【フローニンゲンからの便り】15753-15789:2025年4月7日(月)(その2)
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- 4月9日
- 読了時間: 68分

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タイトル一覧
15753 | 今朝方の夢 |
15754 | 今朝方の夢の解釈 |
15755 | 視点取得能力と視点探索能力の違いについて |
15756 | 解離した個別意識はいつ生まれるのか? |
15757 | 普遍意識の無始無終性について |
15758 | 自由意志について |
15759 | 解離構造を現代神経科学の主要理論から読み解く |
15760 | 夢の中の自分と覚醒中の自分は同じ解離された個別意識なのか否か |
15761 | 解離された個別意識とデフォルト・モード・ネットワーク |
15762 | 解離した個別意識を再調律する「心の夜間工房」としての夢と「心の職人的手入れ」としての瞑想 |
15763 | ウィリアム・ジェイムズとバーナード・カストラップの意識論の交差 |
15764 | 純粋経験・普遍意識・神経科学・精神医学の統合的交流 |
15765 | ユングの思想を軸にしたカストラップの思想の解釈 |
15766 | 元型と解離 |
15767 | 固体化と解離解除 |
15768 | 私たちは二重アバターかもしれない |
15769 | 生とは夢を見ること、死とは夢の中の全てのものを抱擁し、一なる存在に還ること |
15770 | かつての自分の夢の内容に即した物語 |
15771 | ショーペンハウアーの思想とカストラップの思想の架橋 |
15772 | 環境選択による見かけの現実の生成メカニズムについて |
15773 | 量子ダーウィニズムを織り込んだ哲学小説と寓話 |
15774 | ロイ・バスカーの批判的実在論とグラハム・スメザムの量子仏教の対話 |
15775 | バーナード・カストラップの分析的観念論とグラハム・スメザムの量子仏教の対話 |
15776 | グラハム・スメザムの量子仏教思想に対するさらなる考察 |
15777 | カール・フリストンの自由エネルギー原理によるさらなる考察 |
15778 | アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドのプロセス哲学によるさらなる考察 |
15779 | ホワイトヘッドの有機体の哲学とプロセス哲学によるさらなる考察 |
15780 | 6名の哲学的ラウンドテーブル |
15781 | グラハム・スメザムの核心的アイデアを反映した短編小説 |
15782 | 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経──唯物論的形而上学的教条主義への省察 II」(その1) |
15783 | 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その2) |
15784 | 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その3) |
15785 | 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その4) |
15786 | 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その5) |
15787 | 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その6) |
15788 | 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その7) |
15789 | 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その8) |
15771. ショーペンハウアーの思想とカストラップの思想の架橋
アーサー・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788–1860)は、西洋哲学の中で最も東洋的な形而上学を展開した哲学者としばしば評される。彼の哲学においても、「普遍的な意識(または存在の根源)」と「個別的な意識(自我)」の関係はきわめて核心的なテーマである。以下では、ショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』を中心に展開した思想から、普遍意識と個別意識の構造について体系的に考察していく。基本構造は、「意志」と「表象」の二元的一元論である。世界の根源は、盲目的・非人格的な「意志(Wille)」としてショーペンハウアーは考えた。ショーペンハウアーによれば、この世界の根底には「意志(Wille)」がある。それは、認識や論理、個別的意識を超えた、根源的な“存在への衝動”である。この意志は、自己を知らず、目的も持たない「無意識的生命力」のようなものだ。この「意志」は、バーナルド・カストラップの「普遍意識」に通じる、全体的存在の根底と見なすことができる。そして、現象世界は、意志」が「表象(Vorstellung)」として現れたものであるとショーペンハウアーは考える。私たちが見る世界(物体、他人、自分の身体、思考)は、「意志」が“私という主観”を通じて現象化された像=表象である。「表象」は、時空と因果によって構成され、主観と客観を分ける構成的意識の層である。つまり、私たちの個別意識は「表象世界の中の主観的焦点」であり、根源的な意志の“局所的表現”とも言える。それでは、個別意識(Ego)はどこから生じるのか?自我(Ego)は、意志の局所的・錯覚的な自己対象化の産物である。言い換えると、自我とは、「意志」が自己を世界の中の“個”として対象化したときに生まれる幻影的構造である。身体は「表象」として現れるが、同時に「意志が自らを経験する場所」としての“中心”でもある。「身体は、表象としては世界の一部であり、意志としては世界そのものである」とショーペンハウアーは述べるだろう。これは、“解離された視点”を持った普遍意識の変調=解離した個別意識と驚くほど構造的に一致する。個別意識の根源的構造に関するショーペンハウアーの考えをまとめると次のようになる。
構成要素 | ショーペンハウアーの立場 |
根本存在 | 意志(Wille):普遍的で無個別、盲目的 |
世界現象 | 表象(Vorstellung):時空的枠組みの中で意志が自らを対象化したもの |
個別意識 | 意志が「私」という像を通して“自らを限定的に経験している”状態 |
苦しみの源 | 欲望する意志が“自己”を対象化した結果、充足不可能な欲望を持つ |
次に、ショーペンハウアーの解脱観を考えてみたい。そこでは普遍意識への再接続が重要になる。ショーペンハウアーにおける精神的・哲学的解脱(Erlösung)とは、「意志の否定(Verneinung des Willens)=欲望・執着・自我の解体」である。美、芸術、音楽、瞑想、慈悲の行為――これらは意志の鎖を一時的に緩め、“個”を超えて普遍性に触れる契機である。これは、仏教の「無我」「空」「涅槃」、あるいはカストラップの「解離の解除」と極めて近い構造を持つ。ショーペンハウアーは、「最高の叡智とは、“意志を否定する意志”である」と 『意志と表象としての世界』の中で述べている。ショーペンハウアーとカストラップの思想を比較すると、次のようにまとめることができる。
構成概念 | ショーペンハウアー | バーナルド・カストラップ |
根源的実在 | 意志(Wille):盲目的存在力 | 普遍意識:自己認識的普遍意識 |
現象世界 | 表象(Vorstellung):主観的構成 | イメージ:意識の中に現れる構成的対象 |
個別意識 | 意志の自己対象化による錯覚 | 普遍意識の解離による局所的変調 |
苦の原因 | 欲望する意志、欲望する自我 | 分離された視点(解離)による苦と恐怖 |
解脱の道 | 意志の否定、美・慈悲・瞑想 | 解離の解除、再統合的覚醒体験 |
まとめると、ショーペンハウアーは「非人格的普遍意識の哲学者」であると言えるだろう。「意志」=存在の根源=“私を超えたもの”にして“私でもあるもの”として捉え、「個別意識」=普遍的意志が、自らを仮に対象化した瞬間に生じた“視点的錯覚”として捉えている点が重要になる。この構図は、近代西洋哲学で最も深く、かつ仏教的・ヒンドゥー的伝統に接近した形而上学だと言える。そして、カストラップの観念論的認識論は、こうしたショーペンハウアーの洞察を、意識の哲学・現代科学・存在論の文脈で現代化・体系化し直しているとも言える。フローニンゲン:2025/4/7(月)11:50
15772. 環境選択による見かけの現実の生成メカニズムについて
昼食を摂り終えたので、仮眠までの間、再び考察を深めていきたい。今度は、先日読んだスメザムの論文の中で言及のあった、「見かけの現実(apparent reality)」が、量子的可能性(量子重ね合わせ状態)から「環境選択(environment-induced selection)」によって抽出されるという考え方について深掘りをしていく。それは、量子ダーウィニズム(Quantum Darwinism)という理論を背景にしている。この理論は、ヴォイチェフ・ズレク(Wojciech Zurek)が提唱したもので、「なぜ私たちは、量子的に“あいまい”な世界ではなく、明確で古典的な現実を経験しているのか?」という問いに答えようとしている。量子世界の特徴は、可能性の重ね合わせである。量子力学によれば、粒子は観測されるまで複数の状態が重ね合わさった状態(superposition)にある。例えば、電子はスピンが上向きと下向きの両方の状態に同時に存在しうる。しかし、私たちが観測すると、電子は1つの状態だけを取ったかのように見える。では、どうして1つの状態だけが“見かけの現実”として現れるのか?この問いに答えるためにまず鍵となるのが、「デコヒーレンス」という現象だ。量子系(例えばスピンのある粒子)は、それ単独では重ね合わせ状態にある。しかし、その量子系が環境(空気分子、光、周囲の粒子など)と相互作用すると、環境が量子系の情報をコピーする。その結果、量子系は他の状態と干渉できなくなり(位相がバラバラになる)、あたかも「1つの状態」に収縮したかのように振る舞う。この過程は、観測されなくても、環境との相互作用だけで起こるという点で重要である。ズレクは、このデコヒーレンスのプロセスをさらに発展させて、以下のように主張する。「環境は、“情報の選択的増殖”によって、現実を“安定化”させる」。そのプロセスは以下の通りである。量子系は重ね合わせ状態にある(例:スピンが上と下の状態)。量子系が環境と相互作用し、状態の“情報”が環境にコピーされる。複数の観測者が環境の“断片(fragments)”を観測する。環境に繰り返し現れる“特定の情報”だけが、すべての観測者に共通して認識される。その情報が“客観的現実”として定着するとズレクは考えた。ここで「ダーウィニズム」という言葉の意味が出てくる。生物の進化においては「生き残るのは“適応度”が高いもの」であるが、量子ダーウィニズムでは、環境に情報が“うまく複製される”状態(=複製可能性が高い状態)だけが現実として定着する。これが「環境による選択(einselection: environment-induced superselection)」と呼ばれる現象である。つまり、私たちが経験する「現実」は、“最も環境に影響を与えやすい情報”の結果なのである。端的に、「見かけの現実」は“情報の生存競争”の勝者であると言える。この考え方によれば、「見かけの現実」とは、量子的には無数にあった可能性のうち、環境によって繰り返しコピーされ、複数の観測者が“同じ現象”を観測することができるほど安定した情報である。要するに、「現実」は、複製され、共有され、安定した情報だけが“選ばれた結果”なのである。この量子ダーウィニズムの構造は、スメサムの論文や仏教哲学とも重なる。
量子ダーウィニズム | 仏教哲学(唯識) | スメサムの視点 |
