⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
13202. 幸せの源泉
13203. 今朝方の夢/自他の癒しの喜び
13204. 書物と共に歩む心の成長/第95回目のゼミナールのクラスに向けて
13205. 滲み出る至福さ/サトルな感覚の開発
13206. 第95回のゼミナールのクラスを終えて
13202. 幸せの源泉
時刻は午前6時半を迎えた。今、辺りが明るくなり始めており、夜明けを迎えようとしている。遠くで小さなカラスが鳴く声が聞こえてくる。オランダには日本で見るような大きなカラスはおらず、一見するとカラスに見えないような小さなカラスがいる。彼らの鳴き声を聞いてようやくそれがカラスとわかる。鳥類学的に正しい分類かは定かではないが、自分は勝手にそれをオランダのカラスと呼んでいる。鳴き声はまさに日本のカラスとほぼ同じである。遠くの方から微かに鳩の鳴き声が聞こえてきて、時折近くで小鳥が囀っている。どちらもまだ控え目な形で鳴き声を上げている。彼らにもきっと人間と同じように気分や感情の波があるのだろう。状態の波があり、朝から明確に鳴き声を上げ続ける時もあれば、小さく時折囀るだけの時もある。今日はまさに後者の日である。
今の気温は12度と低く、朝の世界はひんやりとしている。昨日の午後に街の中心部に買い物がてら散歩して出かけた時には、木陰に入ると秋を感じた。ひんやりとした風が街中を吹き抜けていくのはとても気持ち良く、途中で運河を掛ける橋の上でぼんやりと運河の流れを眺めていた。昨日は天気が良かったので小型の船に乗って運河下りを楽しむ人やボードの上に立ってサップをしている人たちの姿も見かけた。まさにそれらの光景はオランダ人たちの夏の楽しみ方であり、9月を目前に控えて夏の余韻が残る日の最良の楽しみ方の1つである。自分は船やボードに乗って運河を下さったことはないが、彼らの姿を見ているだけでこちらも楽しい気持ちになる。それはきっと、自分がそれらのアクティビティを楽しんでいる様子を想像するだけではなく、彼らが楽しそうにしている姿を見ることに喜びを感じるからだろう。ここからも自分は人が喜ぶ姿を見るのが心底好きなのだとわかる。悲しい表情や寂しげな表情をしている人を笑顔にすること。それは自分が最も愛する活動であり、最も充実感を感じる活動でもある。人々の笑顔が自分を笑顔にしてくれ、多大な幸福感をもたらしてくれる。人々の幸福さこそ自分の幸福感の源泉である。自らの幸福さは決して自分1人からはもたらされない。むしろ他者がいるところに幸福があるのだ。具体的に目の前にいる他者を幸せな気持ちにすることに加え、遠く離れた他者に幸せな気持ちになってもらえるようにすること。それこそが自分のライフワークの1つであり、一生従事し続けたい活動である。とにかく他者を楽しませ、喜ばせ、幸せを感じてもらえるようにすること。自分の活動の根源にはそのような思いがある。その思いが無限大の探究心と活動力をもたらす。姿を見せ始めたほのかな朝焼けを眺めながらそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/8/31(土)06:57
13203. 今朝方の夢/自他の癒しの喜び
午前7時を目前に控えた現在の気温は12度と低く、今日の日中の最高気温は21度とのことである。秋を感じさせるとても涼しげな1日となる。ここからの週間予報を見ていると、明日から9月に入るにもかかわらず、ちらほらと25度を超える日があることに驚く。ここ最近の様子からすると9月から一気に秋が深まっていくと予想していたが、実際はそのようなことはなく、まだ夏の余韻を感じさせるような暖かい気候が続くようだ。季節の進行も人間の心の発達と同じように緩やかなのだろう。それはすぐさま実現されるようなものではなく、ゆっくりと時間をかけながら進行していくものなのだ。季節のゆったりとした深まりを自分が好んでいるのは、きっと自分の心の成長の速度と調和しているからだろう。
明けゆく朝の世界に佇みながら、今朝方の夢を振り返っている。まず覚えているのは、日本に一時帰国するために搭乗していた機内で知り合った同年代か少し若い日本人の女性と意気投合し、帰国後、街のカフェで話をしていた場面である。その女性の雰囲気はとても清楚で、外見の美しさだけではなく、心の美しさも素晴らしかった。だからお茶でもどうかと声を掛けたのであった。内面が美しく、話をしてみて楽しそうでなければ決して声を掛けなかったであろう。カフェの天井はガラス張りとなっていて、秋の優しい日の光が店内に降り注いでいた。どうやら夏の間は暑くなるのでフィルターを天井にかけるらしく、こうして程よく日光を浴びれるのはこの季節の特権のようだった。そのカフェで提供されるお茶の葉は見事なもので、美味しいお茶を飲みながら話に花が咲いていた。
そのような場面があったのを覚えており、その他には、マッサージの講習を受けていた場面があった。これも身近な他者を癒すための取り組みの一環のようで、プロのマッサージ師の講習会に参加して、マッサージの理論と技術を学んでいた。学んだことは自分のマッサージにも当然活かすことができ、旅先や筋力トレーニングの後のマッサージにも最適かと思った。結局ここでも自分は、身近な他者にマッサージを提供することを通じてその人に喜んでもらいたいという気持ちが強いのだと思った。他者が心身共に深く寛いでいる姿を見ると、こちらの心身も深く寛ぐ。また他者が心身共に癒されている姿を見ると、こちらの心身も癒やされていく。自分の寛ぎや癒しが先にあるのではなく、他者の寛ぎと癒しを最優先する自分の在り方が窺える。そのような夢を見ていた。
