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【成人発達心遊記】13430-13434:2024年10月19日(土)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した成人発達コラボラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

13430: 運命と身体感覚と場所のつながり

13431: 内的な光/今朝方の夢

13432: 唯識と中期密教・後期密教の繋がり

13433: 今朝方の夢の続き

13434: ゼミナールの第102回目のクラスを終えて


13430. 運命と身体感覚と場所のつながり  


時刻は午前6時半を迎えた。今朝方起床した際に、浴室の天窓にしたたる雨音を聞いたのだが、今はもう雨は止んでいるようだ。辺りは静けさと闇だけがある。天気予報を見ると、珍しく霧注意報が出ている。どうやら今は深い霧が出ているようだが、それすらも確認できないほどの暗さである。今の気温は14度と暖かく、驚いたことに今日はここから1度も気温が変化しない形で夜に向かう。このように完全に平坦な気温の推移はあまり見たことがない。就寝時間を過ぎて、午後10時になってようやく気温が1度下がり、深夜にかけてまた1度下がっていくような不思議な変化を見せる。曇りや小雨の影響でか、今日と明日は気温は下がらず、明後日からまた最低気温が10度を下回り始める。早くも10月も終わりを迎えようとしており、11月に入ると寒さがグッと増すだろうと思われる。日本に一時帰国するタイミングは、フローニンゲンが相当に寒くなり始める時期と合致するのではないかと思う。

秋の深まりを感じながら、命が大いなるものの流れの中で運ばれていく意味での「運命」を感じている。命は生命運動を絶えず行っていて、命は阿頼耶識によって生かされ、そしてそれは動きを与えられてどこかに運ばれていく。この肉体に宿命としての命の宿りがもたらされ、それが運命を通じて絶えず生命運動をしながら命を輝かせ、どこかに運ばれていく様子に感動すらする。ここからの自分の人生に思わず思いを馳せる自分がいる。来年の夏からはオランダ生活10年目を迎える。そのようなことがヨーロッパに来る前に想像できただろうか。全くもってそのようなことは想像していなかった。フローニンゲンというとても落ち着いた町では何不自由することなく、絶えず心が平穏な形で充実した生活を送ることができている。その生活にすっかり魅了され、気づけばもうそのような歳月を重ねていた。ある町での生活は、その町に固有の身体感覚によって影響を受ける。言い換えれば、ある居住地を選択するというのは、その場所に固有の身体感覚を選択することなのである。ゆえにひとたび愛着を持った町から人は離れづらくなるのだ。土地との結びつきというのはまさに、身体感覚に根ざした非常に深いものなのである。人間の知性が身体感覚に絶えず影響を受け、そして逆に影響を与えながら成長していくことを考えると、生活する場所の選択はとても重要になる。ここから自分がさらに心を育んでいくに際してこのままフローニンゲンで生活するのも確かに有益であろうが、ひょっとしたら何かの運命で自分の命は別の場所に運ばれていくかもしれない。そこには天命とも言うべき、天からの働きかけが必要であり、どこかのタイミングでこの町ともお別れを告げる日がやってくるかもしれない。ある町での生活も諸行無常の原理に貫かれているのだ。その真理に逆らうことなく、自らの命をさらに育み、輝かせる場所に赴かれるままに赴かれていこう。フローニンゲン:2024/10/19(土)06:46


13431. 内的な光/今朝方の夢     


時刻は午前7時を迎えたが、依然として静けさと闇に包まれている。欧州サマータイムが終了するのは来週末なので、来週末からは若干日の出が早く感じられるだろうが、そこからまた日の出が遅くなっていく時期が続く。午前8時を迎える頃になってようやく明るくなり始め、朝日の姿を拝むことができるのはそこからさらに遅れる。光の見えない世界の中で生きることにももう随分と慣れたものである。むしろ外側の環境として光が少なければ少ないほどに、自分の場合は内なる光が灯される。この9年間はまさにそうした形で内なる光を育む時間だったのだと思う。フローニンゲンでの生活の最大の恩恵はおそらくそれだったのかもしれない。極めて日照時間が短い長い冬を過ごす中で、自分は人知れず内なる光を育み続けていたのである。敬愛するヘンリー・デイヴィッド・ソローもまたそのような形で内なる光を育んでいたのではないかと思う。彼の場合はより自然と一体化する形で自給自足の生活を送り、より孤独さの中で内的光を涵養していったに違いない。


