⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
13264. 朝の適度な日光浴
13265. 朝の日光浴について
13266. 芸術作品を創造する担い手として生きること
13267. 今朝方の夢
13268. 第97回のゼミナールのクラスを終えて
13264. 朝の適度な日光浴
時刻は午前7時半を迎えた。ここ最近は日の出の時間が随分と遅くなり、午前7時を少し過ぎた時刻が日の出の時間となっている。今現在は、日の出を迎えて辺りがかなり明るくなっている。雨雲ではなくてうっすらとした雲が空を覆っているぐらいなので、朝日がじんわりと地上に降り注いでいる。季節はもうすっかり秋を迎えたが、庭の木々はまだかろうじて青々としていて生命力を感じさせる。それらの木々は、これから冬に向けた準備として葉を紅葉させていき、葉を散らしていく。その前段階にある木々の姿をぼんやりと眺めている。今朝は風がないので、木々が凛とした佇まいでいる。今日は晴れのようだが、今の気温は7度しかなく、暖房がいつ入ってもおかしくない状態である。最高気温は17度のようなので、1日を通して肌寒さがありそうだ。来週は再び20度前半の暖かい日々が数日戻ってくるらしく、それが楽しみである。おそらく来週の数日間を最後に、再来週からはまたここ数日のような肌寒い日になっていくのだろうと思われる。
それにしても緑色に色づいた木々の葉をぼんやりと眺めているだけで瞑想状態となり、心が穏やかになることはとても気持ちの良いものだ。気がつけばこの数分の間に空が変化していて、うっすらとした雲から青空に変わっていた。穏やかさが体現された朝の世界の中で、自らを癒し、喜ばせ、他者にも癒しと喜びを提供することについて考えていた。特にここから冬の時代になって来ると外出が億劫となり、適度な日光を浴びにくい日々が続く。どうやら窓際でも日光浴ができるらしく、紫外線の強い時間を避けて、朝の音読実践の際には窓辺に行って、そこで柔らかな朝日を浴びながら音読をしようかと思う。真冬になってくると、二重窓の内側を開けるだけで冷たい空気が流れて来るが、寒さを楽しみながらの日光浴を兼ねた音読をするか、2階の中央の窓も二重窓になっているが、カーテンレースを開けた状態で程よく日光浴をするというのがいいかもしれない。家の作りと太陽の昇る角度を考えると、最初に日が差して来るのは中央の窓なので、そこで日記を綴ることにしてみよう。今実際にそれをやってみたところ、顔ではなく首筋などに紫外線の強くない朝の日光を当てることができそうなので、今日から早朝の日記を書くときにはこのようにして部屋の中央の窓辺で日光浴を楽しみながら日記を綴ることにしたい。こうした工夫をしながら、健康に良い朝の適度な日光を浴びて、セロトニンを分泌させていきたいと思う。セロトニンで言えば、自分の体を優しく撫でることも幸せ物質のセロトニン、さらにはオキシトシンの分泌が期待されるらしいので、日常生活のちょっとしたときにセルフマッサージを兼ねた優しいセルフタッチを習慣化させていこうと思う。フローニンゲン:2024/9/14(土)08:02
13265. 朝の日光浴について
ここからさらに秋が深まり、本格的に冬の時代を迎える前に、適度な日光を浴びる工夫を今日から実践してみることにした。基本的に外出は月曜日と木曜日にジムに行く時だけしかしないし、洗濯物も家の中で干すこともあり、直接太陽の光を浴びることはとても少ない。朝の散歩も検討してみたいが、秋以降になって来ると天気が優れない日が出て来ることもあり、習慣化するのは難しそうである。晴れの日だけ朝に散歩に出かけるということがうまく継続した実践になるかどうか幾分疑問が残る。朝の散歩の効能を調べてみて、実践する価値がありそうであればそれを試してみたい。本当であれば、一般の多くの人と同じく、仕事場に向かう際にそれで朝日を浴びることができるというのが一石二鳥で良いのだが、自分の場合のように自宅で仕事が完結できてしまうとそれはなかなか難しい。