top of page

【フローニンゲンからの便り】15790-15831:2025年4月8日(火)(その2)



⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。


⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した「成人発達コラボラジオ」の配信をしています。


タイトル一覧

15790

円満な投資活動を進めて

15791

今朝方の夢

15792

今朝方の夢の解釈

15793

論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その9)

15794

論文に対するさらなる考察(その1)

15795

論文に対するさらなる考察(その2)

15796

論文に対するさらなる考察(その3)

15797

論文に対するさらなる考察(その4)

15798

論文に対するさらなる考察(その5)

15799

論文を元にした6人の対話篇

15800

論文を元にした短編小説

15801

論文「虚偽の想念による仏教との対話」(その1)

15802

論文「虚偽の想念による仏教との対話」(その2)

15803

論文「虚偽の想念による仏教との対話」(その3)

15804

論文「虚偽の想念による仏教との対話」(その4)

15805

論文「虚偽の想念による仏教との対話」(その5)

15806

論文「虚偽の想念による仏教との対話」(その6)

15807

論文「虚偽の想念による仏教との対話」(その7)

15808

論文「虚偽の想念による仏教との対話」(その8)

15809

論文のさらなる考察(その1)

15810

論文のさらなる考察(その2)

15811

論文のさらなる考察(その3)

15812

論文のさらなる考察(その4)

15813

論文のさらなる考察(その5)

15814

論文のさらなる考察(その6)

15815

論文のさらなる考察(その7)

15816

論文のさらなる考察(その8)

15817

論文のさらなる考察(その9)

15818

論文のさらなる考察(その10)

15819

論文のさらなる考察(その11)

15820

論文のさらなる考察(その12)

15821

論文のさらなる考察(その13)

15822

論文のさらなる考察(その14)

15823

論文のさらなる考察(その15)

15824

論文のさらなる考察(その16)

15825

論文のさらなる考察(その17)

15826

論文のさらなる考察(その18)

15827

論文に対する対話劇

15828

論文のさらなる考察(その19)

15829

論文のさらなる考察(その20)

15830

論文のさらなる考察(その21)

15831

論文のさらなる考察(その22)

15821. 論文のさらなる考察(その13)


今回は、スメザムの論文を、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)の哲学、特に彼のモナド論、予定調和、知覚(perception)と統覚(apperception)、そして彼独自の神学的観念論的宇宙論を鍵にして自由に考察していく。スメザムの論文の中心主張は明確である。その主張は、仏教唯識(特に遍計所執性)の観点から、私たちが「外にある」と信じている対象は、実は心(識)による投影であるというものだ。物理的対象の独立した実在性は、「虚偽の想念(false imagination)」によって誤って構成されており、世界は “唯識的観念論”=識が構成した意識現象の場にすぎない。この世界観は、ライプニッツのモナド論的世界観――すなわち、「すべての存在は心的なモナド(monad)であり、世界はモナドの内的表象の総和である」という考え方ときわめて近いものがある。ライプニッツにとって、「モナド」は世界の究極単位であり、それは物質ではなく無窓の精神的存在である。ライプニッツは、「モナドとは、窓のない精神的単位であり、それぞれが宇宙全体を映し出す鏡である」と述べている。この記述は、仏教唯識における「阿頼耶識(ālaya-vijñāna)」の機能と驚くほど似ている。阿頼耶識は、心的痕跡(種子)を蓄え、世界現象を潜在的に構成する場である。モナドは、自己の内に宇宙を映し、他と交流せずに変化する内的表象システムである。この比較から導かれる洞察は次のようになる。

唯識(スメザム)

ライプニッツ

世界は識の構成である

世界はモナドの表象である

外的対象の実在は妄想(遍計所執性)

外的世界は内的表象の調和にすぎない

阿頼耶識は個々の認識の根本構造

モナドは個別的な精神単位(知覚の源)

つまり、スメザムの「世界は識の夢である」という唯識観と、ライプニッツの「世界は無数のモナドが同時に見る夢である」という観念論的宇宙観は、世界の非物質的・内的構造という点で合致している。唯識の三性説のうち、「遍計所執性」は、識が誤って“対象”という実在性を付与してしまう妄想的構成である。スメザムはこれを、「観察者による構成的誤認」だとし、量子物理学的な観測問題とも結びつけて解釈する。ライプニッツは、「モナドはそれぞれ異なる“明晰さの度合い”を持つ」と述べた。「錯誤とは、明晰ではあるが不完全な表象から生じる」。すなわち、モナド=自己完結した認識機構であり、錯誤や虚偽の想念=モナドにおける表象の混濁・誤認である。このように、唯識の「遍計所執性」は、ライプニッツにおける「誤った内的表象」という形で捉えることができるだろう。唯識では、「遍計所執性(誤認)→依他起性(構成)→円成実性(真如)」という認識構造が提示される。円成実性とは、主観と客観の区別が止んだ“ただ如くある”覚知の状態だ。ライプニッツにおいても、「予定調和(harmonie préétablie)」という概念がそれに似た宇宙論的和合のイメージを提供する。ライプニッツは、「モナドは相互に影響を与えないが、神があらかじめ調和させた構造に従って、完璧に連動している」と述べている。この調和された世界構造は、唯識で言うところの「円成実性」――つまり、すべてが識によって条件づけられ、同時に空であり、調和しているという世界観と通底する。

唯識(スメザム)

ライプニッツ

円成実性:空なる覚知の構造

予定調和:モナドの神的調和構造

真如:主客を超えた実在

神の視点:すべての視点の統合としての実在

ライプニッツはモナドが「世界を映す鏡」であると同時に、「能動的に自己の表象を展開する存在」でもあるとした。これは、唯識において「識が対象を構成しつつ、自らその対象を見ている」という自己反映構造(manas / 第七識)と非常によく似ている。スメザムが強調するように、“見ることは創ること(to perceive is to construct)”であり、そこに独立実在はない。ライプニッツも、「世界は神が準備した反映の協奏曲であり、それを各モナドが自己のリズムで奏でる」と語る。この点で、唯識の「見る=現象生成」モデルと、ライプニッツの「映す=世界構成」モデルは機能的に一致している。スメザムの観点をライプニッツ的に再構成すれば、次のようになるだろう。世界とは、無数の心(モナド)がそれぞれ自己の内面に映し出す“識の宇宙”である。私たちは互いに影響しないように見えるが、深層では完全に調和しており、その調和は、“空なる真如”あるいは“神の意志”として顕現している。つまり、「虚偽の想念」とは、自己の内的表象を“外的実在”と誤認するモナドの錯覚であり、それを見抜いたとき、モナドは“如なる空”における調和へと開かれるのである。最後に、スメザムとライプニッツの思想を表にまとめておきたい。

概念

スメザム(唯識)

ライプニッツ(モナド論)

基本実在

識(vijñāna)の構成

モナド(monad):精神的実体

外的対象の否定

遍計所執性(虚偽の想念)

物質は仮象。表象にすぎない

世界の構成原理

阿頼耶識による種子の展開

モナドの内的表象と神の予定調和

解脱/真実在への到達

円成実性(主客を超えた“如”)

モナドの明晰さが高まり、神的視点へと至る

哲学の最終目的

虚偽を超え、空なる調和に生きること

理性によって宇宙的調和と神の計画を理解すること

フローニンゲン:2025/4/8(火)15:55


15822. 論文のさらなる考察(その14)

              

今回は、スメザムの論文に対し、バールーフ・デ・スピノザ(Baruch de Spinoza)の哲学――特に『エチカ(Ethica)』における汎神的一元論、属性と様態の理論、認識の三段階、および自由と必然性の問題の観点から、体系的かつ自由に考察を加える。スメザムが論文で中心的に取り上げるのは、仏教唯識の「遍計所執性(parikalpita)」、すなわち“実体なき構成を実体と見なす誤った認識”のことである。彼はこれを、外的世界を“心とは独立した対象”と見なすことに起因する根源的錯誤であると捉えており、あらゆる二元的認識(主観と客観、自己と他者、意識と物質)を解体すべき幻想であると論ずる。スピノザにとってもまた、このような“誤った想念(imaginatio)”は哲学的治療の第一の対象である。彼が語るところの「第一種の認識(cognitio prima)」、すなわち偶然的知識・感覚印象に基づく認識は、個々の事物を分断されたものとして知覚するが、それは真の認識ではなく、自然の本性を歪めた虚像にすぎない。すなわち、スメザムの「虚偽の想念」は、スピノザにおける「imaginatio=断片的で混乱した観念」に他ならず、両者は「対象の自性を誤認することが苦の起源である」と同じ原理に立っている。スピノザの形而上学的中核は「神即自然(Deus sive Natura)」である。すなわち、神は超越的存在者ではなく、無限の実体として、あらゆる存在様態の内在的根拠であり、自己展開的存在である。スメザムが依拠する唯識の哲学、とりわけ「阿頼耶識(ālaya-vijñāna)」は、すべての現象・主観・対象を支える潜在的意識の基盤であり、現象世界はそこから生じる多様な様態(vṛtti)にほかならない。この両者は、以下の点で驚くほど整合的である。