今朝方は夢の中で、見知らぬ韓国人の大人の兄弟が登場する場面があった。2人は助け合いの精神で繋がっていて、兄は身体に幾分障害がありながらも知性の発達がその分優れていて、社会にとって意味のある発明品を生み出した。その発明品によって得られたロイヤルティ収入は莫大なものとなり、その収入の一部を弟の学費の経済的援助に充てた。弟はその援助のおかげで大学に行くことができ、弟もまた優秀だったために、大学卒業後は研究者になった。兄は弟を経済的に助け、弟は体が不自由な兄を身体的に助けていた。その助け合いの姿に兄弟愛の良き原型を見たような気がした。私は完全に夢を目撃する者として夢を俯瞰的に眺めていた。夢の世界に何か膜のようなものがあるとすれば、私は夢を取り囲む膜の一部として存在していたのである。夢の中で自分が登場人物として存在するときは、ひょっとしたら夢を取り巻く膜から脱胎する形で夢の中に産み落とされるのかも知れない。また、夢を目撃する者として夢を外から眺めている際には、その意識は夢を覆う膜として存在しているのかも知れない。このような発想はこれまでになく、この新たな発想によってまた夢の捉え方に変化が生まれそうである。夢は意識空間内にホログラムのように立ち現れ、目撃する意識は意識空間の壁として立ち現れるのだろうか。あるいはそもそも人間の意識もまたホログラムとして立ち現れると考えてみると、意識と夢の二重のホログラム構造に気づく。そして唯識の発想を借りれば、全ては心の表れなのであるから、意識も夢も現実世界の全てもまたホログラムとして立ち現れる陽炎の如きものであることが見えてくる。自己の存在も認識も、全てのものがホログラムであるという認識。それは完全に無なるものでも有なるものでもなく、陽炎的なホログラムとして実体のない形で立ち現れる仮構的ものなのである。今朝方の夢はそのようなことを考えさせてくれるものだった。フローニンゲン:2024/10/19(土)07:17


13432. 唯識と中期密教・後期密教の繋がり  

     

時計の針が午前7時半を迎えた頃になって、ようやく空がダークブルーに変わり始めた。それを受けて今、1羽の小鳥がキッチン側の木にやって来て鳴き声を上げ始めた。今日もまたこうして夜が明けて新たな1日が始まる。その日が始まり、その日が終わり、また新たな日がやって来るという何気ないサイクルに超越的なものを見出す。おそらくそこに内在された超越性への眼差しがあるゆえに、毎日が輝きを持っているのだろうと思われる。今日は午後から第102回目のゼミナールのクラスがある。100回を突破し、また淡々とクラスが進行する過程に充実感を覚える。水の如く淡々と全てが進んでいくこと。それが自分にとって最良の生き方である。今日のクラスの予習を兼ねて、先日届けられた成唯識論の解説書の初読を始めようと思う。すでに後期密教と真言立川流に関する専門書の初読を終えており、それらについてはまた近々再読していこうと思う。真言立川流は中期密教の経典である『理趣経』に強く影響を受けたものだが、これが仮に後期密教の経典である『秘密集会タントラ』に影響を受けていたらどうなっていたのだろうかと考える。またより広く、日本に性的実践を組み込んだ後期密教の教えが伝来していたら日本社会はどのような歴史的変遷を辿ったのだろうかと考えさせられる。それらは全てたらればだが、それは現代社会に後期密教の教えを紹介することによる変容効果を考えることにも繋がって来るだろう。因果関係の同定はいつでも難しいものだが、社会の乱れが性の乱れを生み出すというよりも、性の乱れが社会の乱れを生み出すのかもしれない。少なくとも性の抑圧は社会の病理化をより深刻なものにしているように映る。抑圧弁をどこまで外すかは慎重にするべきだが、少なくとも日本社会における性の抑圧は過剰であり、歪みの多い病理的なものである。これまで生活してきた国の数は少ないが、旅行先で感じた事柄を踏まえてみても、我が国の性のあり方は問題を無数に孕んでいる。その問題解決に向けた探究を人知れず進めていこうと思う。


