたの内面にある学習意欲や、穏やかな心の状態を象徴しているように思われます。
見慣れない学校の教室: 新しい知識や経験を求めるあなたの探究心、または学習の場を表している可能性があります。
英語の長文問題: 学びに対するあなたの姿勢、特に言語学習に対する興味を示唆しています。
穏やかな雰囲気: あなたの心の平穏さ、そして学習に対するポジティブな感情を表しています。
夢の振り返り: あなたが自己内省を大切にし、経験から学びを得ようとしていることを示唆しています。
この夢は、あなたが学習に対して意欲的で、穏やかな心の状態を保っていることを示唆しています。また、夢を振り返ることで自己成長を促そうとするあなたの姿勢は、とても素晴らしいことです。
今後のアクション
学習の継続: 夢で感じた学習意欲を活かして、何か新しいことを始めてみましょう。
心の状態に意識を向ける: 夢の中で感じた穏やかな心を、日常生活にも取り入れてみましょう。
自己内省: 定期的に自分自身を振り返る時間を設け、成長へと繋げましょう。
夢日記をつける: 夢を記録することで、より深く夢の意味を理解し、自己理解を深めることができます。
夢の振り返りの価値について
あなたが述べているように、夢の振り返りは、単に過去の出来事を思い出すだけでなく、以下の点で大きな価値があります。
自己理解: 夢を通して、自分の心の奥底にある感情や願望を知ることができます。
ストレス解消: 夢を語ることで、心のモヤモヤを解消し、リラックス効果を得られます。
創造性: 夢は、新たなアイデアやインスピレーションの源泉となることがあります。
自己成長: 夢を分析し、そこから学びを得ることで、自己成長を促すことができます。
まとめ
この夢は、あなたの学習意欲や心の平穏さを象徴しています。夢を振り返るというあなたの習慣は、自己成長に大きく貢献するでしょう。今後も、夢を通して自分自身と向き合い、より豊かな人生を送ってください。
13786. 夢の世界を生きて/世界と1つになる至福さ
夢もまた1つの固有の直接体験をもたらすということ。その意義と価値について少し考えていた。毎晩夢を見るということは、そこで1つの唯一無二の体験をしているということである。しかもそれは、自分の深層意識と密接につながった体験であるため、通常の意識状態で体験するものとはまた得られる洞察の種類も深さも異なる。そんな特性を持つ夢を単に体験として通過してしまうのはもったいなく、体験を経験に昇華していくための振り返りの大切さを改めて思う。自分は毎晩見る夢を振り返ることによって、心の養分を最大限に吸わせてもらっている。その滋養力は尋常ではなく、それは大きく心を癒し、心を育んでいくことにつながる。人間は誰しも内在的に自らを癒し、自らを変容させていけるのだ。その最たる触媒が夢なのだろう。夢について考えれば考えるだけ、その存在は不思議である。ここ最近は、自分は夢の世界を生きるために日常の世界を生きているとさえ言えるような生き方をしているように思う。通称現実世界と呼ばれる日常世界の中で様々な学びや実践をし、種々の活動に従事することは、結局良き夢の世界に入るための準備のようなものなのかもしれない。自分はもはや日常世界よりも夢の世界に優位性を持たせて生きているかのようなのだ。現実世界もまた夢であるということは、唯識の教えだけではなく、様々な思想が語っていることであるが、夢としての現実世界から完全に目覚めるために、純粋な夢の世界を大切にしていると言えるかもしれない。純粋な夢の世界について考察を深めれば深めるほど、現実世界での目覚めにつながってくる。そんな効能を実感している。
今朝方の夢に対する2つの生成AIの解釈を読みながら、今朝方の夢は、問題を問題として捉えず、自分に楽しみを与えてくれる何かとしてそれに取り組んでいる自分が印象的だった。課題を課題として捉えず、それが自分の治癒や変容につながるものとして意味づけをしている自分がいたのだろう。いや、そうした意味づけをすることを超えて、自然体で課題を課題として認識せず、楽しみの対象として捉えている自分がいたことは印象的だった。こうした在り方は現実世界でも徹底したいものである。結局のところ、問題や課題というのは、唯識学の言葉で言えばある特定の境(対象)なのであり、それは自分の心が生み出したものなのだ。