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タイトル一覧
13484: 欲望についての再考
13485: 種々の欲求についての再考
13486: 狭く閉じられた経験世界を超えて
13487: 今朝方の夢
13488: 今朝方の夢の続き
13489: 唯識における実体とは/映画の魅力/好きなことの救済作用
13490: 一時帰国前の最後のパーソナルトレーニングを終えて
13484. 欲望についての再考
時刻は午前6時半を迎えた。辺りはまだ真っ暗だが、もう30分ほどしたら空がダークブルーに変わり始め、夜明けに向けた準備を始めるだろう。今日もこうしてまた十分な睡眠を取ってすっきり目覚めてみると、夜明けを待つ朝の世界のようにどことなく内側から湧き上がってくる力を感じる。その力の源泉は全てと一となって生きることと生の喜びを絶えず味わっていることと関係しているに違いない。今日から丸々1週間は天気が良いようなので何よりである。今の気温は12度で、日中は14度まで気温が上がる。明後日からはいよいよ寒さがギアを変える。昨日までは土曜日の最低気温は3度ぐらいであったが、なんと今確認してみると1度まで下がる予報が出ている。それを受けていよいよ冬の本格的な到来であることを感じ、寒さが心身を引き締めることから極寒の日々がやって来ることを心の底ではどこか喜んでいる自分がいる。
寒い日々を望むということを述べていると、暖房が自動で入り始めた。家全体を温めてくれるこの暖房にもこれからますます活躍してもらうことになり、深くお世話になるだろう。寒さへの希求からふと、昨日はジャック・ラカンが述べる欲望について考えを巡らせている自分がいたことを思い出す。ラカンは、私たちの欲望は他者の欲望であると述べる。先日、欲求と欲望の違いについて日記に書き留めていたが、まさにその話と繋がる。欲求というのはいずれも肉体の生存上、そして精神の健全さにも不可欠なものであり、それらは自然と湧き上がって来るものである。ところが欲望になると、それは他者や社会によって規定される形で、兎角生存上不可欠なものではない形のものである父ことを述べていたように思う。まさにラカンもそれと似たようなことを指摘しており、私たちはどれほど自発的に欲望を生じさせているように思えても、実際のところは言語システムの中で他人によって欲望を生じさせられているというのがラカンの説明になる。つまり欲求は自発的に生じるものだが、欲望は言葉の枠組みの中で他者依存的に生じるものであるという理解ができる。なぜ昨日改めて欲望について考えていたかというと、性欲というのも性の欲求と性の欲望に区分できるからであり、また唯識の観点における煩悩が欲求ではなく欲望に近い意味を持っており、欲求と欲望のどちらを超克することを唯識を含めて仏教が目指しているのかを明らかにしたかったからである。今日もこうして何気なく浮上したテーマについて考えを巡らし、また1つでも心の成長に繋げていくことができたらと思う。フローニンゲン:2024/10/31(木)06:46
13485. 種々の欲求についての再考
早朝に予想していた通り、時刻が午前7時を迎えると、空がダークブルーに変わり始め、外の様子がわずかに見えるほどに明るくなってきた。今日は曇りがちの時間が多いが、午後には太陽の姿を拝める瞬間があるようなので、午後にジムに行く際にはそれを楽しみにしたい。こうした小さな楽しみを深く味わい、それに感謝しながら生きる日々が常態化している。小さな幸せで敷き詰められた日常を自分は生きており、小さな幸せの総体が大きな幸福感をもたらしている。俗世間で生きながらも俗世間に染まらず、絶えず俗世間を超越した世界と繋がりながら生きること。それもまた今の自分の日常を的確に表現している。世俗体を超えた勝義体を絶えず生きること。そこに無尽蔵の至福さがある。先ほど振り返っていた欲望の話と架橋すれば、欲望はどこまで行っても世俗体としての現象である。しかし欲求は、とりわけ自己超越欲求などはまさに勝義体の産物であろう。それは真理の世界の産物なのである。真理の世界には森羅万象を創造する巨大な力が内包されているがゆえに、真理の産物としての自己超越欲求を自発的に内から感じながら生きることは、自分に大きな力をもたらしてくれる。先ほど振り返っていたことをもう一度振り返ってみると、ラカン的に言えば、欲望は言語由来かつ他者由来のものである。唯識的に表現すればそれは、他者を意識することを通じて言葉によって虚構されたものであり、遍計所執性として固執の対象となるものであると言えるだろう。欲望という同一テーマについて時間をさほど置かずに振り返ってもまたこうして新たな意味が紐解かれているところに、自己の内側に絶えず流れている創造の力を思う。