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【成人発達心遊記】13087-13091:2024年8月6日(火)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

13087. 心が映し出す世界

13088. 今朝方の夢

13089. 志と在り方への共感

13090. 体に優しいお茶/見知らぬ他者との交流を通じて社会的筋肉を鍛えることの大切さ

13091. 真理への誓願:真理の上に生きること


13087. 心が映し出す世界     


時刻は午前6時を迎えようとしている。辺りはまだ薄暗いが、遠くの空に赤色に輝く朝焼けが見え始めた。その日の気候条件によって朝焼けの色が変わることは興味深く、今日は赤味がかった朝焼けが見える。昨日は橙色で、時折赤紫色の見事な朝焼けが見えることがある。因と縁の混ざり合わせによって果が多様な表情を見せる。朝焼けはその好例である。


今の気温は15度と非常に涼しいが、今日の日中は27度か28度まで上がる予報が出ている。来週の月曜日も今日と同じほどに気温が上昇する予報が出ている。8月に入って30度を超すような真夏日はまだ一切ないので助かっているが、20度後半の気温の日が単発でポツポツと出現するようになっている。そうした暑さを感じられる日は夏らしくてまたそれはそれで良い。夏の風情を感じることもまた長い冬の時代に向けて大事になる。この季節に十分に太陽の光を拝み、日光を楽しむことをしていないと、長い冬の時代に太陽のことを忘れてしまいそうになるほどである。まだ夏の最中にいるので気は早いが、今年の冬がまたどのような姿を見せて、そこで自分はどのように冬を過ごしていくのか気になるところだ。唯識学と出会ったのは今年の冬の終わり頃であったから、今年は最初から唯識学の教えを持って冬に臨む形となる。それによってきっとこれまでとは違う形で冬と接することができるのではないかと思う。冬の世界というのもまた自分にとっての器世間であり、それは自らの阿頼耶識が映し出したものである。今この瞬間の夏の世界もそうだ。それもまた自分の阿頼耶識が生み出した認識対象に他ならない。全ては自分の心が映し出したものであること。認識対象はそれそのものとしては存在しておらず、自分の心に映った影像としてのみ存在する。今この瞬間の夏の日々も、これからやって来る冬の日々も、全ては自分の心が映し出す影像なのである。自分の心がどのような影像を映し出すか。きっと自分はそれに関心があるのだろう。世界がどうあるかよりも、自分の心がどうあるかなのだ。日々目に映る景色は、全て自分の心の表れであること。それを改めて肝に銘じながら、世界の観察を通じて自分の心を観察し続けたい。自分の心を清らかなものして、清らかな世界を生み出したい。そんな思いが滲み出てくる。フローニンゲン:2024/8/6(火)06:03


13088. 今朝方の夢 


少し遠くから1羽の小鳥の囀りが聞こえてくる。先ほどまでは鳩がホーホーと鳴く声が聞こえてきた。昨日聴いていたポッドキャストの内容によると、鳥が鳴き声を出すのには2つ目的であり、1つは雄が自分の縄張りを示すためであり、もう1つは雌へのアピールのためとのことである。それでは雌の鳥は鳴かないのだろうか?そのような疑問が生まれる。自分の縄張りを示すという意味で雌も鳴き声を上げることはあるのだろうか。逆に雄へ自分の存在を知らせるような意味合いで鳴くこともあるのだろうか。はたまたそれ以外の目的で鳴くことはあるのだろうか。そのようなことを考えていた。


今朝方は断片的な夢をいくつか見ていた。まず覚えているのは、淡々と時間が流れゆく世界の中で、淡々と自分の取り組みに励んでいた場面である。そこで自分が何をしていたのかは具体的にはわからないが、とにかく淡々と自分がやるべき取り組みに従事し続け、喜びを感じている場面があった。体を動かすというよりは頭を働かせながら、何かを研究していたようにも思える。研究対象はやはり人間の心だっただろうか。唯識学と発達心理学を自由に横断しながら、想像力を働かせながら心について研究を進めていたような気がする。そのような夢を見た後に、帰国子女の女の子がのちにアナウンサーになり、外国の大学に訪問してそこで通訳の仕事をしていた場面があったのを覚えている。彼女はどうやら自分の教え子のようで、彼女が取材のために大学を訪れ、そこで見事な英語で通訳をしている姿はとても頼もしく映った。私はただその夢を眺める者として存在していて、彼女の活躍をただただ眺めていた。


最後にもう1つ覚えている場面は、記録することの大切さを実感するものだった。日々の勉強や実践にせよ、とにかくまめに記録をしておくことが、後々になって思わぬ形で活きてくる。そもそも逐一記録を取ることは、その学びや実践を客体化することにもつながり、学びや実践を深める効果がある。そうしたことを毎日地道に続けていけば、自ずから成長が実現されていく。記録をしないことは記憶をしないことであり、記憶の欠落は進歩をもたらさない。そのようなことを考えさせられる場面があった。正しく記録すること。それが他者によって記憶を改竄されることを防ぐことにつながり、自己や社会を変革していく際の基礎となる。フローニンゲン:2024/8/6(火)06:17