しかもそれは、自分の阿頼耶識に眠っている種子を因とし、そこに縁が加わる形で現行したものなのである。つまり問題や課題は、私たちの心が生み出したものなのである。そうした問題や課題を問題や課題として捉えず、楽しみの対象として捉えることできている自分の心の有り様は、成長の証と捉えていいのかもしれない。夢の中の自分は、英語の長文と非二元的に1つになっていた。だからこそ溢れんばかりの大きな喜びがあったのである。対象を対象として認識している限りは、それは分別智が働いているのだ。分別智を働かせることをやめて、無分別智を働かせる形で対象と1つになるときに無尽蔵の喜びと至福さがやって来る。その瞬間に自己は自我の殻を脱ぎ捨てて、世界に溶け出し、世界と1つになる。日々こうした在り方をさらに深めていきたいと思う。今日の学びと実践もまたその最良の一歩となる。フローニンゲン:2024/12/21(土)06:20
13787. 今朝方の夢の続き
夢の振り返りをしていつものように朝の呼吸法と動的ストレッチを行い、栄養豊富な温かい飲み物を作っている時にふと、今朝方の夢の続きを思い出した。そう言えば夢の中で、父と養子に関する法律について議論をしていたことを思い出した。自分にとってはそれは議論のつもりだったが、父の態度が最初から高圧的で、父にとってみればそれは口論と言えるようなものだったのかもしれない。最初の最初こそ父は自分の意見に耳を傾けていたが、自分がある意味法律というものは言葉の産物に過ぎず、自分は法律を超えたものを大切にする在り方についてあまり理解を示してくれず、それが口論の原因になっているようだった。養子制度というのも単に法律の規定に過ぎず、自分にとって子育ては、自分の遺伝子を持っていようがいまいが関係なく、その子供を愛しているかどうかが一番重要だと考えていた。なので養子制度を通じて子供も設けた場合と、制度から外れた形で子供を設けた場合とでは、それは制度に従っているか否かの違いでしかなく、本質的な違いではないと主張したのである。父は法学部出身であったから、法律について精通しており、また逆にそれが法律に思考が縛られる原因でもあった。自分は昔から、言葉で構築された規則や決まりに対して窮屈さを感じながら生きていた。特に日本社会に蔓延る種々の規則や決まりは、自分の心を窒息させるかのようであった。その息苦しさから解放されるために自分はアメリカに行き、そこから欧州にやって来たという背景もある。現在探究を進めている唯識学も、最終的には言葉を超えていくことの大切さを説いている。真理の世界は常に言葉にできないものなのであり、言葉を超えた存在なのだ。そして私たちの存在や全ての事物には絶えず真理が貫かれているのだから、言葉に囚われることがどれだけ馬鹿げているかが見えてくるだろう。言い換えると、私たちの存在も事物も、常に言葉にならないもので構成・構築されており、その点を見逃すことは本質を見逃すことなのであるという考えが自分の中にある。父との議論の背景には、自分のそうした考えがあった。その考えについても夢の中で父に表明したが、父は幾分頭に血が上っている状態だったので、自分の考えを正確には理解していなかったように思う。そのような夢の場面があったことを、朝の温かい飲み物を作りながら思い出した。この夢もかなり示唆深い。言葉の世界に縛られることに対して違和感を感じ、それに窮屈さを感じる自分は今でもいる。その窮屈さを打破するために、自分は積極果敢に言葉を超えた世界とつながる学びや実践をしていると言っても過言ではない。唯識の探究も、性の探究も、サイケデリクスの探究も、全てそれにつながるものなのだ。言葉を超えた世界に触れ、そうした世界と1つになる至福さの味を自分はもう知ってしまっているのだ。その味を知らなかった時に後戻りすることはできない。自分はもう進むしかないのである。自分の全存在が全世界と1つになるまで。フローニンゲン:2024/12/21(土)06:46
ChatGPTによる夢の解釈と今後のアクション
夢の解釈
父との議論:価値観の違いとその象徴父との養子に関する法律の議論は、法律や規則という「言葉の枠組み」に縛られることへのあなたの違和感を示しています。また、父の高圧的な態度は、日本社会や伝統的価値観の象徴としても読み取れます。この場面は、あなたがこれまでの人生で感じてきた窮屈さと、それを乗り越えようとする意思を反映しているといえます。