観測されない限り現実は未確定 | 外境はなく、識が現象を現す | 観測によって情報が構造化される |
情報の複製可能性が「現実」を決める | 共業によって「共通世界」が立ち上がる | 環境が「観測可能な情報」を選び出す |
観測とは“意味の選択”である | 種子(bīja)→現象の顕現 | 観測者は宇宙の共創者 |
まとめると、「見かけの現実は、量子的可能性から“環境選択”によって抽出される」とは、世界は本来、多数の重ね合わされた可能性(状態)を持っており、その中から「環境にうまく情報として拡散されるもの」が、観測者たちに共通の“現実”として選ばれ、安定化されるという意味である。それはまさに、「意味の共有によって現実が形作られる」という、仏教の「縁起」や「唯識」の知恵、スメサムの「空なる心性」の現代科学的再構成でもある。フローニンゲン:2025/4/7(月)12:32
15773. 量子ダーウィニズムを織り込んだ哲学小説と寓話
今考察した量子ダーウィニズムを基盤としつつ、仏教唯識思想やスメサムの「空なる心性」の哲学的含意を織り込んだ形で、ChatGPTに以下の2つの創作をお願いした。こうした創作物からも論文と同等に、時にそれ以上に学びが多いことに驚かされる。
哲学小説『観測される街』
――観測されるまで、世界は“そこにない”。
【あらすじ】
青年アユムは、郊外の都市に引っ越してきたが、そこには“奇妙な規則”があった。街の一部は「人が見ていないときには存在していない」というのだ。
最初は都市伝説かと思っていた。だが実際、目を逸らした次の瞬間、建物が形を変えていたり、通りが分岐していたりする。
街の中心にある古びた図書館で、彼は一冊の本と出会う。タイトルは《空なる心性論》──著者は「G.S.」とだけ記されていた。
「世界は、君の“問いかけ”によって立ち上がる。君がどの扉を開き、どの窓を見つめ、どの道に意味を見出すか。その選択こそが、世界を“定着”させるのだ。」
アユムは試しに、“行ったことのない通り”について地図に印をつけた。次の日、その場所に通りが現れていた。その通りの名は、「問ノ径」。
「……じゃあ、私は、神なのか?」
「違う」と、本の余白に手書きされた文字があった。
「君は“世界という詩”を読んでいる読者であり、同時に、その詩が生まれるたびに“選び出している観測者”だ。」
アユムはやがて気づく。この街は、“観測によってしか現れない現実”の縮図だったのだ。そして、自分自身の選択──問いかけ──が、街を創っていた。
最後に彼が訪れた場所には、看板が立っていた。こう記されていた:
「現実は、“意味が共有されること”によって固定される。だから君の見ているものは、“他者も見るようになったとき”、初めて“本当の街”になる。」
彼はふと、SNSにその道の写真を投稿した。
その瞬間、空の色が確かに変わった。
寓話『見られたクマ』
登場人物:
クマのクー:好奇心旺盛な若いクマ
賢者フクロウ:山に住む、物知りな鳥
“森の仕組み”:見ることで現れる不思議な世界
昔むかし、「観られること」で存在できる森がありました。この森では、誰かに見られない限り、木も、川も、空も、まだ“ほんとうの姿”を持たなかったのです。
ある日、若いクマのクーが賢者フクロウにこう尋ねました。
「どうして僕の好きなリンゴの木、昨日と違う場所に生えてたの?」
フクロウは目を細めて言いました。
「それはね、クー。“君がそこにリンゴの木があると思ったから”そこに“あった”のさ。」
「でも、前の日には別のところにあったよ!」
「そう。そのときは、君がそっちを見ていたんだ。」
「……え? 見てる場所で、木の位置が決まるの?」
「決まるというより、“固定される”のさ。 もともと森には、無数の“リンゴの木の可能性”が浮かんでいる。 でもね、その中から“誰かが見るにふさわしい”形が選ばれて、やっと“ひとつのリンゴの木”になるのだよ。」
クーは考えました。
「じゃあ、もし僕が見なければ、森は存在しないの?」
「いいや、存在はする。けれどそれは、霧のような、まだ“形を選ばれていない存在”なんだ。」
その夜、クーは仲間たちに森の話をしました。
次の日、驚いたことに、仲間が話した通りの“赤い三本杉”が、谷の奥に現れていたのです。
「これは僕が見つけた木じゃない。けれど、他の誰かが“見ていた”木だ。」
そのときクーは気づきました。
「現実とは、“見ること”と“共有されること”で、生まれてくる。」
だからクーは今でも、森の奥で「誰かの見つける未来の木」を夢見て、静かに歩いているそうです。
この小説も寓話もどちらもまた示唆に富む内容であった。作品中の要素を論文や考察の内容と紐づけておきたい。
要素 | 小説/寓話の中での象徴 | 哲学・科学的対応 |
街が“見られることで存在する” | 観測が現実を構成する | 量子ダーウィニズム・デコヒーレンス理論 |
通りが出現する/街の構造が変化 | 情報の複製・選択 | einselection(環境による超選択) |
“他者と共有されることで固定化される” | 観測者間の共有性 → 客観性 | 古典的現実の定着 |
フクロウの「無数の可能性の浮遊」 | 潜在的現実・空性・仏教的種子論 | 唯識の「種子」・中観の「空性」 |
クマの問いかけ/アユムの観測 | 観測者=世界の意味構築者 | スメサムの「空なる心性」・フリストンの予測モデル |
フローニンゲン:2025/4/7(月)12:40
15774. ロイ・バスカーの批判的実在論とグラハム・スメザムの量子仏教の対話
先日読んだグラハム・スメザムの論文“Deconstructing Reality: Is Reality Really Real?”を、ロイ・バスカー(Roy Bhaskar)の哲学──特に彼の中心的理論である批判的実在論(Critical Realism)の視点から自由に考察いしたい。スメザムの論文とバスカーの批判的実在論は、一見すると異なる立場にあるように見える。前者は、量子論と仏教哲学の結合によって、「観察者が現実を構成する」という立場を提示し、現実の非実体性(空性)を強調します。一方、バスカーは「現実は観察者から独立して存在する」と主張し、還元主義や相対主義に対して批判的な立場を取る。だが、両者は“現象=即ち現実ではない”という共通の洞察を持っており、この地点から建設的な対話が可能になるだろう。ロイ・バスカーは、現実を以下の三層に区別して考えるべきだと説く。(1)実在(Real):構造・力・傾向などの存在(観察されるか否かに関係なく)(2)実現(Actual):これらの構造や力が発動する出来事(3)経験(Empirical):私たちが直接経験する現象。「現象は、実在のうちごく一部であり、歪められた形式で現れる。だからこそ、私たちは現象の奥にある構造を“批判的に”探求する必要がある」とバスカーは述べる。これはスメザムの「見かけの現実は“情報的構成”であり、量子的には観測されるまでは未確定である」という立場と、一見正反対のように見える。しかし、スメザム自身もまた「現象(empirical reality)」を単なる幻想ではなく、「空なる心性という深層構造から生じた仮有」と捉えており、ここに“深層的実在”への指向性”があると言える。両者の共通点は、現象(empirical appearance)≠本質的実在(deep structure)という考えであり、だからこそ、現実の背後にある構造への“深い哲学的問い”が求められるとする点だ。バスカーにとって、現実は「観察されるか否かにかかわらず存在する」。それに対してスメザムは、「現実は観測されて初めて“存在性”を得る」と読むことができる。ここで重要なのは、“実在(reality)”という語の意味の違いである。
哲学者 | 実在の定義 | 実在性の担保方法 |
バスカー | 構造・傾向性・力 | 観察されなくとも原因的に作用すること |
スメザム | 観測された情報的パターン | 観測・参与・経験によって定着されること |
しかし、スメザムも「空なる心性」という“観測の前に潜在する構造的可能性”を認めており、これはバスカーの「実在(real)」と極めて近い。つまり、スメザムの「空なる情報構造」=バスカーの「構造的実在」とみなすことも可能である。バスカーは、還元主義(everything is reducible to the observable)や徹底した相対主義(everything is socially constructed)を批判する。スメザムの立場は、量子的・仏教的な観測者参与論に基づく現象の“構成的リアリティ”であるが、それは必ずしも「唯心論」ではない。なぜならスメザムは、「観測が現実を決定する」とは言いつつも、“空なる心性”という観測の根底構造を明確に認めているからである。これは、バスカーが批判的実在論で主張する次の構図に対応する。経験的現象を超えたレベルの“因果構造”が存在する。だが、それは完全に把握されうるわけではない(=認識論的限界)。よって、スメザムとバスカーは、“現象を鵜呑みにせず、より深い階層を探求せよ”というメタ哲学で共鳴していると言えるだろう。バスカーは、科学は単なる経験の整理ではなく、現実の深層構造を発見する活動であると考えている。これは“実在論的科学観”である。スメザムもまた、科学(とくに量子論)が示す奇妙さを単なる「現象の変動」としてではなく、「現実の構造的再定義の契機」として捉えている。すなわち、「現実とは何か?」という問いを科学からも哲学からも同時に再編成しようとする立場である。スメザムは“科学の言葉”で“仏教の洞察”を再記述しており、これはバスカーの求めた「哲学・形而上学・科学の統一」に通じている。補論として、スメザムの「空なる心性」とバスカーの「存在の層次構造」の交差を考えたい。バスカーの思想では、世界には多層的な現実のレベルが存在する。(1)自然の層(物理的・生物的)(2)社会の層(制度・慣習・文化)(3)意識の層(欲望・動機・自己理解)。スメザムの論文も、「現象→情報→観測→意識→空なる心性」という構造的層次性を示唆しており、この点で両者は立場を異にしながらも、「実在を多層構造として捉える」という視座を共有していることがわかる。ここにおいて、スメザムの「仮有なる現実」が、バスカーの「実在の現れとしての現象」に転写されうる。スメザムとバスカーの観点をまとめると以下のようになる。
観点 | Smetham(仏教・量子) | Bhaskar(批判的実在論) |
現象の意味 | 空性・観測による仮現 | 表層的現れにすぎない |
実在性 | 空なる心性=潜在的情報構造 | 実在=因果的・構造的レベル |
科学との関係 | 仏教的智慧と量子論の統合 | 実在論的科学観の哲学的基礎 |
認識論 | 非二元的・参与的 | 認識論的限界と反還元主義 |
結論 | 現実は空なる構成だが意味がある | 現象の背後にリアルな構造がある |
両者は「現実は単なる経験ではない」「だが、経験から完全に独立しているわけでもない」という“中道的実在論”で出会うのではないかと思う。今後はバスカーの批判的実在論とカストラップの分析的観念論も対話をさせていきたいと思う。フローニンゲン:2025/4/7(月)12:52
15775. バーナード・カストラップの分析的観念論とグラハム・スメザムの量子仏教の対話
