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タイトル一覧
13466: サマータイムを終えた朝の夢
13467: 2回目のエクスタティックダンスのイベントに参加して
13468: エクスタティックダンスの種々の効能
13469: 仏典や仏教書との向き合い方
13466. サマータイムを終えた朝の夢
時刻は午前6時を迎えた。今、辺りはまだ真っ暗であるが、今日からは空の色が変わり始めるのが早くなるはずである。と言うのも今朝方の未明に欧州はサマータイムを終えたからである。1時間ほど時間が戻り、昨日であれば今の時間は午前7時になる。サマータイムが終了した10月最後の日曜日はどうやら晴れるようだ。今の気温は13度と比較的暖かい。最高気温は15度まで上昇し、今日も過ごしやすい1日になりそうである。来週末からは寒さのギアがまた1段と変わり、最高気温は10度前半、最低気温は6度前後になる。日本に一時帰国する時までにはもうすっかり冬の感じがしそうである。
今朝方は夢の世界で、北海道の高校サッカーが舞台となる夢を見ていた。自分は夢を目撃する物としてそこにいたのだが、いつもは上から夢を俯瞰している感じなのだが、今朝方の夢の中では登場人物たちの目線に寄り添うような高さで夢を目撃していた。今は他のチームの台頭で埋もれてしまっているが、かつての強豪校に所属していたサッカー部の男性と女性のマネージャーが当時を懐かしく思い出しながら話をするのを聞いていた。当時その学校は全盛期を迎えていて、順調に予選トーナメントを勝ち上がり、決勝トーナメントに進出した。しかしそこでの1回戦で思わぬ学校に負けてしまい、大会から去った。その学校は0-1で負けてしまったのだが、その学校が放った枠内シュートはなんと33本にもなった。33本枠内にシュートが飛んでいったのにノーゴールというのは、相手のキーパーを褒めるか運が無かったと思うしかないなと思いながら2人の話を聞いていた。2人は話の中で、やはりその試合は悔しさの残るものであったが、今となってはそれもまた良い思い出だと笑って話していた。そのような場面があった。
それ以外に覚えているのは、外国人の若い女性がかつて性被害に遭った体験を自分にシェアしてくれている場面である。その女性はおそらくオランダ人で、自分よりも少し背が高かった。そんな彼女と話をして場所は、立派なオフィスビルの廊下と会議室だった。彼女のその体験は当時は辛いものだったが、今はトラウマセラピーなどを通じて随分と心と体の傷は癒えたようで、明るくその体験について話をしてくれた。彼女と私は、彼女の体験をもとにして性被害を撲滅するための団体を立ち上げることにし、その活動にこれから一緒に取り組んでいこうということになった。自分の探究領域の幅と深さが拡張していくに応じて、社会に対して行う活動の幅も増えていると感じながら彼女をビルの外に見送った。フローニンゲン:2024/10/27(日)06:31
13467. 2回目のエクスタティックダンスのイベントに参加して
時刻はゆっくりと午前7時に近づきつつある。今ようやく空がダークブルーに変わり始めた。昨日は親友のメルヴィンと一緒に近くの日本でいうところの公民館のような場所に行って、エクスタティックダンスのイベントに参加して来た。今回で2回目なのだが、初回に比べると随分と踊りへの抵抗感が減り、メルヴィンがこの間彼の理髪店で基礎的なステップを教えてくれたこともあって、即興的なダンスがより一層楽しく感じた。今回の会場は、部屋が2つあって、どちらの部屋も行き来が自由で両方の部屋にきちんとスピーカーが設置されていたので、どちらの部屋であってもダンスをを楽しむことができる形になっていた。このダンスイベントに参加する年齢層は前回と同じく幅広く、20代半ばから70代に及ぶ。前回久しぶりに参加したという背が高く横幅もある大柄な男性と再会し、少し言葉を交わした。その他にも前回見た顔をちらほら見かけた。エクスタティックダンスのイベントはフローニンゲンでは2箇所で行われ、隔週で交互に会場が変わる。会場が2つだけであることからも、常連とはよく顔を合わせることに必然的になるのだろう。エクスタティックダンスの特徴はその即興性にあるのだが、それ以外の特徴としては2時間半のダンス中は言葉を発することが固く禁じられていて、会場にいる人とのコミュニケーションは全てダンスを通じたものになる。そこでは目を合わせることや気の交換などがコミュニケーション手段になっており、普段言葉の世界に浸り続けている現代人にとっては言葉を離れる良い機会となる。