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【成人発達心遊記】13351-13355:2024年10月3日(木)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した成人発達コラボラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

13351: 能動的受動と受動的能動

13352: 男性性と女性性についての再考

13353: 今朝方の夢

13354: ジェンダー意識の発達度合いについて

13355: 肉体・精神・存在をパンプさせる筋力トレーニング


13351. 能動的受動と受動的能動    


時刻は午前7時半を迎えた。ここ2日間は、朝の世界は曇りがちであったが、今日は雲がほとんどない青空が広がっている。夜明けを迎えて辺りも随分と明るくなっていて、今日は朝日を拝めそうである。今の気温は4度と低いが、そんな中でも1羽の小鳥が鳴き声を上げている。よくよく耳を澄ませてみると、もう1羽いるかもしれない。どうやら今日は雲ひとつない快晴に恵まれるようなので、朝の日光浴が楽しみであるし、午後にジムに行く際にも晴れやかな気持ちになるだろう。最高気温は14度までしか上がらないようだが、雲ひとつない快晴ゆえに体感温度はもう少し暖かくなると思われる。明日から来週の月曜日までは天気が良く、月曜日からは小雨の降る日が続く。


今日がこんなに天気が良いなんて昨夜の段階では想像していなかった。天気について考えを巡らせるのではなく、昨夜就寝前には受動的能動と能動的受動について考えていた。今、性愛学の中の気の循環について探究をしていると、それはかつて探究と実践をしていたクラニオセイクラルバイオダイナミクスと近しい関係にあることがわかる。ちょうど昨日から読み進めていたのは、道教の観点から性愛を扱うもので、そこでは男女の交わりやセルフで行う実践がエネルギーを満たし、循環させ、高めるものとして説かれている。残念ながら現代社会の性的交わりやセルフプレジャーは気を蓄え、豊かにするというような発想はほとんどなく、単に物質的な肉体の交わりの発想に留まるのではないかと思う。その書籍の中で説かれているように、現代のそれはエネルギーの浪費に過ぎず、本来は疲労を回復させ、気力を満たすはずのものが逆の効果をもたらしてしまっていることが多い。道教の性的実践においては、それがパートナーと行うものであろうが1人で行うものであろうが、気力を満たし、豊かにすることが前提になっている。それは能動的受動である。それは能動的にエネルギーを高めることが目的にされているが、その書籍が言及しているように、性的エネルギーは誰しもが持つ根源的なエネルギーゆえに、この宇宙から与えられたそれを満たしてもらっているという受動的な性質もある。言い換えるならば、自分の深層部分や宇宙の気の流れと繋がることによって、自ずから気が補填されるという意味で受動的でもあるのだ。逆にクラニオセイクラルバイオダイナミクスは、受動的能動かと思う。そこでは施術者が積極的に関与していくことはなく、あくまでも寄り添う人として、被施術者が本来持っているエネルギーを回復することが目的とされている。そこでは積極的に関与しないという関与が行われているという点で、受動的能動という性質が見られる。このように両者においては関わり方の違いがあるが、道教的なアプローチが男性的であり、クラニオが女性的であるとは簡単には言えない。どちらにも能動性と受動性の二面性があるからである。仏教的な観点で言えば、両者はまさに中道をいく統合的な実践かと思う。そのようなことを考えながら昨夜は眠りについた。フローニンゲン:2024/10/3(木)07:56


13352. 男性性と女性性についての再考       


時刻は午前8時を迎えて、朝日が少しずつ顔を覗かせ始めた。朝日は別に恥ずかしがっているわけではないが、こうして徐々に顔を見せてくれる様子がとても可愛らしく、愛おしく思えてくる。そして朝日そのものへの感謝の念から崇拝の眼差しを自然と向けている自分がいることに気づく。朝日の到来とタイミングを同じくして、暖房がせっせと稼働を始めた。気温は依然として4度なので、暖房が入るのも無理はない。