そこから、欲求はどれほどまでに言葉への依存性があるのかを考えてみた。マズローの欲求階層説で言えば、生理的な欲求は肉体的なものであり、言葉への依存はほぼ皆無である。一方で、所属の欲求になってくるともしかしたら言葉による影響は幾分見られるかもしれないが、何かに所属をして安心感を得るというのも生物の自己保存の欲求の一環だと捉えてみると、所属の欲求は他者や言葉によって歪められているようなものではなく、やはり純粋に生じる自発的な欲求だと見做せそうである。承認欲求もまた確かに他者や言葉による影響はあるが、自分が自分を承認するという自己肯定感につながる欲求の場合は、他者からの眼差しを意識しなくてもそれを満たすことができる。唯識の思想と絡めれば、承認欲求は末那識と深く関係しており、自我の保存の役割を担うものかと思う。自我の保存が十分に安定してくると、今度は自我は末那識を超えて阿頼耶識と深くつながろうとする運動を始め、それが自己実現の欲求として生じてくる。はどうであろうかと考えてみると、自己実現の欲求もまた言語由来の性質を持つが、そうであっても本質的には他者依存性は少ない。本質的な自己実現の欲求は、他者によって形作られるものではなく、他者依存性は皆無となるはずである。そうなってくると、やはり自己実現の欲望とは言えない。そして、自己超越欲求まで行けばそれは言語超越的であり、他者依存性も言語依存性も完全に超えたものになる。そのような思考の整理を改めて行なっていた。フローニンゲン:2024/10/31(木)07:25
13486. 狭く閉じられた経験世界を超えて
午前7時半を迎え、辺りはようやく随分と明るくなった。再来週の今頃はもう日本にいるのだが、日本にいる間にもオランダでは日の出と日没の時間が刻一刻と変わっていく。哲学者のロイ・バスカーの批判的実在論の観点で言えば、オランダの日照時間の変化を今こうしてオランダにいながら体験することができているが、それはまさに自分という1人の人間の経験世界(the empirical)に由来するものであり、ひとたびオランダを離れると、オランダでは自分がその瞬間には体験できないが、確かに生じているであろう日照時間の変化がある。こうした自分の経験世界を超えていながらに存在する現象が現実世界(the actual)にはある。例えば、自分が日本にいないことによって、日本で起こっている自然災害や社会現象の存在を否定しないのは、肉体を持って物理的な次元に縛られた一個人が体験できる経験世界を超えた現実世界というものが存在していることを認めているからである。ところがポスト・トゥルースの時代においては、どこまでが現実で虚構なのかの線引きが極めて難しくなっており、それはバスカーのモデルで言えば現実世界を脅かしている。完全に虚構なるフェイクニュースを現実世界で確かに生じている出来事だと錯覚してしまい、それを受けて個人の経験世界での種々の誤った言動を誘発する現象が近年とみに増加している。この問題は看過できないものである。補足として、現実世界を超えたところ実在世界(the real)をバスカーのモデルでは置く。そこは現実世界で生じる出来事を生み出すメカニズムが存在する領域であり、それを突き詰めれば仏教で言うところの真理の世界になるし、科学が到達しようとする真理の世界もまさにここにある。ポスト・トゥルースの時代において、人々はますます歪められた現実世界からの投げかけによって狭い経験世界に閉じていくか、現実世界を超えて実在世界に開かれ、そちらの世界に跳躍していくかの分岐点を迎えていると言えるかもしれない。いずれにせよ、現状の一般人が実在世界に開かれて、そちらの世界に跳躍を果たすのは至難の業だと思うが、幸福の源泉は歪められた現実世界にはなく、人智を越え、人間の手では決して汚すことのできない実在世界にあるはずである。私たちは歪められた現実世界に惑わされ、それを受けて歪められた狭い経験世界で生き続けるのが、それとも無限に広く可能性に満ちた実在世界と繋がりながら生きるのかの分水嶺と直面している。そのようなことを考えていると、外の世界に意識が向かい、1羽の小鳥が小さく清澄な囀りを上げていた。その小鳥の鳴き声にハッとして、それは自分の経験世界での出来事ながら、それを天高く貫いている実在世界を思った。狭く閉じられた経験世界の囚われから解放されることは、実はそれほど難しいことを要求しているわけではなく、経験世界を絶えず貫いている実在世界に眼差しを向け、そこと繋がる内的感覚を養っていけばいいのである。フローニンゲン:2024/10/31(木)07:59
13487. 今朝方の夢