また、細かな点で言えば会場では靴は履いて腹ならず、裸足か靴下の状態で地面に足の裏が触れる感覚を大切にすることも特徴だ。日本人であれば自宅で靴を履くことはないが、オランダ人の多くは家の中でも靴を履いているので、素足で地面を掴むというのは身体感覚を取り戻したり、養ったりする上で重要になる。昨日DJを務めたジェトロという男性は、なんとメルヴィンの古くからの親友らしく、メルヴィンが17歳の時にダンスを始めたきっかけとなった人とのことだった。ジェトロは私と同じぐらいの年で、メルヴィンにとってのダンスの先生で、昨日は生活地のアムステルダムから車でわざわざフローニンゲンに来てくれたようだった。彼の選曲はとても素晴らしく、2時間半のジャーニーは、サイケデリクスを通じたジャーニーとはまた一味違う良さがあると感じた。エクスタティックダンスは自分と深くつながることを促すため、セラピーの要素も多分にあり、実際に昨日はイベント中に涙を流している女性もいた。普段言葉で雁字搦めになっている現代人にはお勧めの実践であり、前回よりも今回の方が自分も言葉を脇に置き、合理的な思考をより脇に置けたと思う。その様子を元ダンス教師であるメルヴィンは見事に観察をしていて、イベントが終わって2人で会場を後にして歩いているときにそのフィードバックをくれた。再来週にまたメルヴィンの店に行き、一時帰国前の散髪をしてもらう予定なのだが、そこでもまたダンスの手解きをしてくれるとのことなのでとても楽しみである。11月はもうイベントに参加できないが、12月以降もメルヴィンと予定を合わせてまたエクスタティックダンスのイベントに参加したいと思う。それは自己発見と自己変容を促す素晴らしい機会である。フローニンゲン:2024/10/27(日)07:04
13468. エクスタティックダンスの種々の効能
今朝方の気温はそれほど低くはないが、それでも暖房が自動で入って部屋をせっせと温めてくれている。午前7時を向けて辺りは随分と明るくなり、サマータイムが終了して1時間ほど時間が巻き戻されたことを実感する。ここから寒さが段階的に厳しくなっていくと思うが、それには一切の悲観がなく、むしろ寒さが厳しければ厳しいほどに自分の心が逞しくなっていくという経験をこの8年間しており、9回目の越冬を楽しみにしている自分がいる。ここから5月半ばまで長い冬の時代になるが、冬が明けた後の変化後の自分の存在を楽しみにしている。その期間にはおそらくサイケデリクスのセッションをすることはないだろう。この夏にシロシビン・セッションを一旦卒業して以降、シロシビンを含めていかなるサイケデリクスも摂取しておらず、今後もしばらくその期間が続くだろう。また必要な時に必要なものを必要な量摂取すればいいのであり、その時が訪れない限りはサイケデリクス・セッションをすることはない。今はもっぱら唯識学と性的実践を織り込んだ後期密教の探究に力を入れたいし、昨夜参加したエクスタティックダンスなどのサイケデリクスに変わる実戦の機会を大切にしたい。毎回元ダンス教師のメルヴィンの近くで踊りながら、彼のステップや体の使い方を観察するようにしており、そこからの学びが非常に大きい。前回と同様に昨日も、オーガナイザーの女性が定刻になると、参加者全員に呼吸を観察したり、マインドフルネスムーブメントを促すエクササイズからイベントがスタートした。それを通じて自分自身とまず繋がった上で、今度は参加者同士が繋がるようなエクササイズも取り入れていたことが印象的である。そこでは近くの人とペアを組んで、その人の動きを模倣することが促され、そこからは数人で列を成して先頭の人の動きを真似ながら会場中をゆっくり動いていくことなどが行われた。参加者たちは終始笑顔を浮かべていて、そのエクササイズを通じて場の一体感が生まれ、良い集合意識が醸成されてから本格的なダンスに入っていったことが印象的である。エクスタティックダンスの良さは1つ前の日記で書き留めたように言葉を離れていけることや、即興性を通じた自己表現、さらにはそれを通じた自己との深いつながりの回復と涵養などを挙げることができるが、それ以外に重要なことは、他者と繋がる感受性の回復と涵養を挙げることができるだろう。言葉を媒介させた形でも私たちは心を通わせることができるが、言葉を介在させなくても心を通わせることができる。そこでは身体を通じた、身体エネルギーを通じた存在の交感・交流が実現され得るのである。学びにおいて優れた他者に感染し、その人から汲み取れるものは全て汲み取るという在り方は非常に重要になるが、まさにそうした他者という存在に感染できる力を取り戻し、それを養う上でもエクスタティックダンスは優れた実践であると実感する。メルヴィンがなぜこのダンスを気に入っていて自分に勧めてくれたのかも理由がよくわかる。上記のような優れた効能をもたらすエクスタティックダンスは趣味の1つとして今後も継続してイベントに参加したいと思う。それは自分の心をよりオープンにする意味でも重要であるし、自己や他者と深く繋がる力の開発にとっても有益であり、学びの源泉である感受性を養う上でも有益である。フローニンゲン:2024/10/27(日)07:33
