⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した「サイケデリック唯識ラジオ」の配信をしています。
⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
13008. 共生について
13009. 今朝方の夢
13010. 今朝方の夢の続き
13011. イメージで構成されるリアリティ/金剛力士立像の肉体を理想として
13012. 能変の心とリアリティ
13013. 観夢覚知/真如の人生/理懺悔
13014. ゼミナールの第89回のクラスの振り返り
13008. 共生について
時刻は午前5時半を迎えた。昨日は真夏日となり、気温が30度近くまで上がっていた。その影響もあって、部屋の室温も随分と上がっていた。起床して2階に上がってくると、まだ熱を幾分持っているようだったので、窓を開けてひんやりとした空気を入れることにした。外気は18度と涼しいので、もうしばらく窓を上げて室温を下げたい。今日もまた真夏日となり、今日は昨日以上に気温が上がり、30度に到達する予報だ。雲ひとつない晴天に恵まれるようなので、ひょっとしたら午後の最高気温は30度を超える可能性もあるので覚悟しておこう。7月も第3週が終わろうとしているが、ここまでのところ真夏日を感じさせた日は6月の終わりに数日ほど、7月にも数日ほどだったように思う。30度近くに達したのは今のところ4日、5日ぐらいだろうか。本来真夏日とは35度ほどを指すらしいが、この地においては30度を超えると真夏日となる。あるいは20度後半で真夏日と言える。明日からはまた涼しさを取り戻し、来週一杯はずっと20度前後の気温になるようなのでとても快適に過ごせそうである。8月に入ってから、あと何日ほど真夏日があるだろうか。そんなことに思いを馳せる。
日の出も以前より少しずつ遅くなりつつある。以前は午前5時だとすでに随分と明るかったが、今は日の出の時間が5時半となっている。遠くの空が黄金色に色づき始めており、今日もまた輝く朝日を拝めそうである。ここ最近は小鳥たちの鳴き声があまり聞こえてこなかったが、今朝方は種々の小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。遠くの方では鳩も鳴き声を上げていて、朝のこの時間に鳥たちの鳴き声を聞くのはやはり格別だと改めて思う。その他に聞こえてくるものが何もなく、ただただ鳥たちが奏でる音楽だけが聞こえてくる。こうした環境で過ごせることに感謝しながら、こうした環境が少しでも世界に満ち溢れるような貢献を果たしていきたいと思う。人間の心について理解する唯識学の探究はその一環である。自然を含め、様々なものと共生を図っていくこと。コントロールや抑圧ではなく、共生の精神を育みながら、それを実現するための智慧を養っていくこと。それが今の現代人に求められている大きなことではないだろうか。ここから自然環境はますます変化していき、AIなどのテクノロジーの産物もより一層台頭してくる。その時に重要なことは、人間とは何なのかという根本的な問いと自然やテクノロジーとの共生を図るための心を涵養していくことのように思えてくる。静けさの中で小鳥たちの鳴き声に耳を澄ませていると、そのようなことを考えさせられる。フローニンゲン:2024/7/20(土)05:57
13009. 今朝方の夢
時刻は午前6時を迎えようとしている。起床直後に引き続き、小鳥たちの清澄な鳴き声が聞こえてくる。そしてたった今、午前6時を告げる教会の鐘の音が聞こえてきた。教会の鐘の音はいつも聞こえてくるわけではなく、不定期に鳴り響き、特定の時刻を告げる。その鐘の音もまたいつも美しい。
一昨日、そして昨日に続き、今朝方もまたいくつかの夢を見ていた。まず覚えているのは、ゼミナールのある受講生の方が、25段階ほどの梯子を持ち上げて何か作業をしていた場面である。その方は梯子の上の方に板を掛けて、その板を通じて建設現場の安定化を図ろうとしているようだった。梯子を持ち上げる力も素晴らしいと思ったし、うまく梯子をコントロールしながら狙った場所に板を掛ける技術も素晴らしいと思った。一発で狙った場所に板を掛けた時、その方は嬉しそうにこちらに微笑み掛け、大変満足げな表情をしていた。私はその方に近寄っていき、労いの言葉を掛けた。まずはそのような場面があったのを覚えている。
