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【成人発達心遊記】13207-13211:2024年9月2日(月)



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タイトル一覧

13207. 変化に満ちた日々の楽しみ

13208. 至福さの源泉/今朝方の夢

13209. 今朝方の夢の続き

13210. 今朝方の夢のさらなる続き

13211. 今年の確定申告を終えて


13207. 変化に満ちた日々の楽しみ 

   

時刻は午前7時を迎えた。いよいよ今日から9月である。8月も半ばを過ぎる頃には秋の気配が漂ってきて、ここからより一層秋が深まっていくだろう。その深まりの速度は漸次であり、ゆっくりとした深まりの先に突如として冬がやってくる。悟りのプロセスとそれは似ている。漸悟と頓悟の2つの悟りは、どちらも相矛盾せずに併存する。季節も人間の発達も、緩やかな歩みを経て突如相転移を起こす。それはまるで漸悟と頓悟のようであるかのようだ。ただし人間の発達の場合においては、それが起こるためには然るべき学びと実践の継続が要求される。学びと実践のないところに自然発生的に発達は起こらない。


今の気温は14度と涼しいが、今日の日中は26度まで気温が上がるようだ。9月に入るともう20度前半の気温が続くと思っていたが、意外とそうでもなく、今週1週間は少なくとも21度の日が1日あるが、それ以外の日は軒並み25度前後となる。明日の月曜日だけ27度か28度の夏日になるようだ。今年の夏は30度を越す真夏日になる日が2日か3日しかなくて、夏の始まりも遅かったことから冷夏だと思っていた。ただ夏の余韻がまだ残っていて、9月の第1週目までは少なくともその余韻が残っていそうである。第2週目以降からどのように気温が変化するのか楽しみである。ここでふと、自分日々の気温の変化すら楽しんでいるのだということに気づいた。毎日必ず天気予報を見て、天気について何かを書き留めるようにしている自分がいる。もちろんその日の天気の状態が自分の心身の状態に何かしらの影響を与えていることを考えると、その日の天気がどのようなものであったかを書き留めることは重要である。しかしそれ以上に、そもそも自分は毎日天気が変わりゆくことに楽しみを見出しているようなのだ。晴れなのか、曇りなのか、雨なのか、雪なのか。気温はどれくらいなのか。風の強さはどれほどで、1日の気温の変化の推移はどのような曲線を描くのかなど、天気予報を眺める楽しみは尽きない。1日たりとも同じ天気の日がないということに深い感銘を受ける。自分の日々もまた毎日1日たりとも同じ日はないのだ。毎日の新しさ。その新鮮さに心が打たれ、心が躍る自分がいる。これからも日々移りゆく天気を観察し、その楽しみを存分に享受したい。日々はこうして楽しみに満ちたものになる。フローニンゲン:2024/9/1(日)07:31


13208. 至福さの源泉/今朝方の夢   


時刻は午前7時半を迎え、今、庭側の木々に数羽の小鳥たちがやってきて美しい囀りを上げている。ここ数日は小鳥たちは意外と大人しく、朝のこの時間帯に彼らの鳴き声を聞くことはあまりなかった。今日はこうして朝焼けを眺めながら彼らが奏でる音楽に耳を傾けることができて幸せである。自分は何に対しても幸せを感じられる特質のようであり、確かにそれを磨いていた感はあるが、天気予報を眺めているだけでも喜びの気持ちが湧いてくるし、小鳥たちの鳴き声を聞くだけで幸せな気持ちになる。その他にも幸せの源泉は至るところにあり、この世界がまるで幸せで作られているかのようである。世界は絶え間ない創造でできているということ、そして諸行無常の真理が貫かれていることを日々の些細な事柄から実感するたびに幸福感を得る。この世界の諸事物・諸現象が諸行無常であると聞くと残念さや寂しさを感じる人もいるかもしれないが、自分の場合はそうではない。実際に事物や現象の諸行無常性を目の当たりにすると、まるで自分がその真理に触れている感じがするのである。さらにその感覚を深めていくと、真理と合一する感覚すら生じる場合がある。そこに最大の実存的至福さが生まれる。自らの肉体も精神も諸行無常の真理に貫かれており、自己を超越したその絶対法則と一体となれるというのは至福以外の何物でもない。世俗世界を超えて、勝義の世界に参入すること。それが自分にとって最大の幸福である。自己の心身は溶解し、自己と他者を分ける境界線感覚が消滅し、自己は全てと1つになる。そこに一味平等の恍惚的味わいがあるのだ。人間として生きることの最大の喜びは、これを感じることなのではないかとすら思う。人間が人間を超え出て行く体験がそこにある。その体験は、日常生活において兎角人間という属性に縛られ、そこから様々に仮構された属性に縛られている人たちにとっての福音になるのではないかと思う。