私たちはどのような性別を持っていても、男性性と女性性を持っていること。それについてはインテグラル理論で指摘される通りであり、この考え方や事実は少しずつ社会に浸透してきているだろうか。浸透はおそらく不十分だと思うが、少なくともインテグラル理論を学んでいる人たちは押さえている考え方である。ところが、自分の性別とは逆の性質を追い求めるあまり、本来持っている自らの性質が蔑ろにされてしまったり、最悪のケースとしてそれが抑圧されてしまったりすることが散見される。例えば男性であれば、自分の中にある女性性を育むことに一生懸命になるあまりに、自分の男性性を脇に置き、それが顔を覗かせると無意識的に良くないものとして抑圧する形でなんとか女性性を獲得していこうとすることがよく見受けられる。これは本末転倒である。そもそも自らの内側に女性性があって、それを追い求め、自らの男性性を無意識的に抑圧しようとするそのあり方そのものが男性性の域を出ていないのである。男性にとって女性性の健全な探求の在り方は、自らの男性性の中に女性性があるという理解に基づき、男性性と女性性を切り分けることなくそれを探求することだろう。また逆に、自らの女性性の中に男性性があるという理解に基づいて、自らの未知だった男性性に気づいていくことも重要となる。男性性と女性性はこのように宇宙の原理としてのフラクタル構造を成しているのであって、決して男性性と女性性のように二分法的に切り分けられるものではないのである。反対側の性質の発見は、何も自分の内側に留まるわけではなく、全ての学習実践領域に当てはまる。ある学習領域は一見すると男性性が強く思えるかもしれないが、それを男性性の産物だとレッテルを貼るのは愚かな行為である。そこにも本来は女性性が息吹いているはずなのだ。女性性とはそもそも関係性であり、ある学習領域が男性性だと決めつけてしまうのは決して女性性の表れとは言えず、むしろ男性性の本質である自律性の観点から言えば、そうした分別を司るのは男性性の現れの傾向が強い。もちろんこの分別的見立てもまた男性的かもしれないが、両者の性質の分別をきちんとつけ、それを持って和合の道を探るのはまた女性的でもある。そこには健全な男性性と女性性の発想が見受けられ、両者の居場所が混同されず、きちんと確保された上で両者が統合された道を見出すことができる。自分の内側にある何かや言動が男性的であるとか女性的であるとかを簡単に決めつけることは、唯識の言葉で言えば言葉を通じた遍計所執性であり、それは迷いや苦しみの原因となるだろう。その在り方は全ての学習実践領域に対しても当てはまり、特定の学習領域や実践領域が男性的であるとか女性的であるとかと決めつけてしまうことは実にもったいなく、それはそこに内包されている両性の性質を見逃してしまい、自分の性の発達ラインを成長させる機会を奪ってしまうことになりかねない。兎にも角にも重要なことは、男性的や女性的という単純なラベル貼りを避け、全ての事象の中に両性を見出す取り組みを通じて、自己の両性を豊かに育んでいくことかと思う。この発想がなければ、いつまで経っても片方の性に立脚し、それを強化・病理化させる在り方しか実現されないであろう。フローニンゲン:2024/10/3(木)08:25


13353. 今朝方の夢  


辺りの明るさが増し、神々しい朝日が地上に降り注いでいる。地上の生命たちはさぞかしそれを喜んでいるだろう。朝の世界が至福さに満たされ、歓喜の歌を歌っているかのように感じられる。自分もまた至福さに満たされ、歓喜の歌の歌い手の1人としてこの世界に参画している。自分もまた世界の一部であり、世界そのものなのだ。


