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【成人発達心遊記】12968-12972:2024年7月13日(土)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12968. 貞慶とインドの唯識思想の研究

12969. 今朝方の夢

12970. 心の治癒と発達に主眼を置く唯識学/唯識学と発達心理学の佳境に向けて

12971. 浄土について

12972. 第88回のゼミナールのクラスを振り返って


12968. 貞慶とインドの唯識思想の研究


時刻は午前6時を迎えた。今朝は早朝からかなりの冷え込みで、今の気温は14度だが、体感温度としてはもっと低い。部屋の室温も21度ほどしかなく、長袖長ズボンを着用して過ごしている。昨日は午後から激しい雨が降り、夜も少し雨が降っていたようで、それが気温を下げた原因だろう。今日もまた午後から雨が降るらしいので気温は上がらず、最高気温は17度に留まる。明日もまた今日と似たような気温かつ天気となるが、明後日からはようやくまた20度を超える気温となり、暖かさを感じられるだろう。流石にもう7月も第2週を終えようとしているので、涼しさよりも寒さを感じる気温からは脱却したいところである。暑すぎるのも好ましくないが、寒すぎる夏もまた好ましくない。明後日からの温もりに期待がかかる。


今日もまた唯識学の探究を主軸にし、スポーツの練習をするかのような形で英語の発話能力の鍛錬に取り組む。それに長時間従事してももちろん効果はあるだろうが、集中力が欠けた状態で取り組んでも仕方ないし、楽しさの感情が薄れた状態で行っても仕方ない。スポーツの世界の2部練を参考にして、午前と午後の2回に分けて、集中した形で英語の発話能力の鍛錬をこれからも続けていきたい。集中と継続の双方がとにかく大事であり、それに加えて創意工夫を絶えず行って常に楽しみながら実践することも大切となる。後者の在り方が集中力と継続を左右する。


今日の唯識学の探究では、昨日に引き続いて貞慶の信仰心に関する学術書を読み進めていく。自分は良遍に最も注目しているが、彼の師匠の師匠であった貞慶について深く知ることは、良遍について知ることにもつながる。そのような問題意識から貞慶についての研究書は入手できる限り全て揃えており、それらを旺盛に読み進めることを行っている。貞慶の孫弟子にあたる良遍についてはいくつかの主著やその解説書がちらほらあるが、良遍の人となりについて解説するような書籍は今のところ見つかっていないので残念である。いずれにせよ、今日は貞慶についての学術書を読み進めながら、再び英語で執筆された唯識学の学術書の再読を始めていく。ここ最近はもっぱら和書を頼りに唯識学の研究を進めていたが、英語の文献が恋しくなってきたので、今日からまた英語の文献にも目を通していく。英語空間における唯識学の研究はインドの唯識思想が中心となるが、唯識学の源流であるインドの唯識思想を蔑ろにしていては日本の法相唯識学の理解もままならないであろうから、英語空間に存在するインドの唯識思想についても再び探究を再開していく。そうすることによって、日本の法相唯識学の固有性も自ずから理解されてくるだろう。今日からまた英語の文献を読む楽しみが加わったことを喜んでいる自分がいる。こうした喜びの気持ちを大切にして、日夜探究を少しずつ前に進めていこう。フローニンゲン:2024/7/13(土)06:13


12969. 今朝方の夢 


今朝は早朝から曇り空で、気温が低く足元から冷える感じである。外気の低さと曇り空のせいもあってか、小鳥たちの鳴き声は聞こえてこない。風も無く、静けさだけが存在する朝の世界の中で今朝方の夢について振り返っている。この振り返りを終えたら体を温めるために呼吸法と動的ストレッチを行い、温かい飲み物を飲もうと思う。


今朝方は夢の中で、日本と思われるどこかの町の見知らぬ大型スーパーで買い物をしていた。スーパーの店内には音楽が流れており、その音楽のメロディーがとても心地良かったので、私はメロディーに合わせて音楽を口ずさんでいた。しばらく店内を歩いていると、かつてのサッカー日本代表のDFの選手と遭遇し、少し立ち話をした。どうやら私たちは知り合いのようで、お互いに同い年ということもあって話に花が咲いた。彼はまだ現役でサッカー選手として活躍しているため、体は相当に鍛え抜かれていた。そんなプロサッカー選手の体つきと自分の体つきがほとんど変わらないことを彼は笑っていた。もちろんプロサッカー選手である彼の方が筋肉量は多いのだが、彼からのフィードバックを受けて、自分はどのような体を理想しているのだろうかと改めて考えた。今は個別具体的なスポーツを行っているわけではないし、今のところまたスポーツを始める予定もないので、特定のスポーツ選手のような体つきが理想なわけではない。かといってボディビルダーのような日常生活で活用しようのない不要な筋肉を求めているわけではない。そこでふと思いついたのが、今も細々と継続してトレーニングをしているジークンドーの創始者であるブルース・リーのような肉体である。彼の肉体はまさに武術家の中でも相当に鍛え抜かれたものだった。武術に求められる瞬発的な動きを妨げず、むしろそれを引き出すような筋肉量を持っていたブルース・リーの肉体は一番理想的なものかもしれないと考えたところで夢の場面が変わった。