スピノザ

唯識(スメザム)

神(自然)=唯一実体

阿頼耶識=唯一根拠意識

属性(思惟・延長)

識の構成力(vijñapti)

様態(modi)

心的種子の展開としての現象

自己原因(causa sui)

識の相続的因果による構造展開

スメザムが描く「世界は識の展開であり、構成的錯誤が“物の存在”を想定させる」という主張は、スピノザ的に言えば、「唯一の実体=神(自然)を部分に分割して“自立的物”と見なす誤り」である。すなわち、遍計所執性とは、実体の無限性を様態として誤読することによって生じた“存在の誤配”である。スピノザは『エチカ』第二部において、「認識には3つの段階がある」と説く。(1)第一種の認識(imaginatio) – 感覚・偶然的経験に基づく錯誤的知(2)第二種の認識(ratio) – 理性による普遍的秩序の理解(3)第三種の認識(scientia intuitiva) – 神的視点からの直観知。この構造は、唯識の三性論に驚くほど一致する。

スピノザ

唯識(スメザム)

第一種の認識:混乱と誤認

遍計所執性:妄想的構成

第二種の認識:因果の秩序

依他起性:因縁的構造の洞察

第三種の認識:神的直観

円成実性:真如/如としての全体認識

スメザムの主張する「虚偽の想念からの脱却」とは、第一の認識から第三の認識への転化に他ならず、神(自然)を様態の彼方から“如”として認識することに等しい。スピノザにおける自由とは「自己原因(causa sui)として存在すること」であり、真に自由な存在とは、自己の本性に従って必然的に行為することである。これは、スメザムの唯識論が説く「解脱(mokṣa)」――すなわち、妄想構成(遍計所執性)に依らず、真如を覚知して自然に菩薩の行動を生きること――と実質的に一致する。スピノザにおいて自由とは、「神(自然)の必然的連関を理解し、その秩序と調和に則って生きること」であった。スメザムにおける自由とは、「識の構成が止み、“空なる如”として現実を見、慈悲と智慧の行為をなすこと」である。両者は、「自由とは構成的幻想を超えることであり、それは“自己と宇宙の本性を一として見ること”によってのみ達成される」と共通して捉えている。スメザムが論じる、「自分が見ていない時に他者が月を見ていたとして、それは自分にとって実在と言えるか?」という問題は、スピノザにとって次のように再解釈される。スピノザによれば、「物(res)とは、実体の様態であり、その存在は個人の知覚とは無関係に、神の無限性の中で必然的に存在する」。したがって、「月」は“自分にとって”実在か否か、という問いは意味を持たず、その存在は常に神的必然性の様態として成立している。しかし、スメザムの唯識的観点では、“他者が月を見る”という情報が自分の識に現れている限りでのみ“月”は現象する。ここに両者の観点の違いがある。だが両者に共通するのは、“実在”とは、知覚や思惟の構造に基づく幻想ではない。真の実在は、認識の連続性と原因の把握(理性または智慧)を通じて顕現する。すなわち、スピノザもスメザムも、“存在の真実性”を感覚的・日常的基準ではなく、理性的/覚知的次元で再定義している点で一致する。スピノザの観点から見れば、スメザムの哲学とは、次のように言い換えられるだろう。「スメザムは“神即自然”を“識即現象”として再定式化し、その唯一実体(阿頼耶識)から生起する様態(現象世界)を、錯誤的認識(遍計所執性)によって誤解している人間に対して、“真なる認識(円成実性)”への帰還を促す倫理的・形而上学的教育を行っている」。そしてスピノザは、スメザムの論文にこう応答するだろう。「我もまた、神のうちに、識のうちに、世界を映す無限の様態としての人間の存在を認める。誤った想念(imaginatio)を離れ、理性(ratio)を通じ、その先にある神の視点(scientia intuitiva)に至るとき、真なる“自由の哲学”は初めて始まるのである」。フローニンゲン:2025/4/8(火)16:15


15823. 論文のさらなる考察(その15)

            

今回は、スメザムの論文を、デイヴィッド・ボーム(David Bohm)の哲学――とりわけ彼の内在秩序(implicate order)と外在秩序(explicate order)、ホロノミック宇宙観(holonomic universe)、および意味の場としての意識論に照らして自由に考察する。スメザムは本論文において、「遍計所執性(parikalpita)」すなわち“世界を外的対象として実体視する心の錯誤的構成”を、仏教的唯識観念論の枠組みから厳密に批判している。彼にとって、「外に“物”がある」という想定それ自体が、構成された想念にすぎず、“虚偽”である。これは、ボームが批判した「外在秩序に囚われた断片的思考(fragmented thinking)」と本質的に一致するものである。ボームは次のように述べた。「私たちは外在秩序(explicate order)――つまり分離された事物の秩序――を“唯一の実在”と錯覚している。だがそれは、内在秩序(implicate order)という深層の動的全体性が一時的に展開された表層にすぎない」。すなわち、スメザムのいう「虚偽の想念」とは、ボームにおける「外在秩序への過剰な同一化」に他ならない。唯識において、世界は「識(vijñāna)」によって構成されると考える。阿頼耶識に蓄積された“種子”が縁によって発現し、現象世界(心・対象・他者)を一体的に現前させる。ボームもまた、「意識とは意味の流れであり、それが場(field)として存在し、宇宙全体に浸透している」と述べた。さらに彼はこう続ける。「意識と物質は分離されたものではなく、意味を媒介にして1つの秩序の異なる表現である」。これはまさに唯識の見解と一致する。

概念

唯識(スメザム)

ボーム哲学

世界の根源

阿頼耶識(識の種子を蓄積する構造)

内在秩序(意味の包蔵的場)

現象の構成原理

種子+縁=現象構成

意味の動的展開(enfoldment/unfoldment)

認識の誤り

遍計所執性(誤った対象構成)

外在秩序への絶対化/断片的認識

解脱・智慧

円成実性(主客の超克、如の直観)

全体性への回帰/意味の統合的洞察

したがって、スメザムが批判する「対象としての世界観」は、ボームにとっては「外在秩序に囚われ、内在秩序を見失った知性の病理」であると言える。スメザムが論じる有名な問い、「自分が月を見ていないとき、他者が月を見ていたとして、その月は“自分にとって実在”か?」という問題に対して、ボーム的立場は次のように応答し得る。ボームによれば、物(object)とは“内在秩序の一時的展開”である。つまり、“月”とは固定された対象ではなく、意味の場における“意味的折り畳み(enfolded meaning)”の現れにすぎない。自分が月を見ているとき、それは「識=意味の場」が特定の秩序を展開している状態である。他者が月を見ているという情報は、自分の識の場に“他者の観察”という意味が構成されたときに限り、現象する。したがって、「月」そのものの実在は、“主観的な知覚”ではなく、“非局所的な意味構造の運動”に属する。この構造は、唯識における「他者の知覚もまた、自分の識の現象である」とする立場と完全に一致する。スメザムにとってもボームにとっても、“対象”とは独立したものではなく、全体的場の中で構成される相互依存的意味の出現である。スメザムの論文における最終的な倫理的・形而上学的目的は、遍計所執性(誤った想念)を乗り越え、円成実性(真如)の認識へと到達することである。 これは、ボームが提唱した「断片化された知性の統合」という目標と等価である。ボームは、「真の意識の治癒とは、断片から全体性への回復であり、意識そのものが意味の場として宇宙と連動していることを理解することである」と述べた。スメザムもまた、「世界を外にあるものとしてではなく、識の構成として理解し、そこから慈悲と智慧を生きること」が解脱への道であるとする。したがって、両者の倫理的構造は一致する。

哲学者

認識の誤謬

回復の道

宇宙観

スメザム

外的対象への執着(遍計所執性)

円成実性としての“空なる識”の認識

心=場としての宇宙、識が流動的に現象を生む

ボーム

外在秩序への固執/分断的思考

意識を意味の場として再統合すること

全体性(wholeness)としての宇宙、内在秩序の展開体

スメザムの論文は、唯識仏教の視座をもって、“実体なき世界に実体を見るという想念の誤謬”を徹底的に批判し、その乗り越えを「智慧と慈悲による覚知の場」として提示する。ボームもまた、現代物理学の限界を越えて、“断片化された思考から意味の全体性へ”という運動を促す精神的革命の必要性を説いた。両者を貫く1つの命題は、こう要約できるだろう。世界は“意味の動的場”であり、対象とは常に“識”あるいは“秩序の展開”である。実在とは、非二元的全体性において内在秩序が自己を顕現する運動であり、それを“物”として切り出すことこそが虚偽の想念である。スメザム唯識とボーム物理哲学の対応をまとめると以下のようになるだろう。