今朝方は1つ印象的な夢を見ていた。夢の中で私は、父が運転する車の後部座席の右側にいて、隣には母がいた。三人で家族旅行を楽しんでいる最中で、車の中では明るい話題で持ちきりだった。しばらく山道を走っていると、突然車が竜巻のような強風に飛ばされ、全く違う道に飛ばされた。車は道路にバウンドするようにして地面に叩きつけられ、傾斜のある道の途中で止まった。竜巻のような風に巻き込まれたことによって前面の窓ガラスが割れ、父が無事かどうか心配になった。幸いにも父はかすり傷ひとつなくホッとした。父も不幸中の幸いを喜んでいたが、ふと父が自らの左足の靴下を確認すると、靴下が破れていて、母にそれを直してもらうようにお願いした。すると母は父のぶっきらぼうなお願いに怒りを露わにした。それに対して父も怒りを露わにした。私はすぐさま2人の仲介に入った。そこで2人の思いをそれぞれ代弁することをした。父としては、困難に直面した時には一緒になってその課題を解決していこうという思いがあるのに対して、母としては、自分が表に立って一緒に課題を解決するというよりも、一歩下がったところから課題の解決をしようとする父を支えたいという思いがあるようだった。2人はそのあたりの本当の思いを素直に表現することが苦手のようで、それが原因でコミュニケーション上のぶつかりが生じることがよくあるように思っていた。今回の一件を通じて2人のコミュニケーション上の在り方が改善され、2人の関係性が良くなって、幸せな人生を引き続き歩んでほしいと思った。それを実現する方向性についてことらから明示し、仮に今回の件をきっかけにして2人のコミュニケーションの在り方が変わらなければ、自分はもう実家には戻ってこないことを伝えた。


この場面について振り返っていると、もう1つ母が実家のリビングにいる私のところにやって来て、話しかけてきた場面があったことを思い出した。母は私の話に耳を傾けていたが、こちらが話を進めれば進めるだけ、ニヤニヤとした表情を浮かべ始め、それが気になっていた。こちらとしては真面目な話をしているつもりで、決してニヤニヤするような内容ではなかったので変だと思ったし、途中から母が話に対して上の空のような感じになっていることも気がかりだった。すると母が突然、自分の性に関する探究を茶化すような仕草を見せた。それに対して私は決まりの悪い思いをし、母の性に対する在り方が自分のシャドーになっていて、母の性に対する在り方はそもそも祖母の性愛に対する厳格すぎる在り方にあるのだと思った。そこから私は、母と祖母の性愛に対するシャドーを治癒していかない限りは自分のシャドーの治癒も実現されないと思ったのである。祖母はすでにこの世を去っており、また母に対しても直接に母の性愛に対する価値観や在り方を変容させていくというよりも、母のそれらが自分にどのように受け継がれているのかを虚心坦懐に探求していくことを通じて、その歪みを治癒していこうと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/10/3(木)08:51


13354. ジェンダー意識の発達度合いについて

     

時刻は間もなく午前9時半を迎えようとしている。朝日の輝きがどんどんと増して来ており、朝の世界の美しさをただただ味わっている。そのような中で、昨夜就寝前にもう1つ考えていたことについて振り返っていた。そこではジェンダーに関する言葉を通じたラベル貼りについて考えていた。唯識学の教えにあるように、私たちは言葉を通じて分別をする。分別そのものが問題なのではなく、分別した対象を実体化し、それに固着してしまうことが問題なのだ。この点に自覚的になりながら言葉を使っている一般人はほとんどおらず、大抵の人が言葉を通じた実体化と固着化を通じて悩み苦しんでいる。ジェンダーというのも人間が言葉を通じて分別したものにすぎない。最近ではジェンダーの種類も多様化し、いずれの区分にも属さないようなジェンダーを持つ人もいる。そうした人たちを見ていると、そもそもジェンダーとは何かを考えさせられるし、ジェンダーを持つという表現もまた言葉によるラベル貼りにすぎないのかもしれないと思えてくる。私たちはそもそも2つの極で言えば、男性性と女性性の2極を備えていて、その配合度合いは人によって異なるし、その配合度合いは成長に応じて変化するものでもある。またそれは発達させていくこともできるものなのだ。なのでトランスジェンダーやいずれの性別にも該当しないジェンダー意識を持っているというのは何もおかしなことではなく、それだけジェンダーというものは無限の可能性を持った豊かなものなのだと思われる。にも関わらず、特定のジェンダーに人を当て嵌めようとする風潮が世間に見られることはとても残念である。性に関する発達ラインの成熟度合いを簡単に測定する方法としては、自らのジェンダーが何かを問うてみるといいだろう。そこで仮に、男性や女性など間髪入れずに答えるようなことがあれば、それは性に関する発達ラインはまだまだ開拓の余地のある未熟な段階だと言えるだろう。少なくとも相対主義的段階以上であれば、そもそもジェンダーとは何なのかについて立ち止まって考え、自らのジェンダー意識に内包される男性性や女性性について思いを巡らし、その配合度合いについての内省ができるはずである。そこからも、自分は男性であるとか自分は女性であるとか明確に自身の性別を同定することは、相対主義的段階以下の現れかと思う。身体的な特徴だけから自らのジェンダーを判断したり、社会文化的なジェンダーの発想を疑いもせずにそれを基準として自身のジェンダーを判断することは、合理性段階や神話的段階の表れであり、ジェンダー意識は慣習的段階を抜けきれていない。ジェンダーのラベルに気付き、それが言葉を通じて仮構されたラベルに過ぎないという明確な認識を持ち、自分の内側にある潜在的に豊かなジェンダー意識を育もうとする人たちが今後増えてくれば、ジェンダーに関して悩みを抱えている人たちの苦悩が軽減され、社会の人間関係の質も向上するのではないかと思われる。自らもまた性の発達ラインを涵養していくことに力を入れていきたいと思う。フローニンゲン:2024/10/3(木)09:39