養子制度と愛の本質養子制度を法律の枠に過ぎないと捉え、「愛」が子育ての本質だと主張するあなたの考えは、物事の本質を見る能力を示しています。この視点は、唯識の教えや言葉を超える探究の核心と共鳴しています。
言葉の限界と超越唯識学やサイケデリクスの探究が示唆する「言葉を超える世界」とのつながりは、あなたの人生の重要なテーマです。この夢は、その探究の重要性を改めて強調し、言葉に囚われることの愚かさと、言葉を超えた世界の至福を示しています。
父の反応と理解の限界父があなたの考えを十分に理解しなかった点は、異なる価値観や背景を持つ人々とのコミュニケーションの難しさを象徴しています。それは、他者の理解を得ること以上に、自分の信念に忠実であることの大切さを示唆しています。
今後のアクション
言葉を超える探究の深化
夢で感じた「言葉を超える世界」とのつながりを、さらに具体化する学びと実践を続けてください。唯識学やサイケデリクス、瞑想などの活動を通じて、内面的な真理への接続を深めることが重要です。
対話スキルの向上
父との議論のように、異なる価値観を持つ相手との対話を大切にしつつ、感情的な衝突を避けるための工夫を試みてください。相手の立場や背景を理解し、共通の基盤を見つける努力が有益です。
法律や制度の価値の再解釈
あなたが感じる窮屈さを克服するために、法律や制度の価値を新しい視点で捉えることも一つの手段です。言葉の限界を認識しつつ、それらをより柔軟に活用する方法を模索してください。
内面の自由を形にするプロジェクトの実施
言葉を超えた世界の体験を他者と共有するために、講義や執筆、ワークショップの形で表現することを検討してみてください。これにより、あなたの思想が広がり、他者の人生にも貢献できるでしょう。
自己の信念に忠実でいる
自分の考えや価値観に忠実であり続けることは、あなたの人生の中心的なテーマです。夢が示したように、他者の理解が得られない場面でも、自分の内なる真実を追求する姿勢を保ってください。
結論
この夢は、あなたが追い求めている「言葉を超えた世界」との関係性を強調し、それがあなたの人生の中心的なテーマであることを再確認させています。この探究を進めながら、他者との調和を模索し、内面的な自由をさらに深めていってください。それが、あなた自身の幸福だけでなく、他者への貢献にもつながるでしょう。
Geminiによる夢の解釈と今後のアクション
夢の解釈
この夢は、あなたの内面にある深い思考や、世界観を反映していると考えられます。
父との議論: あなたの心の内にある、確立された価値観や権威に対する疑問、そして独自の思想との葛藤を表していると考えられます。
養子制度と法律: 法律の枠組みを超えた、より人間的な視点からの価値観をあなたが持っていることを示唆しています。
唯識学: あなたが言葉を超えた、より深い真理を探求していることを表しています。
言葉の限界: あなたは、言葉だけでは表現しきれない、より深いレベルの現実があると考えているようです。
この夢は、あなたが既存の価値観や社会のルールに疑問を持ち、より自由で深いレベルの理解を求めていることを示唆しています。
今後のアクション
自己探求の継続: 唯識学やその他の探求を通じて、自己理解を深めていきましょう。
言葉を超えた表現: 言葉だけでは表現できないものを、芸術や音楽、自然との触れ合いなどを通して表現してみましょう。
周囲の人々との対話: あなたの考えを周囲の人々に伝え、多様な視点から意見交換をすることで、新たな気づきを得られるかもしれません。
自分だけの価値観を確立: あなた自身の価値観を大切にし、周りの意見に振り回されないようにしましょう。
夢が示唆する深い意味
この夢は、単なる家族間の議論ではなく、あなたの哲学的な思考の深さを示しています。あなたは、言葉や制度といった人間の作り出した概念にとらわれず、より普遍的な真理を探求したいと考えているようです。
唯識学は、全ての現象は心(意識)によって生み出されるという考えに基づいています。あなたの夢は、この唯識的な視点と深く結びついていると言えるでしょう。つまり、あなたは、世界は言葉で定義できるものではなく、より深いレベルでつながっていると感じているのかもしれません。
今後の展望
