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【成人発達心遊記】12936-12941:2024年7月6日(土)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12936. 唯識学の研鑽を通じた変化を実感して

12937. 今朝方の夢

12938. 第87回のクラスに向けた実験案

12939. 智慧を磨く場としてのゼミナール

12940. 心の美化と世界の美化

12941. 第87回のゼミナールのクラスを終えての振り返り


12936. 唯識学の研鑽を通じた変化を実感して  


時刻は間もなく午前6時を迎えようとしている。今朝は起床した時から雨が降っている。起床した際に聞こえていた雨音は幾分力強かったが、今は少し雨足が収まっている。今日もまた気温は低く朝方には暖房が入っていたようである。今の気温は16度で、日中の最高気温は19度である。日本はもう30度を超え、35度に達するような気温の地域も数多くあるのとは対照的である。週間予報を眺めると、来週の月曜日と水曜日は20度前半の最高気温となり、火曜日は曇りでありながらも24度にまで到達するようだ。しかし木曜日からはまた気温が下がり、最高気温は20度未満となる。7月も第2週目に入ろうとしているが、まだまだ涼しい夏が続く。この気候の恩恵を受けて、自らの取り組みを少しずつ着実に前に進めていこうと思う。


ここ最近は仏教の諸行無常の真理に対する理解の深まりのおかげなのか、この人生の有限性をより意識するようになり、日々がますます貴重なものとして知覚されるようになった。諸行無常観を体現すればするほどに、自らに与えられた命の有限性が自覚され、日々がますます大切で尊いものに思えてくる。一瞬一瞬の時間の大切さへの自覚が増せば増すだけ、日々が輝いてくる。一瞬一瞬の時間が大切だという自覚が増したからといって、その時間を独りよがりに使おうとするのではなく、自他のために使おうとする意識が高まっている。例えば唯識学の研究に際しても、どのような学術研究が自他にとって意味のあることなのだろうかと絶えず考えている自分がいる。もちろん純粋にその研究が楽しいという理由だけで取り組むこともまた素晴らしいことだが、そうした楽しさの感情に加えて、それが社会の役に立つものであればあるだけなお良しである。そんな思いから、どのようなテーマで唯識学の研究を進めていったら他者や社会のためになるのかを考えている日々が続く。とりわけ論文を執筆する際にもその意識が反映されており、単に学術コミュニティに対してだけ貢献するのではなく、その研究ができるだけ社会に広く貢献するようなものであって欲しいと願う自分がいる。こうした思いは善の心所における善法欲の働きだろうか。いずれにせよ、唯識学を学び始めてからというもの、日常を生きる自分の眼差しが変化し、日々の活動の根源にある在り方が良い方向に変化しつつあるのを実感する。毎日少しずつでいいので、唯識学の研鑽をこれからも続けていきたい。そして実際に学術研究に再び旺盛に従事し、その成果を広く社会に還元させていきたい。フローニンゲン:2024/7/6(土)06:05


12937. 今朝方の夢


小雨が降るのが止み、とても静かな朝の世界が目の前に広がっている。今日は小鳥たちも休んでいるようで、彼らの鳴き声が聞こえてこないこともあってより一層静かである。そんな静かな朝の世界に佇みながら、今朝方の夢について振り返っている。


まず覚えている夢として、現役のサッカー日本代表の中心選手が自分がかつて卒業した大学に入学したことを祝う場面があった。その選手は日本の小さな町の進学塾に通っていて、大学入試を見事に突破し、晴れて次の春から大学に通うことになった。その選手は今はイギリスのプレミアリーグで大活躍していることもあり、再び日本の大学に通おうとしていることに最初は驚いだが、文武両道の精神を体現しているのだろうと思ってあまり変なこととは思わなかった。実はその塾にはまた別の日本代表の選手も通っていて、その選手も自分が卒業した大学に見事に合格していた。その塾からは合計で3名ほどが母校に入学することになったのだが、プロサッカー選手である2人の成績は飛び抜けて良かったらしく、入試間際の冠模試では偏差値が70代後半のようだった。冠模試でそれくらいの成績であれば確かに合格しても全くおかしくないと思った。自分は大学のOBとして、2人にどのような勉強法を採用したのかについてインタビューをすることになった。いざ2人から話を伺おうとしたところで夢の場面が変わった。