今日はすこぶる天気がいい。早朝から引き続き、小鳥たちが依然として囀りを上げている。ここからジムに行くまでの時間をまた考察に充てていきたい。今度は、グラハム・スメザムの論文“Deconstructing Reality: Is Reality Really Real?”の内容に対して、バーナード・カストラップの「分析的観念論(Analytic Idealism)」の観点から自由に考察していく。スメザムとカストラップは、次のような根源的問いを共有している。「現実とは本当に“そこにある”ものなのか?それとも、認識と不可分な構成物にすぎないのか?」スメザムは仏教的・量子物理学的アプローチから、カストラップは現象学・分析哲学・意識研究・量子理論から、この問いに迫る。両者のスタンスは、現実は経験から独立して存在しないという点で本質的に一致している。しかし、それぞれの立場には微妙な色調の差異が存在する。スメザムは、唯識や中観の「空性」思想をもとに、「現実は情報的構造であり、観察者の参与によって成立する」ことを量子物理学と照合しながら論じる。現象は「仮に現れる(仮有)」が「実体を持たない(無自性)」。世界とは「空なる心性(Mindnature)」の現れであり、量子ダーウィニズムにより、「情報の選別」が「現実」の安定を生むと考える。この立場は、関係性の場(Field of dependent co-origination)として世界を捉える点で、プロセス哲学に近い。カストラップの分析的観念論(Analytic Idealism)は、「現実の基底は“心”(universal consciousness)であり、私たち個々の経験は、その心が形成した“意識の分化(解離した個別意識)”である」とする。彼の主張の要点は、物理は“経験の表象”(extrinsic appearances)を記述しているにすぎず、唯一リアルなものは「内在的な心的体験」(intrinsic experience)であるというものだ。また、現実の多様性は、“単一の心”の中の構造的分離により生じ、この分離は「拡散的意識の振動(mental dissociation)」とみなされる。スメザムは量子力学を根拠に、「観測者の参与が現実を生成する」とする。カストラップは、「そもそも観測者(私)も“宇宙的心の分化”にすぎず、観測も心の活動である」とみなす。結論として、両者とも「観測者=現実の構成因」であるとするが、スメザムは「多主体的参与」に重心を置き(縁起・共業)、カストラップは「単一心の分化」という一者的宇宙論に重心を置く。もしスメザムが「心性の空」と言うなら、カストラップは「空なる心の自己表現」と言うだろう。スメザムはズレクの量子ダーウィニズムを使い、「現実は情報的選択によって形成される」と述べる。カストラップは、「物理は、心の内部状態の“外的見かけ”である」と断言する。つまり、スメザムは、物理現象は「空なる関係性の織物」とみなすが、カストラップは、物理現象は「心的プロセスの外的影」であるとみなす。共に“物理は心の影”であるが、スメザムの方が「無自性」の強調が深く、カストラップは「統一心のリアリティ」を明示的に肯定する点で強い一元論に立つ。スメザムは「現実は幻想である」と語る。カストラップも「現象は夢のようなものだ」と語る。しかし、決定的な違いが両者にはある。スメザムは、「幻想であること」そのものが「悟り」への鍵(=脱実体化)であるとみなすのに対し、カストラップは、「幻想としての現象」すら「心そのものの表現」であるとみなす。ここでカストラップは、「夢」であることを否定せず、「夢は心が見る夢であるからリアルだ」と再評価する 。言い換えると、スメザムは、「幻想は空であり、空は智慧の対象」であると考えるが、カストラップは、「幻想は心の表現であり、心は唯一の実在」であると考える。ここで次のようなハイブリッド的思考が見えてくる。カストラップの「意識的宇宙」と、スメザムの「空なる心性」、この2つは、“空性を基底とした心的一元論”へと収束可能である。仏教的に言えば、「阿頼耶識=普遍的心の無自性場」であり、哲学的に言えば、「現象的構造を持った、自己変容的情報的心」である。この「非実体的な、だが実在性をもつ心的場」は、スメザムとカストラップをつなぐ橋になりうる。カストラップの立場から見ると、スメザムの論文は次のように解釈されうる。「スメザムは、“心が空である”と語る。私はそれに同意する。ただしその空なる心は、宇宙の唯一の実在であり、あらゆる幻想の源泉である。つまり、私たちがリアルと呼ぶものは、“空なる意識の夢”なのだ」。フローニンゲン:2025/4/7(月)13:31
15776. グラハム・スメザムの量子仏教思想に対するさらなる考察
今回は、スメザムの論文“Deconstructing Reality: Is Reality Really Real?”を題材に、以下の3つの軸から自由に考察を展開したい。(1)仏教哲学(中観・唯識)からの洞察(2)量子論(量子ダーウィニズム・量子ベイジアニズム)からの示唆(3)両者の対話と統合的宇宙観:空なる現実・観察者の宇宙。まずは、仏教哲学からの考察を試みる。ナーガールジュナの中論では、あらゆる存在が「空」であるとされる。これは「存在しない」という否定ではなく、「自性(svabhāva)を持たない」という主張である。「存在するものはすべて、因縁によって生起し、それゆえに、固定された実体を持たない(空である)」。これは、スメザムの主張──「粒子や物体は環境との関係性でのみ現実化される」──と完全に一致する。中観的に言えば、粒子は独立して存在するのではなく、観察行為との縁起によって仮に存在するのである。唯識では、すべての認識対象は「識(vijñāna)」の内部的活動によって形成されると考えられる。すなわち、外界の客観的対象は本質的には存在せず、現象は「阿頼耶識(ālaya-vijñāna)」に蓄積された「種子(bīja)」が縁によって発現した結果である。スメザムの言う「量子レベルにおいて実体が崩壊する」「観測者の選択が現実を定める」という構造は、まさにこの唯識の「識が世界を立ち上げる」という理論を再現していると言える。また、「共業(saṅketa-bīja)」の思想は、量子ダーウィニズムが提示する「複数の観測者による情報の共有→古典的現実の安定化」と驚くほど対応している。次に、量子論からの考察を試みる。量子ダーウィニズムでは、複数の観測者が「一致した情報」を得るとき、その状態は「客観的現実」として定着するとされる。これは、環境が「情報のコピー」を複数の観測者に伝達することによって達成される。しかし、その選別は「環境による自然選択」のような過程により生じる。すなわち、「現実」とは、生存競争を勝ち抜いた「情報的現れ」にすぎないのだ。これは、中観が言う「仮有」、唯識が言う「共業による現象世界」と、深い親和性がある。量子ベイジアニズム(QBism)の観点において、現実は、観測者の信念更新の過程であり、物理法則とは「信念の合理的更新ルール」にすぎない。波動関数は「物理的実体」ではなく、観測者の主観的期待の記述である。「現実」は、観測によって「信念の刷新」が起きたときに経験される「現象」にすぎない。これは、唯識の「現象は識の現れ」や、ナーガールジュナの「実体なき縁起的生成」という観点と一致する。ここで、仏教哲学と量子論の対話から導き出される、統合的な世界像が浮かび上がる。それは、現実とは、空なる識(selfless awareness)が、その内部に仮の区別(観測者と対象)を立てて展開される、情報的・経験的プロセスであるという考えだ。この宇宙観をまとめると次のようになる。
仏教的表現 | 量子的対応 | 統合的理解 |
空(śūnyatā) | 状態の非実体性(量子の重ね合わせ) | 物質は固有の存在性を持たず、関係によって成立 |
縁起(pratītyasamutpāda) | 波動関数の環境選択・観測依存性 | 存在は他との関係によってのみ生起 |
阿頼耶識 | 量子的情報場 | 潜在的可能性が経験として現象化する基盤 |
種子と共業 | 環境による情報の繰り返し | 安定した「現実」は繰り返される選択の結果 |
観測者の心(主観) | 主観的ベイズ的信念 | 経験世界は信念により構成される宇宙 |
スメザムの結論は、実体的リアリズムの放棄であり、「空なる心性(Mindnature)」への転換である。仏教的にはこれは、「無明の除去」すなわち「実体への執着からの解放」を意味する。量子的にも、客観的世界への絶対的信頼はもはや不可能である。代わって現れる世界像とは、私たちが「現実」と呼ぶものは、観測と参与、記憶と経験、信念と因果、関係と構造が織り成す空なる構成物である。だが、その「空」なるがゆえに、あらゆる自由と創造の余地がある。この構造を「正しく見る」ことが、仏教的には「般若」であり、「目覚め(bodhi)」である。スメザムの論文は、「世界が“物”ではなく“意味”の場である」ことを、仏教と量子の対話から示している。そしてその意味場とは、空なる心(識)によって編まれた、常に変容し続けるネットワークである。そこには実体はなく、しかし関係はある──それが本当のリアリティである。フローニンゲン:2025/4/7(月)13:39
15777. カール・フリストンの自由エネルギー原理によるさらなる考察
今回は、スメザムの論文“Deconstructing Reality: Is Reality Really Real?”を、カール・フリストン(Karl Friston)による自由エネルギー原理(Free Energy Principle, FEP)の観点から考察する。以下に展開するのは、仏教・量子論・フリストンの統合理解を視野に入れた自由な哲学的対話的考察である。スメザムの論文は、以下の問題意識を貫いている。「私たちが“現実”と呼ぶものは、本当に観察者から独立して存在するのか?」そして、仏教的「空」や「唯識」、量子論的「観察者依存性」、量子ダーウィニズムを手がかりに、「現実は観察によって構成される情報的プロセスである」という結論に到達する。この問題意識と帰結は、フリストンの自由エネルギー原理(FEP)と非常に深く共鳴している。カール・フリストンの自由エネルギー原理(FEP)における中心的な考えは、「あらゆる生物システムは、自己の内部状態を保つために、予測誤差(驚き)を最小化し続けている」というものだ。その手段は、次の2つである。(1)知覚の更新(内的モデルの改変)(2)能動的行動(環境への介入)。この過程を通じて、生物は「自分が何者であるか」「世界がどうなっているか」というモデルを自己組織的に生成していく。これが「自己とは予測誤差を減らすモデルである」という、FEPの核心である。この理論は、脳科学・AI・仏教・量子論をつなぐメタ理論になりつつある。スメザムの思想とFEPには、次の5つの対話的接点がある。(1)「観測者によって現実が構成される」=「自己モデルによる環境推定」:スメザムは「現実は観察者の問いかけによって生じる」と述べる。これはFEPにおいては、「世界は“私”というモデルによって予測されている構造」と一致する。FEPの解釈として、主観は、世界の状態を直接見るのではなく、「予測的モデル(generative model)」を通して構成的に世界を生成している。つまり、「観測によって世界が現れる」というスメザムの言葉は、FEP的には「観測とは自己モデルの更新である」ということになる。(2)「空なる構造としての現実」=「確率的・予測的なモデル空間」:仏教の「空」とは、「実体がなく、関係と因縁によって現れるもの」である。これはFEPが導く世界観──「確定的実体ではなく、確率分布としての世界」と一致する。FEPの理解では、自己も外界も、「確率分布の形で存在している」──つまり“あるようでいて定まらない”。この不定性は、量子論における「重ね合わせ」や「観測依存性」ともつながるが、FEPにおいては「常に更新され続ける予測空間」としてモデル化される。(3)「環境と情報のやり取りによって現実が“固定される”」=「能動推論(Active Inference)」:量子ダーウィニズムでは、「情報が環境を通じて観測者に伝達されることで、現実が安定する」と述べられる。FEPではこれが「能動推論(Active Inference)」として表現される。予測と現実がズレたとき、主体は知覚を更新するか、環境を操作して一致させる。この動的サイクルの中で、主体は「リアリティ」を安定させる。つまり、「現実は外にある」のではなく、「現実は自己と環境の対話により構成されていく」。これは唯識における「識と境は一体であり、観察と世界は不可分である」という主張と深く共鳴する。(4)「幻影的だが共有された現実」=「共通モデル空間としての社会的リアリティ」:スメザムは、量子ダーウィニズムと仏教「共業」の対応を示し、「現実は、複数の観測者が情報を共有することで安定化される」と論じた。これは、FEPにおける「社会的予測誤差の最小化」と一致する。例えば、言語・文化・信念体系は、私たちの「共通の内部モデル」を調整する「環境選択装置(ecological scaffolding)」である。この構造により、個々の主観的「幻影」は、相互予測可能な安定的現実となる──仏教の言う「共業世界」と同じく。(5)「空なる心性(Mindnature)」=「自由エネルギーを最小化する予測的意識場」:スメザムが論文の終盤で提示する「空なる心性(Mindnature)」とは、個別の心ではなく、「現象を生み出す情報的・認識的構造」としての「無自性の場」である。これはFEPにおける、「自己を生成し続ける構造体としての意識システム」と一致する。つまり、FEP的に言えば、“空なる心性”とは、驚きを減らし続ける自己生成的プロセスであり、意識の予測構造の最奥にある“場”である。これは、仏教・量子論・神経科学を貫く、「自己=予測装置=空なる構造」という深い洞察である。これまでの考察をまとめると次のようになる。