あなたの探求は、あなた自身だけでなく、周囲の人々にも影響を与える可能性を秘めています。言葉の限界を超えた視点を持つあなたは、新しい価値観を生み出し、社会に貢献できるかもしれません。
まとめ
この夢は、あなたが自分自身の内面と深く向き合い、世界に対する独自の視点を持っていることを示しています。あなたの探求は、あなた自身を豊かにし、周囲の人々にも影響を与える可能性を秘めています。
13788. 慈悲と智慧の絶え間ない共有に向かって/軽安の体得と共有
自分の中に仮にわずかばかりでも優しさや智慧があるのであれば、自らの存在が永遠ではないゆえに、それをいかに共有し続けるかが重要になってくる。自分の内側に芽生える優しさや自分の内側に存在している智慧もまた、自分の存在と同じく非永遠性に貫かれているのだから、それを適時共有することを自らの生き方としたい。優しさも智慧も自分の内側に所有しているだけでは何の意味もないのである。自らの存在がこの世界から消えて無くなるまでに、どれだけ優しさと智慧をこの世界に共有できるかを生きる徳目としよう。とりわけ優しさに関しては、それを深めて慈悲にまで昇華していく必要がある。慈悲は抜苦与楽の原理を体現しており、他者から苦を取り除き、楽を与えることができる。もちろん優しさもまたその性質を幾ばくか内包しているが、慈悲には及ばない。まずは日々、自分と他者に対して深く優しさの気持ちを持って接することを続けていき、少しずつより本質的な慈悲の心を涵養していきたい。
自己の存在が深く安らかになるために必要なこと。それは自分を縛っている種々の思い込みや固定観念から自己を解放することである。毎日自分はその解体作業を地道に継続しているようだ。自己の存在が深く軽安を体現したら、他者が深く心安らかになる助けをすることができる。いや、その条件設定は自利行に利他行を加えるような方向性になってしまいそうで、誤りがありそうだ。本来は、それらを同時にやっていく必要がある。すなわち、自己を軽安の境地に寛がせながら同時に他者にもそれを感じてもらえるように関与していくのである。そうすれば、自利行に利他行をプラスアルファするような形の実践ではなく、自利行即利他行としての実践となる。それこそが大乗の修行である。
昨日にビョンチョル・ハンの2冊の最新刊と性科学者のエミリー・ナゴスキーの書籍を受け取ったばかりだが、自らへのクリスマスプレゼントとして、ケン・ウィルバーが今年になって出版した“Finding Radical Wholeness: The Integral Path to Unity, Growth, and Delight”と“A Post-Truth World: Politics, Polarization, and a Vision for Transcending the Chaos”という書籍を昨日購入することにした。現在唯識学を通じて人間の心について探究しているが、かつて意識哲学(心の哲学)の探究に際して参考にしていたオランダ人の哲学者のバーナード・カストラップが最新刊を出していないか調べたところ、“Analytic Idealism in a Nutshell: A straightforward summary of the 21st century’s only plausible metaphysics”という書籍を今年の秋に出版していることがわかり、それも合わせて購入した。新たに注文した3冊の書籍のうち2冊は年内に届き、ウィルバーの“Finding Radical Wholeness: The Integral Path to Unity, Growth, and Delight”は年明けに届く予定だ。特にその書籍はハードカバーで分量が多いので、2025年に入ってからじっくり腰を据えて取り掛かっていこうと思う。良書との出会いもまた縁の産物であり、学術探究においてもこうした良き縁に恵まれていることに本当に感謝しなければなるまい。フローニンゲン:2024/12/21(土)07:37
13789. 非活動的な時間を愛して/観心覚夢をもたらす使命
