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【成人発達心遊記】13169-13174:2024年8月26日(月)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した成人発達唯識ラジオの配信をしています。


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タイトル一覧

13169. 諸行無常の真理を感じながら/性愛学の文献の再読

13170. 今朝方の夢

13171. 個性としての煩悩/複利5%で変わっていくこと

13172. タントラにおける夢の扱い

13173. 人間として産まれて来たことの喜び/タントラについて

13174. 夕方になって思い出した今朝方の夢


13169. 諸行無常の真理を感じながら/性愛学の文献の再読  


時刻は午前7時を迎えた。昨夜は天気予報の通り、雷を伴う激しい雨が降り、そのおかげで気温がぐっと下がっている。今の気温は14度で、日中は19度までしか気温が上がらない。昨日の朝は空に雲がかかっていたが、今朝は雲ひとつない晴天に恵まれている。そのおかげもあり、今は柔らかい朝焼けが遠くの空に見えている。気が付けば日の出の時間も遅くなり、今は午前6時40分ぐらいとなっている。ここからサマータイムの終了の10月末まで日の出はどんどんと遅くなっていくであろう。10月末においては午前9時頃にならないと明るくない状況になる。ここから秋の深まりを楽しみながら、季節の変化を存分に満喫していきたいと思う。こうした在り方は確かに以前からあったが、唯識学を学び始めてからさらに色濃いものになったように思う。仏教の教えの1つである諸行無常の真理を日常の中で意識する機会が増え、季節の変化もまた諸行無常の良き現れである。地球は生命として躍動しており、太陽系も銀河系も、そして宇宙全体も生命として絶えず躍動を続けているのだ。それを地球の中である国のある町で生活しながら十分に感じ取ることができる。宇宙を貫く諸行無常という真理は自分をも当然貫いていて、自らもまた心身共に絶えず変化し続けている。この世に固定不変のものは存在せず、あるとすればその事実が不変なものとして存在している。真理という人間が作ることのできない無為法の存在もまた不変なものとして存在している。しかし人間が生み出す有為法のものは全て生滅を繰り返す固定不変のものたりえない。

優しげな朝日が降り注ぐ日曜日の今日もまた教会の鐘の音がどこかのタイミングで聞こえてくるだろうか。すっかり秋を感じさせる朝の世界の中で鳴る鐘の音は風情があるだろう。秋の始まりを祝福しながら、今日もまた探究活動を前に進めていきたい。今日は少し休憩として、唯識学の文献を読み進めていくのではなく、性愛学の文献を読み進めていこうと思う。確かこの書籍はJFK大学時代に購入したものと思われるが、手元に届いた日の記入がないので定かではない。いずれにせよ、“Sexual Secrets: The Alchemy of Ecstasy”という世界の性愛思想と技術に関する百科事典的な文献を最初から最後まで音読していく予定である。この百科事典的な文献は、性愛に関する人類史を多様な写真付きでわかりやすく解説しており、世界の諸宗教における性愛の取り扱いについても詳しい。来週の日曜日には久しぶりに洋書の一括注文を検討しており、そのときには唯識学の文献だけではなく、性愛学の文献も何冊か追加で購入する予定である。それまでに本書を再読しておきたいと思う。フローニンゲン:2024/8/25(日)07:32


13170. 今朝方の夢 


小鳥の囀りが収まり、鳩の鳴き声を聞こえなくなった。そんな中、朝日が燦然と輝き始めており、朝の世界が本格的に始まろうとしている。朝日が輝き始めたのは午前7時半を過ぎた頃であり、今後は朝日の輝く時間もさらに遅くなっていくだろう。