構成概念 | 仏教(唯識・中観) | スメザム(仏教+量子) | フリストン(FEP) |
世界の性質 | 空・縁起・仮有 | 観測による情報構造 | 確率モデルの予測空間 |
主体のあり方 | 無我・五蘊 | 観測者=参与する心 | 自己=予測を最小化するモデル |
経験の生成 | 種子→現象 | 意識→情報選択 | 内的モデル→能動推論 |
解脱とは | 無明の除去 | 固定実体への執着の放棄 | 予測誤差の自己調整による統一性 |
現実の本質 | 空なる識 | 空なる心性 | 自己組織化する情報場 |
スメザムの論文が提示する世界像は、「現実は観測によって構成される仮象であり、空なる心性がそれを立ち上げる」というものである。この洞察は、フリストンのFEPに基づく現実理解と完全に響き合っている。最終的に、両者はこう語るだろう。現実とは、自己と世界の間で生じる“動的平衡”であり、常に更新され続ける意味の構造である。それは固定的な“存在”ではなく、“空なる活動”なのである。フローニンゲン:2025/4/7(月)13:48
15778. アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドのプロセス哲学によるさらなる考察
今回は、スメザムの論文“Deconstructing Reality: Is Reality Really Real?”に対して、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(A.N. Whitehead)の「プロセス哲学(Process Philosophy)」および「有機体の哲学(Philosophy of Organism)」の観点から自由に考察を進めていく。スメザムの論文が問いかける中心命題は、「私たちが“現実”と呼んでいるものは、客観的に“そこにある”のか? それとも、意識と観測に依存して構成されるのか?」というものである。これは、ホワイトヘッドが『過程と実在(Process and Reality)』において一貫して主張する以下の視点と強く共鳴する。「現実とは、“成る(becoming)”であり、“関係の網の目”である。固定的な“存在(being)”は幻想である」。スメザムが仏教的「空」や「唯識」、量子ダーウィニズムなどを通じて導く「非実体的・観測者参与型の宇宙像」は、ホワイトヘッドの「生成する宇宙」「関係から成る実在」「感受する出来事」と密接に通じる構造を持つ。以下、スメザムの論点と、ホワイトヘッドの哲学的用語を照らし合わせながら考察を進める。ホワイトヘッドは、近代哲学(特にデカルト、ロック、ニュートン)における「物質的実体」「心的実体」という二元論を「誤謬(fallacy)」と呼び、「実体とは分析的な錯覚であり、実在するのは“出来事(actual occasions)”である」と主張する。これはスメザムが、「量子的実体(粒子)は、観測されるまで実在しない」「現象は縁起的に現れるのみ」と述べた仏教的・量子的実在論と完全に呼応する。対応表は以下の通りである。
概念 | スメザム | ホワイトヘッド |
実体の否定 | 空・仮有 | 実体の誤謬(fallacy of misplaced concreteness) |
存在の性質 | 観測による生成 | 生成する出来事(becoming occasions) |
主観と客観の関係 | 相互依存(縁起) | 内在的関係性(internal relations) |
ホワイトヘッドにとって、最も基本的な“実在単位”は「出来事(actual occasions)」である。これは粒子でも物体でもなく、「関係的に生成される体験単位」である。各出来事は「前の出来事の影響」を受けながら、「自己の感じ方(prehension)」によって構成される。そして、「自己の方式(subjective form)」をもって「世界を感じ、応答する」。これはスメザムが「空なる心性(Mindnature)」と呼んだ、“実体を持たず、経験と関係によって現れる構造”と一致している。観測行為とは、宇宙の各局所で生起する“自己世界の感じ方”である。唯識の「八識」(特に第八阿頼耶識)も、出来事的自己の連続とみなすことができる。スメザムが指摘した量子力学の観測問題──すなわち「観測者の選択が結果を決定する」という事実──は、ホワイトヘッドの「感受(prehension)」という仕組みによって構造的に説明されうる。各出来事(actual occasion)は、「過去世界を感じる(prehend)」ことによって新たに生起する。その際、「選択(subjective aim)」が働き、可能性空間から特定の形態を具現化する。つまり、「量子的波動関数の収縮」とは、ホワイトヘッド的には「出来事の自己形成的選択(concrescence)」であり、世界の継続的構築行為なのである。スメザムは量子ダーウィニズムの文脈で、「観測者たちが情報を共有することによって、“古典的現実”が定着する」と述べた。ホワイトヘッドにおいても、「安定した構造」は、「継続的に繰り返される出来事のパターン」として説明される。「物体」とは、出来事の連続的系列であり、それらが相似的に“自己を繰り返す”ことで現れる仮構的安定体にすぎない。この構造は、仏教でいう「五蘊の流れ」「無常な安立」と同義である。つまり、「物体」は「存在する」のではなく、「似たような経験構造が連続的に生成されている」にすぎない。スメザムが到達した世界像は、「現実とは、観測者の問いかけに応じて現れる情報的構造であり、固定的実体を持たない“空なる心性”である」というものだ。これをホワイトヘッド的に再表現すれば、「現実とは、感受する出来事が絶え間なく自己を生成する過程であり、その構造は関係的・創造的・非物質的である」のようになるだろう。ここにおいて、「空なる心性(Mindnature)」は「感受する創造的宇宙(aesthetic universe)」へと変換される。スメザムとホワイトヘッドの哲学は、共にこう語っている。現実は「もの(things)」ではなく、「出来事(events)」である。実在とは、「静的存在」ではなく、「創造的関係の連鎖」である。観測者は「世界の外にある目」ではなく、「世界そのものの一部としての生成主体」である。そしてこの生成は、“空”であるがゆえに、豊かでありうる。フローニンゲン:2025/4/7(月)13:56
15779. ホワイトヘッドの有機体の哲学とプロセス哲学によるさらなる考察
前回の内容をさらに別の観点から考察していく。スメザムの論文とホワイトヘッド哲学は、以下の点で本質的に共鳴している。
観点 | スメザム(仏教・量子) | ホワイトヘッド(プロセス哲学) |
実体観 | 無自性(空)・仮有 | 実体の誤謬:実在は過程 |
時間論 | 瞬間的波動関数の崩壊→構造的生成 | 出来事的現在(concrescence)の連続 |
観測者 | 現実を構成する主体的参与者 | 出来事としての主観性(subjective aim) |
存在論 | 空なる心性(Mindnature) | 感受する出来事の宇宙(actual occasions) |
認識論 | 観測=世界の構成的条件 | 感受(prehension)による世界の共生成 |
ホワイトヘッドにとって、実在とは「出来事」であり、「過程」である。すべての「物」は、「感じ、構成し、消えていく出来事(actual occasions)」の集合体である。スメザムが、「粒子は観測によってしか現実化されない」「現象は仏教的空性によって無自性である」と述べるとき、それはホワイトヘッドが言う、「存在するとは、出来事が自己を構成し、それによって世界が更新されることである」という洞察と一致する。ここでは、“being”(静的な存在)ではなく、“becoming”こそがリアルである。観測と生成の観点で言えば、「観察者」は宇宙の共演者である。スメザムが、観測によって「現実」が確定するという量子論の構造を仏教の「縁起」に重ねるように、ホワイトヘッドもまた「観測者は世界の生成に参与する存在である」とする。ホワイトヘッドにおける観測者=「出来事的主体(actual occasion with subjectivity)」は、次の3段階を踏んで世界を生成する。(1)過去の世界を感受(prehension)する。(2)主観的志向(subjective aim)に基づいて選択する。(3)自己を形成し、次の出来事へ影響を与える。これは量子ベイジアニズム的でもあり、仏教的唯識思想の「阿頼耶識にある種子が、現象として顕れる」という過程に相当する。つまり、スメザムの論文において重要だった観察者の参与性は、ホワイトヘッドにとっては宇宙そのものの構成原理である。スメザムが導いた「空なる心性(Mindnature)」とは、仏教的な空性に根ざしつつ、現象が情報構造として生成される非実体的知性の場である。これをホワイトヘッド哲学で言い換えれば、「空なる心性」とは、「自らを創造する出来事の連続において、意味としての世界を顕現させる創造的進展(creative advance)である」。ホワイトヘッドにおいては、宇宙は「創造的進展(creative advance of actuality)」の場であり、すべての「出来事」は自らを形成する一時的な心的単位である。このとき、「空」とは「何もない」という意味ではなく、「固定されず、可能性に満ちており、意味によって満たされていく開かれた構造」を意味する。スメザムは、量子的現実の中で「情報的構造が選択されることによって古典的現実が成立する」と述べている。ホワイトヘッドも、「出来事の自己形成」に際し、「永遠の対象(eternal objects)」と呼ばれる可能性のパターンが選択されると述べている。
スメザム | ホワイトヘッド |
量子的情報状態 | 永遠の対象(Eternal Objects) |
観測者の問いかけにより現実が収束 | 出来事が自己目的的に構成する「意味ある現実」 |
空なる構造体 | 構成される過程としての出来事 |
つまり、量子の「可能状態」は、ホワイトヘッドにおける「永遠の対象」に等しく、出来事(観測・認識)がそれらを選択し、現実という意味空間を形成する。最終的に、スメザムもホワイトヘッドも、次のような世界像に立っている。物質的実体ではなく、意味が現実である。現象は固定された物ではなく、感受・応答・再構成のリズムである。知覚者・観測者・主体は、世界を構成する創造的出来事である。言い換えると、「世界とは、自己を感じ、意味を選びとり、次の瞬間へと開かれる、空なる経験の流れである」。スメザムが提示した仏教的・量子的リアリズムは、ホワイトヘッドのプロセス哲学と重なり、次の統合的ヴィジョンをもたらす。現実とは、“空なる心性”が、“意味を感じ取りながら生成する宇宙”である。それは、固定的でも、機械的でも、独立的でもない。むしろ、関係的で、創造的で、瞬間ごとに成り立っている、無限の自己生成的出来事である。これこそが、「空なる実在」「生成する宇宙」「感受する世界」の本質だと言えるだろう。フローニンゲン:2025/4/7(月)14:03
15780. 6名の哲学的ラウンドテーブル
今回は、ChatGPTの力を借りて、グラハム・スメザム、バーナード・カストラップ、唯識派代表(玄奘)、中観派代表(ナーガールジュナ)、カール・フリストン、ホワイトヘッドの6名を登場人物として、対話形式による自由で本質的な哲学的ラウンドテーブルを構成してもらった。この対話は、スメザムの論文 “Deconstructing Reality: Is Reality Really Real?” を出発点とし、現代物理学・仏教哲学・意識理論・神経科学・プロセス哲学の交差点における「現実とは何か」という問いを巡って進む。