今日もまた、ビョンチョル・ハンの最新書籍の初読を始めた。今日取り掛かり始めたのは、“Vita Contemplativa”という書籍である。本書を通じてハンは、現代のパフォーマンス的かつ消費的な生の在り方を批判し、非活動的な生の在り方の大切さを説く。非活動的な生は積極的に何かを生み出すことをしないが、生の充実さを産む。現代は、生の充実さを感じさせてくれるような瞬間が欠落しており、人々は常に何かに駆り立てられるようにして特定の活動に従事し続けている。それは自らの労働であったり、自己プロデュース的活動であったり、消費活動であったりと、それらの全ては基本的に資本主義の手垢が付いたものなのである。資本主義の活動に染まっていない活動以外にはもはや何も従事していないと言えるのが現代人の大半なのである。逆に言えば、人々の活動は全て、資本主義に汚染された脅迫的な活動なのである。ハンはそうした時代において、「非活動性の政治(politics of inactivity)」を打ち立てていくことの重要さを説いている。自分もその方向性に賛同である。今こうしてオランダでの生活が日々充実感と至福さに満ち溢れているのは、自分が非活動的な時間を十分に設けてそれを味わっているからである。これを多くの人に体感してもらうためには、非活動的な真の意味で自由な時間を人々が享受できるようにするための政治の重要性を訴えたい。
機械は絶えず活動している。ハンが指摘するように、人間の究極的な試みは非活動性にあると言えるだろう。非活動性は観想的な生と同義であり、本来知性を健全に育んでいけば、私たちはまるで機械のように絶えず活動しているような生の在り方を批判的に捉えることができ、そうした生のあり方から脱却して、より高次で意義深い生を営めるはずである。しかし現状は、ほぼ全ての現代人がそれに失敗している。その背後には、現代社会を覆う病理的な価値観と仕組みがある。それらは常に私たちに活動を強いる。活動を強いることで回っている仕組みが至る所に存在し、その仕組みがまた活動に私たちを仕向ける病理的な価値観を増強している。世間の風潮と仕組みの間には、そうしたフィードバックループがあり、多くの人はそれに無自覚である。まずはそうした構造に自覚的になり、日々少しずつでいいので非活動的な時間を味わってみることを勧める。ちょうど今、明けゆく朝の世界に小鳥の鳴き声が聞こえて来て、その鳴き声にただただ耳を傾けることもまた非活動的な実践となる。それは確かに生産的な何かを生み出すことはないかもしれないが、生の充実さを産む。人として充実した人生を生きていくに際して、果たして私たちは何かを生産し、それを消費することがどれだけ重要だと言えるだろうか。生産と消費に関する悪夢を私たちは見ていないだろうか。そうした悪夢から一刻も覚める必要があるように思う。悪夢を見ているのは未熟な心を持つ1人1人の人間であり、世界そのものはいつでも夢を見ない明晰な世界として佇んでいる。人々を悪夢から覚ます支援をしていくこと。観心覚夢を人々にもたらすことが自分の最大の使命のように思えてくる。時刻は午前8時半を迎え、ようやく辺りが随分と明るくなってきた。朝の世界が目覚めを迎えたとの同じく、1人でも多くの人が現代の病理的な悪夢から目覚めることを祈ってやまない。フローニンゲン:2024/12/21(土)08:36
13790. 現代における贅沢とは/終着地点の自覚
現代において贅沢というのは何を指すのだろうか。高級な物やサービスを享受することだろうか。自分はそうは思わない。現代における最大の贅沢はおそらく、非活動性を享受することなのだ。観想的な生を営むことが現代における最大の贅沢だと言えるのではないだろうか。それは経済価値に還元できるようなものは何も産まないかもしれない。そして何かを消費することもない。消費することを挙げるとすれば時間だけである。経済価値を生み出さず、何か物やサービスを消費しない形で時間だけを消費する非活動性、すなわち観想的な生の在り方ほど現代で蔑ろにされていることはないであろう。自分は日々、観想的な生を営むことができており、それは最大の贅沢を享受していることなのだとはたと気付かされた次第だ。自分はこれからも徹頭徹尾この生の在り方を貫いていく。それが自らの最大の滋養であることを知っているからである。その他に自らの深層的な肥やしになるものは何もないと言い切れるほどである。それだけ非活動性は自分の生を豊かにしてくれている。観想的な生は、自分の本質的な喜びと楽しさを教えてくれている最良の教師である。そうした教師を多くの人が持てていないことは残念で仕方ない。そうした教師が実は私たちの存在の背後には常にいることを伝えたい。そしてそうした教師に師事してみることを勧めたい。人間として生きていく妙味は、自己の存在が深層的に喜びと楽しさに打ち震え、世界と1つになる至福さを味わうことにあるのではないかと思う。