早朝に聞こえていた小鳥の鳴き声はもう聞こえなくなったと思ったら、遠くで鳩が鳴き始めた。ホーホーと鳴く鳩の鳴き声に耳を澄ませていると、再び先ほどの小鳥が近くの木にやって来て、また鳴き声を上げ始めてくれた。彼らの声に心が癒されながら、今朝方の夢について振り返り始めた。
今朝方は夢の中で、外国のどこかの町の郊外のサッカー場で草サッカーを楽しんでいた。そこにはちらほらと小中学校時代の友人が何人かいたが、こちらのチームにも相手のチームにも外国人が多く、国籍は実に多様であった。欧米系もいれば、アジア系もいて、中南米系もいた。ただし、アフリカ系の人はほとんどいなかった。草サッカーと言えど、私たちは真剣に試合をしていた。こちらのチームが前半の早い段階で先制をしたが、決して油断できない展開が続いていた。そんな折にコーナーキックのチャンスをこちらが得た。左サイドからのコーナーキックを得ると、私はコーナーフラッグのあるところにふらりと向かって、自分がコーナーキックを蹴ることにした。そのエリアは少し足場が悪く、土が柔らかすぎることもあって、足を取られないように注意する必要があった。足元の土を手で固めるなどして準備を整えると、蹴る前に左手を挙げて蹴る合図をした。それに合わせて味方がゴール前で連動した動きを見せ、フリーの選手を作る動きをした。しかし咄嗟に私はゴール前にボールを上げることをやめて、ショートコーナーを選択し、近くにいた選手にボールを渡して、その選手が中にボールを送った。すると、味方の選手がヘディングをし、それをゴールキーパーが弾いて再びコーナーキックとなった。今度はカーブをかけて的確にゴール前にボールを送ろうと思った。すると狙った通りの軌跡を描いてボールが飛んでいったが、思った以上にカーブが後半でかかり、なんとそのままゴールに入った。最初私はそれを狙っていなかったので、ゴールの外に出てしまったと思って残念に思ったのだが、副審がちゃんとゴールに入る瞬間を捉えており、正式にゴールインとなった時には大きく喜んだ。味方もそれを盛大に喜んでおり、2-0になることによって精神的な余裕が生まれることになった。相手チームがキックオフすると、相手の攻撃を今度は守備の場面でも貢献していこうと思い、ゴール前に戻って守備に力を入れた。すると、相手のボールを見事に奪うことができ、その瞬間に自分の体が少し宙に浮いて、相手がジャンプをしても届かない絶妙な高さを維持して動くことができた。相手が届かない高さをいいことに、私はそこで余裕をかましてパフォーマンス的にリフティングをしながら前に進んでいった。あるところまで宙に浮かんでリフティングで進むと、前方にいる味方に浮き球のパスを送り、それが絶妙なアシストとなり、味方が3点目のゴールを決めた。それを受けて相手のチームは完全に意気消沈となり、彼らの表情を見えて、これはもうゲームは決まったと思った。
この夢でも現れたように、自分はよく宙を浮く夢を見る。その高度は夢によってばらつきがあるが、いずれにせよ他の人にはない能力としてそれがあり、他の人には見えない景色を自分は見ている。それはひょっとしたら今の自分の認知の在り方や潜在的な認知能力を示唆しているものなのかもしれない。他の人が見えていないものを見ようとするような欲望は特になく、むしろ内在欲求としては超越的なものを知覚したいという純粋な欲求ならあるかもしれない。それは多分に成長欲求や自己超越欲求とも紐づいているものである。時に自分の能力を遥かに超えて高すぎる境地から地上を眺めて怖くなる夢もあるが、いずれにせよ宙に浮かぶというモチーフや空を飛ぶというモチーフは自分の認知特性や純粋な超越欲求と密接な関わりがありそうである。フローニンゲン:2024/10/31(木)08:43
13488. 今朝方の夢の続き
心を落ち着けて静けさの中に浸ってみると、外の世界にいる小鳥たちの鳴き声がより鮮明に聞こえてくる。意識を集中させること、意識を研ぎ澄ませることによって、心はそうでない時には汲み取ることができなかったものを汲み取ることができるようになる。心を磨くというのは詰まるところそういうことなのだろう。無限の可能性に満ちた世界から豊かに種々の感覚や意味を汲み取ること。心を磨くことはそれを可能にしてくれ、磨かれた心に映る諸現象がまた鏡としての心を磨く。心が磨かれていけばいくほどに、夢の世界の鮮明さも増すように思う。深層意識が心に投影するものを夢だとすれば、鏡としての心が磨かれていればいるほどに、夢はよりありありと知覚できるようになってくる。最近の自分は以前にも増して夢を記憶することができており、それは心の汚れが徐々に浄化されていることの表れなのかも知れない。