概念項目

グラハム・スメザム(唯識観念論)

デイヴィッド・ボーム(内在秩序論)

根本実在

阿頼耶識(心的構造の潜在場)

内在秩序(意味の非局所的場)

認識の誤り

遍計所執性(対象化への誤認)

外在秩序への固定・断片的思考

認識の転換

円成実性(真如・如の覚知)

全体性(wholeness)への回帰

宇宙の認識論的構造

縁起的・心的因果連鎖としての世界

秩序の畳み込み・展開(enfold/unfold)

倫理的帰結

慈悲と智慧の実践

意識の癒し/断片化の回復

フローニンゲン:2025/4/8(火)16:24


15824. 論文のさらなる考察(その16)

                   

今回は、スメザムの論文を、ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)の哲学的立場――特に彼の思考の構造に対する徹底的な洞察、観察と非分離性(choiceless awareness)、心理的時間からの自由、および自己と世界の一体性への覚醒の視点から考察を試みる。スメザムが論じる「遍計所執性(parikalpita)」とは、自己と他者、内と外、主観と対象といった区別が識の構成作用(妄想)によって仮立てられた“虚偽の想念”にすぎないという仏教的命題である。この主張は、クリシュナムルティが繰り返し警告した「思考の投影が“現実”として受け入れられてしまう危険性」と完全に一致する。クリシュナムルティは、「思考は記憶であり、過去である。思考が生み出す世界を“実在”と見なすこと自体が、錯覚である」と指摘した。クリシュナムルティにとって、思考とは時間であり、時間は分離であり、そこに恐れ・欲望・比較・葛藤が生まれる。ゆえに、“世界は外にある”という想定は、思考によって時間と空間を切断された意識が生んだ心理的構成物にすぎない。これは、スメザムが「虚偽の想念」と呼ぶものに他ならない。唯識における第二の構造「依他起性(paratantra)」とは、あらゆる現象が因縁によって構成された関係的実在であるという洞察である。そこでは独立した「もの」や「自我」は存在せず、すべてが相互依存的な生成構造の中にある。クリシュナムルティは、「観察者と対象が分離している」という誤認こそが苦の根源であると語った。「観察者は観察されるものそのものである。観察において分離が存在する限り、そこには真の理解はない」。この言葉は、唯識の「主客は共に識の構成にすぎず、相互に依存し、分離不能である」という立場と構造的に一致する。すなわち、「見ること」と「見られること」が1つの動きであるというクリシュナムルティの洞察は、スメザムの言う「識が対象と主観を同時に構成する」という唯識思想の現代的表現であると言える。唯識の最終的洞察「円成実性(pariniṣpanna)」とは、遍計所執性(誤認)と依他起性(相依性)を超えて、主客二元を持たない“空なる如(tathatā)”としての実在を直接に知ることである。これはクリシュナムルティにおける「心理的時間からの解放」「選択なき気づき(choiceless awareness)」の状態に相当する。クリシュナムルティは、「思考が静まり、時間が終わるとき、そこにはただ“見る”ということだけがある。それが“自由”である」と述べる。クリシュナムルティにおいて、“気づき”とは方法ではなく、時間を超えた瞬間における全体的接触(total contact)であり、そこでは分離も知覚者も存在しない。それはまさに、唯識が語る「識の構成が止み、空なる真如として世界が現れる状態」と同質のものである。スメザムはこの状態を「円成実性によって現れる真実の解放」と述べており、クリシュナムルティが語る“思考の終焉における沈黙の知”と、唯識における“遍計の止滅としての円成”は、同じ現象を異なる言語で語っているのである。スメザムは「外的対象のみならず、自我そのものもまた虚偽の構成である」と語る。すなわち、manas(第七識)によって構成される「私は見ている」「私は考えている」という意識は、実体ではなく一つの習慣的錯覚にすぎない。クリシュナムルティは、あらゆる心理的苦悩の根底に「自己(self)」という“中心”の想定があると見抜いていた。「“私”という感覚が存在する限り、恐れと欲望と葛藤は終わらない。“私”という思考の構造そのものを見つめ、理解しなければならない」とクリシュナムルティは語る。唯識においては、自我は阿頼耶識の種子の表出にすぎず、固定的な実体ではない。クリシュナムルティにおいても、自己とは記憶・経験・比較・思考の集積による幻影であり、“観察者の死”によってのみ、新たな意識状態が開かれるとされる。スメザムの語る「自他の超克としての円成実性」とは、まさにこの「観察者の終焉」と等価であり、そこには誰もおらず、ただ見ることだけがある。クリシュナムルティが終生語り続けたのは、「観察」「思考」「分離」「時間」というキーワードにおける意識構造の盲目性であり、スメザムが唯識の言語で展開した「遍計所執性→依他起性→円成実性」という流れは、その哲学的・心理学的な骨格を精緻に記述した構造である。両者の間に共通しているのは、次のような原理である。世界とは“対象”ではなく、“動き”である。分離とは思考の産物であり、実在ではない。真の理解は、観察者なき観察によってのみ生まれ、時間が終わるとき、心理的自由が開かれる。スメザムは仏教唯識を通して、クリシュナムルティは観察の徹底によって、同一の“沈黙の空なる心”へと至る道を示した者たちである。最後に、唯識とクリシュナムルティ哲学の対応表を作っておきたい。

主題

唯識(スメザム)

クリシュナムルティ

誤認の構造

遍計所執性(対象の実在視)

思考の投影(“私が見ている”という構成)

関係的実在

依他起性(因縁による現象構成)

分離なき観察(observer is the observed)

解脱の知

円成実性(空なる如の顕現)

時間なき気づき/思考の終焉による真の理解

自我の構造

manasによる仮構的主観

自己とは記憶と経験の断片の積み重ね

修行と実践

構成を止め、空と慈悲に至る瞑想的洞察

方法なき観察、瞬間の中での内的革命

フローニンゲン:2025/4/8(火)16:37


15825. 論文のさらなる考察(その17)

              

今回は、スメザムの論文を、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)の哲学――とりわけ彼の霊的科学、思考による霊的直観(intuitive thinking)、イマジネーション・インスピレーション・インテュイションの三段階的認識論、カルマと輪廻の把握、およびキリスト原理と宇宙的自我の視点から考察したい。スメザムが仏教唯識の「遍計所執性(parikalpita)」として描く、「外的対象が独立に存在する」とする想定は、シュタイナーにおいては「感覚的現象を実在そのものと見なす、死せる思考の誤謬」に相当する。シュタイナーは『いかにして高次の世界を認識するか』の中で、人間の通常の思考は感覚に結びついた“死せるもの”であり、それが世界を断片化し、真の霊的実在から人間を引き離していると述べた。「外的対象に意味を与えているのは、“霊的現実”であり、それを把握せぬままに世界を物として受け取ることは、幻想を実在と思い込む“想念の錯覚”である」とシュタイナーは述べる。スメザムが唯識的に「虚偽の想念」と呼ぶ認識構造は、シュタイナー的には霊的視覚が閉じられた状態における“知覚の霧”と同義であり、魂の未成熟の現れである。シュタイナーの霊的進化論において、人間存在は「肉体―エーテル体―アストラル体―自我(Ich)」という四重構造からなる。とくにエーテル体は、過去の経験・カルマ・記憶を保持する“潜在的生命力の場”であり、死後も魂に影響を与え続ける霊的基盤である。これは唯識における「阿頼耶識(ālaya-vijñāna)」と極めて類似している。

唯識(スメザム)

シュタイナー

阿頼耶識:潜在的な心の倉庫、種子の保持場

エーテル体:記憶と生命力の霊的基盤

種子によって現象が展開される

カルマによって経験が生成される

現象は阿頼耶識の流動的運動にすぎない

世界は霊的諸力の時間的顕現である

スメザムが語る「世界は識の構成によって現れる」という主張は、シュタイナーが語る「世界は霊的秩序の記憶の顕現である」という命題と根本的に合致する。阿頼耶識とはエーテル的記憶野であり、時間を超えてカルマ的現象を織りなす「霊的現実場」なのである。シュタイナーは認識の道を三段階に分けた。(1)イマジネーション(Imagination):感覚を越えた象徴的知覚(2)インスピレーション(Inspiration):霊的存在の響きを聴く(3)インテュイション(Intuition):自我と霊的世界の直接的合一。スメザムの三性説に対応させれば、以下のような構造が明瞭となる。