次に見ていた夢は、石川県の日本海側の町を彷彿とさせる場所にいた場面だった。その町に私は観光で訪れていた。雰囲気のある城下町を歩くことは歴史を感じさせ、とても気分が良かった。しばらく歩いたところで一休みしようと思って茶屋の外の長椅子に腰掛けた。すると、小中学校時代の2人の親友(HS & YU)が現れ、こちらに声を掛けてきた。何やら今から近くのカフェに行ってランチを食べるとのことであり、一緒にどうかと誘いを受けたのである。それは有り難い誘いであったが、実は先約として大学時代の女性友達とこれからレストランで食事をすることになっていたので彼らの誘いを断り、また後でゆっくり話そうと述べた。彼らの誘いを断ったタイミングで、その女性友達が現れた。彼女はいつものようにとてもお洒落な格好をしていた。彼女と挨拶を交わし、彼女が行ってみたいと述べていたレストランを探すことにした。そのレストランは海沿いの通りにあるとのことだったので、その通りにまず行ってみた。するともう海が目の前にあったので、レストランに行く前に少し砂浜を歩いて楽しもうということになった。彼女は海の見えない場所で育ったこともあってか、砂浜を歩くことや海を見ることをとても楽しんでいて、目が輝いていた。そんな彼女の姿を見てこちらも嬉しくなり、しばらく砂浜を歩くことを楽しんだ。すると、目的のレストランと思える店に到着した。そこは美術館と融合していて、レストランの中が美術館になっている、あるいは美術館のフロアがレストランになっているというとてもユニークな店だった。食事を楽しむ椅子と机にもこだわりがあり、1つとして同じ椅子や机はなかった。壁にかかっている絵画やフロアに置かれている彫刻作品を眺めながら、どの席にしようかと彼女と話し合いながらフロアをゆっくりと歩いた。食と芸術が融合したこんな見事なレストランがあるのだと大変感銘を受け、彼女が海で目を輝かせていたのと同じように、自分もその場で思わず目を輝かせていた。そのような場面があったのを覚えている。フローニンゲン:2024/7/6(土)06:40


12938. 第87回のクラスに向けた実験案  


早朝こそ小雨が降っていたが、午前7時を迎えようとしている今この瞬間には朝日が差し込み始めた。天から降り注ぐ恵みのような優しく美しい朝日が辺りを包んでいる。朝日の温もりを感じながら、本日行われるゼミナールの第87回のクラスについて思いを馳せていた。ゼミナールで唯識学を扱い始めてからというもの、クラスの場が心を磨き、育むための道場のような場になりつつあることを嬉しく思う。心を見つめ、心を鍛錬する場所の力は毎週のクラスを経るごとに強まっている。心を磨き、育むことを目的にした前提があるからこそ、クラスの場で開示できることがある。今日もまたクラスの中でどのような事柄が開示され、参加者それぞれが各自に内在する真理に気づいていくのか楽しみである。自分自身もまた当事者として、自己を貫く真理について少しでも目覚めが起こったらと思う。気づきは目覚めの表れなのであり、さらなる目覚めを促してくれるものなのだ。そんな性質を持つ気づきを今日もまた道場としてのクラスの場の中で数多く得ることができたらと思う。気づきを得る目的は、兎にも角にも上昇する愛(エロス)と下降する愛(アガペー)に貫かれた上求菩提・下化衆生を実現することにある。


今日のクラスでは、ファシリテーターとしての自分の役割を実体化させないように、受講生の方たちにあるお願いをしようと思う。いつもクラスの中でどなたかが発言をしたら、必ずそのボールを自分が受けるようにして、また他の受講生の方にボールを渡している。しかしながら、自分が毎回ボールを経由地点として働く必要はなく、むしろ自分を介さずにボールが回っている方がはるかにクラスの実りが多いように思う。それはお互いを知るという意味でも有益だろうし、発言と問いをセットにすることを通じて、また違った角度から唯識学について理解を深められると思うのだ。なので今日は必ず発言と他の受講生への問いをセットにしてもらうことを提案してみたいと思う。自分がボールを拾うのは何か重要な時だけにし、それ以外は基本的に受講生同士でパス交換をしてもらうようにする。仮にこれがうまくいけば、自分のことをファシリテーターだと認識し、実体化していた現象が解体され、また違ったダイナミズムを持つ場がその場に生まれるだろう。そして、これまでにない形で受講生同士の啓発が起こるだろう。それ以外にも今日は、他の受講生の心の在り方や学び方を参考に、他者を通じて自己反省をする愧の善の心所を働かせる場としてのクラスも実現したい。今日は実験的に色々と試してみたいことがあり、それらがどのように働くかを見ることが今から楽しみである。フローニンゲン:2024/7/6(土)07:01


