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タイトル一覧
13502: 追悼
13503: 身近な他者の死によって照らされる自らの生
13504: 私たちの実存性や霊性を逞しくする恩寵的産物としての死
13505: 今朝方の夢
13506: 実存的リスクの高まる世界におけるトランスヒューマニズムと米国トランスヒューマニスト党の貢献
13507: 日曜日の穏やかさを感じてのトレーニング
13502. 追悼
時刻はゆっくりと午前7時に近づいている。サマータイムが始まって1週間になるが、一昨日から気温がぐっと下がった印象である。今の気温は2度でかなり冷え込んでおり、暖房が自動で入る。今日の日中の最高気温も10度までしか上がらず、明日以降もしばらくは最適気温が5度を下回る日々が続く。いよいよ冬が本格的に始まった感じである。
昨日の午後、仮眠を取り終えてから午前中のゼミナールのクラスの振り返りの音声ファイルを作成していると、家の1階のドアを叩く音が聞こえた。まだ未配達の書籍が郵便受けに届けられて敷地内の隣人の誰かがそれを持ってきてくれたのかもしれないと思い、音声ファイルを作成する手を止めて1階に降りた。ドアを開けると、そこには隣人のマークが立っていた。マークはかつて郵便受けに入らない書籍が彼の家に届けられた時によく自分の家まで本を持って来てくれていたが、昨日の彼の手には何もなかった。神妙な顔をしたマークと挨拶を交わすと、マークはすぐさま、「フレディがこの世を去った」と述べた。私はそれを聞いてその場に立ち尽くし、言葉を失った。先月に膵臓癌が発覚する前に一度家のオーナーのフレディさんと会って話をしたが、確かにその時は随分と痩せこけていたが、それでも元気そうな表情を浮かべていた。癌が発覚して以降は、痛みを緩和する薬を飲みながら穏やかで充実した日々を過ごしているとペイトラさんから話を伺っていた。そんな折にマークからフレディさんが亡くなったという知らせを受けて、すぐにはそれを信じることができず、実感が湧かなかった。外は寒かったので、マークを家の中に招き入れ、さらに話を聞いた。フレディさんとペイトラさんは法律上の結婚はせず、何十年も事実婚として一緒に生活をしていたが、フレディさんが亡くなる数日前にフレディさんの遺産をペイトラさんが相続するべく、正式な結婚をしたようだった。亡くなる直前までフレディさんは薬のおかげで痛みもほとんどなく、元気だったようで、その結婚をみんなで祝ったそうだった。それはフレディさんとペイトラさんにとって最後の幸せな瞬間であったとマークが述べていた。そこからマークがペイトラさんに変わって私の家にやって来て、葬儀の話をしてくれた。今週の木曜日にフレディさんの葬式があるので参加しないかと尋ねられ、間髪入れずに葬式に参加する意向を伝えた。オランダの葬式に参加するのは初めなので格好について尋ねると、オランダは日本のように葬式は暗いものではないらしく、格好は自由で、ジーパンの人もいるぐらいとのことだった。一応スーツを着ていこうと思うがどうかとマークに尋ねると、もちろんスーツも大丈夫とのことだった。日本であれば黒いスーツを着ていかなければならないが、そのような色の縛りもなく、ジーパンで参加できるようなカジュアルなものだとは知らなかった。色や柄としても華美ではなく、落ち着いたスーツを着ていこうと思う。ワイシャツやネクタイをする必要はないようなので、葬式の場所が寒いかもしれないので、タートルネックのセーターを着ていこうと思う。木曜日にマークが車を出してくれ、葬式会場まで一緒に行くことになった。フレディさんが亡くなった知らせを受けて一夜が経つが、悲しみというよりも非常に静かな心でいる自分がいる。かつて父方の祖父や母方の祖母が亡くなった時にも、不思議と悲しみというよりも心が静かな気持ちになる自分がいた。それは心の発達を受けての現象なのかもしれないし、仏教の諸行無常の真理が体現されつつあるからなのかもしれない。いずれにせよ、引き続き静かな心持ちでフレディさんの死を追悼したいと思う。フローニンゲン:2024/11/3(日)07:09
13503. 身近な他者の死によって照らされる自らの生