神々しい朝日を眺めながら、今朝方の夢について振り返っている。まず覚えているのは、小中学校時代の友人(HT)と学校のグラウンドでサッカーの練習をしていたことである。彼とはパス交換をしたり、ドリブルからのシュートを一緒に練習していた。練習中には色々と話をしながら話を楽しみ、練習そのものを楽しんでいた。そのような場面があった後に、見慣れない町にいたのを覚えている。そこは東京の郊外の町で、丘の上にある美術館に向かっている最中に、小中学校時代のある女性友達(TE)と出会った。彼女は美術館に歩いて30分ぐらいの場所に住んでいるらしく、自転車でちょうど美術館に向かっている最中だった。せっかくなので美術館まで一緒に行くことにし、道中で卒業以来の積もる話を色々とした。彼女はどうやら都内の美大を卒業した後に、アート関係の仕事に就いたようだった。こうして美術館に通うのも仕事に活かすためとのことだった。美術館に到着した後も、彼女に色々と作品を解説してもらいながら作品鑑賞を楽しんだ。すると、いつの間にか閉館の時間になっていて、少し急いで館内を回ることにした。出口付近にやってきたところで、今度は別の小中学校時代の友人(SH)に出会った。彼はどうやら1人で美術館に来たようで、この美術館の常連のようだった。なので出口については裏口も知っていて、そちらからも外に出れることを教えてくれた。しかし彼は正門の方から出ることを勧めてくれた。というのも、館内にいる間に雷を伴う雨が降り、雨上がりの虹が正門の方から見えるかもしれないからだった。閉館の音楽が館内に流れるのを聞きながら、正門の方から外の出てみると、彼が述べた通り、夕方の雨上がりの空に美しい虹が出ていた。私たち3人は笑顔を浮かべながらそれを黙って眺めていた。そのような夢を見ていた。


今朝方はそれ以外にも何か夢を見ていたような気がする。自分よりも一回りぐらい若くて容姿端麗で優しい性格をした日本人女性と旅館の部屋で話をしていた場面があった。彼女の微笑みには偽りがなく、表情や言葉から彼女の心の清らかさが窺えて、非常に好印象を持っていた。せっかくなので食事でもどうかと誘いの言葉を投げかけようとしたところで夢が静かに消えていったように記憶している。フローニンゲン:2024/8/25(日)07:59


13171. 個性としての煩悩/複利5%で変わっていくこと   


嬉しいことに午前8時を知らせる鐘の音が近くの教会から聞こえてきた。早朝に鐘の音を待望する自分がいて、その願いが叶ったかのようであった。普段は午前8時に鳴ることはほとんどない鐘の音が、今日は突然聞こえてきて少し驚いた。もちろんそれは嬉しい驚きであった。


昨日行われたゼミナールのクラスの中で、「煩悩は個性である」と述べてくださった受講生の方がいた。確かに煩悩の種類も現れ方も十人十色である。そもそも因としての種子もそれを現行させる縁も個性豊かである。人それぞれ種子も縁も異なるのである。ゆえに必然的に煩悩の種類も現れ方も個性が出るのだ。煩悩を嫌悪しないこと。それを嫌悪すればするほどに、シャドーの論理と同じでそれはさらに深くに潜り、悪行を深めてしまう。なのでまずは煩悩を肯定することから始めるべきなのだ。煩悩の存在を認め、その承認を受けてから煩悩と向き合うことを始めるのが賢明である。決して煩悩を手放しに肯定することを述べているわけではない。唯識学の教えにあるように、やはり煩悩は私たちの悟りへの障害であることには変わりなく、最終的には伏して、断じて、捨していくべきものなのだ。ただし最初から煩悩に対して嫌悪感を抱いて接してしまうと、煩悩は抑圧され、さらに膨らむ。また逆に、自分は煩悩塗れだと単純に開き直ってしまうこともまた煩悩を膨張させることに繋がりかねない。自らが煩悩に塗れた人間であるという自覚は重要であるが、それに対して開き直るのではなく、「煩悩」という字にあるように、それは本質的に私たちを煩わせ、悩ませるものなのだ。それは決して私たち自身だけではなく、私たちが接する他者をも煩わせ、悩ませるものなのだ。なのでそれらと向き合うことは心の成長と豊かな人間関係の実現において不可欠のこととなる。煩悩を悪者とみなすのではなく、煩悩には個性があり、その人の本質を語るものであるという認識を持つこと。そうした形で自他の煩悩と付き合うこと。煩悩は自己発見・他者発見をもたらすものであり、心の治癒や成長の重要な機会をもたらすものなのだ。その認識を強く持ちながら、今日からまた自他の煩悩と向き合っていこうと思う。