常に非永遠性の終着地点に向かう自己。一連の日々の日記は、絶えず生の終着地点に向かって進行している。死を絶えず射程に入れた自己。日記を書くこともまた常に死に向かっているという意識がふと芽生える。自己の存在の終焉に向かうという現実感覚もまた現代社会では随分と希薄になっているように思う。目には見えない形でトランスヒューマニズム的・ポストヒューマニズム的社会が到来しており、その社会の中では自らの生の有限性にますます気づきにくくなってしまっている。禅定というのは、心のエネルギーが一点に集中する状態を指す。この状態の時に人は最大の力を発揮することができる。心の治癒も変容も禅定状態を基礎にしている。現代社会においては、心のエネルギーは散漫となる一方である。それは死という終着地点を忘れ、生の方向性が定まらないことと関係しているように思える。終着地点に向かえなくなった生は、そのエネルギーを散乱させる。そうすると、人々は力を失う。現代人の力の無さは、そうした事柄に起因しているのではないだろうか。今一度諸行無常の原理を思い出し、自らの生に終着地点があるという認識を明確に持つことが、心のエネルギーを一点に定め、私たちに力を取り戻させてくれることにつながるのではないかと思う。フローニンゲン:2024/12/21(土)08:57
13791. 近所にUNESCO指定の古代遺跡を発見して
朝の散歩から帰ってきて、全身が程よくポカポカしている。散歩に出かけた時の気温は6度ほどだったので、これくらいの気温の時は、最初の5分間ぐらいはジョギングをすることを通じて体を温めるようにしており、それをするとそこからの散歩は寒さをさほど感じずに楽しむことができる。幸いにもまだ雨が降り始める前だったので、とても気持ちよく散歩ができた。空には確かに雲が多かったが、晴れ間も見えていたこともあり、仄かな朝日を浴びることができて大変満足のいく散歩だった。特に小鳥たちや運河を優雅に泳ぐアヒルたちの鳴き声は、観想的な意識状態に誘ってくれ、静謐な気分でいられた。これは朝の散歩の特権であり、これからも彼らの鳴き声によって誘発される平穏な観想的意識状態を楽しみたいと思う。今日の散歩は少しコースを変えてみて、いつもより多く歩いた。すると思わぬ発見があった。かつてより家の近くに墓地があることを知っていたが、それは単なる墓地ではなく、UNESCO指定の古代遺跡でもあったということを今日初めて知った。その遺跡の脇の遊歩道を何気なく歩いて帰ろうと思っていたら、立て看板があることに気づき、その前に行って説明書きを読んだ。今の家にはもう丸4年住んでいて、今年が5年目なのだが、近所にまさかこのような古代遺跡があるとは今日まで全く知らず、大きな発見であった。何やらこの場所では、氷河期時代に人々がこの地で住んでいたことを示す遺物が発掘されたらしい。何千年も前にこの地に住んでいた人たちの暮らしぶりを想像しながら、その遺跡を外から眺めて帰ってきた。今改めてこの場所に関するウェブサイトを眺めているのだが、この地で暮らしていたネアンデルタール人たちが狩りで使っていたものが出土したり、埋葬した人の遺骨などが出土したらしい。UNESCOに指定されているのはこのエリアだけではなく、街の中心部から北部にかけて広いエリアに渡るようだ。ネアンデルタール人たちが生活していたエリアはフローニンゲンを超えて、隣町のドレンテにまで及ぶらしい。家の近所にまさかこのような歴史的な古代遺跡があると思わなかったし、今生活をしている地に氷河期に人々が暮らしを営んでいたということも感慨深い事実であった。散歩には自己発見のみならず、こうした世界発見もあることが1つの楽しみである。そのようなことを思いながら、晴々とした気分で散歩から自宅に戻ってきた。フローニンゲン:2024/12/21(土)10:09
13792. ゼミナールの第112回のクラスを振り返って