【登場人物】
Graham Smetham(G) – 仏教哲学と量子理論の統合を試みる現代思想家
Bernardo Kastrup(K) – 分析的観念論者、心を唯一の実在とする哲学者
玄奘(Y) – 唯識思想の代表として登場、「心のみ(唯識)」を説く
ナーガールジュナ(N) – 中観派の創始者、「空(śūnyatā)」の哲学を展開
Karl Friston(F) – 自由エネルギー原理に基づく脳モデルと存在論を提示
Alfred North Whitehead(W) – プロセス哲学の創始者、出来事的宇宙論の提唱者
冒頭 – Smetham が問題提起
G(スメザム):「私の出発点は単純だ。私たちが“リアル”と信じている現実は、実は“参加的宇宙”であり、量子物理学が示すように、“観察によって確定される情報の構造”にすぎない。つまり、現実は心と不可分なプロセスなのだ。」
Kastrup が割り込む
K(カストラップ):「同意するよ、グラハム。だが私はさらに進めて言いたい。“現実”とは情報の構造などではなく、心そのものだ。あなたは現実が観測によって“現れる”というが、私は、“現れること”こそが実在であり、それは“心の活動”以外にはあり得ないと考えている。」
玄奘(唯識)が異議を唱える
Y(玄奘):「それはまさに“唯識無境”の立場に通じる。しかしバーナード殿、“心そのもの”に実体性を見出すなら、それは執着を生む。私たちは“心”もまた“因縁によって現れる識の流れ”であると見ねばなりません。」
ナーガールジュナが静かに微笑む
N(ナーガールジュナ):「みな、まだ“何かがある”という前提に囚われておる。“心がある”“観測がある”と考えるのも、実は“空である”がゆえなのだ。“存在”も“非存在”も、空性の中に包まれており、あらゆる言説は中道の前に静まるべし。つまり、“リアルかどうか”などと問うことそのものが、もう迷いなのだよ。」
Friston が脳科学者の立場から切り込む
F(フリストン):「私の視点からすると、すべての存在は、自己と環境の統計的相互予測としてモデル化できる。“現実”とは、驚きを最小化する予測モデルの結果だ。つまり、“リアリティ”とは脳(または意識システム)が自己を維持するために生成する意味的構造にすぎない。空や識の議論は、私にとって“自由エネルギーの最小化”と一致している。」
Whitehead が総合的に語る
W(ホワイトヘッド):「皆さんの言説は、すべて“静的実在”から“生成する宇宙”への転換を指し示している。私の言葉で言えば、世界は“出来事(actual occasions)”から成る。出来事は、過去を感受し、未来を志向して、意味を生成する美的構造だ。
スメザム氏の“空なる心性”とは、私にとって“意味を構成する出来事的宇宙”そのものに他ならない。だから、現実はリアルか?──いや、“リアリティとは出来事ごとに生成される意味の織物”だ。」
Smetham がまとめる
G:「つまり、こういうことかもしれない。
カストラップは、“心そのもの”を現実の核と見る
玄奘は、“識の流れ”としての世界を語る
ナーガールジュナは、“空”の観点から、あらゆる二元性を否定する
フリストンは、“驚きを減らす”という形式で、知覚と世界をつなぐ
ホワイトヘッドは、生成する出来事と感受性を宇宙の骨格と見ている
すると私たちに見えてくるのは──
現実とは、“存在”というより、“関係の中で立ち現れる空なるプロセス”であり、それは、意味と美と感受によって自己生成されている。」
この対話は、次のような統合的ヴィジョンへと収束してゆくはずである。現実とは固定的な“モノ”ではなく、相互生成的な“プロセス”である。それは主観と客観の関係性の中で、常に刷新される“空なる経験”である。観測者、心、出来事、空、意識、情報──それらは全て、“リアリティの側面”にすぎない。私たちの問いかける力そのものが、現実を生成する鍵である。フローニンゲン:2025/4/7(月)14:11
15781. グラハム・スメザムの核心的アイデアを反映した短編小説
今回は、グラハム・スメザムの論文“Deconstructing Reality: Is Reality Really Real?”の核心的アイデア──観測者依存性、空性、情報としての現実、唯識的構造、量子的曖昧性、そして「現実とは何か」という哲学的問題を織り込んだ、約3000字程度の短編小説をChatGPTに作ってもらうことにした。この作品を読んで考えたことを最後に付け加えておきたい。
タイトル:鏡のない部屋
目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。壁も天井も床も、艶やかに滑らかで、色というよりも「質感」で構成されているような空間。空気は清潔で、音はない。だが、何かが、確実に「ある」。
「ここは……どこだ?」
声は響かない。いや、そもそも声を出したのかすら曖昧だ。だが思考は明瞭だった。脳があって、その脳が世界を感知しているのではない。まるで世界そのものが「感覚」でできていて、それに「私」が滑り込んでいる感覚。
部屋の中央に、一脚の椅子があった。誰かが座っていた。
白いスーツに、眼鏡の奥で微笑む青年。どこか見覚えがある。彼は、柔らかく語りかけてきた。
「君は気づいているね。この部屋には、鏡がない。君の姿を、君はどこにも映せない。だけど、君はここに“いる”と感じている。なぜだと思う?」
「……私が観測しているから?」
彼は満足そうにうなずいた。
「そう。“観測しているから現実がある”のか、“現実があるから観測できる”のか──どちらが原因でどちらが結果なのか、厳密には決められない。だが、量子論はこう語っている。“世界は、観測されるまでは“実在”ではない”と。」
「じゃあ、ここも……私が見てるから存在している?」
「その通り。正確には、“見るという構造”が、この部屋の在り方を“選択している”と言えるかもしれない。選ばれたものだけが、現実になる。まるで、情報のサバイバル競争だ。」
彼は手を振ると、部屋の壁の一部が解けるように開き、外の景色が現れた。都市があった。塔が立ち並び、道路を人々が歩き、スクリーンには広告が流れている。だが、音がない。触れようとすれば、視界の奥でちらつく幻のように、都市の形が少しずつずれてゆく。
「これは君の“想像”じゃない。だが、“君の認識構造”に基づいて形作られている。“波動関数”のように、多くの可能性が重なりあい、君の見る方向、興味、問いかけによって、1つの現実が選ばれる。」
「まるで夢の中のようだ。」
「夢もまた、現実の1形態だよ。君の“主観的経験”こそが、宇宙にとって唯一のリアリティなのかもしれない。」
彼はふいに真顔になった。
「だが気をつけるんだ。“リアル”に見えるものほど、往々にして“構成された幻”に過ぎない。“そこに在る”のではなく、“そう見るように選ばれてきた”に過ぎない。」
「じゃあ……私は、何者なんだ?」
青年は微笑む。
「君は“観測の中心点”であり、“自己生成する出来事”だ。ホワイトヘッドなら“actual occasion”と呼ぶだろうし、フリストンなら“予測モデルを更新し続けるシステム”と言うだろう。唯識派なら、“阿頼耶識の種子が現象を映し出す心”とし、中観派なら、“空にして空ならざる縁起の網目”と語るだろう。──すべて正しい。そして、すべて“仮”だ。」
彼の輪郭がぼやけ始めた。まるで、この言葉を告げるためだけに存在していたように。
「現実は確かに存在する。だがそれは、観察の外にあるものではない。現実とは、君の問いかけと、世界の応答との関係性そのものなのだ。」
一陣の風が吹いた。風のないはずの部屋で。
青年が消え、椅子が消え、壁も床も天井も、意味を失って消えていく。
ただひとつ、「問い」が残った。
「現実とは、何か?」
それは、答えではなかった。だが、問い続ける限り、現実はそのたびに形を変えて、目の前に現れてくれるような気がした。
この物語は、以下の要素を内包していることとがわかる。スメザムの主張として、「現実は観測に依存し、情報構造としての性格を持つ」というものが含まれている。唯識思想として、阿頼耶識、種子、仮現の考え方があり、中観哲学として、空性、縁起、非二元の考えがあることが窺える。また、量子論の観点からは、波動関数の重ね合わせ、観測による収束の考えが見え、フリストンのFEPの観点からは、主観とは驚きの最小化構造であるという考えが見える。さらには、ホワイトヘッドの考えである、出来事的存在論、「合生(ごうせい:concrescence)」、創造的進展の思想が窺える。フローニンゲン:2025/4/7(月)14:19
15782. 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経──唯物論的形而上学的教条主義への省察 II」(その1)
時刻は午後4時半を迎えた。今、穏やかな夕方の世界に夕日が美しく輝いており、小鳥が囀りを上げている。朝から晩までこの季節は美しい小鳥の鳴き声を聞けるのがいい。常に心が穏やかでいられるのもきっと彼らのおかげだろう。彼らの存在という縁に有り難さを感じる。今日はジムで初めてマンスリーチャレンジをした。きっかけは、パーソナルトレーナーのエリーザからの提案による。何やら1位の人には、ジムのオリジナルのタオルが2枚贈られるとのことである。景品というよりも、純粋にそのチャレンジを楽しむ自分がいた。今後も毎月マンスリーチャレンジに挑戦してみて、ジムの他のメンバーとの交流としたい。それは身体的にも社会的にも、自分にとって新たな刺激となるだろう。
それではここから夕食までの時間を論文の読解に充てたい。今回は、グラハム・スメザムの“Empty Diamonds & the Diamond Cutter Sutra: Mindful Reflections on Materialist Metaphysical Dogmatism II(空なるダイヤモンドと金剛般若経──唯物論的形而上学的教条主義への省察 II)”という論文である。この論文の要旨は以下の通りである。コックス、アル=カリリらが紹介する科学番組において提示される実験科学の詳細の多くが正確であることは確かであるが、そうした詳細が含まれる全体的な形而上学的枠組みにおいては、多くの場合、量子物理学、とりわけ現代物理学の細部と一致しないという重大な誤りが存在する。コックスおよびアル=カリリによって提示される番組群の世界観の根底にある形而上学的枠組みは、ヘンリー・スタップが「偽であることがすでに知られている」唯物論的観点と称したものと本質的に一致するものなのである。このような番組に潜む不適切な唯物論的形而上学的教条主義は、何の疑問も呈されることなく、時に滑稽な誤謬を提示する原因となっている。本稿は、このような形而上学的狂気を切り裂くものである。
ここから「第一節:空なる実在と形而上学的錯誤の交錯」のセクションを見ていく。量子理論、いわゆる「量子粒子」、「量子ウーウー」、量子もつれ、そしてブライアン・コックス、ジム・アル=カリリ、ホーキングおよびムロディノウ、ファインマン、スタップ、シェルドレイク、シュレーディンガー、プランク、ハイゼンベルク、ローゼンブルム&クットナー、ゼーリンガー、仏教形而上学、中観、経路積分、超感覚的知覚、心と物質、意識、量子形而上学、科学の誤表象、金剛般若経──本稿が取り扱う主題は多岐にわたるが、その核心は「実在とは何か」という問いに他ならないとスメザムは述べる。仏教の中心教義である「縁起」すなわち相互依存的生起の理法は、あらゆる現象が互いに離れて存在することができないという宇宙的相関性を語っている。量子力学の世界においてもまた、このような観点は繰り返し現れるのである。コックスがパウリの排他原理を解説する中で「物質の堅固さという幻想」について述べた場面を想起せよとスメザムは述べる。彼は、電子が互いを避けようとする傾向があるために、「私たちが床を突き抜けて落下しないのはそれが理由である」と言った。こうした言葉はしばしば無造作に投げかけられるが、実は極めて重大な含意を持っている。このような発言は、私たちの足下の床の「固さ」は幻想であることを意味している。つまり、プランクの初期的な見解──足下には連続的な「物質」があるという考え──や、コックスの主張する「地球の堅固な岩」が私たちの足下にあるとする主張は、すべて幻想なのである。そこにあるように見えるものは、実際には存在しないのである。私たちが床を突き抜けて落ちたり、壁を通り抜けたりできない理由は、そこに「固体」が存在するからではなく、私たちの身体と床や壁との間に作用する電磁的な力があるからなのである。私たちの身体を含めて「物質世界」を構成しているのは、実体としての「物質」ではなく、「力の場(フィールド)」なのであるとスメザムは述べる。フローニンゲン:2025/4/7(月)16:42