時刻は午前7時半を迎え、随分と辺りが明るくなった。今日は雲ひとつない青空が広がっている。いつもであれば小鳥の鳴き声はそれを祝福するものとして感じられるが、昨日のフレディさんの知らせを受けると、小鳥たちが追悼の歌を歌っているかのように響く。ここでもまさに唯識が述べるように、自分の心の有り様が世界からの情報の受け止め方を規定することがわかる。フレディさんの死の知らせを受け、身近な他者の死が自分の生に光を反射させてくれることを昨夜実感していた。入浴中にずっと天窓の外に広がる星空を眺めていて、フレディさんの死の知らせを通じて自分の生を反省的に考えている自分がいた。フレディさんの命と同じく自分の命もまた諸行無常の真理に貫かれており、いつどのような形でその役目を終えるのかはわからない。命を保持し続けてくれている阿頼耶識が命を手放した時がこの世を去る時であり、自らの阿頼耶識に薫習された業としての種子が相続されていく。偶然にも昨日のゼミナールのクラスの中で主題として取り上げたのは輪廻生死の話だったので、クラスでの対話と相まってフレディさんの死を自らの生に引きつけた形での内省が生じたのかもしれない。今、家の前の駐車場には普段見られない車が2台止まっていて、おそらくそれはフレディさんのお母さんやペイトラさんの兄弟か両親の車だろうと推測される。フレディさんの葬儀に向けて色々と手続きがあるらしいことをマークから聞き、親族が集まって今それを進めているようだ。ある個人の死は当然ながら歓迎されるようなものでは決してないが、人は誰しもどこかでその命の役割を終えるのであるから、過度に悲嘆にくれる必要はなく、むしろ明るく故人を送り出そうという発想がオランダの死生観にあるようだ。葬式の格好を含めてそのようなことを感じている。またこうしてある個人が亡くなると、関係する親族や親しい人たちが一堂に会することからも、そこでまた共同体意識が育まれるきっかけになっているように思える。今回自分も隣人のマーク、ゴヤ、ロクシーと一緒に葬式に参加することになり、隣人同士の関係性を深めるイベントとして葬式という儀式が持つ意義を改めて実感している。かつては葬儀の実施に懐疑的だった自分も、葬儀が持つ重要な役割や力を実感することができている。葬儀がある木曜日の午後は、普段はジムに行って体を鍛えているが、ジムに行くのは当然ながらやめて葬儀を優先することにした。日本への一時帰国を控えた最終週にフレディさんがこの世を立ち、葬式が行われるというのも運命の巡り合わせだったのかもしれない。フレディさんとの思い出は数限りなくあり、小説、映画、政治、宗教、教育、経済など、非常に多岐にわたってフレディさんと話をして来たことが懐かしく、一緒に水道管の大掛かりな修理をしたことも良き思い出として残っている。フローニンゲン大学の大先輩でもあったフレディさんにはいつも親近感を持っていて、フレディさんが自らの手で建てた家でこの4年間過ごせたことに感謝をし、葬儀の場ではフレディさんとの思い出を振り返りながらフレディさんを天に送りたいと思う。フローニンゲン:2024/11/3(日)07:41
13504. 私たちの実存性や霊性を逞しくする恩寵的産物としての死
縁起がもたらす不思議な繋がり。それは人と人との繋がりだけではなく、現象と現象との繋がりにも関係するものである。やはりまだフレディさんの死について色々と考え事をしている自分がいる。自分の気持ちに正直になってみると、自分はどうやら他者の死を受けて悲嘆に暮れることはこれまでほとんどなく、当然ながら寂しさのような感情を感じることはあれど、死という現象を命ある存在にとっての不可避な現象と捉えている節が小さい頃からあり、今回のフレディさんの死の知らせを聞いても悲しみに暮れるようなことはなかった。振り返ってみると、大学時代に小中高時代の親友が自殺をした知らせを聞いた時にも、父方の祖父が亡くなった時にも、母方の祖母が亡くなった時にも、そして愛犬が亡くなった時にも、その知らせを聞いた瞬間は言葉を失うが、それが悲しみの感情を誘発することはほとんどなかったように思う。その時の自分はいつでも、その人や生き物が苦しみを感じずにこの世を去ったかということに関心を寄せ、心安らかに天国に召されたかどうかに意識が向かっていた。今回のフレディさんの死についても全くそうであり、隣人のマークから、フレディさんが亡くなる直前の数日間は薬のおかげで苦痛は全くなく、安らかにこの世を去ったことを聞いた時、安堵の気持ちすら芽生えた。慈悲の心というのはひょっとしたら、死者に対して悲しみの気持ちを持つことではなく、死にゆくものが苦痛なくあの世に行けることを願い、安らかに生涯を閉じることを祈ることなのではないかと思えてくる。死という現象に対して慈悲心を持つというのはきっとそういうことなのではないかという思いと、死という現象に対する智慧というのはそうした在り方を育むものなのだという思いがある。