13355. 肉体・精神・存在をパンプさせる筋力トレーニング    

       

時刻は午後4時を迎えた。今日は午前中より晴れ間が広がっていて、午後にジムに行って帰ってくる際にはとても気持ち良さを感じた。気温は15度以下ということもあってジャケットを羽織っていったが、深まりゆく秋の午後の太陽の日差しは優しく、とても心地良かった。ここ最近は、パーソナルトレーニング日以外の自主トレーニングはジムに早めに行き、思う存分じっくり時間をかけてトレーニングをするようにしている。全身をできるだけ鍛えるようにしていることもあり、1時間半ほどの時間をかけてトレーニングをしている。今日もグロスボディの限界を超えていくようなことを意識しながら、筋肉をパンプさせるだけではなく、精神や存在をパンプさせることを念頭においてトレーニングに励んでいた。トレーニングの最中にスマホを見たりして意識が別のところに行ってしまうのは非常にもったいなく、自分はスマホを一切トレーニング場には持ち込まず、インターバルもまた自分の体と向き合ったり、呼吸に意識を向けて呼吸を整えたりしている。とりわけ呼吸を整えることは心を整えることでもあり、存在を整えることでもあるので、それはとても大切にしている。

今日もジムには数人の顔見知りがいて、挨拶を交わしてお互いの存在を確認してトレーニングに励んだ。顔見知りがいるというのはとてもいいもので、彼に見守ってもらっているという感覚が安心感につながり、彼らのトレーニングに励む姿を見ることによってミラーニューロンが刺激され、こちらのトレーニングの励みにもつながる。自宅で黙々とトレーニングすることも効果的だが、ジムにはジムの良さがあることを改めて実感する。とりわけ自分のように自宅が仕事場の人間にとっては、ジムは社交の場でもあり、人との触れ合いのある大切な場である。人と交流することは、自分1人ではできない形での気力のチャージをもたらすことを忘れてはならない。


今日は瞬発力を鍛えるようなエクササイズを積極的に行った。それは先週の木曜日にパーソナルトレーナーのエリーザから教えてもらったもので、今日の自主トレーニングにも採用してみた次第である。今日はバーを用いてスクワットをする代わりに、ケトルベルを用いてスクワットをしてからのジャンプスクワットを行っていった。このジャンプスクワットは大腿四頭筋を追い込むことに適していて、その後ケトルベルを持ってのランジとブルガリアンスクワットに加えてジャンプスクワットを行うという3つのメニューの連続によって下半身を追い込んでいった。大胸筋に関しても様々な形で刺激を入れていった。ダンベルバー、ダンベル、ケーブルマシーン、そしてジャンププッシュアップという4つのメニューを時間感覚を空けて行っていった。来週の月曜日もまた工夫を凝らしながらトレーニングをすることがとても楽しみである。フローニンゲン:2024/10/3(木)16:31


Today’s Letter

All of us possess both masculinity and femininity. We are neither entirely male nor female; each of us has a unique blend of these two polarities. It is important for us to recognize the degree of this blend in order to enrich our gender consciousness. Groningen, October 3 2024

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