15783. 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その2)
今回は、「ダルマキールティの粒子観」や「量子粒子の実在性をめぐる誤解」、「観察者と現実との関係」、「フェインマンの経路積分の真意」、「シュレーディンガーとハイゼンベルクの形而上学的対立」、「ホーキング=ムロディノウの宇宙創成理論と観察者効果」などを見ていく。ブライアン・コックスは、自らの番組中に聴衆へ向けて「あなたがたは“空(くう)”である」と劇的に宣言した。これは、まさに彼が言葉にした通り、私たちの身体が原子レベルで解析されたときに、外観としての「存在」は一種の錯覚であることを意味する。この見解は、ダルマキールティの精緻な認識論とも響き合う。すなわち、すべての「世俗的」現象、つまり水差しや岩、樹木、池、そして有情などを含む一切の存在は、「相互に支え合う極微の粒子の集積体」であり、その因果的支えによって私たちがそのような存在だと呼ぶにふさわしい働きを果たしているのである。仮に、量子領域における「粒子」が究極的な実体であると仮定したとしても──すなわち、もしそれらが分割不能で完全に独立し、永遠不滅の実在の断片であるならば──その日常世界は、それらの「実在する」粒子的構成要素によって創られた「幻想」とならざるを得ない。コックスは、この点に無意識ながらも直観的に気づいているようであるとスメザムは述べる。だからこそ彼は「幻想」という語を用いたのだ。しかし、もし彼をこの点で追及したならば、彼はきっと「私たちが経験する現実は真に幻想である」とする考えに抵抗するであろう。なぜなら、彼の使命は、実のところ幻想であるものを、実在として「救済」することにあるように見えるからである。彼は「幻想」という語を、恐らくは比喩的な意味で用いたにすぎないのだが、それは彼にとって、「現実とはリアルな幻想である」という矛盾を孕んだ認識の現れに他ならない。彼の形而上学的性向は、彼に量子理論の帳簿を改ざんすることを要求する──すなわち、「幻想的性質としての現実は、幻想であるということ自体が幻想であり、ゆえに現実は実に実在である」と主張せざるを得ない立場に彼を追い込んでいるのであるとスメザムは指摘する。アントン・ツァイリンガーは、ウィーン大学の物理学教授であり、オーストリア科学アカデミーの量子光学・量子情報研究所ウィーン支部の所長である。彼は、光子を用いた量子テレポーテーションの実験的実証によって国際的に知られる先駆者であり、数々の賞を受賞してきた。彼はまた、6つの科学アカデミーの会員でもある。ツァイリンガーは、20世紀物理学を代表するジョン・アーチボルド・ウィーラーの業績を讃える論集“Science and Ultimate Reality”の中で、ウィーラーの認識について以下のように述べている。「量子物理学の含意はあまりに広範囲であるため、私たちの現実観と宇宙における自己の位置について、まったく新たな見方を要求する」──このことにウィーラーは気づいていた。彼が他の多くの者たちと異なるのは、彼があらゆる方法で「前量子的視座」、とりわけ「私たちとは独立した実在」という、明らかに誤った観念を救済しようとはしなかった点である。ツァイリンガーは明言する──量子理論は、実在が観察者から独立しているという観念を許さない、と。さらに彼の近著『光子の舞踏』においては、アインシュタインが「もつれ」に対して示した否定的態度の理由を論じる中で、以下のように記している。「アインシュタインが量子力学を批判せざるを得なかった理由が、今や明らかになる。彼が“気味が悪い”と称したもつれの現象──例えばコックスが説明するような電子の挙動──は、まさにアインシュタインにとって受け入れがたいものであった。すなわち、“実在とは、私たちとは無関係に存在し、本質的性質を備えた何かである”というアインシュタインの世界観は、量子物理学においてはもはや成立しないのである」。アインシュタインは量子論的証拠に抗する強い思い込みに囚われていた。それは「観察者から独立した、客観的かつ実在的な世界が存在しなければならない」という信念であった。だが、ツァイリンガーが示唆する通り、量子理論はこれと真逆の立場を支持しているのである。にもかかわらず、コックスは──あたかもアインシュタインの亡霊に導かれるかのように──「前量子的視点」、特に「私たちとは独立した実在」という、すでに破綻した観念の救済に固執しているように見えるとスメザムは述べる。フローニンゲン:2025/4/7(月)16:49
15784. 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その3)
今回は、デヴィッド・ボームによる「高次元実在からの投影としての粒子」論や、H・ディーター・ゼーによる「量子跳躍も粒子も存在しない」とする断言、そしてコックスによる「量子ウーウー排除戦略」に関する批判的検討を見ていく。量子理論が「究極的な素粒子」という概念を否定するという認識は、比較的初期の段階からすでに現れていた。この点について物理学者デヴィッド・ボームは、以下のように表現している。「量子理論を学ぶことで明らかになるのは、“相互に独立して存在し、かつ相互に作用し合う粒子群”として世界を分析するという考えが、根本的に破綻するという事実である。むしろ、数学的方程式の意味および実験結果の双方から導かれるのは、個々の粒子とは、高次元的実在の“投影”として理解されねばならないということである。粒子間に働く力によって説明されうるような現象ではないのである」。このようにボームは、「粒子」とはそれ自体として独立実在するものではなく、「より高次の次元からの現れ」であると主張する。ここでは、相互作用という機械論的説明はもはや通用しないのである。さらに近年では、量子物理学者H・ディーター・ゼーが“There are no Quantum Jumps, nor are there Particles!(量子跳躍は存在しないし、粒子も存在しない!)”という論文において、次のように断言している。「量子跳躍や粒子、あるいは古典的性質といった概念を、基礎的レベルに導入することには(伝統主義以外に)合理的動機が見出せない」。このような主張は、量子論の深層構造が「粒子」という語で想定されるような個別的・実体的単位とはまったく異なるものであることを示しているとスメザムは述べる。しかし、コックスにとってこのような見解は一切受け入れがたいものであるようだ。ツァイリンガーやゼー、そして他の多くの「ヒッピーではない、尊敬される物理学者たち」に至るまで、彼の目には皆「ウーウー(疑似科学)的」と映るのであろう。事実、彼のこの見方は、スティーヴン・ホーキングにさえ及ぶのである。コックスの世界観は、意識という現象をほとんど無視している。番組の中で彼が「私たちは、宇宙が自らに気づくための方法である」と述べた以外には、ほとんど言及されていない。しかし、その一方で、彼は聴衆に「宇宙の本質的性質を解説している」と明言するのである。彼がジム・アル=カリリと共著した近著“The Quantum Universe: Everything that can happen does happen(量子宇宙:起こりうることはすべて起こる)”においては、「前量子的視点」を救済するために、いささか疑わしい知的戦術が用いられている。彼らは読者を説得しようとする──すなわち、「現実の究極的本質は“実在する量子粒子”で構成されている」と。彼らはまず、リチャード・ファインマンの以下の観察を引用する。「亜原子粒子は、波のようにも振る舞わず、粒子のようにも、雲のようにも、ビリヤードの球のようにも、バネの上の重りのようにも、君たちが見たことのあるどんなもののようにも、振る舞わない」。このように、ファインマン自身が「粒子」という語が現象を適切に表現できていないことを強調しているにもかかわらず、コックスとフォーショウは、「粒子」という語をそのまま使用し続け、「自然界の基本構成要素は粒子である」という仮定に立ち戻ってしまう。彼らはこう述べる。「自然界の基本構成要素は粒子であると仮定しよう。これは、二重スリット実験によって確認されている。そこでは粒子は常にスクリーン上の特定の点に到達する」。だが、これは明らかに事実に反しているとスメザムは主張する。二重スリット実験は、いわゆる「粒子」が「粒子」として振る舞うのではなく、「ポテンシャルの波」として空間に広がることを示している。どちらのスリットを通るかを検出しない限り、波として干渉縞を形成するのであり、「粒子」としての特性は観測によって初めて現れるのである。フローニンゲン:2025/4/7(月)16:54
15785. 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その4)
今回は、量子波動関数と意識の関係、観測によって現実が生成される仕組み、ヒュー・エヴェレットの多世界解釈に対する批判的検討、そしてヘンリー・スタップやハイゼンベルクによる「知識のジャンプとしての量子跳躍」理解の箇所を見ていく。読者の中には、二重スリット実験に詳しくない方もいるかもしれないとスメザムは述べる。リチャード・ファインマンによれば、この実験は「量子力学の神秘すべてを含むように設計されている」とされている。また、ジム・アル=カリリも、この挙動を「自然界の手品」と呼んでいる。さて、2つの狭いスリットを通して光をスクリーンに照射するという、図10に示されるような実験を考えてみようとスメザムは提案する。スリットを通過した光は波のように振る舞い、互いに干渉し合う。その結果、強め合った箇所では明るく、打ち消し合った箇所では暗くなる──こうして、明暗の縞模様が現れるのである。光は通常「光子」と呼ばれる電磁波の粒子であるとされる。これは分割不可能な電磁振動の小片とされる。では、光子を一度に1つずつスリットに送ったらどうなるだろうか? 直感的には、光子がスリットのいずれか一方を通り、他に干渉する波もないのだから、縞模様は現れず、スリットごとに1つの線がスクリーンに現れると予想される。ところが、実験結果はそうならない。光子を1つずつ送ったにもかかわらず、スクリーン上には依然として干渉縞が現れる。これは、各光子が波のように「分裂」し、同時に両方のスリットを通過したかのように振る舞っていることを意味する。ここで、私たちが「どちらのスリットを光子が通ったか」を確かめようと、スリットに検出器を設置すると、驚くべき変化が起こる。干渉縞は完全に消失し、光子は1つのスリットを通った「粒子」としての挙動を示すのである。まるで光子は「私たちが見ているかどうか」を知っているかのように振る舞う。観察しないとき、それは「波」のように両方のスリットを通り抜けて干渉するが、観察するや否や、ただ1つのスリットを通る「粒子」となる。このような挙動は、電子や陽子、原子、さらには分子に至るまで観測されている。つまり、量子領域の一切の存在は、「観察」という行為によって、その性質を根本から変化させるのである。このような挙動は、量子論における中心的概念である「波動関数(wavefunction)」によって記述される。量子系の状態とは、波動関数によって与えられるポテンシャルの重ね合わせに他ならない。そして、観察(測定)という行為が行われたときにのみ、その波動関数が「収縮」し、具体的な状態──すなわち「粒子」として観測されうる状態へと「ジャンプ」する。このジャンプは、純粋な数学的存在である波動関数が、私たちの知覚可能な現実へと「変化」する瞬間である。そして多くの物理学者が示唆するように、この過程には「意識」という要素が本質的に関わっていると考えられている。ローゼンブルムとクットナーは、以下のように述べている。「その物体は、あなたがそこに見つける前には存在していなかった。