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タイトル一覧
13197. 性の力の復権に向けて/思わぬ箇所の筋肉痛
13198. 変化とコミュニケーションの楽しみ
13199. 今朝方の夢
13200. 生産を司る静謐さ/ディオニソス的な在り方
13201. 秋を感じながらの買い物/茶殻の利用
13197. 性の力の復権に向けて/思わぬ箇所の筋肉痛
時刻は午前7時を迎えようとしている。辺りは随分と明るくなっており、遠くで鳩がホーホーと鳴いている声がする。朝の世界はとても穏やかで、鳩の鳴き声以外には何も聞こえてこない。今日は今のところ他の小鳥たちはとても大人しい。今の気温は13度と肌寒く、朝の換気として窓を開けると冷たい風が流れ込んでくる。8月もいよいよ終わりに迫って来ており、これから秋は深まっていく一方だろう。今日の日中は21度か22度まで気温が上がるらしいが、気温の上昇はその程度である。ここから1週間は天気に恵まれ、来週の月曜日こそ25度を超えるらしいが、それ以外の日はもう25度に到達することはなく、20度前半の過ごしやすい気温となる。
今年の秋と冬を通じて自分はどのような変化を見せるだろうか。どのような変容が実現されるか楽しみである。毎年、長い冬を終えた頃には何かしらの変容を実感する。それは自分の心の在り方に変化として現れ、関心の輪が広がることによって、新たな分野を探究し始めたりするなどのアクションとなって現れる。今は人間の心に起点を置きながら、セクシャリティについて関心がある。とりわけ人間の性が持つ力に注目している。性力の健全な解放と性の健全な表現は、心の治癒と発達を促す。人間が内在的に持つそれは、きっとそのような力を有している。太古より人間は、性を活用しながら様々なことを社会で営んできた。現代はどこか性に乱れが生じ、その活用が歪なものとなっている。むしろ現代文明では悪用・濫用と抑圧が大多数となってしまった。古代文明からある時期まで健全に活用されていたであろう性の在り方を見つめ直し、それを個人と社会の変容に繋げる道を探りたい。その探究と実践にこれから乗り出していき、この秋と冬はその取り組みに注力することになるだろう。それと合わせて唯識学を通じた心の探究を深めていく。
今朝方起床した時に、昨日の筋力トレーニングを通じて思わぬ場所が筋肉痛になっていることに気づいた。脛に該当する前脛骨筋が筋肉痛となっていたのである。それはおそらく、昨日のトレーニングでパーソナルトレーナーのエリーザが提供してくれたケトルベルを両手で持って片足で立ちながらルーマニアンデッドリフトのように前傾姿勢となって起き上がるメニューを通じて発生したものだと思われる。このメニューは後半になってくると、足裏の筋肉に疲労を感じ、他のメニューにはない筋肉刺激を感じていた。足裏の筋肉が疲れることはほとんどないので、このメニューはとても面白いと感じた。エリーザ曰く、足裏や足首は前脛骨筋と繋がっているとのことで、足裏や足首に力を入れて踏ん張ることによって前脛骨筋が鍛えられたのだと思う。元々もこのメニューはハムストリングを鍛えるものだが、それに加えて前脛骨筋も鍛えられる内容だった。今日は買い物がてら街の中心部に散歩に出掛けていく。それが良いアクティブレストとなって筋肉痛の回復を早めてくれるだろう。フローニンゲン:2024/8/30(金)07:09
13198. 変化とコミュニケーションの楽しみ
時刻は間もなく午後7時半を迎える。先ほどまで窓を開けて換気をしていたが、室温が随分と下がって来たので窓を閉めることにした。引き続き遠くの方から鳩の鳴き声が聞こえてくるのに加えて、ようやく小鳥たちも活動を始めたようで、彼らの囀りが聞こえてくる。
先ほど朝の動的ストレッチと呼吸法を終えたので、栄養補給としての朝の温かいドリンクを飲みながら久しぶりにチョコレートを食べている。以前はカカオ99%のチョコレートをモーニングコーヒーと合わせて食べていたが、コーヒーを飲むことをやめたのと同時にチョコレートを食べることもやめた。しかし昨日、トレーナーのエリーザが先週の木曜日のパーソナルトレーニングを忘れてしまったことのお詫びとしてチョコレートをくれた。カカオ99%のダークチョコレートを好んで食べてきた身からすると、カカオ90%でもとても甘く感じてしまうのだが、昨日受け取ったのはカカオ50%ほどのものなので大変甘い。その甘みは否定的なものではなく、むしろ肯定的なものであり、久しぶりに甘いチョコレートを食べてその美味しさを味わっている。たまにはこうした変化があるのもいいものである。食事でもいいし、散歩の道でもいいし、仕事をする場所でもいいし、読む本でも何でもいい。時折変化を持たせることは気持ちを新たにしてくれる。そもそも私たちの心は、常に生滅を繰り返しながら変化しているものなのだ。心の本質に変化がある限り、私たちの生活に変化をうまく取り入れていくことは不可欠かと思う。