次に覚えているのは、南北が対立状態にある半島地域に出向き、その対立を解消しようとしている場面である。そこにはアジア人が住んでいて、南北共に同じ人種のようだった。それにも関わらず、何らかの理由で南北が対立してしまっているようで、まずはその根本原因を探ることから始めた。南北のそれぞれの人に対してインタビューをして、その根本原因を特定することから着手したのである。すると、自分なりに対立の根本原因の仮説が立ち、その仮説に基づいてアクションをすることにした。南北両者の代表者をそれぞれ数名ほど呼び、お互いに顔を突き合わせながら対話を図ることにした。最初こそお互いの主張がぶつかり合っていたが、それもまた結果的には望ましい形となり、途中から友好的な雰囲気で対話が進み、最終的には和解の着地点を見つける形となった。そのような場面があった。
それぞれの夢はテーマとしてかけ離れているように見えるが、共通なものとして、何かに架け橋を作るということがありそうである。前者の夢については、物理的な建設現場ではあったが、架け橋となる足場を作ることを通して、誰かのためになる姿が描かれていた。それを実現したのは知人ではあったが、夢の中の知人は自分の何らかの姿を象徴していることが多分にあるだろうから、知人が足場を作った行為は自分が足場を作った行為としても解釈することができる。後者の夢はまさに、対話を通じて南北に架け橋を作り、対立に終止符を打つというものだった。この和の精神は、きっと今自分が向き合っている末那識を克服した後に生まれる平等性智の現れのように思える。末那識の克服過程の今、平等性智が少しずつ現れ始めているのかもしれない。それを励みに、引き続き心の探究と治癒・発達に向けた実践に取り組んでいこう。フローニンゲン:2024/7/20(土) 06:12
13010. 今朝方の夢の続き
2階の両側の窓を開けているおかげで冷たい空気が部屋の中を流れていき、室温も随分と下がってきた。今日はいつもと違い、起床直後から半袖半ズボンで過ごしている。真夏日の翌日は2階の室温が上がっているため、このような格好となる。1階についてはいつものように常にひんやりとしたままなので、日中にどれだけ気温が上がっても寝るのに支障はない。この家は夏は涼しく、冬は暖かく過ごせるような耐熱構造がしっかりしていて、この家を作ったオーナーのフレディさんの技術に改めて感服する。
時刻は午前6時半を迎え、朝日の輝きがピークに達し始めている。この時間帯の朝日はとても優しげで、光に微睡がある。太陽もまたまるで夢を見ているかのように、早朝の朝日は程よい微睡感があるのが心地良い。そんな穏やかな朝日に包まれながら、今朝方の夢の続きについて振り返っている。
夢の中で私は、両親と一緒に見知らぬ小さな島を散策していた。その島は森林に覆われており、人が住んでいる様子は一切なかった。そんな島で私たちは、ある小動物を捕獲し、保護することを目的に散策をしていた。両親は森林の中を歩きながら散策を続けていたが、自分はより俯瞰的にその島全体を見ようと思い、宙に浮かんで上空から島を眺めることにした。目を閉じて深い森林の中にいるその小動物の姿を想像し、それと心を通わせることをイメージしてみると、その小動物の居場所が突然感知された。その感知を頼りに空を飛んでその場に向かうと、眼下にその小動物が木の陰に隠れている姿を見つけた。もうすでに心の中でその小動物とはコミュニケーションが取れていたので、相手を驚かすことなく無事に捕獲に成功した。こちらがその小動物に手のひらから気を送ると、その小動物は小さな玉となり、それがこちらに向かって飛んできて自分の手のひらにポトリと落ちた。