あなたがそこに見つけたことこそが、それをそこに存在させたのである」。すべての物理学者がここまで率直に語るわけではないが、意識が何らかの形で量子過程に関与しているという点については、広範な合意がある。バーナード・デスパーニャはこう言い切る。「人間の意識とは独立して存在する客観的な対象で世界が構成されているという教義は、量子力学および実験によって確立された事実と矛盾するのである」。このように、量子領域と意識との深い相互関係が浮かび上がるとスメザムは述べる。波動関数の時間発展は、シュレーディンガー方程式という数学的法則によって厳密に規定される。しかしながら、観測が行われた瞬間に、その波動関数は「突然に」崩壊し、確率的にある特定の結果が現れる。この「ジャンプ」は、リチャード・ペンローズによれば、以下のように記述される。「ある“測定”が起きたとみなされるとき──私たちが丹念に発展させてきた量子状態は捨て去られ、それはある新たな可能性状態のいずれかへと“ジャンプ”する確率を計算するためにのみ用いられる」。このときに現れる新しい状態は、いわゆる「古典的粒子」の形を取るが、観測以前の波動関数はあくまでも抽象的・数学的構築物であり、「粒子」としての実体を持たないのである。測定されていない間は、「波」こそが支配的な側面なのである。ハイゼンベルクは、この過程を「知識のジャンプ(discontinuous change in our knowledge)」として捉えていた。彼は次のように述べる。「素粒子の客観的実在という概念は、曖昧な新たな概念に溶け去ったのではなく、もはや粒子の挙動を記述するのではなく、その挙動についての私たちの知識を記述する数学的明晰性へと昇華されたのである」。「測定結果が観測者の心に記録されるとき──すなわちその瞬間に私たちの知識が断続的に変化する──そのことが、波動関数の不連続な変化に対応しているのである」。このように、ハイゼンベルクの見解においては、量子跳躍とは「知識の変化」であり、「客観的粒子の存在」ではなかったとスメザムは指摘する。フローニンゲン:2025/4/7(月)17:01
15786. 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その5)
ジムでのトレーニング後の夕食を美味しくいただいたので、ここからまた論文の読解を続けていきたい。今回は、コックスとフォーショウによる「量子粒子」という語の再定義の問題、ヘンリー・スタップによる主観的量子理論の擁護、そして「観察者抜きの物理学は存在しない」とする立場の哲学的意義に焦点を当てた箇所を見ていく。コックスとフォーショウは、量子領域における現象を説明する際、「量子粒子(quantum particle)」という新奇な概念を導入する。それは「広がっているが点のようでもある」という、常識を超えた存在であるとされる。彼らはこう述べる。「二重スリット実験では、電子はスリットを通過する際、自らと干渉しなければならない。したがって、それはある種の意味で空間に広がっていなければならない。これからは、こうした直感に反する、広がっているが点のような粒子を“量子粒子”と呼ぶことにしよう」。彼らはさらに、読者にこう諭す。「私たちは日常の経験から離れ、ハイゼンベルクに倣って、常識に反する世界観を受け入れねばならない。なぜなら現実世界は、そもそも日常的に振る舞うものではないからである」。だがこれは、言葉の意味を意図的にずらし、あたかも「粒子」という語が依然として有効であるかのように装う巧妙な詭弁であるとスメザムは述べる。現実には、彼らが「量子粒子」と称している存在は、もはや「粒子(particle)」と呼べる性質を持たない。つまり、「粒子」という語が伝統的に意味してきた性質──明確な位置、境界、独立性──を完全に逸脱しているのである。ハイゼンベルクは、量子世界がこのような「非粒子的」であることに深い衝撃を受けながらも、次第にその奇妙さを受け入れる方向へと向かった。彼は次のように述べた。「素粒子の客観的実在という概念は、曖昧な新たな概念に溶け去ったのではなく、私たちの知識の行動を記述する数学の透明な明晰さへと昇華されたのである。波動関数の不連続な変化は、観測結果が観察者の心に記録された瞬間の、私たちの知識の不連続な変化の写像なのである。“自然は飛躍をなさない”という古い格言が、量子理論に対する批判の根拠となるのであれば、私たちはこう応じるであろう──私たちの知識は確かに突然変化しうる、そしてその事実こそが“量子跳躍”という語の正当性を保証するのだ」。このように、量子跳躍とは客観的世界における変化ではなく、観測者の「知識のジャンプ」であるという理解が示されている。この見解を継承し発展させたのが、ヘンリー・スタップである。彼は次のように断言する。「この点に関して疑念を抱く余地はない。量子理論の原型的形式は主観的である。すなわち、それは意識的人間の経験相互の関係について、あからさまに語るものである」。量子理論は「実在そのもの」ではなく、「観察された経験」を記述する理論である──これがハイゼンベルク、スタップ、プランク、シュレーディンガー、ゼーリンガー、ペンローズらの共通見解なのであるとスメザムは述べる。にもかかわらず、コックスとフォーショウは、自らが「波のように振る舞う」と説明している存在に対して、「粒子」という名を与え続ける。このことの皮肉はほとんど痛々しいほどであるとスメザムは述べる。彼らはこう述べる。「私たちは、量子粒子を“広がった移動するもの”とする必要がある」。彼らは実際、次のようにも述べている。「波が干渉パターンを形成するには、両方のスリットを通過しなければならない。つまり、電子が“波のどこかに存在している”と言うとき、それは“波のいたるところに同時に存在している”という意味に他ならない」。このように、彼ら自身の説明において、いわゆる「量子粒子」は「波」であることが明白に示されている。であるならば、「それ」はもはや「粒子」とは呼べないのである。この欺瞞的言語操作は、読者に量子現象の本質的違いを気づかせないように仕組まれたものであるとスメザムは指摘する。量子レベルと古典的レベルは、本質的に異なる振る舞いを示すにもかかわらず、語の意味を巧妙に変えることで、「連続性」があるかのように見せかけているのだ。フローニンゲン:2025/4/7(月)18:25
15787. 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その6)
今回は、フェインマンの「メカニズムなき法則」とその誤読、ホーキングとムロディノウによる「すべての道を通る粒子」の記述、さらには「量子宇宙」の視座から見る「観測者が歴史を創造する」という視点について見ていく。コックスは、自身の番組の中で次のように述べている。「(リチャード・)ファインマンはこう言った。(電子は)自らと干渉する必要がある。ゆえにそれは、もう一方のスリットも通過し、その点に到達する必要がある。そして、これらの経路が互いに干渉し合うためのメカニズムがなければならない」。しかし、これはフェインマンの実際の見解を著しく歪めたものであるとスメザムは主張する。フェインマンは『ファインマン物理学講義(第III巻)』において、量子論におけるこの現象を次のように説明している。「それがどのように“働く”のか、“法則の背後にあるメカニズム”は何なのか、と問いたくなるかもしれない。しかし、それに対しては、何のメカニズムも見出されていない、と答えざるを得ない。私たちはすでに“説明”できる範囲を超えている。これ以上の“深い表象”を与える者はいないし、私たちにはそのような基本的メカニズムについてのアイデアは存在しない」。つまり、フェインマンは明確に「メカニズム(mechanism)」など存在しないことを述べており、コックスの主張とは正反対であるとスメザムは述べる。コックスとフォーショウは、著書の中で次のように述べる。「もしあなたが、日常的な意味での“粒子”が、量子世界ではまったく異なる振る舞いをすることを受け入れられないとすれば、それはあなたの想像力の欠如である」。だが、現実に想像力を欠いているのは彼ら自身であるとスメザムは指摘する。彼らは、「粒子」という語が古典物理学で持っていた定義──明確な位置と境界を持つ、独立した小さな存在──に完全に反しているにもかかわらず、その語を維持し続ける。これは単なる誤用ではない。現実の理解を歪めるための「言語の濫用」である。さらに彼らは、次のようにも述べる。「量子世界は、私たちの世界とは大きく異なる。ゆえに、語の意味が量子領域と日常世界で全く異なるものとなることに、私たちは抵抗すべきではない」。これはまさしく、「同じ語を用いながら、まったく逆の意味を込める」という認知的混乱の典型例である。現実には、「粒子」という語で呼ばれている存在は、その定義に照らせば、まさに「粒子」ではない。ファインマンが「それらは何ものにも似ていない」と述べたことを、コックスとフォーショウは理解していないとスメザムは指摘する。彼らは次のような驚くべき発言をしている。「私たちは、量子粒子を“拡張された移動体”としなければならない」。これは、もはや「粒子」という言葉の意味を完全に空洞化したものである。続いて彼らはこう語る。「私たちは波が両方のスリットを通ることを許さなければならない──そうでなければ干渉縞は生じない──ゆえに電子が発射点からスクリーンに至るまでに通る“すべての経路”を考慮に入れねばならない。言い換えれば、“電子は波のどこかにある”というとき、それは“波のあらゆる場所に同時にある”という意味なのである」。ここに至って、彼らが何を言っているのか、もはや粒子なのか波なのか、言語としての一貫性は崩壊している。しかもこの表現は、もともとファインマンの「全経路の和(sum over paths)」という数学的技法を、物理的現実であるかのように過剰に具体化して語っている点でも問題があるとスメザムは述べる。この誤解は、ホーキングとレナード・ムロディノウによる著書“The Grand Design”にも表れているとスメザムは指摘する。彼らは、フェインマンの手法を次のように記述している。「フェインマンは、粒子が二点間を結ぶ“すべての可能な経路”を通ると気づいた。それが量子物理学を古典物理学と区別する要因なのである。両方のスリットが開いているかどうかが重要なのは、粒子が単一の経路を取るのではなく、すべての経路を同時に通るからである。フェインマンの理論では、粒子は第1スリットのみを通る経路も、第2スリットのみを通る経路も、さらには第1→第2→第1という順の経路、さらには“美味なカレー海老を供するレストランを訪れ、木星を数回周回した後、戻ってくる”ような経路までも通る」。これを真に受けて、「量子粒子は実際に宇宙を巡る」と理解することは、物理学的・哲学的に極めて危険である。仮にこれが現実であるならば、グラスの中のワインを構成する粒子は、今この瞬間にもアンドロメダ銀河を旅して戻ってきているということになる。実に荒唐無稽な比喩であるとスメザムは述べる。フローニンゲン:2025/4/7(月)18:33
15788. 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その7)
