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【成人発達心遊記】13443-13447:2024年10月22日(火)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した成人発達コラボラジオの配信をしています。


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タイトル一覧

13443: 今朝方の夢

13444: 今朝方の夢の続き

13445: 今朝方の夢のさらなる続き

13446: これまでの著作物が対象とする発達段階について

13447: 一時帰国における情の移り/生き物としての町


13443. 今朝方の夢  


時刻は午前7時半を迎えた。今、空がダークブルーに変わり始めている。それとタイミングを同じくして、暖房が自動で入り始めた。今の気温は9度で、昨日よりも気温は低い。ここ数日間は小雨や曇りがちな日が続いていたが、今日は雲がほとんどない晴れに恵まれるようだ。誕生日から一夜明けて、今日の天気がとても良いことを嬉しく思う。ここから5日間は晴れマークが付されているため、気分良く過ごせそうである。今週末の土曜日には、第2回目のエクスタティックダンスのイベントに親友のメルヴィンと参加して来る。前回は自宅から歩いて30弱ぐらいのところにある少し遠い会場だったが、今回は歩いて数分のところにある会場で開催されることもあり、イベントが終わった後も速やかに自宅に戻ってくることができそうである。前回以降、メルヴィンにダンスの基本的なステップを教えてもらったので、今回はその基本を押さえた上で体が赴くままのダンスを楽しめそうである。今回は前回以上に身体を通じた自由な自己表現ができるのではないかと思う。今回の会場がどのような雰囲気なのかを含め、土曜日のイベントが楽しみである。


じわじわと明るくなり始めている朝の世界の中で、今朝方の夢について振り返っている。今朝方は夢の中で、母方の祖母と母と一緒に病院で話をしていた場面があったのを覚えている。どうやら祖母が肺癌に罹ってしまったらしく、夢の中の母も比較的若くして肺がんを罹ったが、母は手術と抗癌剤の治療により癌を克服した。母はその時の体験をもとに祖母を励ましていた。祖母はすでに高齢となり、高齢ゆえに癌の進行は遅かったが、高齢な分、治療を継続する体力がなかなかないようであった。そもそも肺癌の原因は何なのかをちょうど病室にやって来た担当の医者に尋ねた。するとその医者は、まず私にどのようなことが原因だと思うかを逆に尋ね返してきた。私は真っ先にタバコを挙げた。医者は「正解」とすぐさま答え、次の原因について再度私に尋ねてきたが、次の原因はもうわからなかった。肺が癌化する原因として、口から肺に何か悪いものが入ることしか考えられず、タバコ以外には汚染された空気などが挙げられると思ったのでそれを伝えると、それもまた正解だと医者は述べた。それ以外の要因については思いつかなかったので医者に尋ねると、なんと女性の場合、生理の際に膣に雑菌が入ってしまうような対応をしてしまうと肺癌になりやすいとのことだった。それを聞いて私はそんなバカなと思った。すると医者は、生理用品の普及が近年まで全く進んでいなかったインドの女性の肺癌率を教えてくれ、そのデータをもとにすると医者が述べたことにも説得力があった。しかし、私は医者のいうことをにわかに信じることはできず、祖母と母から自分もまた肺癌に罹るような遺伝子を受け継いでいないかを心配した。仮にそのような遺伝子を受け継いでいたとしても、癌を発動させる環境要因がなければ癌を発症することはないということを思い出し、癌が発症しないような生活を送っていくことを心に誓った。すると、医者が祖母の手術を自分でやってみないかと提案された。私は医者でもなんでもなく、医師としての資格もなかったので、無茶な提案に驚き言葉を失った。しかし祖母は私にメスを入れることを望んでいるような眼差しを向けていて、自分が念や気を込めて手術をすれば、祖母の癌がどこかに消え去るかとも知れないと思った。そのような思いから祖母の手術をすることにした。手術は想像以上に手際よく行われ、私はまるでベテランの外科医であるかのように何の躊躇もなく祖母の体にメスを入れていった。すると、いつの間にか手術は終わっていて、祖母の体から見事に癌が消えていた。手術の最中はゾーンに入っていたようで、手術を終えて我に返り、祖母が無事だった姿を見て、思わず涙が溢れてきた。母もまた祖母の無事を心底喜んでいた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/10/22(火)07:51