この場面の後に突如として、海の中に潜って姿を隠し、再び海面に浮上する場面があった。その海は海水で満たされているのではなく、お酢で満たされていた。不思議な海から浮上して陸に上がると、そこに中国人の親子と自分の父親がいて、まずは中国人の親子の父親と会話をした。彼はすでに私に95ドルほど支払いをしていた。何に対する支払いかというと、80分ほどのマッサージに対する支払いである。どうやら私はマッサージ師の資格を持っているらしく、彼にサービスを提供することになっていたらしかった。彼にサービスを提供する前に、少し準備運動がてら自分の父の背中をマッサージすることにした。父の背中は肩甲骨周りの筋肉が随分と凝っていて、そこを集中的に解していくことにした。マッサージ中、父はとても気持ちよさそうにしていて、マッサージを終えると、筋肉の凝りの解消に満足しただけではなく、気持ちもスッキリ軽くなったようだった。それを聞けて何よりだと思ったところで、中国人の男性のマッサージを始めようとし、マッサージの間、彼の息子が退屈しないように、その子に話しかけながらマッサージをすることにした。フローニンゲン:2024/7/20(土) 06:50
13011. イメージで構成されるリアリティ/金剛力士立像の肉体を理想として
世界は言葉ではなく、イメージでできているということ。このリアリティの根源的な姿は、千変万化するイメージなのだという直観がやって来た。私たち人間は、そんなリアリティに対して言葉を通じて接近を試みる。また言葉を与える行為を通じてリアリティを生きようとする。しかし本質的には、リアリティは言葉を超えていて、ただ千変万化するイメージで構成されているのである。このリアリティ認識は、仏教が描く世界の姿と似ている。とりわけ唯識の世界認識と酷似していると言えるだろうか。この世界は私たちの心が描き出すイメージで構成されているという認識。私たちが世界からイメージを汲み取るというよりも、世界そのものが、すなわち心そのものがイメージで構成されていて、心は絶えずイメージを生成する。リアリティは即心であり、心は即リアリティであり、両者は共に絶えずイメージを生成し、イメージから作られている。言葉はあくまでもイメージの後に付随して生じるものにすぎない。言葉が先なのではなく、イメージが先なのだ。
そのようなことを考えていると、本来縁起は空性なのであり、空性は縁起なのだが、その縁起が遍計所執性によって覆われてしまっているのが凡夫の世界なのであるということについて考え始めた。本来は真如としての縁起世界が広がっているにも関わらず、凡夫はその上に言葉を通じて虚妄仮設してしまい、真如が見えなくなってしまっているのである。縁起世界はそれこそ巨大なイメージの複合体であり、その複合体のイメージをあるがままに見ることなく、部分だけを抜き出してそこに言葉を当てて言葉に執着するのが凡夫の在り方なのである。こうした在り方こそが苦しみや悩みの原因なのであり、虚妄仮設した言葉を離れ、世界のイメージそのものに立ち返ること。それを意識して言葉への執着から少しずつ離れていけば、豊かに生み出された縁起世界のイメージ全体に触れることができるようになってくるだろう。そうすれば、自ずから苦しみや悩みが氷解され始めていくはずである。
そうしたことを考えた後に、思考は再び別のテーマに移っていった。昨日、興福寺に存在する定慶作とされる木造金剛力士立像を写真で眺めた瞬間に、その肉体の立派さに打たれ、金剛力士像の肉体を筋力トレーニングの理想とすることにした。これまで自分が理想とする肉体とはどのようなものなのか、そのイメージを決めかねていたが、数ある金剛力士立像の中でも興福寺の金剛力士立像にすることにした。現実に生きている人を理想とするよりも、仏教的な豊かな世界観と想像力が体現された金剛力士立像こそ、自分の肉体が向かうべき方向性だと思ったのである。来週月曜日からの筋力トレーニングでは、想と念の心所を働かせながら、金剛力士立像を想起してトレーニングに励んでいきたいと思う。フローニンゲン:2024/7/20(土)07:12
13012. 能変の心とリアリティ
つい先ほど朝食を済ませ、再び朝の探究活動に取り組んでいこうと思う。今日は午後にゼミナールの第89回目のクラスがある。それに向けた予習を改めてしておこうと思う。課題図書の該当箇所を読み返し、クラスの中で取り上げたいテーマについてこちらの方でも準備しておこう。もちろんそのテーマより受講生の方々が提供してくれたものを優先させていきたいが、念のためにいつものようにテーマを準備しておく。