そのようなことを考えながら、最近の自分は見知らぬ人とのコミュニケーションをゲームのように楽しんでいることに気づいた。昨日のスーパーの帰りに横切ったノーダープラントソン公園で、アヒルの親子を眺めている中年男性がいた。自分もそのアヒルの親子がとても可愛いと思ったのでしばらく眺めていると、ふとその男性と会話が始まった。こうしたことはかつて住んでいたアメリカの西海岸やオランダでは比較的日常茶飯事である。長年そうした土地で暮らしてきたこともあってか、最近はこうした見知らぬ人とのコミュニケーションを楽しんでいる自分がいる。欧米で暮らし始めた14年前は、こうしたコミュニケーションにあまり慣れてしなかったように思う。今は自分がオーセンティックでいられるようになり、相手に関心を示して話を聞ける状態になっている。先日の買い物で立ち寄った靴屋でも店員の女性と自然なコミュニケーションが実現されていた。人とのコミュニケーションこそ一番変化を感じられる瞬間かもしれない。相手は人人唯識ゆえに違う宇宙を日々生きているため、他者との交流は必然的に自分にはない何かを感じさせてくれる。今後はより一層、人とのコミュニケーションを変化を感じる遊びとして捉えてそれを楽しんでいこうと思う。朝の静けさがそのようなことを考えさせてくれた。フローニンゲン:2024/8/30(金)07:43
13199. 今朝方の夢
朝の静けさと穏やかさに感謝をしながら、今朝方の夢を振り返っている。夢の中で私は、外国の人気の少ない街を歩いていた。確かに私は1人でその街を歩いていたのだが、絶えず頭の中で誰かの声が聞こえて来ており、その人と話をしていた。言葉を口に出す必要はなく、全ての会話が脳内で完結していた。人間にはひょっとしたらそのような力が本来備わっているのかもしれない。日本語では「以心伝心」という言葉があるが、その能力を極度に高めると、相手と脳内だけで言語的なやり取りが可能になるのかもしれないと思わせる体験だった。ちなみに自分が話をしていた相手は、欧州のどこかの国の女性だった。歳は自分と近く、価値観や人柄も自分と非常に近しいものがあり、話が弾んでいたのを覚えている。
それ以外に覚えている夢としては、駅伝の大会に参加している場面である。それは大学駅伝で、会場には多くの人が応援に駆け付けており、非常に盛り上がっていた。自分はなんと一区を任されており、自分の大学は決して駅伝の強豪校ではなかったが、持っている力を全て出し切ろうと思った。一区は外に出ることなく、大きな競技場のトラックを何度も周って20kmほど走ることになっていた。一見すると単調のように見える競技場での走りも、多くの観客たちはとても楽しんでいるようだった。いざスタートすると、自分は即座に先頭を走る選手の後ろにぴたりとついて行き、ずっと2番手を維持していた。出だしはとても好調で、そこからの走りももはや走っていることを忘れているかのようなゾーンの状態にあった。気が付けば残り最後の1周となっていて、自分にはまだまだ余力があったので、そこから一気に先頭に出ていくことにした。そして最終的に、当初の予想を大きく覆す形で、自分が一番にたすきを渡した。それには観客たちも驚いていたし、走り終えて地面に転がり落ちた時に自分でも驚いた。地面に寝転がり、呼吸が少し落ち着くと、フィールドの向こう側に両親が微笑んでいる姿を見つけた。2人はどうやら自分の応援に来てくれているようで、自分の走りを最初から最後まで見届けてくれたようだった。とにかく自分は全力を出し切り、今の自分にできる最高の走りを実現することができて大満足であった。自分の走りが続く選手に勇気を与えることができたらという思いを持ちながらゆっくり立ち上がって空を仰いだ。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/8/30(金)07:59
13200. 生産を司る静謐さ/ディオニソス的な在り方
朝日が満ち満ちている。地上に降り注ぐ穏やかな朝日は、もはや秋のそれのように優しげである。それは天からの恵みである。そして朝の静けさもまた天からの贈り物として感じられる。内側に静謐さを保つこと。多くの人は生産的であろうとするあまりに内側の静謐さを犠牲にして種々の事柄に躍起になって従事するが、結果としてそれは生産性を高めることに繋がらない。生産を司るのは虚空としての静けさである。静謐さから全ては生まれる。混沌からは何も生まれず、混沌の中の静謐さから全てが発出するのである。その要諦を掴み損ねている人がどれほど現代社会に多いだろうか。少なくとも自分の生産的な活動は、全て内なる静謐さから湧き出てくるものである。