13444. 今朝方の夢の続き 


時刻は午前8時を迎え、辺りは随分と明るくなった。部屋の中では暖房が依然として稼働しているが、その音の背後に小鳥たちの鳴き声が聞こえ始めている。書斎の真ん中の窓の外には紅葉した木々があるのだが、深夜に降った雨の影響でか紅葉がもうほとんど落ちていることに気づいた。その変化は一挙に起こった感じである。少なくとも昨日までは美しく紅葉した葉を眺めることができていたのだが、一気に葉が散ってしまい、これからフローニンゲンは冬に向かっていくことが感じられた。そんな予感を得ながら、今朝方の夢の続きを振り返っていた。夢の続きとして次のような夢を見ていた。


夢の中で私は、大学時代のサッカーサークルのメンバーたちと一緒に関東のある県に出かけていき、大会に出場していた。その大会は関東圏の大学のサッカーサークルが集まる大きな大会で、その大会の規模感や場所を含めてとても楽しみにしていた。大会期間中は数日ほど旅館に宿泊することになっており、先輩や同期たちと一緒に寝泊まりをすることは楽しみでもあった。私の学年はどうやら一番下ではないようだったが、後輩たちは大会には参加しておらず、実質上自分たちの学年が参加したメンバーの中では最も下だった。そのサークルの上下関係は厳しくはないとは言え、旅館に宿泊している時は少し先輩たちに気を遣う必要があるかと思った。そのようなことを考えながら会場に向かう車に乗っていると、いつの間にか会場に到着していた。会場近くには海があり、海の良い香りが漂ってきて、海のある場所で育った自分としては気分がとても高揚した。すると、初戦の試合開始時刻が意外と早いことに気づき、すぐさま準備をした。いざ試合が始まってみると、どういうわけかこちらのチームに小中学校時代の友人が2人(KF & YK)いた。彼らは助っ人としてやって来たのかと思ったが、2人とも小中学校時代にはサッカー部ではなかったので、彼らがその場にいる理由はわからなかったが、サッカーをしたいという気持ちがあるようだったので誰も何も言わずに彼らを試合に参加させた。私は最初こそどのポジションにいるのがいいのか迷ったが、結局は小学校時代に務めていた右サイドのミッドフィルダーとしてのポジションに落ち着いた。すると、こちらのチームの攻撃はことごとく自分のいる右サイドが起点となり、右のウィングのチームメイトが上げた絶妙なクロスに中にいた選手が合わせ、先制点を取ってチームは大いに盛り上がった。得点かと思いきや、どうやらオフサイドだったようで、ゴールは取り消しになったが、流れは完全にこちらのチームにあった。オフサイドとされたボールはゴールネットをすり抜けていて、ゴール裏の立派なカフェの中に入ってしまったようだった。私は率先してボールを拾いに行くと、カフェの中もまたコートの一部であるらしく、敵はやってこなかったが、ボールを手で扱うとハンドになってしまうようだったので、ボールを上手くリフティングしながら外に出そうと思った。するとカフェの中には、同じチームの先輩たちが飲み物を片手に優雅に寛いでいて驚いた。先輩たちも試合に出場しているはずなのにそこで何をやっているのだろうかと思った。どうやら今学期履修している授業の話や就職活動の話をしているようで、こうした場所にやって来ても勉強の話や仕事の話をするあたりがうちの大学の学生らしいと微笑ましく思った。先輩たちは私に応援の言葉をかけてくれ、それを受けて外に出ようとすると、最後に同じ学年のこれまたフィールドにいるはずの友人とこのサークルが提携している女子大の女性友達と店内のテーブル席で出会い、2人からも応援メッセージを受けた。その時に女性友達からは、自分の右目の眼圧が左目と違うことを指摘され、それには注意したほうがいいと笑顔で促された。外見から眼圧を指摘されることは初めてだったので、彼女に言われたことが脳裏に残っていて、ここからの試合の中でもそれについて少し考えそうだなと思った。そのような場面があった。フローニンゲン:2024/10/22(火)08:20


