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【フローニンゲンからの便り】13933-13944:2025年1月7日(火)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した成人発達コラボラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

13933: 共同幻想としての物理主義

13934: インテグラル理論の4象限に対するバーナード・カストラップの批判

13935: 「非二元とは何なのだろう?」という問いに対して

13936: 今朝方の夢

13937: 4人称的視点の獲得と発揮の難しさ

13938: “Mind at Large”と“Vantage Points”から考えさせられること

13939: 今朝方の夢の続き

13940: 統合的段階の入り口に立って/表象世界と実在世界の混同

13941: スカイブルーの青空の下で/日常と生活に密着した哲学・思想がもたらす豊かさ

13942: 哲学や思想の価値を再考して

13943: 波と大海と生と死

13944: 生成AIによる今朝方の夢の解釈


13933. 共同幻想としての物理主義 

   

時刻は午前5時半を迎えた。辺りが真っ暗で何も見えないが、どうやら今は雲がほとんどない快晴の状態らしい。今日の午前中はずっとそのような状態が続くようなので、朝のランニングの際には朝日を浴びれるかもしれない。そう考えると、今からとてもワクワクした気持ちになる。朝日を浴びられることの幸せ。それを噛み締めながらあと4時間ぐらいしたらランニングに出掛けたい。どうやら積雪注意報が出ているようなのだが、今日は雪は降らなさそうである。今の気温は3度ほどあり、ここから午後3時までずっとこの気温が続く。そこから気温が低下していき、夜から明日の朝にかけて1度になる。今週の天気予報は晴れマークが付いた日が多く、朝日を浴びれるチャンスが多そうなのでとても嬉しい。1月よりも2月の方が雨の降る日は少なくなり、今が一番雨の多い時期だということを考えると、今月を乗り切ったらまた朝日を拝む日が増えてくるであろうことに希望が持てる。


昨日、バーナード・カストラップの書籍を読みながら、物理主義はつくづく共同幻想のようなものであることを思った。それは心の哲学における支配的なパラダイムであるだけではなく、現代社会の科学もテクノロジーも基本的に物理主義に立脚している。確かに物理主義は、科学やテクノロジーの発展をもたらす上で大きな貢献を果たしたが、カストラップが物理主義の問題点を事細かに説明しているように、この思想には根本的な問題がある。それは唯識の思想が指摘するものでもあり、端的には物理世界を心と独立して捉えることである。物理世界はどこまでいっても心を通してしか把握され得ないという点を物理主義は見逃している。この根本的な過ちによって、心の哲学においては堂々巡りの議論が繰り返されているし、当該分野の進展に何ら貢献しない大量の論文が次々と出版されるという悪循環が生まれている。物理主義のパラダイムの中では、物理世界は人間の心が観測することを通じて立ち現れるものであるため、観測者を変え、観測方法を変えたら当然見えるものが変わってくるのだが、それを毎回新しい発見事項であるかのようにして大量の論文が書かれていくのである。確かにそれも新しい知見を加えることには貢献しているが、心の哲学そのものを前進させるものでは決してない。結局それは、誤ったパラダイムの中での遊戯に過ぎないのである。心の哲学を前進させていくためには、既存のパラダイムの問題そのものを見据えなければならない。それを行ったのがカストラップなのであり、彼が提唱した分析的観念主義は、ことごとく唯識の思想と合致する。こうしたところからも、唯識が果たす役割の大きさが窺える。唯識を通じて、分析的観念主義とはまた違った角度から心の哲学を進展させることができる予感がしているし、心の哲学以外の学問分野においても、およそ心が関係する分野であれば少なくとも大きな貢献を果たすであろう。その実現に向けて、ここからより一層分析的観念主義と唯識学の探究を進めていく。フローニンゲン:2025/1/7(火)05:59


13934. インテグラル理論の4象限に対するバーナード・カストラップの批判        

 