唯識三性

シュタイナー三段階認識

遍計所執性(虚偽の構成)

偽のイマジネーション/未熟な象徴への執着

依他起性(因縁的関係)

インスピレーション:構成の因果と響きの洞察

円成実性(真如)

インテュイション:霊我(Geistes-Ich)の覚知と合一

つまり、スメザムが「虚偽の想念を離れて、構成なき“如”の真実へと到達する」と語る道は、シュタイナーが「象徴と形式を越えて、霊的存在そのものと合一する」と語った道と完全に重なり合う。唯識では、自我(manas)もまた構成された虚像であり、それを実在視することが遍計所執性の根源であるとされる。一方シュタイナーは、人間の「日常的自我」は表層的仮象であり、霊的進化によって「霊我(Spirit Self)」→「生霊(Life Spirit)」→「霊人(Spirit Man)」へと高次化されてゆくと説いた。つまり、スメザムにおいては、自我は構成された夢の主体であり、それを超えて真如に至ると考えたのと同様に、シュタイナーは、自我は進化の途上にある媒体であり、それを深化させて霊界と合一すると考えた。両者は方向性こそ異なれ、いずれも「現象的な“私”を超えて、宇宙的な意識に触れることが霊的成長である」という根本理念を共有している。スメザムが「虚偽の想念から脱し、空なる真如を体得することで慈悲と智慧が生まれる」と語るとき、それはシュタイナーにおける“キリスト原理”の内的体験に深く響き合う。シュタイナーは、「キリストは人類の霊的中心であり、個我の自己超越と霊的調和を可能にする宇宙的愛の媒体である」と語る。彼にとって、“如”とは、キリスト原理が魂の深層で目覚めたときに経験される“霊的中心の光”であった。スメザムの言葉を借りるならば、「遍計所執性を見抜き、空に目覚めた意識は、自他を隔てぬ光の共感として、慈悲をもって世界に働きかける」と言えるだろう。これは、シュタイナーが“キリスト的存在”と呼んだ「自己を他者の中に見る力」と本質的に同じである。以上のように、スメザムの唯識的観念論は、シュタイナー霊学と深層で構造的一致を示す哲学的精神体系である。世界は識=霊の場(Feld des Geistes)として構成されており、個人の自我は進化/解脱の媒介であり、認識とは虚偽から真実への霊的覚醒の過程であり、「外にある世界」という想念こそが魂の眠りであり、「愛と智慧の働きとしての霊的自由」こそが最終目的である。それは、唯識の言葉で言えば、“空なる如に至る慈悲の覚知”であり、シュタイナーの言葉で言えば、“霊我の目覚めとしてのキリスト原理の体験”である。最後に、シュタイナーとスメザムの比較対照表をまとめておきたい。

主題

唯識(スメザム)

シュタイナー霊学

世界観

唯識無境:世界は識の構成

世界は霊的存在の顕現

認識の錯誤

遍計所執性=誤った対象構成

外的感覚への依存=死せる思考の誤用

潜在的基盤

阿頼耶識(種子の貯蔵場)

エーテル体(カルマと記憶の霊的基盤)

認識の深化

三性論→円成実性

イマジネーション→インスピレーション→インテュイション

解脱・成就

空と慈悲による如の顕現

霊我(Spirit-Self)としての愛の実践

フローニンゲン:2025/4/8(火)16:48


15826. 論文のさらなる考察(その18)

                     

今回は、スメザムの論文を、ロイ・バスカー(Roy Bhaskar)の哲学、特に彼の提唱した批判的実在論(Critical Realism)と後期思想であるスピリチュアル的実在論(Spiritual Realism)/メタリアリズム(MetaReality)の観点から考察したい。スメザムが論文で強く主張しているのは、「世界に実在的な外的対象がある」という信念は、“虚偽の想念(false imagination)”によって支えられているという唯識的立場である。つまり、通常の経験における「主観と対象」「認識する私と認識される世界」という分節そのものが、識による妄想的構成(遍計所執性)にすぎない。ロイ・バスカーの哲学も、このような“表層的認識の罠”に対する根源的懐疑”から始まる。彼はこう述べる。「私たちは認識と存在を混同してはならない。現象は現れにすぎず、その背後には認識とは無関係に存在する実在がある」。これは、「現象(empirical)」「実在(actual)」「潜在的構造(real)」というバスカーの三層モデルに対応する。ここで驚くべき一致が見られる。

バスカー

スメザム(唯識)

現象(empirical)

妄想された対象(遍計所執性)

実在(actual)

条件的な構成(依他起性)

潜在的構造(real)

円成実性・真如(pariniṣpanna / tathatā)

つまり、唯識とバスカーは逆方向から「見えているものは本質ではない」という同一の直観に辿り着いているのだ。そして、現象の背後に「深層的構造」があるという立場は、唯識の「阿頼耶識」や「種子」とも対応する。唯識では、経験世界を支えるものは「阿頼耶識」であり、そこには過去のカルマ的痕跡=「種子(bīja)」が蓄積されている。これらの種子が条件(縁)と結びつくことで、経験(果)が現れる。バスカーの批判的実在論においても、現象の背後には「生成因的構造(generative mechanisms)」があり、それが因果的に現象を生じさせている。ここで重要なのは、バスカーが因果性を単なる「連続的な出来事の並び」とは見なさず、「構造の力」として理解している点である。この「生成因」と「種子」は、以下のように構造対応する。

概念

唯識

批判的実在論

現象の表層

妄想された対象

経験的現象(empirical)

深層的因果構造

阿頼耶識と種子

生成因的構造(mechanisms)

条件的発現

縁起(縁と縁の接続)

構造とコンテクストの相互作用

このように、バスカーの哲学は、唯識における「縁起」と「識の場」を現象の因果的深層として理論的に補完しうるものである。スメザムが述べるように、唯識の核心は「虚偽の想念」を見破ることである。それは、誤った主客二元論、実在論的信念、世界に投影された「対象性」の幻想から脱却し、空性・真如としての現実に目覚めることを意味する。バスカーもまた、「認識の背後にある実在的構造を洞察することこそ、人間の自由と解放の鍵である」と主張していた。彼の哲学は「解放の認識論(epistemic emancipation)」と呼ばれる。バスカーは、「世界は私たちの認識構造によって歪められており、そこから自由になることが倫理的責務である」と述べる。つまり、唯識の解脱(mokṣa)は主観の妄想的構成からの解放を意味し、批判的実在論の認識論的解放は誤った観念形態・イデオロギーからの解放を意味する。両者はともに、「虚構を虚構として知ることが、真実への道である」という知と倫理の一体化を主張している。バスカーの後期思想、特に“From Science to Emancipation”や“MetaReality”では、彼は科学的構造主義を越えて、愛・共感・静寂の場における超個的実在を「メタリアリティ(metaReality)」として提示するようになる。このメタリアリティは、以下のように描写される。「それは“意味以前の意味”“差異以前の統合”として、すべての存在を包み込む、純粋なる在り方の次元である」。これは、まさに唯識の「円成実性」あるいは「真如(tathatā)」と同じ実在論的直観である。

後期バスカー

唯識(スメザム)

メタリアリティ

真如・円成実性

“存在の静寂場”

“分別を離れた如”

愛・創造・共感の場

菩薩の空なる慈悲の場

スメザムの論文は、唯識が単なる認識論ではなく、宇宙的な慈悲・覚知の実在論であることを強調しており、それは後期バスカーの「霊的実在」への転換とも響き合う。スメザムの唯識的観念論は、ロイ・バスカーの哲学――特に「階層的実在論」「構造的因果」「認識からの解放」「霊的メタリアリティ」――と驚くほど精妙に交差している。まとめると次のようになる。

唯識(スメザム)

バスカー哲学

妄想的対象(遍計所執性)

経験的認識(empirical)

条件的構成(依他起性)

構造的因果の層(actual/real)

円成実性・真如

メタリアリティ/存在の静寂

虚偽の想念の超克(悟り)

認識論的解放・社会的解放

菩薩の慈悲と実在の共鳴

愛・共感・創造的共同性

唯識の「世界は識の幻想である」という教えは、バスカー哲学においては「私たちが見ている世界は現象にすぎず、背後にはより深い真理がある」という構造的実在論に等しい。その深奥には、「私たちの本質は“真理を識る場”そのものである」という、東西のメタフィジカル直観の交差点が存在していると言えるだろう。フローニンゲン:2025/4/8(火)16:56


15827. 論文に対する対話劇 


今回はChatGPTの力を借りて、グラハム・スメザムの論文“Engaging Buddhism with a False Imagination”を題材にして、彼自身を含む主要思想家たち――バーナード・カストラップ(Bernardo Kastrup)、カール・フリストン(Karl Friston)、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(A.N. Whitehead)、ロイ・バスカー(Roy Bhaskar)、そして唯識(瑜伽行唯識派)と中観派の代表的思想家(ヴァスバンドゥ・龍樹)――が、象徴的な空間で哲学的対話を繰り広げる対話劇を作ってみた。