13445. 今朝方の夢のさらなる続き  


時刻は午前9時を迎えた。天気予報のように、今日は朝から雲ひとつない晴れ渡る青空が広がっている。朝日を久しぶりに拝むことができてとても心地良く、もう1時間ぐらいすれば書斎の中にも太陽の光が直接的に差し込んでくるかと思う。この時期は午後でもUVインデックスは1までしか上がらないことがほとんどで、この土地の紫外線量の低さを実感する。もう少しして部屋に朝日が入り始めたら、それを適度に浴びながら読書をしたいと思う。昨日届いた3冊の書籍の初読を今日から早速始めていく。それに取り掛かる前に、今朝方の夢のさらなる続きについて書き留めておこう。


夢の中で私は、両親と一緒に山と川に恵まれた風光明媚な観光名所を訪れていた。その日はその地にある立派な旅館に宿泊することになっていて、旅館に到着してみると、その旅館で有名な温泉の作りに驚かされた。なんと温泉が大きな塔の各階にあり、それぞれの階にはアトラクションの仕掛けがあって、そこで出される課題を解決していくして上の階にいく必要があったのだ。母は少し部屋で寛ぎたいとのことだったので、父と一緒に塔の1階から最上階を目指して進んでいくことになった。1階の課題は速やかに解決したが、2階の課題は少し難易度が高かった。すると、見知らぬ中年の男性が課題が出された扉の前にやって来て、課題の解決に向けて扉に吹き矢を吹き当てた。扉はびくともせず、その試みは失敗したかに見えた。すると父がふと、「今のじゃあダメだよな」とその人に聞こえるか聞こえないかくらいの声の大きさで私の方に向かってつぶやいた。確実にそれはその人に聞こえており、その男性は少しムッとしたような表情を浮かべていた。ではどのようにすればその扉が開くのかに関しては自分の中で閃くものがあったので、まるでその人に手本を示すかのようにして、吹き矢を扉の別の場所に3回ほど連続で吹き当てた。すると扉の鍵が開く音が聞こえ、3人は扉の向こうに行くことができた。なぜ自分が扉の開け方を知っていたかというと、私はすでに1階から最上階まですでに2回ほど行き来していたからである。それこそ経験がもたらす学習の蓄積があり、そこからも直接体験を積むことの大切さを改めて実感した。そこからの課題もどのように攻略すればいいのかを自分は知っていたので心にゆとりがあった。二手に分かれる分岐点で、その中年男性は右側の通路を選び、父と私は左側の通路を選んだ。その先には表面から20cmぐらいは水風呂で、その下は温かい温泉があり、そこで少し寛ぐことにした。するとまるで幽体離脱するかのように、自分の意識だけがその観光地一体の空を飛んでいた。眼下には様々な趣のある旅館があり、山と川の景観美に見入ってしまう自分がいた。そこでふと、この場所の良さを誰か友人に伝えに行こうと思ったところで夢から覚めた。フローニンゲン:2024/10/22(火)09:32


13446. これまでの著作物が対象とする発達段階について 

     

輝く朝日の美しさに思わず目を奪われながら、いつものように温かい抹茶を飲んで一息ついている。午前中の読書はすこぶる捗り、『秘密集会タントラ』の現代語訳の初読を終え、今それに関する論文集の上巻を読み始めた。この密教経典には性と殺の肯定といった仏教らしからぬ主題が取り上げられるのだが、どちらも物理的な次元でそれらを行うというよりも、観法を通じて意識次元の中でそれらと向き合うことの大切さが説かられている点を誤解してはならないかと思う。もちろん性の実践に関しては、最終的には物理的な次元でもその実践がなされるわけだが、少なくともこの経典で書かれていることを字義通りに理解しようとすると種々の誤解を生じるかと思う。経典にはメタファーやシンボルが随所に散りばめられていて、それを文字通り解釈してしまうことは危険である。そうした字義通りの解釈に終始してしまうのは、神話的段階の知性ゆえだろうか。少なくとも経典の論理を辿るような合理性段階の知性は重要だが、合理性知性だけを持ってしては経典の奥深い世界を捉えることはできない。少なくともメタファーやシンボルが内包する豊かな意味に開かれ始める相対主義的段階の知性以上の知性がないと、とりわけ密教経典を読みこなすことはできないということを改めて感じる。


