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【成人発達心遊記】13240-13244:2024年9月9日(月)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した成人発達唯識ラジオの配信をしています。


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タイトル一覧

13240. 秋の深まりと脳への異なる刺激

13241. 今朝方の夢

13242. 智慧を育む支援に向けて

13243. 今朝方の夢の続き

13244. 客観的な物理的世界に絶えず関与する主観的な心


13240. 秋の深まりと脳への異なる刺激

 

時刻は午前7時を迎えようとしている。辺りはうっすらくと明るくなっていて、完全な夜明けを待っている。9月に入ってから急激に日の出の時間が遅くなったように感じるが、実際のところは夏頃から毎日着実に日の出が遅くなっていた。最近は午後9時前に就寝する頃にはほぼ真っ暗の状態となった。こうしたところにも秋に入ったことを実感させる。遠くの空に見える赤紫色の朝焼けが美しい。今日は少しうっすらとした雲があるので朝焼けが少し見えにくい部分があるが、雲があるからこそ朝焼けが映えるという特徴もあるので、雲という縁にも感謝しなければならない。そのようなことを考えていると、午前7時を目前にして、小鳥たちが囀りを上げ始めた。キッチン側と庭側の双方から小鳥たちの美しい囀りが聞こえてくる。彼らの鳴き声は平穏な心に誘ってくれ、耳を澄ませているだけで瞑想をしているかのような感覚になる。朝夕に鳴く彼らの鳴き声を通じて瞑想状態になりながらの読書は格別であり、それが学術研究の大きな支えになっている。ここから秋が深まり、寒くなってくると、彼らが活動を始める時間は遅くなり、彼らの鳴き声を聞く機会は減ってしまうかもしれないが、むしろその分彼らの鳴き声が耳に届いてきた時は格別である。冬には冬の楽しみがある。


今の気温は19度とそれほど寒くはないが、今日の日中は23度までしか気温が上がらない。明日の最高気温はかろうじて20度を超え、21度に達するようだが、明後日からは軒並み20度を下回る。明々後日に関しては、最高気温が14度、最低気温が7度と非常に寒くなる。9月を迎えて本当にグッと秋らしくなった印象である。今日からはここ数日間で届いたタントラに関する学術書の初読をしていこうと思う。ここ最近は意識的に読書から離れていて、脳をリフレッシュさせていた。脳をリフレッシュさせると言っても、脳は性質上常に働き続けており、これまでの読書を通じた刺激を緩め、他の刺激を入れることを意識していたというのが正確だろう。そのおかげでマインドがリフレッシュされて、心機一転ここからまた学術研究に精を出せそうである。この半年強は唯識学の研究に力を入れていて、研究上読んでいた書籍が日本語のものであったため、ここからはまた以前のように英語の文献を主体としていきたい。実際に昨日タントラ関係の洋書を読み進めていると、脳に違う刺激がもたらされていることを実感し、読書が捗った。午前中だけで2冊ほどの書籍の初読を終えることができた。今日もまたその勢いで数冊ほどの書籍の初読をしていきたいと思う。タントラと唯識学を佳境させる日に向かってまた一歩一歩前進していこう。フローニンゲン:2024/9/8(日)07:04


13241. 今朝方の夢


朝の世界全体がほんわりとした優しい朝日に包まれている。薄橙色に輝く朝焼けが地上にそのままの優しさの光を届けている。小鳥たちも鳩もその優しい光に包まれながら、思い思いに鳴き声を上げている。自分の内側から発せられる鳴き声。私たち人間もまた自らの内在する声をこの世界にきちんと表明しているだろうか。自らの声を抑圧すればするだけ精神的に苦しくなる。それぞれが固有の声を健全に上げられる社会の到来を望み、その実現に向けて関与をしていきたいという思いが湧いてくる。常に自分の活動の方向性は変わっていないながらも、日常の些細なことをきっかけにして、初心に戻り、自分の活動の根源にある思いが自然と湧き出てくるのは興味深い。そのおかげでエネルギーがチャージされ、また自分の活動に地道に取り組んでいこうという気持ちになる。少なくとも欧米でのこの13年間の生活は毎日そのようにして歩みを進めてきた。