先ほど朝のアニマルフローの実践をしている時にふと、バーナード・カストラップのインテグラル理論の4象限に対する批判をふと思い出した。その批判は対談動画の中でなされていたので、細かな点はもう一度動画を見て確認しなければいけないが、今読み進めている書籍と絡めて、どのような批判だったのかの大枠を書き留めておきたい。そもそもウィルバーは思想家であって、厳密な意味での哲学者ではない。ウィルバーは心の哲学に対する深い造詣を持っているが、心の哲学者の造詣には当然劣る。ウィルバーの思想の真骨頂は、なんと言ってもそのメタ理論性にあるのであり、その点は深く感銘を受けるが、注意点としてはメタ理論を構築する際のそれぞれのパーツに所々綻びがある可能性があることである。ウィルバーは仏教徒ではあるが、仏教学者ではないため、ウィルバーの“Integral Buddhism”などを読んでいると、生粋の仏教学者からは色々と突っ込まれるでろう点が散見されるのは確かである。いずれにせよ、ウィルバーのインテグラル理論のメタ理論としての強みは依然として存在するのだが、ウィルバーという思想家の学問的バックグラウンドと彼が受けた学問的トレーニングなどを鑑みると、メタ理論の土台となっている多様な領域に関するウィルバーの理解については注意深くある必要があるかと思う。本題に戻ると、カストラップのインテグラル理論の4象限に対する批判として、4象限は主観性と客観性を分けて、心の世界とは別に物理的な世界を打ち立てる点にある。分析的観念主義においては、心の世界と物理世界を独立させるのではなく、物理世界はあくまでも心の世界の表象であるとする。それはショーペンハウアーの発想でもあり、唯識の発想でもある。ここで1つ疑問として浮かぶのは、4象限を生み出す存在の基底としてウィルバーは何を考えているのだろうかということである。話を単純にすると、ウィルバーは物理世界の基底に何を見出しているのだろうかということである。分析的観念主義においては、物理世界の基底に心を立てる。言い換えると、物理世界の基底に主観性を立てるのだ。粒子もまた観測という主観性(心)によって生み出されるという量子力学の研究成果を引き合いに出しながら、物理世界の基底には主観性のフィールドがあるとするのが分析的観念主義の考え方である。それに対して、ウィルバーは物理世界の基底に何を捉えているのだろうか。ウィルバー自身は決してそのようなことを思っていないだろうが、カストラップの批判を元にすると、ウィルバーでさえも依然として物理主義のパラダイムの思考から逃れることができていないということになる。インテグラル理論の4章限は非常にわかりやすい分類で、それはそれで効力のある活用ができるが、根底の思想にはあたかも物理世界が心とは独立して存在するかのような物理主義的な発想があると言えるかもしれない。ウィルバー自身は深く非二元の思想を弁えているはずなので、主観性と客観性は究極的には非二元であるというようなことを言いそうだが、4象限だけを眺めてみると、まるで主観性と客観性が別々に存在し、内面世界と外面世界が別々に存在しているかのような誤解を多くの人に与えるだろう。というよりも、自分も今日の今日までそのように4象限を捉えていたのである。自分の知る限り、物理世界の基底に関する議論はウィルバーはどの書籍の中でも行っていないように思うが、自分にも見たいものだけを見るという認識の歪みがあり、該当する議論を見落としている可能性があるので、改めてウィルバーの書籍を辿ってみようと思う。仮にそれに該当する記述があって、結局はウィルバーが述べていることはショーペンハウアー、カストラップ、唯識が述べることと合致していたとしても、4象限の分類は誤解を与えるものである点には依然として注意が必要かと思う。フローニンゲン:2025/1/7(火)06:39