そのようなことを考えていると、今朝方の夢の中で、3人の見知らぬ若いオランダ人の男女と英語で話をしている場面があった。場所はカフェだったが、私たちはテーブル席には座らず、椅子だけを円形にして4人で四角形を描くようにして話を楽しんでいた。3人のうち1人は男性で、残りは女性だった。なので自分を含めるとちょうど男女比は2対2だった。会話の中で私が、小さな犬の話をした。英語で“small dog”と発音をしたところ、“small”の単語を少し鼻にかけるようにして発音してしまったからか、彼らには“smoked dog”に聞こえていたようで、最初はてなマークが彼らの脳内に浮かんでいたようだった。彼らの表情が一瞬困ったような顔になっていたので、もう一度発音し直すと、正しく伝わり、改めて“smoked dog”という意味について4人で話し合うと、そこで笑いが起きた。その他の自分の発言の中に、幾分鼻にかけて発音する箇所があって聞き取りにくい場所があったらしく、それらの箇所についても改めて尋ね、正しい発音の単語に言い換えて話すことをしていた。そのような夢の場面があった。フローニンゲン:2024/9/1(日)07:48


13209. 今朝方の夢の続き   


絶えず新しい夢。夢もまた諸行無常の原理に貫かれていて、日々新しい。日々新たな夢を見ることは、夜に就寝に向かっていく楽しみでもある。夢を見ることが今は1つの楽しみになっていて、夢を振り返ることがまた楽しみとなっている。今後は夢の世界の中で自覚的な自己を保つようになれれば、さらにその楽しみは増すだろう。そのためには、「自覚」、すなわち自らを覚る必要があるのである。覚醒がさらに深まれば、夢の中でも自覚的自己を保っていられるであろう。そこに向けて日々の精進がある。


今朝方の夢の続きとして、高校1年生の自分が1学期の期末試験に向けて勉強に取り掛かろうとしている場面があった。しかし勉強に手がつかず、自分の好きなことを好きなだけ探究したいという思いがあり、期末試験の勉強はもうどうでもいいように思えていた。そもそも中間試験の際に学年で1番になったのも、期末試験以降で手を抜くためだった。学校の勉強や定期試験はどうでも良く、好きなことを好きなように学ぶことを自分はとにかく大切にしていた。最初の試験で1番を取れば、それ以降自分がどのように学びを深めていても何も言ってこないだろうと思ったので、中間試験で1番を取ったのは戦略的なものであった。とは言え、その日は中学校時代からお世話になっていた個人塾に通う日だった。高校に入り、同じ市内であっても少し遠くに引っ越したこともあり、車で送り迎えをしてもらう必要があった。これまでは母に送迎をお願いしていたが、母はもう車を運転しなくなってしまったので、父に送迎をお願いすることにした。父は父で忙しく、好きなことに従事したいと思っているであろうから、父に送迎をお願いするのが躊躇われた。そこでふと、もう高校生にもなったことだし、自分のペースで自分の好きなことを好きなだけ勉強することができると思い、その日を境に塾を辞めることにした。今日からもう塾に行くのはやめて、先生の息子の友人に電話をして、今日は塾を休むことを伝え、後日改めて先生のところに行って、挨拶を兼ねて退塾の申し出をしようと思った。そう決断すると自分の心がスッとして、とても清々しい気分になった。何か引っかかっていたものが取れた感じだった。