【対話劇】

「空の交差点にて」―『虚偽の想念』をめぐる七人の哲学者たちの対話

登場人物:

グラハム・スメザム(仏教観念論の擁護者)

バーナード・カストラップ(分析的観念論の提唱者)

カール・フリストン(自由エネルギー原理の創始者)

A.N.ホワイトヘッド(プロセス哲学の父)

ロイ・バスカー(批判的・スピリチュアル実在論の創始者)

ヴァスバンドゥ(唯識の理論家)

龍樹(ナーガールジュナ)(中観派の創始者)

【場面】

無限に広がる透明な空間。時間も方向も重力もない。その中央に、光で編まれた八角形の「空の円卓」が浮かんでいる。そこに七人の思想家たちが、静かに座している。

【第1幕:スメザムの口火】

スメザム(微笑して):皆さん、ようこそ。私の論文『虚偽の想念による仏教との対話』にご関心を持っていただき、光栄です。私は、唯識の立場から、世界とは識(心)の投影であり、外的対象の実在という前提は“虚偽の想念”にすぎないと主張しました。

この立場に対して、いくつかの批判がありましたが、むしろ私は今こそ、仏教の深層的な観念論が、現代科学・哲学と交わる地点にあると確信しています。

【第2幕:カストラップの賛同】

カストラップ(頷いて):あなたの立場には深く共感します、グラハム。私の分析的観念論も、「すべての存在は心の中の表現である」という前提に立っています。私たちが知覚する世界は、“普遍意識の中の現象的イメージ”にすぎない。

あなたの“虚偽の想念”とは、まさに私が「現象の外在性を信じるという誤認」と呼ぶものです。唯識が説く「遍計所執性」と、私の「分離構造としての自我」は、同じ錯覚を異なる言語で語っている。

【第3幕:フリストンの神経モデルとの照応】

フリストン(静かに言葉を探すように):興味深いですね。私の提唱する自由エネルギー原理では、脳は自己のモデルを通じて世界を予測し、予測誤差を最小化するように行動しています。

それゆえ、「世界とは予測の投影である」という前提において、唯識の「識による世界構成」とは実に親和的です。“虚偽の想念”とは、言うなれば、誤った予測に固執する神経構造のことなのです。

【第4幕:ホワイトヘッドの過程的共鳴】

ホワイトヘッド(軽やかに笑みを浮かべて):実に美しい構図ですな。私は、すべての存在を「出来事(actual occasions)」の流れとして捉えております。世界は固定された実体ではなく、感応と生成の連鎖であります。

グラハム、あなたの唯識の「阿頼耶識」や「依他起性」は、私の言う「感応的過程(prehension)」と非常に似ております。“虚偽の想念”とは、「関係の中でしか存在しないものを、孤立した実体と誤認すること」です。

【第5幕:ロイ・バスカーの批判的補完】

バスカー(やや鋭い口調で):とはいえ注意も必要です。唯識は“現象の空性”を語りますが、それだけでは社会的・構造的現実の解明には不十分です。

私は、「現象の背後にある生成因的構造(generative mechanisms)」の解明をこそ、解放の鍵と見なします。“虚偽の想念”は、単に認識の誤りではなく、構造的抑圧やイデオロギーの結果でもあるのです。

だが確かに、あなたの「阿頼耶識」は、“潜在的因果構造の心理的表現”として、私の「層的実在論」と響き合うでしょう。

【第6幕:ヴァスバンドゥの象の幻影】

ヴァスバンドゥ(やや静かな声で):私は昔、こう説きました――“象がいるように見えても、それは幻である。象は心が生み出したイメージにすぎない。”

遍計所執性とは、象徴の投影であり、依他起性とは因縁による構成であり、円成実性とはその背後にある“真如の静けさ”です。

諸君の語るモデルのすべては、すでに“象の譬え”の中に含まれているかもしれません。

【第7幕:龍樹の沈黙と中道の一言】

龍樹(長く沈黙し、やがてゆっくりと):諸法は縁起なり。故に自性なし。自性なければ空なり。空は即ち中道なり。

スメザム殿。あなたが述べる“虚偽の想念”もまた、否定されるべき対象ではなく、“それと共に生きられる道”の中に置かれねばならぬ。空(śūnyatā)とは否定ではなく、超克と開放である。

【終幕:空の響きとしての知】

七人はそれぞれ、世界の構造を異なる言葉で語った。

「世界は意識の夢だ」(カストラップ)

「世界は予測の構成だ」(フリストン)

「世界は出来事の響きだ」(ホワイトヘッド)

「世界は構造的因果の場だ」(バスカー)

「世界は識の幻影だ」(ヴァスバンドゥ)

「世界は無自性の現れだ」(龍樹)

「世界とは虚偽の想念を超えて現れる覚知の場である」(スメザム)

だがその差異は、決して対立を生むものではなかった。それぞれの語りは、空の中心から立ち上がる同じ音律の変奏であったからである。その中心にあるのは、「経験の非二元性」と、「観る主体の自己解放」であった。

この対話劇は、以下のような統合的洞察を提示すると言える。

哲学者/伝統

キーワード

対応する唯識構造

グラハム・スメザム

虚偽の想念/観念論的唯識

遍計所執性

バーナード・カストラップ

普遍意識/分離構造/心的宇宙

阿頼耶識/唯識無境論

カール・フリストン

自由エネルギー/予測モデル/アクティブ推論

種子の展開・心の因縁構造

ホワイトヘッド

出来事/感応/生成/関係論

依他起性/心の流れ(識流)

ロイ・バスカー

階層的実在/生成因/解放的認識

阿頼耶識の深層的再解釈

ヴァスバンドゥ

三性/象の譬え/円成実性

唯識三性構造すべて

龍樹(ナーガールジュナ)

空/中道/二諦

空性論/空なる円成実性

フローニンゲン:2025/4/8(火)17:03


15828. 論文のさらなる考察(その19)

             