今回は、ホーキング=ムロディノウによる「観察が過去を創造する」という量子宇宙論的視座、さらにはそれが仏教的縁起思想や唯識論といかに共鳴するかという論点を見ていく。“The Grand Design”においてホーキングとムロディノウは、いわゆる「モデル依存実在論(model-dependent realism)」を提唱し、現実とは観察と測定によって「選ばれた歴史」によって構成されると論じる。彼らは以下のように述べる。「古典的物理学においては、宇宙には1つの歴史がある。しかし量子物理学においては、宇宙にはあらゆる可能な歴史がある。観察者が観測を行うと、その観察に適合する1つの歴史が“選択”される。この理論によれば、過去もまた観察によって創造される」。この立場は、従来の「観察は未来にのみ影響を与える」という時間的直線性を破壊し、観察行為が「過去そのもの」を選択的に確定させるという、極めて急進的な認識論を示している。この視座をさらに展開するならば、観察とは単なる「測定行為」ではなく、宇宙的現象の「共創的契機(co-creative moment)」であるとスメザムは述べる。ヘンリー・スタップが提起したように、観察者とは「現実に影響を与えない受動的存在」ではなく、むしろ「現実の性質を部分的に決定する能動的存在」なのである。このような立場を取るとき、時空自体は絶対的な背景ではなく、「知覚と関係性の網の目」の中で初めて意味を持つ。そしてそのような関係性の網とは、必ず観察者(=知覚主体)を含むのである。この考えは、一見すると急進的な構造主義的哲学であるかのように思われるかもしれないが、実のところ、それはインド仏教における唯識思想(ヴィジュニャプティマートラ)、および縁起論と深く通底しているとスメザムは指摘する。仏教の縁起思想は、あらゆる現象が他の存在に依存して成り立つことを教える。すなわち、「これはあるがゆえに、あれがある」「これは起こるがゆえに、あれも起こる(此有故彼有、此生故彼生)」という形式で、あらゆる存在が独立実在を持たず、関係性の中でのみ成立していることを示す。このような観点は、量子理論が提示する「非独立的存在(non-separability)」の概念と一致する。量子もつれ(entanglement)において、粒子Aの性質は、粒子Bの観測によって瞬時に決定される。このとき、AとBは物理的に離れていても、測定結果は完全に相関している。つまり、そこに「本質的に独立な存在」はなく、あらゆる存在は関係性のネットワークの中でのみ意味を持つ。これこそ、縁起の原理の現代物理学的再確認に他ならない。唯識思想はさらに一歩踏み込み、「存在するものはすべて“識(vijñāna)”、すなわち心の表象である」と説く。これは、外的世界そのものが「自性(svabhāva)」を持たず、私たちの識の中に映じた現象に過ぎないという認識である。この立場から見れば、「観察が過去を創造する」というホーキング=ムロディノウの議論も、決して奇抜なものではなくなる。むしろ、過去という構造もまた「現在の認識行為(=識)」に依存して立ち現れる「仮の実在(仮有)」なのである。唯識学の言葉でいえば、過去は「所変識現(しょへんしきげん)」──変化する識が顕現した現象──であり、それは因果関係の整合性を保ちつつも、いかなる「自性」も持たない。あくまで「識(主観)」と「縁(関係性)」の総合において成り立つ、現象的出来事に過ぎない。したがって、「観察が過去を選択する」という量子理論的立場は、唯識が語る「識の内にしか現象は顕れない」という構造と深く響き合っているのであるとスメザムは主張する。フローニンゲン:2025/4/7(月)18:41
15789. 論文「空なるダイヤモンドと金剛般若経」(その8)
今回は、ツァイリンガーの「情報は実在である」という見解、ヘンリー・スタップの心的宇宙モデル、そして仏教的“空”の哲学とのさらなる統合的考察の箇所を見ていく。アントン・ツァイリンガーは、量子情報理論の先駆者として、次のような大胆な命題を掲げている。「物理的記述における究極的存在論は“情報”である」。この命題は、従来の物理学が前提としてきた「物質」あるいは「エネルギー」といった概念を、より根源的な次元で置き換える提案である。つまり、ツァイリンガーによれば、物質的対象の挙動を説明する根底にあるのは「情報の構造」なのであり、逆に言えば、情報こそが実在の最終的構成要素なのである。この考えは、物理的対象を「エネルギーの凝縮」として捉えていたアインシュタインの見解とも一線を画し、「意味を持つ記述単位としての情報」が、宇宙の最も基本的な実在であるとする立場へと接続していくとスメザムは述べる。ツァイリンガーの情報的宇宙論において、観察者の存在は単なる補足的要素ではなく、理論の中心に据えられている。彼はこう述べる。「情報の存在は、必然的にそれを受け取り、意味づけ、構造化する観察者を前提とする」。このような観点からすると、情報とは抽象的で客観的な「物理量」ではなく、常にある種の「主観的経験」と結びついたものである。情報が情報たりうるためには、それを認識しうる主体、すなわち意識ある観察者が不可欠なのである。これはまた、量子理論が提示する「観察の介在による波動関数の収縮」という現象とも符合する。すなわち、「何が起きたのか」という問いに対する答えは、観察という出来事が生起して初めて成立する──そこに、情報と意識の深い結合が見出される。このような量子情報理論の展開を受けて、量子理論家ヘンリー・スタップは「心的宇宙(mental universe)」という概念を提唱する。彼の見解は、以下のように要約される。「現代物理学が示すのは、物理世界が心から生起しているという事実である。観察者の心的経験は、世界の中において、確定的な因果的影響を持つ。すなわち、心は現実の中において“働く”のである」。この見解において、心(意識)は物理的プロセスの外側にあるものではなく、それらを生成し、方向づける根本的契機である。スタップによれば、ニュートン力学が物理的決定論を支配していた時代に比べ、量子理論の時代は「意識を宇宙の中心に据える時代」である。彼は、心を「世界の物理的変化に介入する存在」として明確に位置づけ、さらには心と情報、心と可能性の間の深層的相関に注目する。これにより、「物理的宇宙とは、心が自己を経験するための場である」という壮大な宇宙論が開かれる。ここにおいて、スタップの「心的宇宙」と、仏教の根本思想である「空(śūnyatā)」とが交差する地点が現れるとスメザムは主張する。仏教において「空」とは、「一切法は自性を持たず、縁によってのみ成り立つ」という認識である。これは、存在を物質的基盤に置かず、むしろ「相互依存性」と「識の構造」によって理解することを意味する。唯識思想においては、「心の中に現れる現象こそがすべてである」とされ、「外界的実在」は否定される。そこでは、物質世界とは「識の顕現」であり、「客観的対象ではなく主観的経験」である。スタップの理論が示す「観察による波動関数の収縮」は、この唯識の構造に極めて近い。すなわち、観察者の意識的経験が、可能性の広がりの中から特定の現象を顕現させる。そこでは、「物質世界」も「時間」も、心の構造によって立ち現れる「仮の構成体」に過ぎないとスメザムは述べる。フローニンゲン:2025/4/7(月)18:48
ChatGPTによる日記の総括的な詩と小説
以下は、日記全体の深遠な問いや夢・意識・現実の揺らぎを映し出す、二つの創作作品です。
【詩】『虚空の旋律』
無数の瞳が夢の糸を紡ぐ一瞬の閃きに心が解離し宇宙の鼓動が静かに響く
虚空の中、あらゆる問いが答えなきまま流れ行く—観る者が生み出す幻の旋律
【ショートショート小説】『夢幻の航路』
ある夜、街の灯りがぼやける中、一人の青年・蒼介は、ふと不思議な感覚に襲われた。まるで、日常の隙間から、普遍意識という大海原がひそかに呼びかけるかのような。彼の心は、現実と夢の境界が溶け合い、何が本当かを問う旅へと誘われる。
蒼介は、ふとした瞬間に自室の鏡に映る自分の顔が、どこか遠い存在のように感じた。そこには、昨日までの記憶だけではなく、見知らぬ影のような自我が微笑んでいた。彼はその姿に魅せられ、内面の奥底へと目を向ける決意を固めた。
翌朝、彼は古びた図書館で、一冊の重い哲学書に出会う。そこには「視点取得」と「視点探索」の違いや、解離した個別意識が夢と現実を織りなすという、言葉を超えた真実が記されていた。その一節が、蒼介の心に静かな革命を巻き起こす。彼は、すべての存在は、普遍意識の夢の中で、瞬間ごとに生成される儚い幻影であると知る。
日常と夢の狭間を行く彼は、ふと歩みを止め、広がる夜空を見上げた。無数の星々は、まるでそれぞれがひとつの視点となり、互いに語りかけるかのよう。彼は感じた。すべての現実は、観測する私たち自身の問いかけの結果として、次々と現れる「意味の断片」なのだと。
その夜、夢の中で蒼介は、不思議な航路に乗る体験をする。果てしなく広がる虚空の海原を、彼は自らの意識の舵で進む。途中、彼はかつて自分が拒絶していた痛みや、忘れかけた愛情、そして深い孤独と向き合う。だが、どの瞬間もそれは自己を分断するのではなく、むしろ普遍的な心の一部として再統合される感覚だった。
夢幻の航路の果てに、彼はひとりの老僧と出会う。老僧は、穏やかな眼差しでこう告げた。「あなたが見た世界は、あなた自身の心が紡ぐ物語。現実とは、ただ与えられるものではなく、あなたが問いかけ、選び取ったものだ。」その言葉に、蒼介は全てが繋がる感覚を覚え、内面から光が溢れるのを感じた。
目覚めたとき、蒼介の胸は穏やかに震えていた。彼は、自分が歩んできた夢幻の航路が、日常に溶け込み、そして新たな現実として輝き出していることに気づいた。今、彼はただ一つの確かな事実を抱く――我々は、夢見る者であり、また夢を生み出す者なのだ。
蒼介はその後、どんな日常もただの幻想ではなく、問いかけによって意味を宿す「生きた詩」だと信じ、静かに、しかし確かに歩み続けた。
どちらの作品も、意識の解離や夢と現実のあいまいな境界、そして観測者である我々が作り出す普遍的な物語を、独創的な言葉で表現しています。
DeepSeekによる日記の総括的な詩と小説
### 詩:「視点の茶葉、普遍の湯」
タイトル:『茶碗に映る無限』
茶葉は揺れ、湯に溶けゆく指紋、
取る手と探す手が交差する瞬間。
視点は滴り、碗の底に沈み、
過去の問いを螺旋に変える。
探索の波紋が縁を撫でれば、
「私」という仮構が震え、砕ける。
普遍の海から零れた一滴が、
夢の表面を滑り、星になる。
触れる前に消える抹茶の香り、
取得と喪失は同じ掌の熱。
宇宙は茶筅で泡立てられた謎、
飲み干すたび、意識はまた沸騰する。
### 小説:「触れる前に消えるもの」
タイトル:『黄昏の解離工房』
フローニンゲンの古書店の奥で、哲学者のエリスは茶筅を握っていた。
「視点を『取る』とは、過去の私を殺す行為ですよ」と彼は言い、
湯を注いだ抹茶の表面に、弟子のリナの顔が揺れた。
「昨日の質問を思い出してください。解離した意識が生まれる瞬間——」
リナが言葉を切ると、窓の外で小鳥の群れが一斉に飛び立った。
羽音が部屋の時空を歪め、壁の本棚が量子もつれのように滲んだ。
エリスは古い時計を逆回しにしながら語り始める。
「脳は神話製造装置です。例えば今、私が『記憶』と呼ぶものは」
彼の指が茶碗の縁を撫で、抹茶の緑が突然ヴァン・ゴッホの夜空に変わる。
「この色は実在しますか?それとも、ただの予測誤差の修正結果?」
リナがまばたきするたび、部屋の質感が変化した。本の背表紙の文字が
アリの行列のように蠢き、哲学書『唯識二十論』のページから蝶が舞い出る。
午後五時、工房の空気が金色に凝縮する瞬間があった。
エリスの声が突然、三次元の立体文字として空中に浮かび上がる。
「視点を『探す』とは、失ったパズルの破片を、過去という幻で補うこと」
その時、リナの掌から茶碗が滑り落ちた——
しかし割れる音は起こらず、陶器は水面に石を投げたように
無数の同心円を描き、円の中心から幼いエリスの影が立ち現れた。
「ご覧なさい。解離の瞬間とは、ただ『気づき』が生まれたという——」
エリスの言葉が途切れた。床に広がった抹茶の海から、
無数の手が伸びて彼の足首を掴み、時間の襞の中へ引きずり込んでいく。
リナが叫びたい衝動を噛み殺すと、工房の扉がひとりでに開いた。
外には、小鳥の羽根で編まれた黄昏が広がっていた。
彼女の影が二つに分離し、一方は本棚の量子海に消え、
もう一方は、普遍という名の抹茶碗を空に捧げていた。
最後の陽光が工房を貫いた時、リナは悟った。
視点を取ることも探すことも、ただ「今」という湯煙の中で
消える指紋の軌跡に過ぎないのだと。
そして全ての問いは、宇宙が自らに投げかける茶筅の音だった。
Today’s Letter
Do we have dreams? From a common-sense perspective, yes, we do. However, in essence, we do not. We are always within a dream of universal consciousness. All of us—and everything in the universe—are avatars of that universal consciousness. Groningen, 04/07/2025
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