そうした意味でも再び学術機関に戻ることができれば、毎日とまでは言わないまでも、必然的に大学に行く日があることによってそこで適度な紫外線を浴びることができるだろう。朝の散歩の習慣は素晴らしいと思うが、散歩の前に日焼け止めを顔に塗ることが少々面倒というか、顔にあまり無駄なものを付けたくないので、毎日散歩するのは難しそうである。今使っている日焼け止めは、信頼できるプロダクトではあるので、ひょっとしたら日焼け止めのための成分以外にも肌に良い成分が入っているかもしれない。来月から本格的にお世話になる美容クリニックのスタッフの方に相談して、日焼け止め成分以外に美白効果を期待できるような成分が入っている日焼け止めがないかどうかを尋ねてみたい。店頭にあった商品の中に日焼け止めがあったのを記憶しており、ひょっとしたらそのプロダクトは単に日焼け止めをもたらすのではなく、アンチエイジングなどにつながる成分が入っているかもしれない。いずれにせよ、自分では判断するのではなく、その道の専門家に相談しながら判断したいと思う。
今こうして窓際で日記を綴っているが、紫外線量が増加し始める午前10時まではできるだけ窓際で生活をしてみようと思う。これまでは日が当たらない場所で書見台やパソコンを使って外を眺めながら探究活動に従事していたが、こうして窓を背にして首元に光を当てるようにしてみると、部屋を眺めながらのまた違った形での探究活動となり気分が変わる。今書斎全体を見通すことができ、そこに置かれている種々の本を眺めながら、かつて探究してきた内容が脳内に流れ込むかのような現象が起きている。また、書籍の背表紙を眺めながら、その本に何が書かれていたかを思い出すことにもつながっており、想起を通じた記憶の強化や知識のドットをつなぐ副産物的現象も起きている。朝の時間帯に窓辺で探究活動に従事するというのは色々とメリットがありそうである。調べてみると、直接朝の日光を浴びるよりも、やはり窓で光が遮断されてしまい、日光浴の効果は落ちてしまうようだ。しかしそれでも幾分の効果はあるらしく、直接朝日を浴びる時間の目安である30分よりも長い時間を窓辺で過ごすことを通じて、日光浴の効果を享受したいと思う。それを朝10時までの1つの楽しみとする。フローニンゲン:2024/9/14(土)08:39
13266. 芸術作品を創造する担い手として生きること
暖房が断続的に活動をしており、部屋の温度を一定に保ってくれている。そんな中、ようやく朝日が空に現れ始めたので、暖房の活動もそろそろひと段落するのではないかと思う。依然として気温が10度を下回っているので、もうしばらくは暖房が活動を続けるだろうが、少なくとも午後からは活動を緩めるであろう。紫外線が強くなり始める午前10時までの日光浴について、ちょうど今2階の書斎に朝日が差し込み始めた。時刻は午前9時を目前に控えており、ここからサマータイムの終了に向けて、朝日が部屋に差し込んでくる時間はどんどんと後退していくだろう。それを踏まえての室内の窓辺での適度な日光浴を楽しみたい。月曜日と木曜日はジムに行くこともあって、その時には自然と適度な日光浴ができている。外出するのは基本的に週7日のうち2日しかないことが多いので、とにかくこの2日は死守する形で外に出かけたい。肌に悪影響を及ぼさない限りでの適度な日光浴をこれから意識的に取り入れてみて、またどのように心身が変化するのかを観察してみたいと思う。心身が健康でいるためには、日光とどのように付き合うかはとても大事であろう。そもそも太陽の光には途轍もないエネルギーがあるのだから、生命エネルギーを活性化させてくれる太陽光とうまく付き合う方法を見出していきたい。