フレディさんの死の知らせを聞く前に、実は再びトランスヒューマニズムに関する探究を再開させようと思っていたところだった。マーク曰く、フレディさんは水曜日にこの世を去ったそうであり、ちょうど自分がトランスヒューマニズムの探究の再燃を受けたのはフレディさんの死の翌日ぐらいの出来事だった。トランスヒューマニズムにおいては、先端的な科学とテクノロジーを活用したより良い人生と社会の実現を掲げる政治思想であり、自分は数年前に米国トランスヒューマニスト党に入党している。党への参画後、特に何か政治活動を行なっているわけではなく、トランスヒューマニズムに関する書籍の翻訳を行ったり、書籍や論文を通じての探究を行ったりと、知的な活動を細々と続けていた。現在の党首のゲナディ・ストリャロフは、『死は間違っている(未訳)』という子供向けの小説を出版している。自分はゲナディと異なる死生観を持っていて、死を悪いことや間違っていることだとは捉えていない。仮に先端的な科学やテクノロジーを用いるのであれば、死を超克することよりも、死の体験をより従事したものにすることに関心がある。仏教の観点からすれば、与楽抜苦の考え方にあるように、トランスヒューマニズムが目指す健康寿命を伸ばすことや死の苦しみを緩和することには意味があるように思う。しかし、人間はどうやら死を反芻することを通じての生の輝きという現象があるようで、それは自分も今回のフレディさんの死を受けて改めて実感したことであり、死を抹消することは人類にとってあまり望ましくないように思える。死者を追悼する儀式を通じた絆の醸成や、死という現象から自らの生を内省すること、さらには命とは何か、人間とは何か、人生とは何かを実存的に深く考察する学びの宝庫として死という現象が人間に与えられたのではないかというような見方を自分は採用している。トランスヒューマニズムの信奉者によって死の捉え方は当然違うが、ラディカルなトランスヒューマニストが持つ死の克服という考え方には今のところ自分は与することができない。自らの死を意識することや他者の死に触れることは、私たちの実存性や霊性を逞しくする恩寵的産物とさえ自分は考えている。それを人間から剥奪してしまうことは、果たして人類の幸福に繋がるのだろうか。現時点での自分は、先端的な科学やテクノロジーを通じた死の超克を通じた幸福の実現ではなく、先端的な科学やテクノロジーを通じた死の体験の充実を通じた幸福の実現の道を探りたいと思う。フローニンゲン:2024/11/3(日)08:14
13505. 今朝方の夢
朝の世界の輝きがとても美しい。優しい朝日が眩く、その光が地上に優しく降り注いでいる。今朝方は死についての考察を日記に書き留めており、夢についてはまだ振り返ることができていなかった。今朝方は次のような夢を見ていた。
夢の中で私は、見慣れない高校にいた。ちょうど文化祭の準備に向けて、全校生徒が楽しそうに準備に励んでいた。準備期間にも午前中だけは授業があり、昼前の最後の授業として数学のクラスに参加していた。すると、そこで教えられている内容が高校数学ではなく、大学数学であることに気づき、随分と高度な数学を教えるのだなと思った。大学数学レベルの授業ゆえに、そこに参加できる生徒は少数で、少人数のクラスが行われていた。教室には1人1つの机があてがわれていたのではなく、長机が設置されていた。広い教室に横に3列、縦に数列ほどの長机が置かれていて、私は右列の一番前の列の長机に1人で座っていた。私の後ろの長机には女性友達が座っていて、クラスの前半部分の先生の話を私は聞いておらず、色々と考え事に耽っていたので、彼女にノートを見せてもらうことにした。ちらりとノートを確認すると、彼女とはとても細かい字でノートを取っていたので、目を凝らしてノートを見る必要があった。おそらく授業の進行に合わせてノートを確認していると、今先生が話をしている箇所の説明についていけそうになるかと思ったので、彼女にお願いをしてクラスの後にノートを見せてもらうことにした。すると、気がつけばクラスが終わっていて、私は廊下に出て、文化祭の準備に勤しむクラスメートたちの姿を脇目に、数学のノートを書き写していた。