以前日本人だったかアメリカ人だったか、自分はセラピストとのして特性があると言われたことがあった。確かに人間の発達を支援していく際には癒しの側面は不可欠であり、発達支援は見方を変えると癒しの提供でもある。これまでヨガ、臼井霊気、クラニオセイクラルバイオダイナミクスなどを学んできたことは、きっとセラピストとしての他者の癒しに貢献していこうとする自分の願いの現れなのかもしれない。現在はそこにタントラの探究も加わることを通じて、言葉を通じた介入というよりも身体的なアプローチでの癒しを提供したいと思っている自分がいる。改めてソマティックな観点で癒しを探究し、実際に他者に施術を提供することをどこかのタイミングで行ってみたいと思う。これまで習得した癒しの理論と技術をまずは自分に対してより積極的に適用していくことを意識してみよう。フローニンゲン:2024/8/31(土)07:13
13204. 書物と共に歩む心の成長/第95回目のゼミナールのクラスに向けて
時刻は気づけば午前10時を迎えていた。今、雲ひとつない快晴の青空が広がっていて、爽やかな風が吹いている。今日は気温が21度までしか上がらないこともあり、朝からとても心地良い世界が広がっている。そのような中で、これまでの自分が今の自分を超えた世界観を体現した書物と向き合いながら心の成長を実現させてきたことを思った。自分を超えた書物に追いついていこうとするかのようにして書物と向き合ってきたことが今の自分を形作っているし、現在もまた大乗仏教瑜伽行唯識学の学僧たちが残した書物に取り組むことを通じて心の成長が実現しているという実感がある。ここ最近は少しマインドの探究衝動を緩めて、より身体的な感覚に根ざした実践に焦点を当てているが、それでも今後も引き続き叡智の詰まった書物と向き合うことを通じて心の成長を継続的に実現させていきたい。
今日は午後から第95回目のゼミナールのクラスが行われる。節目の100回まであと5回である。今日のクラスでは課題図書を少し離れて、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編(2020)』と『ヴィレッジ(2023)』という2つの映像作品を扱っていく。両者を唯識学の観点から紐解いて、私たちの心の治癒と成長に繋げていこうというのが狙いである。受講生の皆様の感想をまず最初に伺い、論点を場に提示してもらうことを最優先にし、もし論点があまり出てこなければ、こちらから論点を提示していこうと思う。まずは作中に登場していた鬼はどのような煩悩を体現しているか、そして主人公側の鬼殺隊にはどのような善の心所がそれぞれの登場人物にあり、同時に彼らにも煩悩が見られるとすればどのような煩悩なのかを見ていきたい。ひょっとしたら鬼側にも微かに見える善の心所を考えてもらうのは良いかもしれない。なぜなら、私たちの存在の根底は善悪を超えたものであり、無記だからであり、さらには鬼を悪とし、鬼殺隊を善と捉えるのは、極端な見方である辺執見だからである。仮に作中において鬼と主人公側に善悪の片方の心の働きしか見えなかったとしても、対極の心の働きを想像してもらうように促してみよう。また、『ヴィレッジ(2023)』の作品においては、能のモチーフが果たす役割や主要な登場人物を取り上げて、彼らに唯識学の観点からインタビューをしてみるとするなら、まず何についてどのように尋ねるか?というようなエクササイズを行ってみたいと思う。もちろんこちらの作品についてもまずは皆さんに感想を伺い、それぞれが着目した箇所を紹介してもらおうと思う。フローニンゲン:2024/8/31(土)10:19
13205. 滲み出る至福さ/サトルな感覚の開発
穏やかな朝日と穏やかなそよ風。それを感じられるだけで至福さが内側から滲み出てくる。幸せの源泉はかくもシンプルなものである。幸せは決して遠くになく、すぐそこにある。すぐそばにある幸せ。ひょっとしたら幸せは真理と同じく、探すものでも得るものでもなく、私たちの存在に貫かれたものなのかもしれない。結局私たちは無明の雲によって真理が見えなくなってしまっているのと同じく、幸せが見えなくなってしまっているのだ。自己を貫いていて体現されている本来の幸せに気づいていこう。そのためには学びと実践の継続が必要で、無明の雲を取り払うことが求められる。日々の小さな取り組みはきっといつか実を結ぶだろうし、日々気付ける幸せが広く深いものになっていくだろう。