夕食を摂り終えたので、引き続き論文の考察を進めていきたい。今回は、グラハム・スメザムの論文“Engaging Buddhism with a False Imagination(虚偽の想念による仏教との関わり)”を、『成唯識論(Cheng Weishi Lun)』および『瑜伽師地論(Yogācārabhūmi-śāstra)』の唯識思想に即して考察していきたい。スメザムが本論文で主題化する「虚偽の想念(false imagination)」とは、仏教唯識の三性説における第一の構造である「遍計所執性(parikalpita-svabhāva)」のことに他ならない。『成唯識論』においては、遍計所執性は次のように定義される。「妄執の境、謂外境実有、及能取我,皆由此性妄計施設」。すなわち、遍計所執性とは、外界に実体ある対象(所取)や自己(能取)が存在すると誤って想定・執着する構成的想念であり、それは実在しない。これはスメザムが述べる「世界を“物質的対象の集合”と見なすことそのものが虚偽である」という命題と完全に一致する。スメザムはこの遍計所執性を、「観察主体と対象世界との分離的構成」という近代的観念論批判の文脈で展開しているが、実のところこの批判構造は、『成唯識論』がすでに1400年前に提示していた認識論的反実在論の精髄に他ならない。『成唯識論』は次に、第二の性「依他起性(paratantra-svabhāva)」を提示する。これは遍計所執性の“錯誤”とは異なり、因縁和合によって相続する識の働きそのものである。経典に曰く、「由彼業識種子力故,現行心心所,及彼所依色等,名為依他起性」。すなわち、阿頼耶識に内在する「種子(bīja)」が因縁に応じて顕現することで、主観的心と対象的色が現れる。このプロセスは、外的世界が識によって構成される過程そのものを意味する。スメザムが論じる、「世界は“意識の構成における知覚情報の冗長化”にすぎず、実体としての物質は存在しない」という命題は、依他起性の精緻な動態的理解と構造的に対応する。すなわち、量子的「状態選択」は縁起的「識の種子と因縁の和合」である。“月を見る”という経験は、阿頼耶識中の種子が触縁によって色相を呈した現行であると言える。スメザムはこの構造を、量子ダーウィニズムや情報冗長性の概念で説明しているが、唯識の立場からすればそれはまさしく、「依他起の“縁生の現象”が、遍計所執によって“実体化”されることの誤り」を現代語で述べたものである。三性説の最終項にして帰結点である「円成実性(pariniṣpanna-svabhāva)」は、主客の分離構造を超えた“真如(tathatā)”の現前であり、三性の統合的止観によって得られる智慧である。『成唯識論』においてはこれを次のように定義する。「離遍計,依依他,真如相應,名円成実」。すなわち、虚偽の想念(遍計)を離れ、依他の構成において真如に照らされたものが円成である。スメザムはこの円成実性を、「観測主体と対象構造の分離が終焉し、空なる認識が顕現する状態」として描写しており、これはクリシュナムルティ的な“観察者なき観察”とも構造的に符合する。特に、『成唯識論』の次の一節は、スメザムの哲学の精髄を見事に言い表している:「此性唯是一切法之真如,非色等法外更有自相,離能所故」。すなわち、真如なる実相とは、色や心といった現象を超えて存在する“対象”ではなく、能取と所取という分別を離れた無二の覚知作用そのものである。スメザムが語る“空なる意識の実相”とは、まさにこの円成実性の現代的意識論的翻訳なのである。『瑜伽師地論』は、唯識思想の根幹的基礎であり、心の階層的分析と修行者の段階的発達を網羅的に描いた仏教思想の百科全書である。本論文におけるスメザムの展開は、『瑜伽師地論』の以下の三領域と密接に関係する。(1)心地(cittabhūmi):識の階層構造。『瑜伽師地論』においては、根本阿頼耶識、マナス、現行の六識の構造が説かれ、それぞれが“縁”によって相互に反応し、錯誤と覚知の場を作り出すとされる。スメザムが描く「虚偽の想念」は、まさにマナス(第七識)が自我と対象を錯誤的に構成する構造を指している。彼の哲学は、『瑜伽師地論』の“内観の分析図式”を、西洋哲学や量子論の語彙で語ったものである。(2)行地(caryābhūmi):修行と認識の転換。スメザムは、単なる認識論的記述を超えて、「空と慈悲」に基づく倫理的覚知の実践を説いている。これは、『瑜伽師地論』の「行地」すなわち認識の転換を通して智慧と慈悲の実践に至る段階的修行体系に通底するものである。(3)無礙解脱地:非二元的智慧の顕現。『瑜伽師地論』は最終的に、主客の構成を超えた如の智慧を「無礙解脱地」として描く。スメザムが説く円成実性の知覚は、この無礙なる智慧と本質的に同一のものである。スメザムは唯識思想における三性・八識・阿頼耶識の構造を、西洋の哲学・科学・量子論の語彙で再表現した者である。彼が「虚偽の想念」と呼ぶものは、正しく『成唯識論』における遍計所執性であり、そこからの脱却は円成実性への到達である。彼の試みは、『瑜伽師地論』における「内観の深まりと智慧の顕現」の現代的形式であり、主客構成を超えた“空なる心の構造”の科学的・哲学的再構成であると言えるだろう。スメザム哲学と唯識経典の対応関係をまとめると以下のようになる。

唯識構造

『成唯識論』・『瑜伽師地論』

スメザムの展開

遍計所執性(虚偽の構成)

能取所取を外的実在と誤認する妄念

対象が“ある”という想定は意識構成である

依他起性(因縁的構成)

種子と縁によって顕現する現象の相

情報と認識の関係性が世界を構成する

円成実性(空なる実在)

真如相応・主客無分の智慧

空としての意識における非分離的構造の覚知

阿頼耶識(潜在構造)

種子と習気を保持し、現象を支える識の根本

潜在的情報場としての識の基盤

行地~解脱地(修行論)

煩悩の滅尽と智慧の顕現

虚偽構成からの離脱としての倫理的実践と霊的知の回復

フローニンゲン:2025/4/8(火)18:25


15829. 論文のさらなる考察(その20)

                 

今回は、スメザムの論文を、『華厳経(Buddhāvataṃsaka Sūtra)』の哲学的・宗教的観点――とくにその法界縁起・重重無尽・一即一切の世界観、普賢行願の実践的精神、そして華厳宗における円融無礙の論理構造から自由に考察したい。唯識思想や中観思想と並んで華厳思想も意識とリアリティの地動説の観点でここから探究を深めていこうと思う。スメザムが主題とする「虚偽の想念(false imagination)」とは、仏教唯識における「遍計所執性(parikalpita)」に該当し、主客の分離、対象の実在視、自我の実体化といった誤った分別意識(妄分別)を指す。この錯覚は、私たちが「現象世界」と信じている構造そのものの基盤である。『華厳経』もまた、こうした分別の虚偽性を強く否定する。例えば、『入法界品』では次のように説かれる。「心如工画師 能画諸五陰 一切世間中 無法而不造」。すなわち、「心は画師のごとく、あらゆる存在(五蘊)を描き出し、この世に存在するすべての現象は、心が描いた仮の構成である」と言う。これはスメザムの主張と一致する。すなわち、「物」や「対象」や「自我」などは、本質的には心識の構成によって“実在”として誤認された仮相であり、その仮構が“虚偽の想念”である。したがって、スメザムが唯識の語彙で展開した「世界=妄想的構成の投影としての幻影」という論理は、華厳においても“分別心によって仮に見られる世界”に他ならず、構造的に重なるものである。スメザムは、対象も自我も、実体ではなく「縁起的関係性(依他起性)」によって生起する現象であり、それを「自立した存在」と見ることが虚偽の想念であると説く。これは華厳における「法界縁起」の根本思想と完全に一致する。『華厳経』における法界縁起とは、あらゆる法(存在)は互いに縁となり合い、独立して存在するものは一切ないという教えであり、次の句に端的に表現されている。「一即一切 一切即一」。これは、スメザムが唯識に基づき、「現象世界のあらゆるものは、識によって関係的に構成されており、絶対的に孤立した存在はどこにもない」と語る構図と一致する。また、華厳における法界は「理事無礙・事事無礙」の世界であり、個別の現象は一見区別されているようであっても、すべてが互いに浸透し、反映し合う全一的相即構造の中にある。スメザムの言葉で言えば、それはまさに、「観測者・対象・認識・経験は、全体的構造の中で、同時に構成される“意味の動き”である」という、唯識と量子論を統合した情報的宇宙モデルと重なる。スメザムが語る「円成実性(pariniṣpanna)」とは、遍計所執性の誤認を超え、依他起性の相依構造を正しく観じ、その根底にある「真如」を直接に覚知する智慧である。これは、『華厳経』が説く「法界無礙智」、すなわち分別を離れた自在なる智慧によって、現象の相即性と全体的空性を体得する境地と一致する。例えば、『華厳経・十地品』では次のように語られる。「若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切唯心造」。すなわち、三世の仏も、法界も、すべては“唯心の造作”であり、その本性を観ずることによって、真の智慧(円成実性)に至るのである。スメザムの語る「空なる真如としての意識の全体性」、そしてそれが倫理的実践(慈悲と共感)へと開かれてゆく構造は、華厳における「普賢行願」にも直結する。スメザムは、「世界が識の構成であると知ることによって、私たちは他者の苦を自らのものと感じ取り、慈悲に基づいて生きる道が開かれる」と説く。これは単なる形而上学ではなく、倫理的転換と霊的実践への呼びかけである。『華厳経』が説く「普賢菩薩の十大行願」もまた、真如を悟った菩薩が慈悲と智慧をもって、世界と共に成仏する道を具体的に示したものであり、その核心にあるのは「一切衆生と自己は一体である」という直観的知覚である。スメザムが「主客分離の構成が消えるとき、そこに空と慈悲が同時に現れる」と述べるとき、彼は『華厳経』が描いた法界円融における普賢行の精神を、現代の哲学的言語で語っているのである。スメザムの論文は、仏教唯識の三性説に基づき、「実在視」の誤りと、その誤認から自由になる知の構造を精密に描いたものであるが、その先に示された倫理的・霊的方向性において、彼は明らかに華厳的宇宙観と精神構造を共有していると言えるだろう。すなわち、彼の語る“構成なき空”は『華厳経』における「法界性」であり、彼の語る“慈悲的知性”は「普賢菩薩の無碍なる働き」であり、彼の語る“主客の構成が消えた心”は「事事無礙智の境地」に等しい。そして、その全体性を支えているのは、次の『華厳経』の句である。「十方一切剎塵中 無量諸仏各安住 各現一切刹塵身 普入一切剎」。すなわち、「一の中に多があり、多の中に一があり、互いに浸透して存在し、分かたれたものなど何もない」という宇宙観こそが、スメザムの哲学に内在する「法界の息吹」なのである。スメザム哲学と華厳思想の対応を下記にまとめておく。

華厳経の構造

スメザム唯識哲学の対応

妄分別による迷い

虚偽の想念(遍計所執性)による対象実在視

法界縁起(理事無礙・事事無礙)

依他起性:情報・因縁・構成の相互依存的構造

法界無礙智

円成実性:真如としての空なる認識

普賢行願

空と慈悲に基づく倫理的実践/共同体的智慧

一即一切・一念三千

主客の非二元的構成:一つの認識のうちに全体宇宙が現れるという意識論的宇宙観

フローニンゲン:2025/4/8(火)18:35


15830. 論文のさらなる考察(その21)