今日は珍しくあまりお腹が空いておらず、胃腸を少し休めるサインかと思うので、朝食は摂らず、お腹が空いたら早めの昼食を摂ることにした。食生活を見つめ直し、ここ最近は3食食べる生活が続いていたが、時にはこうして胃腸を休める日があってもいいかと思う。これまではシロシビン・セッションをすることに合わせて1日ファスティングをしていが、今はもうシロシビン・セッションを一旦卒業しているので、ファスティングを通じて胃腸を休め、デトックスをする機会がなかった。惰性で毎日3食を無理に食べるのではなく、その時の胃腸の声に耳を傾けながら、胃腸に休息が必要だと感じたら胃腸を休めることに徹したい。朝2杯水を飲んだ後に飲む栄養のある温かい飲み物がある種軽食のようになっているので、今日はそれを摂取したことを持って朝食の代わりとしたい。
朝日が地上に降り注ぐ穏やか世界の中で、虫や動物、そして植物たちが生命力を輝かせて生きている姿がとても美しい。それはまるで芸術作品であり、美術館にわざわざ足を運ばずとも、生きた生き物たちが生み出す芸術の世界を私たちは目の当たりにすることができる。この世で生きることは、生命たちが織りなす芸術作品に触れることなのであり、自分もまた1つの生命であるがゆえに芸術世界に参与し、他の生命たちと一緒に芸術作品を作り出すことなのだ。自分が芸術世界の中にいき、芸術作品を創造する担い手であるという意識をどれだけの人が持っているだろうか。社会の乱れ、この世の乱れの背後には、そうした意識が欠落していることが関係しているのかもしれない。芸術意識を取り戻すこと。日常の中にある美意識を取り戻し、それを育むこと。それがこれからの生命共存時代においてとても大切なことのように思えてくる。全ての生命たちがアートを生み出し、彼らは一丸となって1つの巨大なアートを共創造している。フローニンゲン:2024/9/14(土)09:05
13267. 今朝方の夢
時刻はちょうど午前10時を迎えた。先ほどまで地上に降り注いでいた朝日は影をひそめ、空は少しうっすらとした雲に覆われ始めた。無風の朝の世界を眺めながら、今朝方の夢について振り替えている。まず覚えている夢として、高校時代のサッカー部の友人たちと一緒にサッカーの練習をしていた場面があったことである。場所は外国の見慣れない町のグラウンドで、貸切状態の中でサッカーを楽しむことができていた。サッカー部の副キャプテンの友人がセンタリングを上げてくれ、それを合わせる練習をしていた。自分はジャンピングボレーを得意にしていて、彼のセンタリングをことごとくボレーで合わせていた。それらの全てがゴールに決まったわけではなく、キーパーに阻まれてしまうこともあったが、彼のセンタリングをことごとくボレーで合わせていく様子に周りの友人たちは唖然としていた。ボレーを合わせた時の快感が身体中を駆け抜けていき、ボレーを合わせるたびにその快感の強度が増していき、気がつけばゾーンの状態に入っていた。こうした快感もまた人間として生きる喜びの1つなのだと実感した次第だ。
その他には、日本のどこかの町と外国のどこかの町が混ざり合ったような場所の観光地にいる場面があたった。そこには美術館が中にある変わった旅館があり、私は両親と一緒にそこに宿泊していた。実際のところは愛犬と愛猫をそれぞれ1匹ずつ連れており、部屋でくつろいでいると、愛犬とではなく、愛猫と散歩する気分になってきたので外に出かけることにした。愛犬は両親と一緒に部屋で引き続き過ごしていて、自分は愛猫にリードをつけて散歩に出かけた。その愛猫は犬との交配によって生まれた特殊な猫だった。毛の色は黒で、大きさは普通の猫よりも二回りか三回り大きかった。そのような猫を連れて外に出かけてみると、すれ違う人たちは珍しそうに愛猫を眺めていた。旅館の近くには小川が流れていて、傾斜の緩やかな坂道が続いていた。帰り際は登りとなり、足腰が程よく鍛えられる感じがして気持ちよかった。散歩から帰ってくると、入浴をしたい気分となり、一旦部屋に戻って大浴場に向かおうと思った。すると、旅館で働く女性に声をかけられ、館内にある美術館はすでに見学したかと尋ねられた。到着した日にサッと作品を見たが、じっくり作品を味わうことはしていなかったと思ったので、その方の言葉を受けて、入浴後が翌日にゆっくり美術館を見て回ろうと思った。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/9/14(土)10:10