この夢を振り返ってみると、自分の学びたいことを学びたい時に学びたいだけ学ぶという今の自分の在り方が存分に投影されているように思った。しかし青春期においてはそれは叶わぬ夢であり、自分もまた日本の悪しき受験システムに組み込まれた存在であったがゆえに、なかなか好き勝手に自分が学びたいことを学びたいだけ学ぶことが実現されなかった。名門の中高一貫校に通う生徒は、ひょっとしたらそこそこの勉強で志望大学に合格できるのかもしれないし、大学までエスカレーターで上がれるような一貫校に通う生徒の場合には、学校の勉強はそこそこに好きなことを好きなように学ぶことができるのかもしれない。だが自分のように田舎の名も無い学校に通う生徒の場合には、受験に向けた勉強をしなければ志望大学には到底進学することができないような状況であったので、受験に関係しない勉強を思う存分にするという願いは叶わなかった。今の自分はひょっとしたら、とりわけ高校時代のその叶わぬ夢を取り戻し、それを叶えるために日々探究活動に邁進しているのかもしれない。すでにその夢はもう十分に叶ったと思うのだが、依然として高校時代の取り戻せないあの時間が惜しいように感じてしまう。それはもう過ぎ去った過去なのであり、今を存分に楽しんで生きることをより心掛けたいものである。フローニンゲン:2024/9/1(日)08:22


13210. 今朝方の夢のさらなる続き 


時刻は午前9時を迎えた。穏やかな日曜日の朝の世界が目の前に広がっていて、その光景は至福さを体現している。朝の世界が眩く輝いていて、全ての生命が喜びの踊りに従事している。彼方天空より降り注ぐ優しげな朝日の光はとても心地良く、自分を含めた生命がそれを浴びて歓喜に包まれている。人間として生きることの喜び。命あるものとして生きることの喜びを今この瞬間に最大限享受している。


朝日を浴びながら、今朝方の夢の続きをさらに振り返っていた。そう言えば、見慣れない日本の商店街を散策している場面があったことを思い出す。私は自転車でそこにやって来て、程良いところに駐車をして、そこからは歩いて散策していた。すると、商店街の一角に小さなジムのような場所を見つけ、中に入ってみた。そこには何も物が置いておらず、無機質な壁だけが四方を取り囲んでいた。すると突然、その空間が特殊な重力で構成されていることに気づいた。気づけば自分の体が天井近くまで宙に浮いていて、すぐ近くには見知らぬ男性が同じように宙に浮いていた。その男性曰く、ここでは特殊な重力場で浮遊力を高める訓練ができるらしかった。浮遊力を高めると、空を自由自在に飛べるようになるらしく、それを目指して自分もトレーニングをしてみることにした。どうやら自分には宙に浮く才能があるらしく、以前からそれについてはある程度知っていて、実際にトレーニングを始めてみると、すぐにその才能が開花した。私よりも先にトレーニングをしていたその男性はまだ宙に浮いて上下に移動することに苦戦しているようだったが、私は速やかにその技術を習得したので、再び街中に出て実際に空を飛んでみようと思った。その場を後にして自転車を取りに行くと、駐車していたはずの場所に自転車がなくて焦った。どうやら誰かが自分の自転車を盗んだようだった。確かに鍵はかけていたが、自転車をその辺にある鉄の棒などに括り付けることなどはしておらず、自転車をひょいと持ち上げて盗まれてしまったのだと思った。近くに自転車盗難の被害を報告する駐留所のような場所があったので、そこに行って盗難届けを提出することにした。盗まれた自転車がすぐに返ってくる保証はなかったが、辺りをパトロールしている警官が自分の自転車を見つけてくれるかも知れないと思ったので、盗難届を出しておくことにした。その時に係員の女性に自分の自転車のシリアルナンバーを尋ねられた。そんなものを暗記しているわけはなかったが、スマホのメモアプリにシリアルナンバーを控えていたことを思い出し、調べてみた。すると、そのアプリのメモがスロットマシーンのようにそれぞれの英数字が動き始め、結局自分の自転車のシリアルナンバーが何かわからなかった。盗まれたものはもうしょうがないと思って、一旦気持ちを整理し、また街中に出かけていき散策の続きをすることにした。そのような夢を見ていた。