13469. 仏典や仏教書との向き合い方
時刻は午前9時を迎えた。辺りはすっかり明るくなり、青空が広がっている。どうやら昨夜も霧が発生したようで、裸になった木々の枝に露が付着している。倉庫の上のソーラーパネルにも露が付着しており、その近辺を1匹の猫がうろうろと歩いている。
改めて昨日のゼミナールのクラスの内容について振り返っていると、ある受講生の方が述べた重要な問題提起を受けて次のようなことを考えていた。それは、仏典や仏教書の読み方は、科学論文や科学書と向き合うときと在り方を変えることが求められるかもしれないというものである。そもそも仏典においては言葉にならない真理の世界を対象にしているので、そこで書かれていることを字義通りに受け取ってしまうことや字面だけを追うような読み方は避けなければならない。そこで言わんとする真理は何なのかということへの想像力や類推能力が求められ、丹念に論理を追っていけばいい科学論文や科学書とはそもそも向き合い方が異質なものであることを理解しておくべきかと思う。仏典や仏教書はそもそも、科学論文や科学書のように線形的に論理を積み立てていくような書き方になっていない。宗教が真理の世界に到達しようとするアプローチは、科学が真理の世界に到達しようとするアプローチとは必ずしも同じではないのである。科学は自然言語と数学言語などの言葉を突き詰めて真理の世界に至ろうとするが、宗教は象徴的意味などの余白を残しながら、それを跳躍台にして真理に至ろうとする。そうした在り方の違いから必然的に両者の文献の有り様も変わってくるため、読み手としての私たちはそれを理解した上で、両者の文献にあった在り方を通じて文献と向き合っていく必要があるだろう。それを実現するためには、これまでの読書スタイルとして薫習されたものを一度アンラーニングする必要性もあるかもしれない。言葉の字面の表現や理屈などに囚われていると、言葉を超えた真理の世界に触れることはできないという見方を仏教では大切にしているということを絶えず念頭に置いておかねばならない。さもなければいつまで経っても真理には触れられず、逆に仏典や仏教書で書かれた事柄に頭を悩ませてばかりとなるだろう。書物との向き合い方にも阿頼耶識という深く人格を規定する存在と関係があり、そこに薫習された読書スタイル如何によって仏典や仏教書を通じて真理に至り、悟りと解放を実現することができる人もいる一方で、一般的な学校教育で推奨される字面通りに意味を解釈し、論理を丹念に追うような文献読解を仏教探究に適用すると逆に迷いを深めることになりかねない。ここでも意識の段階として、これまでの自分の在り方を脱構築できるような少なくとも相対主義的な意識の発達が鍵を握ることが見えてくる。それ以前の合理性段階においては、これまでの自分が行なってきた文献読解の在り方に縛られ、それに固執することを通じて真理から遠ざかり、混迷を深めることにも繋がりかねないことを念頭に置いておくべきかと思う。フローニンゲン:2024/10/27(日)09:19
Today’s Letter
I joined an Ecstatic Dance event last night, which was my second time attending. It fostered a connection with myself and enabled me to open my heart to connect with others. It was a valuable experience for self-discovery, self-healing, and self-transformation. I plan to regularly participate in this dance event with my Dutch best friend. Groningen, October 27 2024
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