唯識学の根幹的な教えは、全ての事物は私たちの識を離れて存在するのではないというものだが、これは別の見方をすれば、世の中の全ての事物は私たちの識を通じて現れるものであるということを述べている。私たちは八つの識というVRヘッドセットを絶えず装着しており、私たちの認識世界は外界をありのままに映し出しているのではなく、私たちの認識世界はVRヘッドセットである八つの識を通じて外界を映し出したものなのだ。八つの識からなる私たちの心は、「能変の心」と呼ばれる。それは、私たちの心が何か対象に触れて認識が成立する時、心は対象をありのままに捉えているのではなく、過去の経験(阿頼耶識の影響)や自分の認識の枠組み(末那識の影響)によって改変されて認識されているのである。このように、私たちの心は対象を能(よ)く変形させて認識するから「能変の心」と呼ばれるのだ。ここからVR技術がますます発達してくると、私たちは心の世界をさらに深く知ることも可能だろうし、逆にVRの世界に埋没することも考えられる。大半の人たちはきっと後者の道を辿るだろう。心やリアリティについて知り、その考察を通じてより良い人生を送るための智慧が欠落した社会の中にあって、唯識学の果たす役割は極めて大きいだろう。AIといった新たな知性的存在の台頭を通じて人間の知性や心についての見つめ直しもきっと起こるだろうし、むしろそれをしていかなければならない。VR技術についても同じであり、VRの世界と心の世界の共通性と相違性の考察を経ることを通じて、私たちは自らが選択した世界の中でより良く生きることが可能になってくるのではないかと思う。いずれにせよ、智慧のない世界に幸福はなく、そこに待っているのは見せかけの自由で彩られた奴隷的な世界だけであろうというビジョンが立ち現れる。フローニンゲン:2024/7/20(土)08:29
13013. 観夢覚知/真如の人生/理懺悔
夢を見ることによって悟という現象。厳密には、夢を見て、それを何気なく回想している時に何か真理に触れたような形でハッとするような現象があり、それは確かにある種の悟り体験かと思う。もちろん意識が悟りの段階に到達したわけではないが、意識が悟りの状態を体験したことにはなるかと思う。そうした体験を知らず知らずのうちに、膨大な夢の振り返りを続けていく中で何度か体験してきたことを思い出す。フロイトもユングも夢の治癒力に注目していたが、夢には治癒を超えて発達力とでも形容できるような悟りを促す働きがあるように思えてくる。それは深層意識の阿頼耶識からのお告げのようなものである。実は私たちは毎晩夢を見る中で、そうしたお告げを常に得ている。しかし夢を振り返ることを習慣としていなければ、そのお告げに気付けず、最も簡単に手からこぼれ落ちてしまう。心の治癒と発達の観点からも、それは実にもったいないことである。夢を観じて悟りを得る。そのための夢の振り返り実践を多くの人に推奨したい。この人生は夢に他ならないとありありと覚知することこそ悟りであり、そのためには夢を注意深く観察し、夢について深く知る必要があるのだ。
仮の宿としての人生。夢の如き人生は浮世の様相を絶えず呈しているが、浮世であることに目覚めると、途端に夢ではない真如の人生が開かれてくる。そうした感覚にたびたび襲われるようになってきている。おそらく今後も夢の観察を通じて、夢としてのこの人生から目覚めていけば、真如の人生がより鮮明かつありありと知覚されるようになってくるだろう。確かに浮世としての人生は無常であるが、真如の人生は有常である。
貞慶の唯識学においては懺悔を非常に大切なものとしている。それを受けて、懺悔が持つ浄化作用について改めて注目していた。懺悔はまずある対象の振り返りを通じて行われる。それはあくまでも事物に対する振り返りとしての「事懺悔」だが、その懺悔が深層的なものであればあるほど、あるがままに心情告白をすることによって、それは事物の背後にある真理に到達し、「理懺悔」となる。おそらくある特定の事物の背後にある真理に触れるところまで懺悔を進めて初めて、深層的な心の浄化がもたらされるのではないかと思わされた次第だ。どこか幼少時代の夏休みを思わせる平穏な土曜日の朝の世界が目の前に広がっている。そんな世界の中にあって、心を落ち着かせて、過去の事柄の事懺悔を通過して理懺悔を実践してみたくなっている自分がいることに気づく。フローニンゲン:2024/7/20(土)09:56