12939. 智慧を磨く場としてのゼミナール    


時刻は間もなく午前11時半を迎えようとしている。これから少しだけ仮眠を取り、昼食を摂ってゼミナールのクラスを迎えたい。クラスの冒頭では前回のクラスからの1週間の出来事の共有をしてもらったり、何か面白い映像作品を見たのであればその感想を聞いてみたり、どこかに出かけた体験などを聞いてみたい。また、仏教の他の宗派の思想を学んだ方がいればその話も伺ってみる。結局何をしていたもそこには必ず心が関係しているので、全ての事柄が唯識ニュースとなる。


今日のクラスの中では、クラスの時間はできるだけ三昧を心がけるようにしたいし、受講生にもその意識を持ってもらうように呼びかけよ。マルチタスクをしながら注意散漫の形でクラスに臨むのではなく、クラスの中では少なくとも「定」の心所を働かせてもらい、目の前の時間と活動に没入してもらうようにする。これは自分でも有言実行したい。さらには、クラスの中で発言をする際や質問をする際には、これまでのクラスでの他の受講生の方の発言を思い出すという「念」の心所を働かせてもらうことも提案してみよう。念の心所を通じて発言と問いかけをセットにしてもらう形で、これまでのクラスの内容と今日のクラスの内容を佳境する形で大きな物語を作っていく。それが私たちの心の成長を後押ししてくれる。

唯識学を学ぶ実践学習コミュニティとしてのサンガがここにあるという実感が毎週のクラスを通じて高まっていく。毎回のクラスを通じてお互いについて理解を深め、お互いの叡智を引き出していくための場作りをこれからも心掛けていきたい。自分はできるだけ場を作ることと場を整えることに徹するのが賢明だろう。智慧を磨く場としてのゼミナールの中で、自分はサッカーのコーチのような立ち位置で智慧を磨く場作りとメニューを提供することに徹していきたい。今日のクラスもまたきっと実り大きものになるに違いないという確信がある。フローニンゲン:2024/7/6(土)11:34


12940. 心の美化と世界の美化 


時刻は午後3時半を迎えた。先ほど、第87回のゼミナールのクラスを終えた後、散歩がてら近所のオーガニックスーパーに買い物に出かけた。気がついたらパスタと蕎麦つゆがなくなっていたので、それらを買いに行く必要があったのである。土曜日に久しぶりに外出してみると、休日の平穏さが体現された街の様子がとても好ましく思えた。それとは対照的に、2013年に起きたボストンマラソン爆弾テロ事件について描いたNetflixのドキュメンタリーである“American Manhunt: The Boston Marathon Bombing (2023)”を昨日まで視聴していた。この悲惨な事件が起きた時、自分はまだアメリカにいた。JFK大学での修士論文の発表を終えたぐらいの頃だったように思う。当時の自らの懐かしい記憶とは裏腹に、この悲惨な事件についての記憶も蘇ってきていた。昨年の秋に訪れたボストンの町でこのような悲惨な事件があったことについて改めて思い出しながら、一見すると平穏そうに思える景色が一秒後に地獄と化す可能性がある世界に私たちは生きているのだということを改めて思い知る。今こうして平穏に過ごしているフローニンゲンも、数年前に近所の映画館で悲惨な殺人事件があった。人は自分を取り巻く世界を自分が見たいように見て、そしてその世界の見方は人の数だけ存在する。世界は心が生み出していることを思うと、世界の見方そのものが世界を生み出しているのであり、また私たちは他者との繋がりの上に生きているがゆえに、各自の心が生み出した重層的な世界の中を生きていると言えるだろう。人間の心は絶えず移ろいゆくものであり、阿頼耶識に薫習された種子が何かのきっかけで現行する性質を持っていることも鑑みてみると、今自分を取り巻く世界の景色は如何様にも瞬時に一変するのだと改めて思わされる次第だ。しかしながらこの事実に悲観的になるのではなく、世界は私たちの心が生み出し、私たちはお互いに関係し合っているのだということを思い出すと、己の心を磨き、他者の心を美しく試みに従事していくことの大切さが見えてくる。唯識学が目指す実践の方向性はまさにそれである。世界がどれだけ退廃しているように思えても、そして目の前の景色が地獄と化してもそれに屈することなく、自己の心と他者の心の美化に努め、世界そのものの美化に努めていくのである。そうした不退転の心構えが改めて自分の内側で炎を燃やし始めている。とても穏やかで平穏な土曜日のフローニンゲンの街を歩きながらそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/7/6(土) 15:42