理性と秩序の象徴であるアポロンとは対照的に感情や本能、解放的なエネルギーを象徴するディオニソスに惹かれる自分がいる。確かに日々の自分の取り組みの多くはアポロン的な学術研究に括られるかもしれないが、そうであったとしてもディオニソス的なものを忘れたくはない。学術研究であったとしてもそこに恍惚感を得ること。それを忘れないようにする。音楽・踊り・性が結びついたディオニソス的な生活。その生活がこれからますます充実したものになっていく予感がする。それは超越的な天空の何かに繋がる道を作る。その道を辿ること。人間でありながら人間を超えていくこと。仏教が目指すところもまたそれである。迷いや苦しみから解放され超越していくこと。仏になるというのは結局そういうことである。仏に至る道と方法は多様である。それもまた自らに関連する縁が形作ったものである。仏に至る自分なりの道を歩むこと。その時に常に仏の教えを参照しながら正しく道を歩いていくこと。その正しさの根拠は世俗的な社会の中には決してない。正しさの基準は勝義的な真理の世界の中にある。世間や社会の基準には従わないこと。真理の世界の基準にのみ従い、それに照らし合わせて自分なりの道を歩んでいくこと。それを考えるだけでも内側から力が自然と湧いてくる。人間が作った有為の世界における社会的基準は私たちになんらの力も与えない。それは力を抑圧するか、せいぜい歪んだ力を授けるかだけである。真に強靭かつ無尽蔵な力は無為の世界こと真理の世界からもたらされる。現代人はそのことを完全に忘れ去ってしまっている。そこにも叡智の断絶を見る。断絶された叡智を取り戻すこと。そして人々に真の幸福をもたらす根源的かつ内在的な力を回復することを手助けすること。自分の取り組みは全てそれに連なるものである。アポロンではなくディオニソスであること。それが自分の真の姿である。アポロンはあくまでも世俗の人たちに見せる方便的な仮の姿に過ぎない。フローニンゲン:2024/8/30(金)09:14
13201. 秋を感じながらの買い物/茶殻の利用
時刻は午後4時半を迎えた。今、夕方の西日が輝いている。午後に仮眠を取って街の中心部に買い物がてら散歩を楽しんだ。昨日はジムでのトレーニングがあったこともあり、アクティブレストとして散歩は筋肉の疲労回復にもつながって大変心地良かった。何よりも秋の風がとても爽やかで、木陰に入ると程よい冷たさを感じた。幸いにも今日は雲ひとつない快晴だったこともあり、太陽の恵みを全身で感じることができた。しばらく歩いてくると背中に汗が滲みそうになったが、秋の風のおかげもあって汗をかくことはほとんどなかった。久しぶりに金曜日の午後に街の中心部に行くと、そこは人で賑わっていた。フローニンゲンは北オランダで唯一の観光都市と言ってもいいかと思うので、オランダの他の都市や他国からの観光客で街の中心部は賑わっていた。金曜日は中央市場が開催されることもあって、とりわけそのエリアは盛り上がってきた。学生や子供にとっては9月から始まる新しい学期が目前に迫ってきており、夏休みの最後の週末を楽しみにフローニンゲンにやって来ている人も多かったように思う。
これから夕食前に腹筋のトレーニングを行おうと思っている。昨日のジムでのトレーニングでは腹筋に焦点を当てて鍛えることをしなかった。それもあって午前中に腹筋のメニューを3セットほど行ったところ、昨日のトレーニングで意外と腹筋も活用していたことがわかり、程よい筋肉痛があった。その上で午前中に1度腹筋を鍛え、今からまた腹筋を鍛えていきたいと思う。ジムに行った翌日には、前日のジムでのトレーニングであまり鍛えることができなかったと思う箇所をVRTXバンドを用いて鍛えようと思う。今日の午前中には腹筋に加えて、VRTXバンドを用いて肩と前腕部分を鍛えていた。ジムでのトレーニングと自宅でのトレーニングをうまく併用して、自分が理想とする肉体作りを地道に続けていきたいと思う。
それともう1つ生活的な発見で言えば、お茶の茶殻を何かに使えないかと調べていたところ、それを入浴剤に使ったり、料理に入れて食べるという使い方もあるのに加えて、茶殻でキッチン用具や流しの掃除ができることを知った。なので午後に淹れた烏龍茶の茶殻を用いてウォーターピックの水垢を落とすのに使ってみたところ、大変効果的だった。明日はルイボスティーの茶殻を使って電動歯ブラシの水垢を落とそうと思う。色々なことに関心を持って自分で調べ、実験をしていくと、色々と知恵袋に生活の知恵が溜まっていくのが面白い。フローニンゲン:2024/8/30(金)16:51
Today’s Letter
Communication with others is a pleasurable activity for me. Interacting with strangers is fun because it helps me discover new aspects of myself. Any form of communication can be a celestial experience that allows us to transcend ourselves and the terrestrial world.
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