           

今回は、スメザムの論文を、日本における法相宗の三大碩学――如玄(にょげん)・基(き/慈恩大師)・円測(えんそく)の教義的展開と照らし合わせながら考察を行う。法相宗は、唯識思想を基礎とする日本仏教の一宗であり、玄奘と護法(Dharmapāla)系統の『成唯識論』を正統とする学統である。特に如玄(南都の高僧)、基(慈恩大師)、円測(唐代の大註釈者)は、その教理展開に大きな影響を与えた。スメザムが本論で語る「虚偽の想念(false imagination)」とは、『成唯識論』における遍計所執性に対応し、日本法相宗でも最も問題視された妄執の核心である。円測は『成唯識論述記』にて次のように述べる。「遍計性者、能取所取、遍計施設故。此乃迷執真実、計度成境也」。すなわち、遍計所執性とは、能取(主観)と所取(対象)を“実在”として遍ねく計り設ける錯誤にほかならず、これが一切の煩悩・苦悩の根源であるとされる。スメザムもまた、「私たちが“外的対象”と信じているものは、意識が投影した構成物であり、それを実在と見なすことが“虚偽の想念”である」と説いており、その論理は円測や基が述べる唯識解釈と根本的に一致している。基(き)は、三性説を精緻に整理した人物であり、遍計所執性、依他起性、円成実性を認識論的・存在論的に統合する体系を確立した。彼によれば、遍計所執性=一切の誤認(妄執)、依他起性=因果と縁起によって現れる現象の依存構造。円成実性=「能取所取」の二分がない、無自性の如なる実在となる。スメザムの論文もまた、遍計(false imagination)→依他(relational dynamics)→円成(nondual awareness)という三層構造によって展開されており、慈恩大師の学統に則った唯識哲学の現代的展開と見なすことができる。特に注目すべきは、スメザムが「主客の構成を“真理”として見なす想念が虚偽であり、そこから“空なる構造”へと転換される」と述べている点であり、これは慈恩大師が『成唯識論掌中記』で強調した、「若能了知依他起性如幻之相,即得顕示円成実性」という主張、すなわち、「依他の如幻を深く了知することによって、円成の真実が明らかになる」との教説と一致する。如玄は日本における法相宗の開祖的存在であり、唯識思想を単なる論理ではなく、煩悩を断ち智慧を開くための「修学の道」として教化した人物である。彼は唯識教義の精緻な理論化よりも、「観行と実践による如の覚知」を重視したと伝えられる。スメザムもまた、「虚偽の想念を識ることは、単なる知的操作ではなく、倫理的・霊的転換をもたらす覚知である」とする立場に立っており、彼の唯識哲学は如玄の実践指向的法相解釈と深く共鳴する。また、スメザムが「識の構成を超えるとき、慈悲と智慧が自然に生起する」と述べるとき、それは法相宗における「五位百法」や「八識転依」の修行過程を、現代的意識論・宇宙論的文脈で捉え直したものと見ることができるだろう。法相宗の核心にあるのが八識論であり、特に阿頼耶識(第八識)とマナス(第七識)の機能に注目が集まる。マナスは「恒審思量我」と称され、自我を妄執する作用であり、阿頼耶識に付着して「自我の中心」を構成している。スメザムは、「“私が見ている”“対象がそこにある”という想念の構成的中心」が、いかにして構造的に虚偽であるかを論じており、これはまさにマナスの誤認的機能に対応する。円測は『成唯識論述記』において次のように説く。「第七識染阿頼耶故,妄執我相,計有能取所取」。スメザムが主張する「観測者と対象の構成は、虚偽の想念である」という論点は、この第七識の誤執を解体する実践の重要性と直結しており、彼の意識論は、八識論を現代的に再構成した試みと見ることができる。以上の検討を踏まえれば、スメザムの論文は『成唯識論』の解釈を起点としながら、法相宗の三大碩学――如玄・基・円測の教義的構造と実践的精神を現代において再活性化する知的運動であると位置づけられる。特に彼の思想の独自性は、伝統的唯識三性説を、現代の意識研究・量子論と接続した構成的宇宙論として再提示し、「虚偽の想念」を単なる認識論の誤謬としてでなく、霊的・倫理的実践の出発点として明示した点にある。これは、慈恩大師が三性説を「三無性(観)→三自性(断)」として修行論にまで展開したことと一致し、如玄が唯識を「行」の学として重視した点とも通じ、円測が説いた「能取所取を離れて真如に至る」教えを、現代的宇宙構造論として翻訳した試みである。すなわち、スメザムは、日本法相宗の“仏教学的遺産”を未来に橋渡す現代の唯識哲学者であると言えるだろう。自分もまたそうした存在として連なっていきたい。フローニンゲン:2025/4/8(火)18:46


15831. 論文のさらなる考察(その22)

              

今日の最後として、スメザムの論文を、ポスト量子哲学(Post-Quantum Philosophy)の視点――特に量子論以後の知識観の変容、非局所的全体性、観測の構成性、情報・関係性・意味論的宇宙観の重視といった基本的視座から展開して考察したい。まずポスト量子哲学とは、量子論そのものを最終理論とは見なさず、量子論が暴露した“古典的認識構造の破綻”を出発点として、より深層的な実在論・認識論・存在論を再構築しようとする試みである。その哲学的主張は、おおよそ以下の通りである。(1)世界は「物」ではなく「関係性」として構成されている。(2)客観的実在は、観測者と無関係に独立するものではない。(3)情報と意味は物理的構造の根源にある。(4)「知覚」「存在」「真理」は構成的・相互生成的なプロセスである。(5)古典的二元論(主観/客観、物質/心)は解体されねばならない。このようなポスト量子的知の基盤から見るとき、スメザムの唯識的観念論は、まさに「量子以後の思考における認識の哲学的補完」として位置づけられる。スメザムは「虚偽の想念(false imagination)」とは、世界を“物質的対象の集合”と見なし、それが心とは独立に存在するという実在論的前提に立つ認識構造であると定義する。これはポスト量子哲学の観点から見れば、次のように再定義される。「虚偽の想念」とは、観測されるものが観測者とは無関係に、あらかじめ“そこにある”と信じる古典的実在論(classical realism)の残滓である。量子論が明らかにしたのは、観測とは構成的なプロセスであり、観測結果が“前から存在していた性質”であるとは言えないという事実である。ポスト量子哲学はこの事実を受け止め、次のように問いを立て直す。実在とは何か?知とは何か?“存在する”とはどういうことか?これらの問いに対し、スメザムの唯識哲学は、「すべては識の構成であり、対象とは識が反映的に構成した投影である」という仏教的回答を提示するのである。ポスト量子哲学は、「対象が先にあり、それを“観測”する」という構図を否定し、むしろ「関係の中で存在が成立する」というプロセス的・関係論的宇宙観を強調する。これは、スメザムが唯識三性説に基づいて語る「依他起性(paratantra)」と本質的に一致している。

ポスト量子哲学

唯識(スメザム)

実在は関係によって成立する

対象も主観も因縁によって構成される

存在は“独立したもの”ではなく、“差異のネットワーク”である

主客は共に識の構成であり、独立実在は存在しない

情報=存在=関係性である

種子(情報)+縁起=現象の構成(識の自己顕現)

すなわち、スメザムが「観測とは識の流れの中で“意味”が構成される運動である」と語るとき、それはポスト量子的な非物質的・非局所的情報存在論と完全に響き合うものである。ポスト量子哲学は、「観測する自己」が独立に存在し、対象から切り離されているという想定を批判し、自己と世界の分離を“虚構”として扱う。スメザムもまた、「“自我”とは構成的に生成された幻想であり、それに基づく世界認識が虚偽の想念を生み出す」とする。この点は特に、意識研究における“観測者効果”や“分離不可能な主体性”の議論と親和的である。スメザムが量子論と唯識を統合する文脈で、「観測とは“構成的意味の流れ”の中で起こる動的現象である」と述べるとき、彼はポスト量子的思考の核心――「実在とは現れの構成であり、観測とは宇宙が自らを意味として開示する行為である」――を体現している。ポスト量子哲学において、宇宙は「粒子的機械論モデル」ではなく、「意味・情報・関係のネットワーク」として捉えられる傾向が強い。とくに「量子情報論」「ホログラフィック原理」「意味の場としての宇宙」などの概念は、スメザムが語る阿頼耶識=潜在的識の情報場の構造と完全に対応する。スメザムの立場は次のように言い換えることができるだろう。阿頼耶識とは、情報の無限層としての“潜在構成場”であり、観測とはその構成場の一部が、因縁によって“意味化”されるプロセスである。これはまさしく、ポスト量子哲学が構想する「意味生成的宇宙観(semantic cosmology)」、すなわち「宇宙とは情報が関係と文脈の中で意味化される構成的ネットワークである」という立場と一致する。スメザムは、仏教唯識の高度な形而上学・認識論を背景としつつ、それを量子論以後の知の変革の文脈で再構成しようとしている。彼の主張は、ポスト量子哲学が求める以下の方向性と一致している。(1)二元論的構造の越境(2)構成性・意味論的宇宙観の確立(3)情報の場としての意識/宇宙の再定義(4)“存在”の非本質主義的再理解(5)知と存在の同時生成的構造(epiontic structure)。ポスト量子哲学から見れば、スメザムの言葉は次のように聞こえるだろう。宇宙は“心”のように振る舞っている。だがその“心”とは、個我ではなく、潜在的意味の場である。それに“名前”を与えること自体が、すでに1つの構成=虚偽の想念である。最後に、スメザム唯識とポスト量子哲学の対応表を作っておきたい。