小鳥たちの囀りに耳を傾けながら、今朝方の夢について振り返っている。目覚める直前に見ていた夢としては、見慣れないグラウンドでサッカーをしている場面があった。どことなく実際に通っていた高校のグラウンドと似ているが、完全に合致はしていなかった。そのようなグラウンドで友人たちとサッカーをしていた。不思議なことに、こちらのチームのメンバーは全員友人で顔がはっきりしていたのだが、相手のチームの顔は全くわからなかった。というよりも相手の姿さえもがぼんやりとしていて、人間の姿のシルエットを相手にサッカーをしているような気さえした。最初私は右サイドの攻撃的なポジションを任されていて、可もなく不可もなくというプレーをしていた。そんな中、チャンスと見たここぞという局面でフォワードを追い越すかのような動き出しを見せ、ゴールに迫った。そのプレーを見た監督がどういうわけか自分をトップ下のポジションに抜擢した。もしかしたらトップ下のポジションから今見せたようなフォワードを追い越すような動きをしてほしいということなのかと思い、そうしたプレーを心掛けようと思った。しかしその次のプレーは、受けたボールをうまくコントロールしてフォワードに対して絶妙なスルーパスを通すものだった。監督はそのプレーに拍手を送っていて、チームメイトも感嘆の声を上げていた。そうした励ましがあったことから、自分は気持ち良くプレーをすることができていて、その次のプレーは再びフォワードを追い越す得意の動きをし、それが功を奏してキーパーと1対1となり、鮮やかなループシュートを決めた。動き出しからシュートまで、全て高いセンスが詰まったプレーであるという評価を試合後に監督やチームメイトからもらったのを覚えている。そのような夢を見ていた。実際にはこの夢を見た後に目覚め、微睡む中でも夢の続きを見ていたように思う。それは肉体的にとても心地良い夢だったことを感覚として覚えているが、詳細については覚えていない。夢がこうして心身を癒す形で働いていることを改めて思う。フローニンゲン:2024/9/8(日)07:26


13242. 智慧を育む支援に向けて    


時刻は午前7時半を迎えた。つい今しがた、朝の呼吸法と動的ストレッチを終えて、毎朝の楽しみである温かいドリンクを飲んでいる。それはヘンプパウダー、小麦若葉、カカオパウダーを混ぜて蜂蜜を加えたものである。全てオーガニックの食材で、栄養価も高く、朝の栄養補給に最適である。筋力トレーニングを継続していく中で、最近はもうプロテインを全く摂取しなくなった。生活に自由が効くことから、自分で食事を作ることができ、その食事だけで十分なプロテインが摂取されている。なのでわざわざ補完的にプロテインを摂取する必要がなく、実際にプロテインを摂取しなくなても着実に筋力がついていることを実感する。世間に広がっているプロテイン信仰は幾分危険なのではないかと客観的に見ている自分がいる。自然物のサイケデリクスを全体を摂取することを通じてしか発揮されないアントラージュ効果というものがあるが、理想はやはりプロテインのように特定の栄養素を個別に取り出して合成したものではなく、食材に含まれるまだ科学的に明らかになっていない物質を含めて食事から栄養を摂取するのが理想であろう。もちろんそれは理想であり、何らかの理由で食事から栄養を補給することが難しい場合に限ってサプリメントとしてプロテインを摂取するのであればまだ問題は少ないだろう。いずれにせよ、実感としてプロテインを毎日飲んでいた時よりも腸内環境が圧倒的に良く、消化されないプロテインは腸内で腐敗して腸内環境を悪化させてしまうので、基本的には今のように食事からタンパク質を含めて必要な栄養を得ていきたいと思う。日本では健康機能食品の紅麹の問題が少し前に明らかになったが、その問題を人々は自身を取り巻く食の問題と引き付けて考えることができているのだろうかと心配になる。性に関する知識の無さと合わせて、食に関しても多くの人は無知なのだろう。仏教においては、兎にも角にも無知こそが苦しみや悩みに根源にあると指摘しており、そのことを物語ものとして性や食が挙げられるのではないかと思う。性も食も人間が幸せに生きていくために不可欠なものであるがゆえに、この2つの領域で子供から大人まで無知の病が蔓延しているのは見過ごせないことかと思う。そこには適切な教育が欠けており、各種必要な制度も整っていない。今後の自分が行うべきことは、子供から大人までの教育に力を入れることであり、同時にシステムへの働きかけも積極的に行なっていくことかと思う。制度の改革だけでは全くうまくいかず、重要なことは教育を通じて正しい知識を授け、智慧を獲得していくことを促しながらにして制度の改革に乗り出していくことである。結局制度というのはある種社会的なツールに過ぎないのであるから、ツールを使う人間の心が決定的に重要になる。いかなるツールも良薬にも毒薬にもなり得るため、正しい知識と智慧を持った人々をいかに社会の中で増やしていくかが今後の日本社会の変容の鍵を握るのではないかと思う。微力ながら、自分の関心分野と専門分野を通じてその手伝いに積極果敢に従事したいと思う。フローニンゲン:2024/9/8(日)07:51