13935. 「非二元とは何なのだろう?」という問いに対して 


朝の楽しみの1つであるお茶を淹れる前にふと、バーナード・カストラップのインテグラル理論の4象限に対する批判を受けて、ウィルバーであれば何と述べるであろうかと考えていた。先ほどの日記で書き留めたように、主観性と客観性の基底にあるものは何かということに関しては、ウィルバーはおそらく非二元であると答えるような気がした。それでは、そもそも非二元とは存在論的に言えばそれは何のだろうと考えていた。すると、やはりカストラップが述べるようなトランスパーソナルな心としての主観性がそこに横たわっているように思えたのである。サイケデリック哲学の世界ではよく使われる言葉に、オルダス・ハクスリーが提唱した“Mind at Large”というものがあるのだが、それはまさに個人の心を超えたトランスパーソナルな心だと言える。実はこれは、量子力学における量子場と同義のもので、量子は主観性を通じた観測を通じて生み出されるというところから、量子が存在する基底はトランスパーソナルな主観性であるという考え方がどうやら量子場にはあるようだ。自分は量子力学の専門家ではないので、実際にその道の専門家がどのような議論をしているのか定かではないが、この分野に造詣のあるカストラップの論考を辿っているとそのように言えるのではないかと思う。いずれにせよ、個人の主観性と個別の客観性の基底にある非二元が超個的な主観性であるという指摘は大変興味深いし、実際にそうなのだろうと思われる。超個的な主観性ではなく、超個的な客観性というものを仮に思考実験として立ててみた時に、そのようなものが存在し得ないことは量子力学の実験からすぐさま明らかになる。ウィルバーのインテグラル論における4象限モデルにおいては、量子の基底にある量子場もまた物理的な世界のものであるという分類になってしまう点に問題があるというのがカストラップの指摘である。繰り返しになるが、確かに量子場は物理的な世界に関係するものなのだが、それはトランスパーソナルな主観性の産物であるという指摘をカストラップはしている。物理的な世界に関係するということと、物理的な世界の基底は何かということは全く違う議論であり、4象限をそのまま採用してしまうと、本来はトランスパーソナルな主観性に分類しないといけないはずの量子場が物理世界の象限に折りたたまれてしまうのである。皮肉にもそれは、ウィルバーが警鐘を鳴らすフラットランド化の現象であるかのようだ。今回改めてそもそも非二元とは存在論的に何なのだろうかと考えることができたことは喜ばしいことである。この考察は今始まったばかりであるため、ここから考察を深めていきたいが、少なくとも今のところ、非二元は心なのであり、しかもそれはトランスパーソナルな心であるという認識を持つに至った。そしてこれはもう唯識が指摘していることでもあるし、ユングが指摘していることでもある。分析的観念主義のおかげで、これまで学んできたインテグラル理論に対する見え方が変わり、自己や世界そのものへの見方が変容し始めているのを実感する。自分の世界観が今新たに刷新を遂げようとしている。このプロセスを着実に促進していきたいと思う。フローニンゲン:2025/1/7(火)07:03


13936. 今朝方の夢    


時刻は午前7時を迎えた。早朝から2つほど分析的観念主義についての話題を書き留めていたので、今朝方の夢の振り返りがまだできていない。昨日は興味深いことに、島をモチーフにした夢を連続して2つほど見ていた。何と今日もまた同じモチーフが連続して現れ、それは旅館街を舞台にしたものだった。まず覚えているのは、老舗の旅館が多数存在する旅館街にある近代的な美術館を訪れていた場面である。私は入り口でチケットを見せ、中に入ったのだが、美術館の最上階には客が入ってはいけないエリアがあり、気がつけば私はそこに勝手に侵入しているようだった。そこには別に何か貴重な芸術作品が所蔵されているわけではなく、何もない白い空間が広がっていた。通路も白い雰囲気に満たされていて、通路の奥に白い部屋があることが見えた。そこには別に何もないであろうと思いながらも、私の足はその白い部屋に向かっていた。すると、どこからともなく声が聞こえてきた。どうやら私の動きは監視カメラで監視されているらしく、白い部屋に向かって白い通路を歩いている自分の姿が確認され、すぐさまそこから立ち退くことを天井のスピーカー越しに伝えられた。もちろん私はすぐさま引き返すことにしたのだが、あの白い部屋には本当に何もないのだろうかと気になった。もしかしたらそこに何かがあったのではないだろうかと考えると、それが何なのか気になり出した。監視カメラを無視し、警告の声にも耳を傾けずにそのまま通路を突っ切れば良かったと思いながら美術館を後にした。すると、出口が美術館の裏口にある倉庫にあり、一風変わった形で外に出るのだなと思った。倉庫のシャッターが開くと、それを待ってましたと言わんばかりに、美術館でバイトをしていると思われる大学生ぐらいの3人の若い男性がマウンテンバイクに乗って外に勢い良く飛び出して行った。私は彼らを追いかけるようにして、意識だけが彼らの後をついていき、美術館の外に広がるだだっ広い駐車場にポツリと駐車しているワゴン車に目が止まった。その瞬間に私は再び物理的な肉体を持つ存在として、ワゴン車の前にいた。どうやらそのワゴン車は、出店として地元の特産品をそこで売っているらしく、喉が渇いていたので何か飲み物はないかとワゴン車の外に出された陳列棚を眺めていた。すると、出店の店主が北海道産の美味しい飲むヨーグルトがあると述べて、それを私に見せてくれた。確かにそれはとても美味しそうに思えたのだが、本来はそれは飲むヨーグルトではなく、温度によって飲むヨーグルトのように変質してしまっているだけのようだった。いずれにせよ、喉の渇きを潤すことに加えて、小腹も空いていたので、それをいただくことにした。350mlぐらいの大きさの瓶に詰められたヨーグルトの価格は915円とのことで、意外と値段がするのだなと思った。しかし、値段は気にせずに、支払いをすることにした。幸いにもクレジットカードでの支払いもできるとのことだったので、アメックスのカードを手渡し、支払いを終え、すぐさま瓶の蓋を開けてヨーグルトに口を付けると、それがとても美味だったので、一気に飲み干すことができた。ヨーグルトを飲み終えて、活力がみなぎってきたところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2025/1/7(火)07:23