粗大なグロスが支配的な現代社会にあって、微細なサトルの感覚の開発に努めること。マインドの実践もサトル領域を含み、さらに高度なコーザル以上の領域を開発していくことができるが、今の自分は一旦マインドの領域から外に出て、より身体感覚や芸術的感性に根ざした実践を積んでいこうと思う。日頃の筋力トレーニングも、一見するとそれは世間の風潮から影響を受けてグロスボディの開発に見えるかもしれないが、そんなことはない。グロスボディの開発を含んで超える形でサトルボディの開発も筋力トレーニングを通じて可能である。呼吸を意識し、内側の身体感覚や身体エネルギーを意識してトレーニングをすれば、筋力トレーニングもまたサトルボディやコーザルボディの涵養を実現してくれる。現在もっぱら関心を持っているタントラの実践もまたサトルボディを伴うものである。良好な人間関係の構築には、このサトルな意識が不可欠である。人と人とのコミュニケーションは、グロスボディを超えて、サトルボディ以上の身体が不可避に関与するのだ。タントラは即座に性的なものと結び付きやすいが、性を超えて、広く人が他者と関係性を取り結ぶ深い身体感覚やエネルギーに注目をした深い教えと実践が内包されている。そう言えば、今朝方の夢の中でもタントラが話題に上がっていたように思う。見知らぬオランダ人の若い女性とお互いのタントラの現時点での理解について共有し、対話を通じてその理解を深めていたように思う。そこでのコミュニケーションがもうタントラに他ならず、タントラの教えと実践を現代社会の様相と課題とに鑑みてどのように伝えていくかについて引き続き考えていこうと思わせるような夢だった。フローニンゲン:2024/8/31(土)11:10
13206. 第95回のゼミナールのクラスを終えて
時刻は午後3時を迎えた。先ほど、第95回のゼミナールのクラスを終えた。今日のクラスのやり取りを雲ひとつない晴れ渡る青空を眺めながら振り返っている。まず印象に残っている話題は、空性と主体性の関係性についてであろうか。空性の有の側面を蔑ろにして、無の側面だけに注目してしまうと、主体性を発揮する自己の存在の根底が揺るがされ、虚無的な悪取空に陥ってしまいがちである。逆に世間で言われるような形で、主体性を発揮することを推奨しすぎるあまりに自己への囚われが自我の実体化と固着化を生み出してしまっては悟りが離れていく。ゆえにここでも非無非有中道の在り方をどれだけ保てるかが鍵を握るのだと思う。例えば、座標空間上において点の存在を有として仮に設定しなければ、数学上の議論や計算が先に進まないことがある一方で、同時に冷静になって点の存在を見つめてみると、そこには面積を持たないことからも無いとも言える。このように諸現象・諸事物の実体化させず、空化させたり、仮化させたりする柔軟な視点の生成と往来が主体性に関する虚無感を和らげ、主体性に対する固着を防ぐことに繋がるだろう。またそもそも、自分の主体性を実体化・固定化させないながらもそこには固有性があるというその騙すことのできないサトルな感覚を掴むことも重要だろう。それができないと、まさに相対主義的なグリーン段階の罠としての非視点取得による虚無主義の病理に飲まれてしまうだろう。
それと今日取り上げた映像作品を通じて、両親の言葉が呪いにも福音にもなるという話題についても改めて考えていた。一概には言えないが、ひょっとしたら世の中の父親の言葉は小乗仏教的な自らの上昇を促すような言葉になりやすく、母親の言葉は大乗仏教的な、とりわけ慈悲の要素が強い降り注ぐ愛としての言葉になりやすい傾向があるのかもしれないと思った。前者がエロス的で後者がアガペー的なわけだが、仮に上昇する愛が抑圧されてしまうと、それは高次の発達段階を否定し、それを破壊しようとするタナトスの衝動を引き起こす。また逆に下降する愛が抑圧されてしまうと、それは低次の発達段階へ愛を降り注ぐ動機を削いでしまい、フォボスを醸成してしまいかねない。重要なことは、上昇と下降の健全な愛に基づいた言葉を子供たちに投げかけることであって、結局それは成人の発達支援においても大切な在り方かと思う。とりわけ幼少期に健全な愛を十分に注がれてこなかった子供が大人になった場合には、欠落した愛を歪な形での埋め合わせに走らないように、支援者や関与者には必要な愛をその人に授ける必要がある。それをして初めて、相手に安心感と信頼感が生まれ、さらなる成長に向けた建設的な批判やフィードバックを受け入れやすくなっていくのだと思う。まさにそうした愛情のある言葉掛けや在り方は、男女の交わりにおける不可欠な前戯のようなものである。現在においては、それが性愛においても骨抜きにされる傾向があり、それはそのまま日頃のコミュニケーションに如実に現れているのではないかと思う。フローニンゲン:2024/8/31(土)15:33
Today’s Letter
The modern world is dominated by materialistic and superficial worldviews. We need to purify these pathological perspectives. To achieve this, the first step is to cultivate our subtle body and energy. Tantric practice in daily life is crucial for refining our awareness of the body and energy. I believe the world is gradually moving toward an appreciation of more subtle worldviews. Groningen, August 31, 2024
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