12941. 第87回のゼミナールのクラスを終えての振り返り


今日の第87回のゼミナールのクラスを終えて、1人静かに振り返りをしている。自分自身を自律的に振り返るという「慚」と、ゼミナールの皆さんの発言や在り方から自己を振り返るという「愧」の心所を働かせている。今日のクラスの最後に受講生同士でフィードバックをし合う場面があったのだが、それを受けて、自分も受講生の方からどのような心所の働きが強いのかについてのフィードバックを受けてみたいと思ったし、自分史を振り返って心所の濃淡の分析をしてみたいと思った。またそれを静的に振り返るのではなく、自分が向き合った課題ごとに分類して振り返ってみたり、時系列分析をする中で動的に心所の濃淡を振り返ってみるということをしてみたい。先ほど散歩をしながら自然と行っていたのは、算数・数学との付き合い方に対する時系列ごとにおける心所の種類と強さに関する分析だった。中学校時代の部活についての振り返りをしてもいいだろし、社会人になってからの振り返りをしてみたり、研究者としてのキャリアの中でどのような心所がどのような強さで働いていたのかについてもまた改めて振り返ってみようと思う。


今日のクラスの中で改めて考えさせられたのは、唯識学を扱った最初のクラスで受講生の皆さんに問いかけをした「唯識を学ぶ目標」に関するものだった。自らは唯識を学ぶ目標として、機能的な目標を掲げるのではなく、神学者のポール・ティリックが述べた「究極的関心」に合致するような究極的な目標を掲げている。それは自分に固有のものではなく、大乗仏教が到達点に掲げているものなので特別なものではないかもしれないが、明確に自分が自利の目標を超えて利他の目標として、智慧と慈悲を通じて有情を利楽するという目標を掲げたのは唯識学と出会ったからだと言える。これまでなかなか明瞭な言葉にならなかった明確な目標ができたおかげで、そこに向かって自分の心は燃えている。その目標は永遠に実現できないかもしれないようなものかもしれないが、真理に貫かれたものであるがゆえに向かっていくに値する目標だと感じている。そうした目標に向かう自分の姿勢も軽安という善の心所の働きも相まって、その目標に執着することへの罠からも逃れることができている。なるほど、大乗仏教が目指す智慧と慈悲を通じた衆生の救済という究極的な目標を設定したとしても、それを実体化して固着することから逃れる方法があるのであり、それを実現させてくれるのが軽安を含めた善の心所なのだとわかる。彼らは究極的な目標を達成していくための不可欠かつ大切なサポーターだったのである。そうした心の働きをこれからも大切にして、智慧と慈悲を通じて有情を利楽するという大きな目標に向かっていきたい。道半ばで命が尽きたとしても、一点の後悔もなく自分の人生を生き切った、命の炎を燃やし切ったと言えるのではないかと思う。唯識と出会えたことがそのような形で自分の命を燃焼させ、命のエネルギーをこの世界に共有することを可能にしたと言える形で人生の幕を閉じることができたら幸いである。


そしてクラスの最後にある受講生の方からいただいた来週に向けた課題として、自分は唯識学というものに入れ込んできたので、今あえて距離を取るために三論宗や華厳宗を学んでいる。さらには、唯識学を学ぶ方法についてもこれまではテキストをベースにしていたことからテキストと距離を取り、映像作品や漫画作品に対して唯識学の観点でその教えを紐解くことを意識的に取り組んでいる。来週もその取り組みを続けていきたいと思う。フローニンゲン:2024/7/6(土)16:03


Today's Letter

A new, glorious day has come. The morning world in front of my eyes is brilliantly shining. Since I started learning about the Yogacara school of Buddhism, my daily life has completely changed. I now perceive every day as new and precious. The brightness of each day increases continuously. I wonder how much further my daily life can shine. Groningen, July 6, 2024

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