昨日『理趣経』を読んでいて興味深いと思ったのは、そこに唯識の影響を見て取ったことである。『理趣経』の注釈書である『理趣釈』ではより直接的に唯識の用語が登場して驚かされた。しかし大乗仏教の歴史的発展過程を考えれば、それもそのはずで驚くべきことではないと思ったが、自分にとってみれば中期密教の経典と唯識思想の間にある繋がりを明確に捉えることができて嬉しく思った。そこには断絶はなく、一連の繋がりとしての流れを見出すことができたのである。中期密教の前期の経典として『大日経』があり、中期密教の後期の経典として『理趣経』がある。改めて『大日経』を再読することを通して、そこにも唯識思想の影響を汲み取っていきたいと思う。時代区分として『理趣経』に唯識の影響が見られるのであれば、『大日経』にも必ずや唯識の影響を見てとることができるあろう。少なくとも後期密教の経典の『秘密集会タントラ』にも唯識の影響を見て取っているので、ここまで唯識を学んできたことによって、こうした思わぬ発見や繋がりを見ることができ、仏教思想そのものへの理解が深まりだけではなく、それがまさに心の理解をさらに深めることに大きな役割を果たしてくれていることを実感する。フローニンゲン:2024/10/19(土)08:05


13433. 今朝方の夢の続き    


時刻は午前8時半を迎え、ようやく夜が明けたと言えそうな明るさになった。霧注意報が早朝に出ていたこともあり、確かにこの時間帯もまだ幾分霧がかかっている。そんな中、庭側とキッチン側の木にやって来た小鳥たちが美しく鳴き声を上げている。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがある。続きとして見ていたのは、いくつかのスーパーに対して投資をしている自分がいたことである。スーパーそのものへの投資に加えて、スーパーに置かれている個別具体的な食品に対しても投資をしていた。私は投資家として活躍をしていて、そのノウハウを小中学校時代の2人の親友に共有していた。するともう1人別の親友が遅れてスーパーにやって来て、彼は1人でオーガニックのオレンジを手に取り、それを購入しようとしていた。私は彼のようにそのオレンジを消費対象として見ていたのではなく、投資対象として見ていた。彼にも投資のノウハウを伝えようと思ったが、すぐにそれを教えるのではなく、少し勿体ぶって彼の方からお願いを受けてからにしようと思った。すると私は実際に通っていた中学校の2階の廊下にいて、口に何かを含みながら流しに向かっていた。口に含んでいるのは吐き出したいと思う食べ物のようで、それを吐き出すために階段を降りて階段の中腹にある流しにやって来た。それを勢いよく吐き出したところ、左隣にある親友(HS)がいて、彼は小さな容器に入ったフルーツとヨーグルトのデザートを食べていた。そう言えば自分にもそれが支給されていたと思い、ポケットにしまっていたそれを取り出し、自分もそれをその場で食べ始めた。流しに気持ちの悪い食べ物を吐き出した後だったので、そのデザートは口直しには最適だったが、まだ口の中に気持ち悪い感覚が残っていたことも確かで、そのデザートの美味しさをあまり感じることができず、結局そのデザートも数口付けただけで残りは流しに流すことにした。そこからまた場面が変わり、自分は体育館にいて、今から始まるバスケの部活のメニューをどうしようかと考えていた。すると顧問の先生がやって来て、まだ練習が始まっていないことに少し不満そうな表情を浮かべた。その日の私は足に痛みを抱えていたので、練習に参加することはせず、コートの外でメンバーに練習の指示をしていくことに徹しようと思った。今朝方はそのような夢を見ていた。


この夢の中で口に食べ物を含んでいる時に、ヴィーガンの自分には口に合わないような、身体が拒絶するような食べ物が含まれていたように思う。口の中に異物があることが気持ち悪く、それを吐き出した後も異物の残滓が口の中にあるような気持ち悪さがあったのを覚えている。また、体育館の場面で部活の顧問の先生がやって来た時に、まだ練習を始めていない言い訳を考えようとしていた自分がいたことも覚えている。先生に対して幾分反抗的な態度を取ろうしている自分がいたことも記憶に残っており、その時の感覚がまだ内側に残っているかのようだ。フローニンゲン:2024/10/19(土)08:46


13434. ゼミナールの第102回目のクラスを終えて    

 