13089. 志と在り方への共感 


時刻は午前6時半を迎え、朝焼けの輝きが増してきた。それとは対照的に小鳥たちの鳴き声は止み、辺りはとても静かである。今日は風もなく、無風で静けさに包まれた朝の世界が佇んでいる。そんな中で、今日の正午前に行われる協働者の方とのミーティングについて少し考え事をしていた。今日はインタビューを受ける形で、その組織との関わり合いを振り返る機会となる。振り返ってみれば、その組織と協働することになったのは、フローニンゲン大学を離れた年の秋だったから、今からかれこれ6年前のことになる。すでに丸6年間ほど協働を続けてきたことに改めて驚く。これまでも様々な人や企業と協働をしてきたが、6年間も協働が続く組織は今のところ他にない。結局自分がこうして6年間も協働を続けているのは、その組織が掲げる志に共感しているからだろう。社会と協創しながら個人としての成長を実現させていき、社会で必要ながらもまだ産業化されていない領域で事業を展開して社会に貢献していくというミッションに共感するものがあるのだろう。そのミッションは多分に大乗仏教的であり、自利利他の精神で、自己・組織・社会の三方良しを実現させていこうとする志に多大に共感しているのだろう。さらには、今は誰も目を付けず、小さな領域かもしれないが、その課題が解決されると大きな意味があるニッチな領域に乗り出していくというのも自分の性分と合致している。自分にしかない感覚や感性で自分なりの問題意識を持ち、それを通じて発見された自分固有の領域に乗り出して社会課題の解決に取り組むという姿勢は、自分が大切にしているものに他ならない。誰かが見つけた領域ではなく、自分で新たな貢献領域を見つけ、そこで自分にしかできない取り組みを前に進めていくこと。それは自分の在り方そのものに他ならない。そう考えてみると、6年間共に歩んできたこの組織と自分は相似形なのだろう。その組織と自分は志と在り方がフラクタルなのだ。だからこんなにも長きに渡って協働関係を続けてきたのだと思う。その組織がいち早く成人発達理論を起業家支援に活用することに注目し、実際に真摯に成人発達理論と向き合って積極的に起業家支援に活用し、一定以上の成果を上げていることは確かに大事な要素だが、それは長きに渡る協働関係を説明する二次的な要素に過ぎない。兎にも角にも、志と実践の在り方が自分と相似形であったこと、それがこうして協働関係を持続させている最たる要因なのだろう。そうであればきっと同じ要因を持つ人や組織とも、相互発達的で持続的な関係性を構築できるのではないかと思う。フローニンゲン:2024/8/6(火)06:48


13090. 体に優しいお茶/見知らぬ他者との交流を通じて社会的筋肉を鍛えることの大切さ

 

時刻は午前7時を迎えた。起床してすぐの時間は辺りが薄暗かったが、もうこの時間はすっかりと明るくなり、朝日が燦然と輝いている。先ほど朝の楽しみの1つである抹茶を淹れて、今はそれをゆっくりと味わいながら朝の活動に取り掛かり始めている。昨日も改めて考えていたのだが、こうしてコーヒーを飲むことをやめて抹茶を飲み出してから、心身が微細なのだが着実に以前よりもさらに健康になっているような気がする。コーヒーにも健康機能を向上させる成分が含まれているということは様々な調査が明らかにしているが、シンプルな思考実験をしてみると、コーヒーよりも抹茶の方にやはり自分は軍配を上げたい。端的には体が弱っているとき、例えば風邪の時にコーヒーとお茶のどちらが飲めるのかということを考えてみた時に、これまでの自分の経験上、風邪の時にコーヒーを飲むことは一度もなく、お茶であれば飲むことができたことを考えてみると、体が弱っている時に飲むことを拒絶するコーヒーにはやはり何か肉体にとって好ましくない何かが内在しているとしか思えないのである。あるいは、お茶にはコーヒーにはない優しさがると言えるだろうか。体にとって優しい飲み物はどちらかという基準で言えばやはりお茶に軍配が上がるのだろう。コーヒーにはコーヒーの味わいや良さがあるのは承知だが、今の自分は自分の体にとって優しいものを摂取しようと心掛けているようだ。こうしたことは知性を働かせて、自らの習慣を冷静になって眺めてみなければ気づけない。また、体の声をちゃんと聞き取ることも要求される。