さらには、複利5%で変わっていくことについても昨日考えていた。私たちは1日に6万個もの思考を浮かべるようだ。言葉の形になっているものだけでそれだけの数であるから、言葉にならないイメージや感覚を合わせると、もっと夥しい数の内的現象を私たちは日々体験している。1日に浮かぶ6万個の至高のうち、95%は昨日と同じような考えだそうだ。しかし逆に言えば、5%は昨日と違うということなのだ。1日に浮かぶ6万の思考のうち、昨日と違うその5%の考えをどのようなものにするかが私たちの心の成長を決定づけていく。毎日悟りにつながる善の方向に働く思考を新しく5%行っていくことを続けていけば、5年後、10年後、20年後には途轍も無い差となって現れるだろう。悟りの道は険しく長大なものだが、そこに向かう過程の中で、毎日5%の善の思考を続けていれば、心はますます清らかなものとなり、豊かに美しく育まれていくはずだ。フローニンゲン:2024/8/25(日)08:21


13172. タントラにおける夢の扱い    

 

時刻は午後3時半を迎えた。家の敷地内にある車庫の上を1匹の黒猫が優雅に歩いている。自宅の近辺には色も大きさも様々な猫がよくやって来る。キッチン側にやって来た猫とはしばしば目が合うこともあり、その瞬間は心が癒されることが多い。もちろんこちらが気づいていない時に窓から猫がこちらを覗いているとドキッとしてしまうことがあるが、総じて近隣の猫たちとは楽しく暮らしている。


今日は唯識学の文献を読むことは少し休みとし、朝から性愛学に関する文献を読み進めている。タントラの教えの中でに、通常の覚醒状態の意識は眠りの状態と同じであるという見方があり、これはつまり私たちは覚醒していてもまるで夢を見ているのと同じだということを指摘していることに他ならない。この指摘はまさに唯識学の教えに通じるものである。私たちはそもそも、人生のうちの3分の1を夢を見ない深い眠りの中で過ごしている。記憶に残っている夢の世界は、そうした深い眠りの世界の入り口か出口のようなものである。逆に言えばここに夢を振り返ることの意義が見出せる。そもそも私たちは寝ても覚めても自らの心が生み出すヴァーチャルリアリティーのような夢の世界で生きているということを自覚しない限りは解放はない。その自覚を促してくれるのが夢の振り返りであり、夢を振り返れば振り返るだけ、覚醒状態における現実のリアリティが夢のそれと内容こそ違えど構造的には同種のものであることに気づいてくる。そして興味深いことに、今年に入って顕著に生じ始めているのは、夢の世界と覚醒状態の世界との融和現象である。言い換えればそれは、夢の世界が覚醒状態の世界へと流れ込み、1つになるような現象である。ふとした時にかつて見た夢の情景や感覚が思い出され、それが覚醒状態における創造性のリソースとなっていることを実感する。そうした実利的なことに加えて重要なことは、心が能変した、すなわち構築したリアリティに対する認識の高まりである。ここからタントラについてさらに学びを深めていくことを通じて、そしてタントラ行に従事することを通じて、夢に対する認識やリアリティに対する認識がどのように深まっていくのか大いに注目したいと思う。フローニンゲン:2024/8/25(日)15:43


13173. 人間として産まれて来たことの喜び/タントラについて  


日曜日の夕方の世界はとても穏やかである。心を穏やかにして意識を外側に集中させてみると、そよ風の音が聞こえてくる。風に声もすっかり秋らしくなった。そんな中で、人間として産まれて来たことの喜びを最大限に感じたいという思いについて考えていた。阿頼耶識に相続された業の種子によって、こうして今世において人間として産まれて来たことの奇跡に感謝しながら、果たして自分は人間として生きることをの楽しさと喜びを最大限に享受しているのだろうかと考えていた。心の成長に伴って様々な制約や抑制を随分と外すことができているが、それでもまだ十全に人間として生きることの喜びを味わってしないかもしれないと思う自分がいる。とりわけ人間として自然に備わっている快楽を抑圧せず、健全にそれを存分に享受したいという思いがある。その道を説くのがまさにタントラである。