13243. 今朝方の夢の続き 


時刻は間もなく午前8時を迎えようとしているが、依然として空にはうっすらとした雲がかかっていて、今日は朝日がまだ拝めていない。天気予報を見ると、ここから晴れてくるようなので、午前中の時間帯には朝日を眺める時間がきっとあるだろうが、今は小鳥の囀りが響く少し薄暗い世界が顕現している。


今朝方の夢の続きとして、日本なのか外国なのかわからないが、砂浜にいて日本人の2人の男優さんと一緒に話をしていた場面があったのを覚えている。2人とも自分と年齢が近く、自分よりも5歳ぐらい年上だったが、非常に親しみを持って接することができていた。2人のうち1人は大物の俳優さんで、誰もが知っている人だった。その方はとにかく気さくで、自分も子供心を忘れていないが、その方も自分に負けないほどの、あるいは自分を凌ぐほどの子供心を持って陽気な振る舞いを見せてくれていた。3人で波打ち際をサーフボードで滑って移動するということを行なっていた。波打ち際にサーフボードを置くと、不思議なことに途端にそれが動き始め、勢い良く波打ち際を移動し始めたのである。3人はうまくバランスを取りながら、その島をぐるりと一周することを行なって楽しんでいた。途中で砂浜の上に出店としてレストランがあるのが見えたので、3人でそこで昼食を摂ることにした。サーフボードの上でバランスを取ることは、非常に良い体幹運動になっていたので、3人はもう腹ペコだった。そんな状態でレストランに駆け込み、それぞれ食べたいものを注文した。すると、有名な方の俳優さんが子供心を発揮させて自分の食べ物にいたずらをしてきた。最初こそそれを冗談だと思って受け流していたが、自分も腹ペコだったし、それを美味しく食べたかったので、途中からそのいたずらが不快に思えてきた。その俳優の方はケラケラ笑いながら引き続き私の食べ物にいたずらをしようとしてきて、突然私はキレた。いたずらされた食べ物をその方の口に強引に詰め、スープを頭の上からかけた。そしてもう1人の俳優の方には食器を投げつけた。実際のところ、もう片方の俳優さんは何もしておらず、ただそのいたずらを眺めて笑っていただけなのだが、それもまた加害者と同じであるという認識が自分の中にあった。突然の行動に2人は驚いていて、私はキレた瞬間こそ一瞬理性を失ったが、一連の行動を取った後はすぐさま冷静になり、「いたずらが続くとこのようにキレる可能性がありますから注意してくださいね」と笑みを浮かべながら2人に述べると、2人は黙って頷いていた。私は2人を置いて再びサーフボードに乗った。波打ち際を移動しながら、2人はきっと自分の心の一部であり、2種類の心の働きなのだと思った。そこで唯識学の教えを思い出し、心の働きには51個あることから、もう49人ほど違う働きを持つ人間がこの自分の心の中にいることを思って、なかなか複雑だなと思った。それは1つのチームを成していて、メンバー間の関係性とチーム全体の関係性を良好にするにはどうしたらいいかと考え始めた。そのような夢を見ていた。