時刻は午後2時半を迎えた。つい今しがた、ゼミナールの第102回のクラスを終えた。今日のクラスも実に学びの深いもので、冒頭である参加者の方が屋久島を訪れた体験をシェアしてくださった。その体験を唯識と絡めながら聞いていたのだが、きっとその場にいたそれぞれの人は屋久島の景観を異なるように眺め、異なるような感覚を持っていたのだと想像された。それは兎にも角にも、阿頼耶識が目の前の環境世界を生み出し、阿頼耶識は1人1人違うからである。同じ景観を眺めているはずなのに、その景観そのものが個別の阿頼耶識によってそれぞれ違うように立ち現れ、各人の心に立ち現れるそれぞれ異なる景観像から得られる印象も考えも異なることは改めて注目するべきことかと思う。その方は、まさに私たちの命の運動を保持することに寄与している阿頼耶識と深く繋がったことによって、自らの命の働きに自覚的になられたというのはとても印象的だった。ちょうど今朝方の日記で書いていた運命の話とも繋がる。命が運ばれると書いて「運命」という言葉が成り立っているように、運ばれゆく命に自覚的である時、人は何か自我を超えた大きな存在である阿頼耶識と深層的に合致し、自我からもたらされるのとは全く実現の異なるエネルギーが生まれてくるのではないかと思う。


そこからは先週に引き続き、また別の方の印象的なエピソードの話で持ちきりだった。その方は、発達の原理である健全な自己批判の精神を持っている。健全に自己を否定していくことは、健全に自己を肯定していくことである。健全なる自己否定と健全なる自己肯定は表裏一体の関係を成しているのであり、その方が見せたような健全な自己批判の精神というのは自分も忘れたくはないし、それは自己に対してだけではなく、組織に対してももたらすべき眼差しかと思う。組織に対する健全な自己否定は、その組織の健全な発達をもたらしうるものとなる。今回の件は、その方の自己と組織への健全な批判の眼差しがあったことが、その方自身の成長と組織の成長に結びついていった最良の例だった。またその他にも、場と身体性の関係性についても考えていた。ちょうどこれも今朝方だっただろうか、フローニンゲンという町に息吹いている身体性に自分は心地良く感じているから9年もこの町にいるのだと思った。かつて自分が心地良いと感じた町は、その他にもアメリカ西海岸のプレザントヒルという町とアーバインという町がある。町に固有の身体性があるのと同様に、コミュニティにも固有の身体性がある。そのコミュニティに身体としてのフィット感がどれだけあるのかという点もコミュニティ選択にいおいて非常に重要なことかと思う。これは単に心地良いかどうかというよりも、成長を促してくれるかどうかの目には見えないエネルギーがそこに充満しているかどうかが自分にとっては判断基準になる。今運営しているゼミナールというコミュニティも、お互いの成長を支え合い、成長の後押しをするようなエネルギーに満ちた場であることを常々心掛けている。


最後にもう1つ考えていたことを書き記しておく。シェイクスピアはかつて、私たちが嫉妬をするのは嫉妬を引き起こす人がいるからではなく、そもそも嫉妬が自分の心の中に最初からあるからだと見抜いていた。これはまさに唯識的な慧眼である。先週のゼミナールのクラスの中で出てきた苦手な人に関する話題と紐づければ、自分が苦手だと思う人の要素は全て自分の内側にあり、それを投影する形で相手を見て苦手な人だと認識している。相手を見てその人を不潔な人だと判断する場合、不潔さに関する判断基準が自分の中にあって、それは言い換えればもはや自分の中に不潔な要素があるということを意味する。不潔さに関するその判断基準と向き合い、それを変容させていかない限りは世界はその基準によって不潔に色づけられる。唯識の内面分析はこのように深いものであり、シャドーワークを深層的に後押しするものとなる。唯識の枠組みや成人発達理論、さらにはインテグラル理論の枠組みを使って、世界を色付ける自分の心の内面基準そのものを絶えずアップデートしていきたいと思う。フローニンゲン:2024/10/19(土)14:57


Today’s Letter

I am listening carefully to the messages coming from my ālaya consciousness. It tells me to be who I am and not deviate from my true self. All I need to do is simply be myself. In doing so, my life flows naturally and richly. Groningen, October 19 2024

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