そこでタントラについて調べてみた。それは多義的な用語であり、タントラの主な意味としては、ヒンドゥー教と仏教の密教における聖典の総称としての意味があるそうだ。ちょうど本日読み進めていた洋書の文献にも記載があったシャクティは、ヒンドゥー教においてシバ神の妃とされ、性力として崇拝の対象になっている。ヒンドゥー教におけるタントラは、シャクティに言及された聖典を指すことが多いとのことである。一方仏教では、タントラは高度な修行方法や宇宙観を伴う密教の経典を指す。その他、タントラは性力や宇宙エネルギーを扱う思想としての意もある。とりわけタントラ思想は、人間の内なるエネルギーや宇宙のエネルギーを意識し、それをコントロールすることで悟りや解脱を目指すという思想であり、その時に性エネルギーも抑圧せず、悟りや解脱に必要な重要な要素として捉える。タントラは秘教性が高く、性を扱う上に誤解されることが多いが、タントラは単なる性の解放を目指すものではなく、あくまでも心の成長と宇宙との一体化を目指す深遠な思想である点を肝に銘じておきたい。もちろん道教においてもタントラ的な側面があるが、タントラという言葉はヒンドゥー教と仏教に特徴的なものである。ちょうど現在仏教についての探究を日々深めていることに絡めて、タントラもまた自己変容のための重要な実践思想として探究を深めていこうと思う。フローニンゲン:2024/8/25(日)16:11


13174. 夕方になって思い出した今朝方の夢      


先ほど夢について書き留めていたからなのか、午後5時を迎えようとしているこの時間帯になって今朝方の夢のある場面についてふと思い出した。そこはまるでリゾート地のような場所だったのだが、海辺のそのリゾート地と繋がっている大学のキャンパスがあった。私はその大学を訪問しており、大学内の敷地を散策することを楽しんでいた。そこがリゾート地と繋がっているからなのか、大学の敷地内には南国を思わせる椰子の木がたくさん植えられていた。立派に育った椰子の木と太陽の姿を仰ぎ見ていると、ふとアメリカの西海岸で過ごしていた時の記憶が蘇ってきた。ちょうどその場所は西海岸と気候的に似ていて、夏はカラッとしていて涼しく、冬は温暖な気候であった。散策を楽しんでいると、数人の子供たちがある建物の中に入っていく姿が見えた。彼らは何をしにあの建物の中に入って行ったのだろうかと気になったので、私も彼らの後追うようにしてその建物の中に入った。するとその建物の中にはジャングルジムや滑り台があり、その他にも子供たちが遊べる遊具がたくさんあった。また、絵を描きたい子供のための部屋もあり、そこには絵を描くための道具が完備されているようだった。すると、背の高いアメリカ人の中年男性が建物の中に入っていき、建物の1階の部屋に入っていった。どこかで見たことのあるその男性は、日米の国際政治に詳しい教授であることを思い出した。実際に私はその教授の著書を持っていて、かつて読んだことがった。残念ながらその内容については忘れてしまっていたが、その教授と話をしてみたいと思った。なので私はその教授の後追いかけ、彼が入って行った部屋を訪ねた。部屋の扉が開いていたのでそのまま中に入ると、その教授は一瞬驚いたような表情を浮かべていたが、私が日本人であることにすぐに気づいたのか、歓待してくれた。自己紹介もそこそこに、教授の専門領域について質問を次々にしていくと、その教授は気分を良くしたようで、私の質問に対して嬉しそうに答えていった。こちらが質問し、それに対してその教授が答えれば答えるほどに、お互いの距離が縮まっていき、話を通じてお互いに打ち解けていくことができた。私はその大学に留学することやそこで教鞭をとることについては関心はなかったが、どことなくその教授が自分を求めててくれているような気がした。別れ際、その教授の主著のタイトルとその内容をほぼ完全に思い出し、改めてその教授がその分野の権威であることを思った。偶然の出会いから色々とその道の専門家に話を聞けたことはとても有り難いことだった。教授の部屋を出て建物の外に出た時、夕方の西陽がとても心地良く、まるで楽園にいるような気がした。そのような夢を見ていたことを夕方の今頃になってふと思い出した。フローニンゲン:2024/8/25(日)16:56


Today’s Letter

A calm mind is the key to a peaceful life. To achieve tranquility, we must closely examine the contents of our thoughts. By continuously observing them, we can gradually attain a calm state of mind. Groningen, August 25, 2024


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