そのようなことを考えていると、これまで自分が出版してきた刊行物についてふと考えが及んだ。処女作の『なぜ部下とうまくいかないのか』は、成人発達理論の中でも最も親しみやすいであろうロバート・キーガンの発達理論を中核に据えて、それを慣習的段階の人たちにも読んでもらえるような平易な言葉かつストーリー仕立てで執筆した。そこから今度は、キーガンと並ぶハーバード学派のカート・フィッシャーのダイナミックスキル理論とフローニンゲン学派の研究成果を踏まえて、『能力の成長』という書籍を出版した。これはどちらかというと合理性段階の知性を持つ人たちに向けて読んでもらえるような内容にしたのを覚えている。そしてさらには、『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』という書籍では、成長・発達に伴う文化的・社会構造的な問題に踏み込んでいく形で、後慣習的段階の知性を持っている人たちやそこに向かう段階にある人たちに向けてのメッセージとして出版したことを思い出した。このように、自らの出版物が意識の成長段階に対応したものであったことはとても興味深い。後慣習的段階の世界観で問題提起をした上記の本の売れ行きは芳しくなく、対象とする意識段階が下げれば下がるだけ売れ行きが良くなるということは幾分悲しい現実である。今のところ次の出版物の予定はないが、引き受けてのないトランスヒューマニズムに関する書籍の完成した翻訳原稿は眠ったままになっており、それはどこかのタイミングで出版できたら嬉しく思う。『「人の器」を測るとはどういうことか』という書籍も、原稿が完成して10年後に書籍の形態で出版されたことを思うと、きっとどこかのタイミングでトランスヒューマニズムの書籍も出版できる日が来るかもしれない。フローニンゲン:2024/10/22(火)10:57


13447. 一時帰国における情の移り/生き物としての町      


今日は天気予報の通り、早朝から天気がとてもいい。午後2時を迎えた今も空は青く、深まりゆく秋の優しい日差しが地上に降り注いでいる。後ほど近所のショッピングモールに買い物に出かけるが、道中の散歩はとても気持ち良く感じるだろう。


昼食後の仮眠の最中にふと、来月に迫った日本への一時帰国について考え事をしていた。2020年以降は毎年ではなく2年に1度の一時帰国となっているが、毎回1ヶ月ほど日本に滞在していると、最後にオランダに帰る頃には日本に対して情が移っている自分がいることにハタと気付かされた。もう長らく欧米社会が自分の活動拠点であり、そこに戻ってくるたびにそこが自分の活動の本拠地だと思うのだが、いざ欧米社会に日本から帰ろうとする時には日本を離れる寂しさのようなものがある。「寂しさ」という感情が正しいのか、「侘しさ」という感情が正しいのかは明確ではないが、それらの感情に似た気持ちが日本を離れる前日の夜にとりわけ生じる。今回の一時帰国に際しても同様の気持ちが生じるのだろうか。生じた場合に、その度合いはこれまでと比べてどうなのかを含め、その感情の本源をより辿ってみたいと思う。


今回も日本では様々な町を訪れる。町は生き物であり、町には固有の表情があり、固有の呼吸をしている。元気な呼吸をしている町もあれば、窒息寸前の呼吸をして喘いでいる町もある。日本の都市はほとんど悲鳴を上げているように自分には知覚され、それらの町が微笑むようになるためにはどのような町づくりや住人の心の在り方が重要なのかを考えさせられる。大都市が悲鳴を上げているように感じるのは欧州でもあまり状況は変わらない。これまで訪れた欧州の国の中で、フランスやドイツの大都市は日本の大都市と変わらずに悲鳴を上げているような印象を受ける。どこか不穏な集合意識がその都市の根底に流れているのを敏感に掴み取る自分がいる。自分がなぜオランダで暮らしているのかの理由として、オランダは大都市であってもしっかりと健全な呼吸をし、微笑みを感じられるからである。生き物としての町という観点は国家レベルにも適用でき、生き物としての国家がどのような表情を持ち、どのような呼吸をしているのかを自分は絶えず意識しているようである。こうした見方は、欧米社会で13年ほど生活する中で自然と醸成されたものであり、今はその感覚を意識的に研ぎ澄ませるようにしている。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/10/22(火)14:29


Today’s Letter

Today is a radiant day. It shines boundlessly, giving vitality to all sentient beings. My life revolves around this beautiful light. Groningen, October 22 2024

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