もう1つ覚えているものとしては、欧州とも日本とも分からなぬ国の道を走る車の中にいたことである。誰が運転しているのかは定かではなく、隣の車線の後方からやって来た車に乗っていた日本人の人たちと窓を開けて車越しに会話をしていた。その車には筋肉隆々の見知らぬ中年のトレーナーの男性がいて、彼が突然車から身を投げ出してバランスを取り始めた。窓に足を少しだけ掛けて体を倒して起き上がるということを走行中の車で行い始めたことには驚いた。車の中には小学生ぐらいの男の子も乗っていて、彼もその男性を真似て同じような動作をし始めた。流石に危険なように思えたが、その男の子も見事なバランスを発揮していた。まるで曲芸を見るかのような気持ちになり、驚きの感情で呆然としていると、いつの間にか彼らはどこかに消えていた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/7/13(土)06:27


12970. 心の治癒と発達に主眼を置く唯識学/唯識学と発達心理学の佳境に向けて  


今日はかなり冷え込んでいるので、毎朝飲んでいる温かい飲み物にホッとする。今もゆっくりとそれを飲んでいるのだが、それを飲みながら、唯識学の主眼は心の治癒と発達であることを改めて思った。仏教においては、私たちの心は病に罹っているとする。真理に対して無知で、我や諸存在を実体化してそれに囚われるという病に私たちは罹っている。端的には、私たちは等しく心の病を患った病人なのである。そうした現実認識から出発し、病の治癒を実現し、心を育んでいくことを強調する点に仏教の大きな特徴がある。そして、唯識学は私たちがどのように病に罹っているのかの詳細な分析と病の克服に向けた実践道を示している点に大きな特徴がある。現代人のみならず、古代から人間は迷い、心を患う存在なのだ。それは心が持つ分別心に問題の根幹があると言えるだろうが、問題が克服され、少しずつ心が治癒されていけばいくほどに、叡智と慈悲によって分別心は清浄なものになっていく。それがまさに無分別智を経た後の分別智となり、無分別智を経る前のそれとは性質がまるっきり異なる。いずれにせよ、唯識学では人間の心の病に対して臨床的な分析と治癒の方法を提供している点に最も感銘を受ける。そもそも心の治癒と発達を希求した瑜伽師たちが実践と協議によって磨き上げていった叡智の結晶が唯識学なのである。唯識学の成り立ちを考えてみれば、それが治癒と変容に関する診断の観点と実践の観点の双方を豊かに内包していたことが自ずから分かるだろう。そして、心理療法の理論や発達心理学の理論との相性の良さ、あるいは相互補完性についても見えてくる。古代の瑜伽師たちと同様に、まずは自分自身を実験台としながら、自らの心の病と引き続き向き合っていき、その治癒に努めながら少しずつ心をより逞しく育んでいきたいと思う。心の治癒は慈悲の心を深め、心の発達は智慧の心を深めていくはずである。


そのようなことを考えながら、ここからの自分の探究はやはり唯識学と発達心理学を佳境していくものになっていくように思われた。しかもそれは臨床的な側面が強い形で進められていくような予感があるし、そうした形で探究を進めていきたい。自分は心理療法の資格を持っているわけではなく、それを取得したいとも思わないが、自らの心の治癒と発達にはやはり大きな関心を寄せ続けている。そうした原点に回帰するような形で、改めて心理療法の理論や発達心理学の理論を復習していこうと思う。きっとその復習過程の中で新たな気づきがたくさんあるであろう。唯識学を学び始める前と後では、きっと見えてくるものが異なるはずである。唯識学では心の影の側面を煩悩という言葉を通じて分析していくが、発達心理学における影の理論として、改めてフロイト、ユング、アドラー、ラカンなどの理論を学び直していきたいと思う。個人の心の影についての理解をさらに深めていき、集合の心の影についても再び探究を進めていこう。そのような気持ちを新たに持つ。フローニンゲン:2024/7/13(土)07:08


12971. 浄土について 


激しい雨が降り始めた。昨日も地上を浄化するような強い雨に見舞われたが、今日もまた激しい通り雨がやって来た。それは通り雨ゆえにしばらくしたらまた世界は落ち着きを取り戻すだろう。この一過性の景色をぼんやりと眺めている。


午前中には浄土について少しばかり考えを巡らせていた。浄土というのは決してあの世のことを指すのではなく、唯識学においては八識の全てが浄化され、それらの識が智に転じ、四つの智が織り成す世界のことを指す。とりわけ阿頼耶識が大円鏡智に転じ、それが顕現させる世界のことを浄土と呼ぶ。このようにして、私たちは生きながらに浄土に往生することが可能なのである。もちろんその実現は道のりが長く険しいものだが、唯識学が指す浄土のイメージは大変分かりやすい。八識の全てが浄化され、四つの智に転じた後に顕現される世界が浄土なのである。心を治癒し、心を発達させていこうと誓ったその日から、私たちは少しずつ浄土の一端を垣間見ることになるだろう。