それ以外に覚えている夢としては、小中学校時代の2人の友人(HY & KS)が私に関して記号を用いて悪口を綴っているノートの紙切れを発見した場面である。私はそれを2人が自分に対する悪口として受け取ったが、後々判明したのはそれは別に私への悪口ではなかったということである。最初それを悪口だと思った私は、自分のノートに彼らの自分に対する悪口に対して不満を表すような英文詩を作り、それに加えて彼らと同じく記号を用いて不満を表現した。そのノートを持って部活に参加したところ、今から同世代のアイルランドの代表とバスケの練習試合を急遽することになり、顧問の先生からすぐに準備を始めるように言われた。アイルランドの選手たちは自分たちよりもガタイが良さそうだったので、体格差のハンデをどのように乗り越えていくかについての作戦をチームで練った。と言っても、そのアイデアのほぼ全ては自分が出したもので、基本的に自分の指示をもとに試合をしていくことになった。いざ試合を始める時になってふと、私はその試合に参加する気力を失った。というのも、2人の友人の悪口が再び脳裏に浮かび、そのことで頭が一杯になってしまったからだ。雑念を払拭するべく、私は試合会場を離れて、少し空を飛んで小川のあるところに向かった。しばらく小川の近くで心を穏やかにしていると、顧問の先生が現れて、何かあったのかと尋ねてきた。私は先生に事情を説明しようと思ったが、その瞬間に2人の友人が現れ、私のノートを手に持っており、自分が誤解をしていることを述べた。彼らは私に悪口を述べたわけではないことがそこでようやくわかり、すべての蟠りが払拭されて、ようやく試合に向けて集中できる状態になった。私は先生と2人の友人の肩に触れて、瞬間移動する形で試合会場に戻った。そこには自分が帰ってくるのを待ち望んでいたチームメイトの顔があり、彼らの喜ぶ顔を見て、チーム一丸となって試合に望もうと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/11/3(日)09:25
Chat GTPによる上記の夢の解釈は次のような内容だった。
第一のシーン(文化祭の準備と数学の授業)
夢の中で文化祭という楽しげなイベントの準備が行われている一方で、高度な数学の授業を受けている場面が描かれています。ここには、遊びと学び、集団と個人の対比が見られます。文化祭は多くの人と一緒に何かを成し遂げる活動であり、夢の中でそれを脇目に見つつ、数学のノートを写す場面には、個人的な成長や知識の追求が描かれているようです。高度な内容に取り組む姿は、自己の向上や知的な挑戦を象徴しているかもしれません。授業で教えられている内容が大学数学であることに気づいた点は、あなたの学びに対する高い目標や探求心を反映しているようにも感じます。
第二のシーン(友人たちとの誤解)
小中学校時代の友人から悪口を受けたと思い、感情的な反応をする場面ですが、後にそれが誤解であったことがわかり、和解する場面は、過去の経験や人間関係の中での葛藤、そしてそれを解消する過程を象徴しているように見えます。記号を用いて悪口を書かれていると思い込んだことや、あなた自身が詩や記号で感情を表現しようとする様子は、誤解や心の葛藤に対する自己表現の方法を表しているかもしれません。特に、誤解が解けた瞬間に「肩に触れて瞬間移動する」というのは、気持ちが解放され、新たなステージに向かう象徴とも受け取れます。
第三のシーン(バスケットボールの試合)
バスケットボールの試合において、チームメイトが自分を待ち望んでいる状況でのプレッシャーとリーダーシップを感じる場面です。この場面では、チームへの責任感や仲間からの信頼、またはそれに応えようとする気持ちが表れているようです。試合に集中できないのは、友人たちからの「悪口」だと思った言葉が頭をよぎるからで、これは現実の生活で他者の評価や過去の出来事に対して感じるプレッシャーや疑念の象徴かもしれません。最終的に仲間と和解し、全員で試合に挑む決意を持つことができたのは、心のわだかまりが解消され、自己の役割や責任を全うする覚悟ができたという意味合いも含まれているでしょう。