そのようなことを考えているとふと、アメリカやオランダで丸12年ほど生活する中で育んできたものは様々なものがあるが、社会的筋肉を1つ大事なものとして挙げることができるように思った。確かに日本にいた時から自分はもともと社交的な人間であり、見ず知らずの人に対して物おじすることはほとんどなかったが、欧米での生活を通じてその傾向はより強くなったように思う。公共空間で見ず知らずの人と会話をするというのは1つの社会的な筋肉であり、それは肉体的な筋肉と同じく鍛えることが可能である。日本では孤独死を含めて、孤独の問題、ひいては社会的なつながりの希薄さが問題となっている。それは日本人の社会的筋肉の弱体化を表しているのではないだろうか。社会的筋肉は肉体的な筋肉と同じく、幾つになっても鍛えることができるし、それを育めば育むだけ、幸福度が増し、生きていくことへの安心感の醸成にも繋がるように思う。そして何よりも、社会全体が豊かな関係性で満ちていくことに繋がっていくだろう。社会的筋肉を鍛えることも最初は無理をせず、できるところから始めればいい。欧米では街中で視線が合えば挨拶を交わすことは日常茶飯事だが、日本の都会ではそれは難しい。もちろんオランダでも街の中心部などの人が多いところでは、日本と傾向はさほど変わらない。しかし、ひとたび中心部を離れると、散歩している最中に目が合えば自然と挨拶が生まれる。散歩中にこうした挨拶をするだけでも、他者との繋がりを感じ、孤独感を和らげ、社会的な筋肉を鍛えることに役立っていると思う。散歩中のそうした挨拶が難しければ、ジムなどの共通の目的を持って集まった空間で見知らぬ他者と言葉を交わしてみることを勧める。それで言えば、自分にとってジムは肉体的な筋肉を鍛える場所なだけではなく、社会的な筋肉を鍛える場所にもなっていたのだと気付かされる。日本の都心部のタワーマンションでは、マンション内の住人と建物内で挨拶することを禁止しているような場所もあると聞くが、それは極めてナンセンスなことである。それは社会的な筋肉をますます弱体化させ、孤独を煽ることに繋がる。タワーマンションで孤独死する人が多いのも頷けるし、タワーマンションのギスギスした人間関係を題材にしたドラマや映画がいくつもあることも頷ける。見知らぬ他者と言葉を交わし、社会的な筋肉を刺激することは幸福度合いに大きな影響を与えているという点を今一度見つめ直すべきではないだろうか。社会全体の幸福度合いが高いオランダで住みながら、自分はこの点を大いに学ばされ、実際に日々幸福に感じられている大きな要因をそこに見る。フローニンゲン:2024/8/6(火)07:28


13091. 真理への誓願:真理の上に生きること

 

時刻は午後3時半を迎えた。今日は結局、29度まで気温が上がった。今まさにその最高気温の到達地点にあるわけだが、2階でも十分快適に過ごすことができている。窓を開ける必要もなく、この気温でも幾分涼しさを感じるのは、日照時間の変化により、部屋に直射日光が当たらずに、室温がさほど上がらなかったことと関係しているかもしれない。仮に今後20度後半になっても2階で快適に過ごせそうで何よりである。外には爽やかな微風が吹いていて、夏の青空が美しく輝いている。きっとこの夏の日々が懐かしく感じられる時期にもうしばらくしたら突入するだろう。それはもう静かにやって来ており、水面下でその足音が聞こえてくる。今年もまた長い長い冬の時代に突入するが、自分の心はいつも夏の太陽のように燦然と輝いている。


我執を立って真理の上に生きること。真理を通じて生きることの大切さを思う。自分が向かうべき先はその境地である。私たちが普段立脚しているのは、本来実体を持たないものばかりである。言葉によって仮構された実体のない妄想的なものを拠り所として生きているのが私たちの姿なのである。存在の拠り所を変えること。悩みや苦しみを生む虚構の産物の上に自己の産物を立てるのではなく、不変の真理の上にそれを立てるのだ。存在は諸行無常の理に貫かれている。しかしその理としての真理は不変であり、言葉を離れた究極的な真理の上に自己を立てて生きる。それができれば世俗的な悩みや苦しみから早晩解放されるだろう。私たちが悩み苦しんでいるのは、端的には我執と法執による。そしてそれと関係して、存在の拠り所が実体のない頼りなき言葉の産物だからである。虚構の産物の上に立って虚構の産物に囚われている自己を立脚点ごと焼き尽くすこと。何を持って焼き尽くすかと言えば、それは智慧を通じてである。祈りではそれは焼き尽くされない。必要なのは祈りではなく、智慧なのだ。智慧なき無明によって私たちは言葉を通じて種々の産物を生み出し、それに囚われる。祈りは虚構の産物を生み出さない。祈りには固有の価値と意義があるが、言葉を通じて囚われを生み出し、それによって迷い苦しむ私たちを根本から解放するのは、言葉が智慧に転じた時である。それは真理を見通す智慧である。自分は真理に生きるという誓願を立てる。真理を通して真理として生きるという誓いを立てる。フローニンゲン:2024/8/6(火)15:38


Today’s Letter

Can you always see the truth existing behind us? Truth penetrates everything, everywhere, at any time. We can never separate ourselves from the truth. It's the secret of all truth.


We are standing nowhere unless we find the truth. Once we find it, we will start to stand on it. Groningen, August 6, 2024

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