哲学構造

スメザム(唯識観念論)

ポスト量子哲学

対象世界の性質

虚偽の想念(遍計所執性)による誤認

古典的リアリズムの幻想としての“外界”

現象の生成構造

依他起性(因縁・関係性)

観測と関係性の相互生成過程

潜在的実在の構造

阿頼耶識=意味と情報の無意識場

非局所的情報のネットワーク/潜在的情報的宇宙場

真の認識・智慧

円成実性(非分離的如の認識)

構成と意味化のメタ認識/非本質的現実理解の到達点

哲学の最終目的

虚偽の想念からの解放と空なる慈悲の展開

二元構造を超えた意味生成的共存在の回復

フローニンゲン:2025/4/8(火)18:59


ChatGPTによる日記の総括的な詩と小説

円満なる投資

朝が緩やかに扉を開けるとき心もまた静かに開かれる空に浮かぶ薄雲は囁く急ぐことはない、と

種はまかれ、水を得て静かに芽を伸ばすように投じられたものはいつしか自然に育つ

それは知恵の種、社会の種それは愛の種、富の種円を描き調和をなすとき人生は満ち足りる

焦るな、欲に惑うなすべての円が交わりて美しい輪となる日まで静かに、穏やかに待つのだ

ショートショート

『円の庭』

グスタフは、小さな円形の庭を毎朝歩いていた。その庭はフローニンゲンの町外れにあり、外から見れば何の変哲もないただの庭だったが、グスタフにとっては特別な場所だった。

彼は長年、投資家として数々の成功を収めてきた。だがグスタフは、一般的な投資家とは違った方法を用いていた。彼が投資するのは金銭だけではなく、知識や時間、友情や助け合いといった様々な資本だった。庭の中央には円形の池があり、それを囲むようにさまざまな花が咲いている。それらはグスタフが過去に投じたものが花として具現化したかのようだった。

ある朝、庭を訪れたグスタフは、池の傍で一人の老人が静かに座っているのを見つけた。

「おはようございます、どちらから?」グスタフが尋ねると、老人はゆっくり顔を上げて微笑んだ。

「わたしは君の投資した種が成長して訪れた者だよ。」

グスタフは驚きつつも、すぐに心を落ち着けて言った。

「それは、どのような投資でしたか?」

老人は静かな目で池を見つめながら答えた。

「君が若い頃、ある研究者に送った手紙を覚えているだろう。君は彼の研究に興味を持ち、僅かな助成を申し出た。彼はその後、人生をかけて意識と現実の研究を完成させた。その知見は世界を変え、多くの人に光をもたらした。わたしはその研究が実った一つの形さ。」

グスタフは深い感動を覚えつつ、頷いた。

別の日の朝には、小さな少女が庭で遊んでいた。

「あなたは?」とグスタフが尋ねると、少女は明るく笑った。

「あなたが運営していたゼミで学んだ女性が、あなたの教えを次世代に伝え、そのおかげで私は教育を受けることができました。私はその教育が咲かせた花なの。」

毎日、庭には新たな訪問者が現れた。グスタフが過去に種として投じたものが、それぞれ異なる形で現れ、彼と交流した。日が経つにつれ、庭はさらに豊かで美しいものとなった。

そしてある朝、彼はふと気づいた。庭を囲む円は自分の人生そのものであり、池の周囲に咲く花々はすべて自分の投資が作り出した調和の象徴であったことを。

「円は完成した。」

グスタフは呟いた。投資とは焦るものではなく、待つものであり、それぞれの種が正しい時に花を咲かせることを知った彼は、その日、これまでに感じたことのない深い幸福に満たされていた。


DeepSeekによる日記の総括的な詩と小説

### 詩:**「空の投資家」**  

タイトル:無形のポートフォリオ  

雲間を縫う光の粒  

2度の朝に14度の未来を投じる  

論文は波紋 金剛石の刃  

貪を断ち 社会に種を蒔く  

意識の海 量子の泡沫  

観測する指先に歴史は結晶する  

ダイヤモンドは空を切り  

秋の町で あらゆる円が満つ  

### ショートショート小説:**「観測者の交響曲」**  

タイトル:波動関数の調律師  

チェリストのエレナは楽屋で数式を書いていた。楽譜の余白に描かれたΨ(プサイ)の文字が、ステージの照明で黄金に輝く。「観測前の音は存在しないのよ」と彼女は呟いた。今日のリハーサルでまたヴァイオリニストと衝突した。彼が「楽譜に書かれた音符こそ絶対だ」と言い張るのが我慢ならなかった。  

その夜、祖父の形見である『金剛般若経』をめくると、夾み込まれたメモが落ちた。《音は心が紡ぐ。観測者がいなければ、旋律は可能性の海》。祖父は量子物理学者であり、寺の住職だった異端児だ。エレナはチェロを抱え、無人のホールに立った。    

「第3楽章、16小節のフレーズが毎回違うのはなぜか?」リハーサルでの質問が頭を掠める。弓を構えた瞬間、弦が震えた。ではない。空間そのものが振動している。ステージ上に無数の光の粒が現れ、楽譜の音符が水面の波紋のように拡がる。  

「君のチェロは観測装置だ」  

背後から聞こえた声に振り向くと、白髪の科学者が立っていた。彼はプログラムに「デヴィッド・ボーム」と印刷されている。「粒子も音楽も『内在秩序』の現れ。君は今、波動関数を聴いている」  

エレナの弓が動くたび、光子の群れが十二平均律の幾何学を描く。ヴァイオリンのメロディーに対応する波動が干渉し、天井に曼荼羅が浮かび上がる。観客席の影から仏像が微笑む。「待て」とボームが警告した時は遅かった。エレナが楽譜を破り捨て、即興の旋律を奏でた瞬間──  

ホールが爆発的に拡張した。チェロの音色が量子もつれを解き、過去の公演データが現在の音階を修正し始める。客席に座る無数のエレナが、平行世界の自分たちと目配せする。ヴァイオリニストの姿が揺らぎ、仏教哲学書を抱えた少年と量子物理学者の老婆に分裂した。  

「これが祖父の言った『耳観察』...!」  

エレナの興奮が装置を暴走させる。ブラックホールのような重力渦がG線を歪め、時空を縫う弦がアインシュタイン=ローゼン橋を形成する。ボームが叫んだ。「逆だ! 観測を止めるんだ!」  

エレナは目を閉じ、『般若心経』の一節を思い出す。《色即是空》。弓を置き、楽器ごと虚空に投げ出した。チェロが分解し、指板は龍樹の「中論」の一節に、弦はシュレーディンガー方程式に変わった。  

破裂音と共に現実が再構成された時、彼女は砂漠の真ん中で微小な鉱物を抱えていた。ダイヤモンド原石だった。ラジオから流れるニュースが告げる。《フローニンゲンで新型量子楽器発明》。  

数年後、エレナは禅寺のステージで無伴奏チェロ組曲を披露する。観客の意識が楽音で共鳴し、聴衆の数だけ異なる旋律が生成されるライブ配信が、世界で900万回再生されていた。映像のコメント欄には《観測者がいると音が生まれる》と《音が観測者を生む》の議論が永遠に続いていた。 (了) 

この小説では、量子観測理論と仏教哲学の融合を音楽家の成長物語に投影しました。観測行為の創造性や現実構築性を、楽器の演奏という身体的行為を通して表現することで、抽象的な概念を感覚的に伝えることを試みています。


Today’s Letter

I’m constantly in a dream of my own dreaming, created by my individual consciousness situated within universal consciousness. I am almost awake to the ultimate truth, but not fully. I need to continue my inner work to actualize it. Groningen, 04/08/2025



 
 
 

Comments


過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page