13014. ゼミナールの第89回のクラスの振り返り
時刻は午後4時を迎えた。早朝の予報の通り、今日は30度を超え、夕方の今の時間は31度の気温となっている。2階にいるととても暑かったので、今日の午後からのゼミナールは涼しい1階に降りて行う形となった。ゼミナールを終えて気分転換に散歩がてら近所のスーパーに買い物に出かけたところ、暑さのためか、人通りはとても少なかった。確かに日向を歩いていると暑かったが、日陰に入ると風のおかげもあってか涼しさを感じることができた。しかし総じて今日は久しぶりの真夏日を満喫することになった。確かに真夏日には煩わしさがあるが、こうして暑さを感じられるのも夏らしくていい。そのように悠長なことを言っていられるのも、7月に入ってもずっと涼しい日々が続いていたからなのかもしれない。
今日のゼミナールのクラスの中では、冒頭に暑さの話となった。「環境」という言葉をテーマにして、唯識の観点から環境について扱ってみると、受講生の方々から思わぬ意見をたくさんいただき、思わぬ形で非常に学びになる対話となった。中でも印象的だったのは、「環境」という便利な言葉を使って私たちは取り巻く世界のことを言い表すが、環境の本来の姿は剥き出しのあるがまま性なのであり、それは時に残酷で、時に暴力的な形で私たちを襲う。また、環境というのもまた究極的には阿頼耶識が生み出すもの、あるいは創造しながらにして改変するものであるという点にも注意が必要である。昨今は異常気象が毎年どの季節でも話題となるが、そうした異常性も人間の心が関与していることを忘れてはならない。自然は絶えずあるがままに存在し続けているから「自然」なのであって、そこに人間が行為によって関与し、言葉によって仮構したものが環境なのだろう。環境問題について考える際にも、その問題の解決に向けて取り組みをする際にも、客観的な指標を用いて分析をしていくことはもちろん重要だが、改めて環境という言葉を当てている人間の心の有り様にも注目したいところである。
その他に考えさせられたこととしては、仏教の根幹思想として、私たちは言葉によって迷い、逆言葉によって救われもするという存在であるということだ。「言葉は麻薬のようである」という非常に素晴らしいご指摘をある受講生の方からいただいたがまさにその通りである。先日、Netflixで『ミッドナイト・ゴスペル』を改めて2回ほど繰り返し視聴したのだが、その1話でまさに「悪い薬も良い薬もない。薬と人間との関係の在り方が重要なのだ」というようなセリフが出てきたのだが、言葉に対しても全く同様のことが言えるのではないかと思う。言葉への過度な執着は毒薬であり、言葉への囚われに対して言葉を通じてそれに気づき、少しずつ言葉への執着から脱却していくことは、言葉の良薬的な用い方なのではないかと思う。奇しくも、クラスの冒頭で熱中症や脱水症の対策としての水分補給の話となったが、自分と水との関係性、そして水をどれだけどのように摂取するかが重要だという話とも繋がってくる。水もまた毒薬にも良薬にもなるのだ。その人の身体特性と置かれた状況において望ましい水分量を確保するのは良薬となり、それ以下だと脱水症を引き起こしたり、過度な水分補給は水毒を生じかねない。言葉に対しても常に中庸的な在り方で接したいものである。フローニンゲン:2024/7/20(土)16:23
Today’s Letter
The golden morning sunshine sheds beautiful and gentle light on the ground. All sentient beings on the ground are naturally full of satisfaction and bliss. I like this moment the most in a day. I’m delighted and blissful to see all sentient beings content. Groningen, July 20, 2024
コメント