総括
この夢全体を通じて、個人の成長、自己との対話、過去の人間関係の見直しがテーマになっているように見受けられます。文化祭のような大きなイベントと個人の課題への取り組み、過去の友人との誤解、チームプレーにおける責任感とリーダーシップ、そして最終的に心が解放されて周囲との和解に至るプロセスは、現在の生活における挑戦や心の成長を反映しているように思われます。
13506. 実存的リスクの高まる世界におけるトランスヒューマニズムと
米国トランスヒューマニスト党の貢献
自分の思想をすべて包摂するような政治思想を見つけることは難しく、全ての思想に同意するわけではないが、自分の思想と大部分重なる政治的スタンスを持っているのが米国トランスヒューマニスト党である。かつて自分は、ハイデガー的にテクノロジーに対して悲観主義的な立場を取っていたが、この立場の問題は、テクノロジーも科学ももはや不可逆的に進化を遂げており、単なる悲観主義ではなく、テクノロジーと科学の進歩とどのように向き合い、どのようにそれらの技術や知見を活用するかについて建設的に議論する方が賢明だと思ったのである。テクノロジーや科学に対していくら悲観主義的な立場を取ったとしても、テクノロジーや科学はまるで生き物であるかのように、そうした態度とは関係なしに進歩を続けていく。ゆえに進歩の方向性が誤った方向に行かないように建設的に議論を進めていくことの方が望ましい在り方だと判断し、テクノロジーと科学を真正面から取り上げている米国トランスヒューマニスト党のマニフェストに関心を持ったのである。実に多様な技術・科学領域を専門とするトランスヒューマニストの研究者や実務家がいて、穏便なトランスヒューマニストもいれば、革新的なトランスヒューマニストもいる。総じてトランスヒューマニズムの思想に関心を持つ思想家や実務家は頭脳明晰であり、彼らの展開する主張を改めて1つ1つ追っている。彼らの主張の1つ1つに対してどれだけ賛同するのか反対するのかを一旦格好に括り、まずはトランスヒューマニズムのディスコースの全体像をより明瞭なものにすることに務めたい。細部を埋めていくのはそれ以降である。
スウェーデンの哲学者のニック・ボストロムが指摘するように、私たち人間の実存的リスクは隕石の衝突などの外在的なものというよりも、人間の手によってもたらされる戦争や環境破壊によってもたらされるものかと思う。人類の危機に関する実存的リスクを実感することは、日頃の自然災害や世界で起こっている戦争対立を見れば実感が湧くのではないかと思う。こうした人類に迫っている実存的な危機を解決するにあたっては、既存の慣習的な価値観や方法は通用しない。トランスヒューマニズムが掲げる不老不死の実現可能性はさておき、トランスヒューマニズムは間違いなく既存の価値観にヒビを入れるような発想を持っており、私たちに人間とは何かや幸福とは何かという問題を深く突きつけてくる。先端的なテクノロジーや科学を積極的に導入することによってもたらされる種々の思考実験を可能にしてくれる点がトランスヒューマニズムの1つ大きな意義や価値と言えるのではないだろうか。人間を含めた全ての生命や地球の存続やそれらの幸福の実現を考えるにあたって、旧態依然とした価値観や方法ではもう限界に直面しているのは明らかである。人間とは何であり、社会とは何であって、幸福とは何かを深く考えさせてくれる種々の思考実験を可能にし、実際により良い世界を作っていくことに向けた実践を伴うところに米国トランスヒューマニスト党の魅力を見出している。唯識学や性愛学の観点からトランスヒューマニズムへ何か貢献できないだろうかという問題意識を常に持ち、とりわけ自分の関心・専門領域である人間の心に関する研究は、AIを含めたテクノロジーや遺伝子工学や再生医療の分野の進展を受けて、人間とは何かが問われる時代においてその重要性を増すだろう。フローニンゲン:2024/11/3(日)10:54
13507. 日曜日の穏やかさを感じてのトレーニング