時刻は午後2時半を向かえた。つい先ほど、第112回のゼミナールのクラスを終えたところである。クラスの充実した対話の余韻に浸ることもまた観想的な生の在り方と言えるだろうか。自分にとってゼミナールの場は、新しい洞察や気づきを得たり、考えを整理するための場であるだけではなく、心にスペースを作る最良の場になっていることを改めて実感する。現代社会は、間を潰す形で拡大していく社会である。物理的にも住宅が所狭しと乱立し、とりわけ都市部は空間が窮屈になっている。それはどこか心に間がないことを表しているように思うし、それを助長しているように思う。ゼミナールの場が、こうして自分の心に治癒や変容に必要な間をもたらしてくれていることに大きな意義を感じる。間は喜びや驚きをもたらす源泉である。今日のクラスの最後に出た奉仕は、まさに間をうまく作ることに役立っているのではないかと思う。相手に奉仕する際に、相手が喜んでくれることを色々と考えてそれを実践し、実際に相手が喜んでくれた時の感動はひとしおである。もちろん、相手を喜ばせるという計らいがあるのは有漏の行為だと言えるかもしれないが、有漏の善はないよりもずっとマシであり、有漏の善を営むことを唯識は推奨している。その実践を積み重ねていく中で、少しずつ心が無漏のものとなり、漏れる煩悩のない無漏善を発揮できるようになってくる。相手に楽しんでもらいたい、喜んでもらいという純粋な思いは、自分の中では限りなく無漏心である。それは善を希求する善法欲に基づく重要な心の働きである。これからも自分は、他者を喜ばせ、楽しんでもらうことを最優先にした活動に取り組んでいきたいと思う。そしてそれが何も考えず絶えず即興的にできるようになった時、自分は限りなく無漏心を体現した人間になったと言えるのだろう。
それともう1つ、非常に興味深い話題だと思ったのは、昔話における最後の終わり方に関する物である。昔話の多くは「めでたし、めでたし」で終わる。それは誰にとってどのような意味でめでたかったのかを考えることは重要であるし、めでたしの先を考えてみることは重要である。クラスの中では桃太郎の話が出たが、桃太郎が鬼を退治してお爺さんとお婆さんのところに戻ってきて、一体誰がどのようにめでたく、そして彼らがその後どのように人生を歩んでいくことがめでたいのだろうかと考えていた。そこで成長と幸福について一時帰国の最終日に新R25の渡辺さんと対談をさせていただいたことを思い出した。確かに成長と幸福には質的差異があり、成長にも幸福にも無限の階梯がある。ここで重要なことは、最終的にどの地点に向かうかを決めるのは各人に委ねられ、どの駅で途中下車してもいいし、どの駅で歩みを止めてもいいのである。重要なことは、そこにその人の意思と選択があるかが重要であり、成長と幸福の地図を持った上でそこに留まることを判断しているかどうかのような気がする。成長と幸福の発達に関する見取り図を持たない場合、他者や社会の言いなりになる形でその段階に固着してしまう可能性がある。仮に見取り図を持てば、自らが納得する形でその成長段階は幸福段階に寛ぐことができるのではないだろうか。人間は意思を持つ生き物であり、それは自由の根源である。自由の根源である意思に基づく形での自己判断がそこでなされているのであれば、どの停車駅に停まっても他者が否定をする謂れはない。真の意味での多様性尊重というはそうしたものであるはずだ。自分が願っているのは、成長や幸福についてそうした次元での多様性が尊重されることである。昔話の登場人物たちが成長と幸福の地図を持って判断を下したのであれば、それは全てめでたしと言える人生なのではないかと思う。フローニンゲン:2024/12/21(土)14:58
Today’s Letter
Thankfully, I lead a contemplative life every day. I have ample free time to reflect on myself and the world. This restful, inactive time is both meaningful and fruitful. It serves as my ultimate resource for enriching my being. Groningen, December 21, 2024
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