今日は午後に第88回のゼミナールのクラスがある。今日のクラスに向けた準備はすでに済ませている。今日もまた90分のクラスの時間を大いに楽しみたい。今日もまた創造性と即興性が存分に発揮されたクラスになることを願う。自分の創造性や即興性だけではなく、受講生のそれらが相互に影響し合う形で示唆に富んだクラスになれば幸いである。創造性と即興性を後押しするような仕組みをいくつか考え、それを積極的に導入していきたい。毎回のクラスの場は、自分を含めたその場にいる人たちが織りなす識の交流なのである。各自の八つの識が共鳴し合う形で新たなものがその場で生まれてくる創造の喜びに今日もまた浸りたい。そこには智慧と慈悲が体現されており、それらを養分として汲み取るながら各自の学びと実践を深めていきたいものである。各自がジャズの演奏者であることを忘れずに、それぞれの積極的な発言を促しながら、今日のクラスも大いに楽しみたいと思う。フローニンゲン:2024/7/13(土)11:17


12972. 第88回のゼミナールのクラスを振り返って      


時刻は午後4時を迎えようとしている。今日は正午前に激しい雨が降っていたが、今は雨が止み、幾分青空が見える。今日は1日を通して気温が低かったが、とても穏やかな土曜日の時間がゆっくりと進行している。


先ほど、第88回のゼミナールのクラスを終えた。今日のクラスは少人数での実施となったが、その分密な対話が実現され、充実した時間を過ごしていた。今日のクラスの振り返りを少しばかりしてみたい。まず冒頭でこの冬の奈良旅行の話となった。すでにゼミナールの受講生の皆さんにはこの旅行について情報共有をしており、何名かの方と一緒に初冬に奈良観光を楽しむことになった。日にちも無事に決まったので、あとは集合場所や集合時間を後ほど決めたいと思う。今日のクラスを振り返ってみたときに印象に残っているのは縁を掴む力についてである。現象という結果は絶えず因という直接原因と縁という間接原因が必要になる。因は自らの身口意の業が重要な役割を担っており、それは個人に帰属する。一方で縁は個人を超えたものであるがゆえに縁そのものに関与していくことは難しいだろうが、縁に恵まれる人、縁を引き寄せることができる人というのは確実に存在しているだろう。そうした良縁に恵まれ、良縁を引き寄せることができる人の特徴は何なのかについてクラスの中で意見交換をしていた。クラスを終えて改めて思うのは、まずはそもそも縁という理があることを知り、それを信じることの大切があるように思う。縁起の理という真理に対する無知から脱却し、その真理の存在を知り、それを信じることはまず第一歩だろうか。そして次に大事なことは、一つ一つの個別具体的な現象に働く縁の理を観察し、それに毎回感謝の念を捧げることだろうか。常日頃から良縁の背後にある縁起の理に思いを馳せることを継続させていくと、縁起の理が広がる真理の世界とのパイプが太くなっていくような感覚がある。そうした感覚を醸成させながら、さらに重要なことは自分の存在が常日頃の言動は全て誰かにとっての縁として機能しているということへの認識だろうか。自分という存在も他者にとっての縁として働き、自分の言葉や行為もまた誰かにとっての縁となるのだ。そうした認識を持てば持つだけ、清き心を持って善行を積みたくなってこないだろうか。自分はそうした思いになる。そうした思いを持ちながら、今の自分を取り巻く良縁を振り返ってみたり、これまでの自分の良縁を振り返ってみたいと思う。


それ以外には、発達心理学と唯識学を佳境するようなテーマもあったことを覚えている。今の自分を縛っている考えの枠組みはどこからやって来たのか。それを考える際に、両親の価値観、世代の価値観、社会の価値観をもう一度具に検証してみることが重要であり、ある特定の価値観が自分の考えの枠組みに大きな影響を与えていると気づいたら、「なんだそういう価値観が自分に多大な影響を与えたいのか」と気軽に手放していくか、そうした価値観もまたある種の固有の存在として命を持つ存在だったのだとみなし、決して悪者にすることなく、それらに対して慈悲の心を通じた赦しを与えるということもそうした価値観からの脱却において有効だろう。気づくことは解放をもたらし、赦すこともまた解放をもたらす。後者の赦しは気付きの後にやって来るものであるため、さらに一歩進んだ解放の在り方だと言えるだろうか。いずれにせよ、自分に足枷をはめていたものに気づくことができたらそれだけでまずは御の字であり、その存在を認め、赦すことができたら尚良しである。フローニンゲン:2024/7/13(土)16:07


Today’s Letter

Buddhism emphasizes that all of us suffer from psychological diseases. The root cause of this suffering is our ignorance. The starting point for curing these diseases is admitting that we are psychologically sick. The next step is to overcome our evil desires. The Yogācāra school of Buddhism provides pathways to heal and develop our minds. Groningen, July 13, 2024

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