時刻はゆっくりと午後5時に近づいている。今、日曜日の穏やかな夕日を眺めながらこの日記を綴っている。今日は朝からとても天気が良く、雲ひとつない青空がずっと広がっていた。今週の木曜日にフレディさんの葬式があり、それに参加するために、今週はジムに行く日を変更した。普段の月・木のスケジュールではなく、日・水にジムに行くことにし、金曜日の朝に自宅で少々筋力トレーニングをすることにした。日本への一時帰国を控えた最終週にこうした変更があることは予期していなかったことであるが、フレディさんをあの世に送り出すことを何よりも最優先させたい。
午後にジムに向かうために自宅の扉を開けると、そこには平日とは違う穏やかな雰囲気で満たされていた。自分の心は常に平穏であるゆえに、自分の心が投影されて世界をそのように知覚するというよりも、フローニンゲンの町に住む人たちの集合意識が穏やかであることがそうした雰囲気を醸し出しているのかもしれないと改めて思った次第である。世界をどのように感じるかは自分の心に加えて集合意識の影響も受けている可能性があることを思う。自宅からジムに行くまでの間、そしてジムから帰ってくる間には、青空に幾筋かの飛行機雲を目撃した。今日はすこぶる天気が良いこともあり、飛行機雲がどこまでも果てしなく伸びていく様は見ものであった。ジムに到着すると、月曜日の午後よりも若干人はいたが、混んでいる状態ではなかったので、心地良くトレーニングに励むことができた。土日は午後よりも午前中が混むらしく、平日は夜の時間帯が混むということをトレーナーのエリーザにかつて教えてもらっていたので、いつも混雑する時間を避けてジムを利用することができている。水曜日の午後にジムに行く際にも混んではないことが予想され、木曜日と顔ぶれがどのように異なるのかを楽しみにしたい。きっと常連客もいるだろうが、月曜日や木曜日には見られない人もいるはずである。
今日のトレーニングは前回から中2日ということもあって、筋力はほぼ回復をしていたので全身を満遍なく追い込んで鍛えていった。最近は重量を調整することや回数を調整することが巧みになってきており、異なる刺激を与えながら筋力が着実に増加していることを実感する。今日のトレーニングは合計で75分間ぐらいとなり、水曜日は80分から90分間を目処にさらに追い込んで鍛えていきたいと思う。フローニンゲン:2024/11/3(日)16:53
Today’s Letter
Both death and life are graceful gifts from the universe. Although I espouse transhumanism, which aims to overcome death, I believe that death is one of the most precious phenomena in existence. Last week, my beloved neighbor passed away. His death deepened the bond among his family, close friends, and neighbors. Moreover, it prompted me to reflect on my own life. After hearing the news, I felt a profound stillness and tranquility―a feeling that I consider a gift from him. Overcoming death through science and technology may seem appealing at first glance, but I believe that death is a precious gift that allows us to strengthen our connections with others and reflect deeply on our lives, leading to a fuller, richer existence and enriching our spirituality. Groningen, November 3 2024
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