今朝方の夢の続きとして、前職時代のオフィスにいた場面があったことを思い出した。オフィスの自分のブースで仕事に取り組んでいると、レポートの作成に際して少し不明なところがあったので、近くに座っている同期に相談しにいった。彼は同期と言っても自分よりも幾分年上のため、自分のことをあまり同期と思っておらず、むしろ後輩と思っているような感じがあった。そんな彼にレポートの不明な点を尋ねると、そんな初歩的なこともわからないのかと見下されるような発言を何度もされ、徐々に怒りが込み上げてきた。しかし私はその怒りを露わにすることはせず、むしろ冷静さを保って怒りの熱を冷ましていった。彼はわざと自分を怒らせようとしてそのような発言をしている感じもしたので、尚更彼の手に乗らないように注意をした。レポートに関して彼から指摘された箇所を改めて眺めると、彼の指摘もあながちおかしなものではなく、彼の口調に惑わされると危うく見落としてしまうような大切な指摘がそこにあることに気づき、彼の態度には感謝しなかったが、彼が教えてくれたことそのものには感謝をした。再び自分のブースに戻って仕事を始めると、自分と同い年の女性のメンバーの1人が私の席にやってきて、今からチームの全員を集めて歌を披露しようと持ちかけてきた。あまりに突然の相談で驚いたが、それは面白そうな考えだと思ったので、彼女に協力することにした。フロアには自分のチームだけではなく、他の部門の人たちも多くいたので、彼らの目を少し気にしながらも、基本的にこの会社にいる人たちはほぼ全員大変ノリがいいので、いきなり始まる歌の披露も楽しんでもらえるだろうと思った。実際に彼女とデュオのような形で歌を歌うと、フロア全体が盛り上がり、恥ずかしさを脇に置いて歌を歌ってよかったと思った。しかし歌を歌い終えるとすぐさまどこか虚しさの感情がやって来た。やはり自分は組織で働くことに向いておらず、組織で働くことはストレスになるばかりであるという考えを改めて持った。今日を最後に退職をして、自分がしたいことを自分のペースで好きなように行うことに覚悟を決めると、心がスッと楽になった。そのような夢を見ていた。
組織に帰属することで、組織の慣習によって染められ、そこで良しとされる行動論理に薫習されてしまうことを極端に嫌う自分がいることを示唆する夢は度々見る。今朝方の上記の夢もまたその1つであろう。自分はとことんまでに自律的に生きることを大切にする価値観を有しているようであり、その価値観に沿って生きることが現在の日々のように生き生きとした充実した毎日を可能にしている。フローニンゲン:2024/10/31(木)09:18
13489. 唯識における実体とは/映画の魅力/好きなことの救済作用
唯識における実体とは、固定不変性を持つものであり、現象世界の事物は全て実体を持たない。それらは全て実体を持たずに仮に存在するものとして、「仮法」と呼ばれる。では唯識において何が実体として存在が認められているかというと、それは真如であり、言い換えれば真理である。真理の世界そのものは仮法ではなく、実法として立てられる。事物に関して言えば、事物の背後にあるものそのもの性などは真理の世界に存在するものであり、ものそのもの性は実法であるが、その現れとしての事物そのものはどこまでいっても固定不変性は持たず、仮法に留まる。唯識における外界世界の否定は、ものそのもの性や真理の世界の実在を否定しているのではなく、現象世界の事物がことごとく実体を持たない仮法であるということを主張しているものであると理解することは大切かと思う。唯識の外界世界の批判を単なる観念論の主張と誤解してしまう人が多いことを危惧している。そしてそうした誤解は、唯識を学び始めた人は必ず持つものでもあるため、それを理解しながら唯識の説明を展開していくことを心掛けていこうと改めて思う。
日本に一時帰国した際には、是非とも映画館で邦画を鑑賞しようと思っている。2年に1回の一時帰国の楽しみは日本の方々を旅して回るだけではなく、映画館で邦画を見るということを挙げることができる。自分が好む映画は、仮にある個人の経験世界を描く場合には、その個人の内的体験に深く入っていくような作品である。一方で、経験世界を超え、現実世界を超え、実在世界にまで触れるような作品はなお一層魅力的に感じる。実在世界は完全に言語化することなどできず、それは言葉を超越した真理の世界であり、そうした世界に触れさせてくれる体験をもたらす作品は自分にとって魅力的である。映画館の観客席に座っている自分をそちらの世界に連れ出してくれる作品に今回の一時帰国の最中に出会うことができるだろうか。過度な期待を寄せ過ぎず、仮に現実世界までを描く作品であっても、その背後にある実在世界をこちら側が想像すればいいのだから、どんな作品からも汲み取れることは無数にある。