この夢の場面の最後には、中学校時代の部活の顧問の先生と遭遇する場面があったことを覚えている。自転車を盗まれて少し気落ちしているところで先生と出会い、先生から励ましの言葉をもらったのを覚えている。その時にはもう自分の頭は随分と整理されていたが、それでもまた盗まれた自転車について色々と考えている自分がいた。自分の中では、盗まれた自転車は盗んだ人への布施だと思うようにした。とりわけそれは財施の一環であり、よくよく考えると自分は自転車がなくても歩いて十分に観光を楽しめることに気づき、不要なものを必要な人に寄付するという意味で、盗まれた自転車は財施の品だと思うようにした。そう思うと気分がスッキリしたのを覚えている。フローニンゲン:2024/9/1(日)09:27


13211. 今年の確定申告を終えて   


時刻は午後3時半を迎えた。今、日曜日の穏やかな夕方の世界が目の前に広がっている。まだ9月入ったばかりなので、サマータイムが終了する10月末までは日が長いため、この時間帯を夕方と言うにはまだ早いかも知れないが、穏やかさは夕方を思わせる。そんな中で、先ほど今年の税務申告の手続きをしていた。すでにオランダの永住権を持っているが、その永住権の維持のためにも起業家ビザの居住ステータスを持っていた時にお世話になっていた会計士に今でもお世話になっている。会計士のロブさんにはもうかれこれ6年ぐらいお世話になっているのではないかと思う。ロブさんから毎年の確定申告の際に送られてくる質問事項に答えていき、必要な書類をオンラインバンクからダウンロードしてきてそれを添付する形で先ほどメールに返信した。毎年速やかに確定申告を提出してくれるので、今年も問題なく申告を提出してくれるだろうと思う。申告に必要な資料を集めてくるのはもう慣れたもので、さほど時間を要さずに申告書類を提出することができた。


ここ半年は唯識学の探究を通じてずっと書物と向き合う時間が長かったので、今は意識的に書物を離れるようにしている。結局動画やポッドキャストなどを通じて学習をしてしまうのだが、活字だけではなく映像や耳からの刺激によって、書物を通じた学習とはまた違った刺激が得られ、学習に変化をつけられるのは良いことかと思う。あとは週に2回のジム通いだけではなく、その翌日には腹筋や前腕部分などジムでは時折鍛え忘れてしまう場所を自宅で追い込んで鍛えることもここからさらに意識していこうと思っている。それと最近少し離れていた創作・芸術活動について言えば、今は毎日2枚ずつ、唯識学に関するデジタルカードを作成している。これは単純に唯識学を多くの方に無料で学んでもらえるために作っているという目的もあるし、コーチングや組織開発の現場で対話のきっかけに使って欲しいという目的もある。地道に毎日コツコツとChatGPTと専用アプリを使って少しずつカードを作成している。ある程度の枚数が溜まったら、試験的にゼミの受講生の皆さんに活用してもらい、反応やフィードバックを受けながらさらに洗練させていき、その後に一般公開をしようと思う。芸術活動について言えば、しばらくご無沙汰だった箏の演奏をどこかのタイミングで復活させてみたいと思っている。然るべきタイミングできっとその気持ちが高まり、自ずから箏に向き合っている自分がいる姿を想像する。フローニンゲン:2024/9/1(日)15:57


Today’s Letter

My sense of bliss comes from daily trivial matters, such as seeing the morning glow and listening to birds' twittering. I don't have to seek out anything special to feel happiness. I'm so grateful that I can live in such a blissful world every day. Groningen, September 1, 2024

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