その他にも、大学時代のサークルの1学年上の先輩と話をしていた場面があったのを覚えている。その方は大学卒業後、名門の証券会社に勤め、比較的早く結婚し、お子さんにも恵まれていた。その先輩と大学時代の思い出話を少しして、そこからは今の仕事の話と悩み相談となった。自分には特に悩みはなかったので、先輩の悩み相談を聞くことになった。ここからも今の会社で働くのが良いのか、転職するのが良いのか、海外留学するのが良いのか色々と悩んでいるそうだった。そこには子育てや家族の問題も絡んでいて、悩みはなかなか複雑そうだったが、とりあえず先輩の話に耳を傾けることを意識し、話す中で自然と次の一手が見えてくることを望んでいた。フローニンゲン:2024/9/8(日)08:11


13244. 客観的な物理的世界に絶えず関与する主観的な心 


日曜日の朝の世界は穏やかである。ここから正午までタントラに関する学術書を読み進めていこうと思う。今日取り掛かるのはプリンストン大学出版から出版された“Passionate enlightenment: Women in tantric Buddhism”というタイトルの書籍である。正午までに初読を終えることができなかったら、焦ることなく午後にも時間を取って読み進めていきたい。明日からはカーマスートラのイラスト付きの文献を読み進めていこうと思う。こちらは豊富なイラストが掲載されていて、視覚的にも情報量が多い。タントラの技術以上に思想についての理解を豊かなものにしていこう。


唯識学の教えに従えば、私たちはこの現実世界を客観的に見ているわけではなく、物理的世界であってもそれは私たちの心を通過する形で認識されるゆえ、私たちは決してありのままの姿を観察することはできない。まさに観察には関与という行為が不可避に働き、客観的な物理世界であってとしてもそれは必ず主観の心が入り込んだものになるのである。唯識においては外界の存在の無を主張しているのではなく、それは存在していながらも、私たちはそれをあるがままに全体を把握することはできず、必ず自分の心を通して認識することを指摘する。唯識の三類境の概念で言えば、帯質境(たいぜつきょう)や独影境(どくようきょう)として私たちは現実世界を捉えているのである。後者は完全な幻想や幻の如きものである一方で、前者は対象に対して自分の意味付けを含めた主観が投影されたものである。素粒子から始まって、私たちは物質世界の全てを基本的には気づくと気づかないとに関わらず、自らの色眼鏡を通して眺めているのだ。すなわち私たちは、外界の物質的な性質(帯質)を自らの感覚器官や認識能力を通じて心に映し出す形で物質的な世界を捉えているのである。こうした事柄を指摘しながら唯識では、外界の対象が客観的にあるがまま存在するのではなく、それは絶えず私たちの心を通じて把握される形で存在することが強調される。唯識を学びたての人はよく、唯識は外界の存在を否定すると捉えてしまいがちであり、実際のところは唯識では、外界の世界は客観的にあるがままに存在しているのではなく、それは常に私たちの心のフィルターを通じて認識されるものであると指摘しているに過ぎない。そのあたりを誤解すると、唯識は素朴な唯心論として解釈されてしまうことになる。その点には注意が必要である。フローニンゲン:2024/9/8(日)09:37


Today's Letter

My mind reflects everything; it is a mirror of reality. The more I polish it, the more clearly I see things as they are. My daily learning and practice serve to shine the mirror of my mind. Groningen, September 8 2024

 
 
 

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