自分が好きなことに毎日没頭して取り組んでいると、情熱を持って取り組める事柄、あるいは自分が好きだと思う事柄があることの救済作用を思う。そこにはこの世界で生きる救いがある。好きだという感情を持って、その感情すらも忘れながら取り組める対象があることは幸運である。その取り組みから得られる至福さを思うとき、人間は色々と問題を抱えた生き物であるが、同時に大きな可能性に満ちた生き物であることも見えてくる。自らが最大限の幸福を感じ、それを多くの人に分け与えることができるというのは、人間が持つ貴重かつ最重要な可能性の1つであろう。フローニンゲン:2024/10/31(木)10:03
13490. 一時帰国前の最後のパーソナルトレーニングを終えて
時刻は午後6時半を迎えた。サマータイムを終えたフローニンゲンは、もうこの時間になると真っ暗である。夏の時代には午後10時を過ぎてもまだ明るさが残っていたこともあり、その頃がとても懐かしくなる。つい先ほど夕食を摂り終え、いつもはジムでのトレーニングを終えて夕食を食べる前に書き留めているトレーニング日記を書き残しておきたい。今日はパーソナルトレーニングの日だったので、午後3時から4時までパーソナルトレーニングを受け、最後にもう10分ほど追加でトレーニングをしていたこともあり、帰ってくるのがいつもより遅くなったので、必然的に夕食を食べる時間も遅れた形になる。パーソナトレーニングの前にも15分ほど自主トレーニングをしていたこともあり、今日は90分弱のトレーニングとなった。ジムの受付にはもうヒーターが置かれているほどの寒さになってきたが、90分弱のトレーニングでは汗が滲む時間帯もちらほらあった。今日のパーソナルトレーニングは、日本に一時帰国する前の最後のものとなった。来週の月曜日と木曜日、そして再来週の月曜日にもジムに行くが、それらのトレーニングは全て自主トレーニングである。今日は帰国前の最後のトレーニングということで、いつも以上に気合が入っており、トレーナーのエリーザもかなりハードなメニューを提供してくれた。ウェイトを乗せたバーを用いたスクワットからのジャンピングスクワットを3セット終える頃には大腿四頭筋が悲鳴を上げており、先ほど1階のトイレに降りて2階に戻ってくる時にも筋肉疲労を感じたほどである。それくらいにそのメニューを通じて大腿四頭筋が主に鍛えられたわけだが、スクワットは自分の好きなメニューでもあるので、そのハードさが逆に心地良くもあった。前回のパーソナルトレーニングの際に相談していたように、今日は久しぶりにチンニング(懸垂)を行った。チューブのサポートを得ながらではあったが、以前よりも確実に回数をこなすことができていることに自分でも驚いた。3セット目に試しにチューブのサポートなしで試してみようと思ったところ、チューブなしでは初動の際に体がうまく持ち上がらず、今後少しずつその動きに慣らしていく必要があると思った。トレーナーのエリーザは、チューブなしで5回ほどチンニングを行うことができ、それは見事であった。チューブなしでチンニングを行うことを目標にしながら、まずは最も薄いチューブをサポートにして回数をこなせるようにしていきたいと思う。その他にも大胸筋を重ためのダンベルを用いて鍛えるメニューを挟んで、最後の15分を使っていくつかのメニューを組み合わせたサーキットトレーニングを行った。個人的にエリーザが提供するサーキットトレーニングはチャレンジングでありながらも、心肺機能を鍛えることや筋肉に多角的な刺激が入るので大変好んでいる。単純に筋肉を付けて体を大きくしていくだけではなく、動きを伴った動ける肉体を作っていく上でもこうしたサーキットトレーニングは重宝する。今日もまた非常に充実したパーソナルトレーニングだった。一時帰国中はホテルのジムや実家にあるトレーニング器具でのトレーニングとなるが、大分ではパーソナルトレーナーの早田航さんの大分のスタジオにお邪魔して、パーソナルトレーニングを航さんから受けれるという贅沢な機会があり、それはとても楽しみである。フローニンゲン:2024/10/31(木)18:46
Today’s Letter
The current season changes day by day, bringing something new. In response to this change, I feel myself changing each day as well. The world’s transformation mirrors my own; both are interconnected and interdependent. Groningen, October 31 2024
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