13268. 第97回のゼミナールのクラスを終えて
時刻は午後3時を迎えた。今、夕方に向かっていく空に優しげな太陽が浮かんでいて、穏やかな日の光が地上に降り注いでいる。季節の変化に応じて日照時間がどんどんと変化しており、今この時間帯はもう全く部屋に太陽の光が差し込んでいない。夏の時期は太陽の光がこの時間帯はまだ差し込むこともあって室温が上昇していたが、これからの季節は太陽の光による室温の上昇はますます限定的となっていくだろう。
先ほど、第97回のゼミナールのクラスがあった。今日から新しく1人の方をメンバーに迎え、また新たな風がゼミナールに吹いてきたことを有り難く思う。その受講生の方が本日のお申し込みから今日のクラスに飛び込んで来てくださったことがとても有り難く、今取り扱っている唯識学は術語が多く、1つ1つ難しいものが多いが、それらを習得してからではなく、まっさらな状態でご参加いただいたことによるご意見がとても新鮮で、クラス全体にとっても非常に意味のあるものだったように思う。自分もその方と同じようなマインドセットを持っていて、何かを学ぶときや実践するときに、えいやという気持ちでそこに飛び込むようにしている。何かを学ぶ前に準備としての学びをしていてもキリがなく、何かを実践する前に自分で学ぼうとしてもキリがない。それを鑑みて、重要なことは飛び込んでみることかと思う。飛び込んで初めてわかることがたくさんあるのであるから、学びにおいては飛び込んだ者勝ちなのだ。その方と同じく、引き続き絶えず無限の学びに開かれながら、自分が興味を持ったことに対しては飛び込んでみてその世界の中に入ってみるということを今後も続けていきたいと思う。
その他の点で言えば、そもそも外界実在論に対する唯識の応答、そして素朴な唯心論と唯識の違いについても幾分扱われた点が重要かと思う。唯識は、外界の事物に対して、素朴な唯心論のように物質的なものや物理世界を全て否定してしまうのではなく、事物は私たちの8つの識を通じて認識される仮の存在としての有を認めるという点が重要かと思う。すなわち、素朴唯心論のように心以外の事物を無としてしまうのではなく、同時に外界実在論者のように、物理世界の事物を固定不変のものとして捉えることはしないのが唯識の考えである。外界の事物はあくまでも私たちの意識を通じて認識されるものであり、あるがままその全体を認識できるものではないのだ。またそもそも見られるものとしての事物も見るものとしての自己もまた種々の変化する構成要素を通じて構成されており、固定不変の実体を持つものではないのだ。あくまでも事物は自分の心のフィルターを通じて立ち現れた現象として存在しているに過ぎないのである。この論点は非常に重要なものだったかと思う。ゼミナールのクラスも間もなく100回を迎えようとしており、開催から丸2年が経とうしている。引き続きこのコミュニティが、各自の人生や仕事における課題や悩みを持ち寄り、それに対してそれぞれの叡智を結集する学びと実践の場でありたいと思う。フローニンゲン:2024/9/14(土)15:32
Today’s Letter
A peaceful evening unfolds before my eyes. It looks like it is gently smiling at me. I wish everyone smiled at others that way. If that happened, the world would be a much better place.Groningen, September 14 2024
Comments