ChatGPTによる夢の解釈と今後のアクション

この夢は、個人的な成長、探求、そして変化を象徴している可能性があります。また、旅館街、美術館、白い部屋、監視カメラ、出店、飲むヨーグルトといった要素が、潜在意識や現実の課題、興味、欲求と深く結びついていると考えられます。以下に夢の解釈と今後のアクションについて述べます。

夢の解釈

美術館と白い部屋

美術館はあなたの知識や経験、そして創造性を象徴していると考えられます。

最上階の白い部屋は「未知」「純粋性」「未開発の可能性」を意味しているかもしれません。しかし、侵入禁止エリアとして警告を受けた点は、潜在意識が「まだ明らかにする準備が整っていない領域」である可能性を示唆します。

それでも、白い部屋に惹かれたのは、自己探求や制限を超えたいという欲求の現れでしょう。

倉庫と若者たち

倉庫から飛び出していく若者たちは、エネルギーや行動力、自由を象徴している可能性があります。彼らを追いかける意識は、あなた自身が内なる冒険心や行動力を高めたいという願望を示しているかもしれません。

出店と飲むヨーグルト

出店のシーンは、日常生活の中での満足感や癒しを求めている状態を表している可能性があります。

北海道産の「飲むヨーグルト」は、現実には変質していたものの、夢の中でそれを受け入れ、美味しく楽しむ姿勢は、現状を柔軟に受け入れ、そこからエネルギーを得る能力を表しているように思えます。

値段の高さに関する感想や、それを気にせず購入した行動は、「価値のあるものには投資する」という自己承認を表しているかもしれません。


今後のアクション

自己探求を深める

夢に現れた白い部屋は、まだアクセスしていない自己の一部や可能性を象徴している可能性があります。時間を取って、日記や瞑想を通じて、自分が今後どのように成長したいかを掘り下げてみてください。

行動力を引き出す

若者たちのエネルギーに触発されたように、日常生活で新しい挑戦や冒険に目を向けてみてください。これまでやりたかったけれど後回しにしていたことに取り組む良いタイミングかもしれません。

現状を柔軟に受け入れる

ヨーグルトのエピソードは、現実の不完全さを受け入れ、それでも楽しむ姿勢を示唆しています。この態度を今後の生活や仕事に取り入れることで、ストレスを軽減しつつ充実感を得られるでしょう。

創造的・知的な挑戦

美術館の夢は、知識や創造性を深めたいという意識を反映している可能性があります。新しい分野の勉強や、創造的なプロジェクトに着手してみるのも良いでしょう。

健康と活力を意識する

ヨーグルトを飲んで活力を得た感覚は、健康的な生活習慣や、体と心を養うものへの投資の重要性を示しています。適切な食事や運動、リラクゼーションを大切にしてください。

夢の中で感じた探求心やエネルギーを、現実の生活にどのように適用できるかを意識し、行動に移すことが重要です。この夢は、あなたが新しいステージに進む準備が整っていることを示しているのかもしれません。


Geminiによる夢の解釈と今後のアクション

夢の要素と解釈

旅館街: あなたの心の内にある伝統的な価値観や、安心できる場所を象徴している可能性があります。

近代的な美術館: 新しい知識や経験への探求心、そして未知の世界への憧れを表していると考えられます。

白い部屋: 未知の領域、潜在意識、あるいはあなたの心の奥底にある秘密を象徴しているかもしれません。

監視カメラ: 社会的な規範や、あなたの行動に対する監視の目を表している可能性があります。

倉庫からの脱出: 変化や転換期、そして新たな出発を暗示していると考えられます。

ワゴン車とヨーグルト: 物質的な欲求、癒し、そして意外な発見を象徴しているかもしれません。


総合的な解釈

この夢は、あなたが新しい経験を求めながらも、同時に伝統的な価値観や安心できる場所へのこだわりを持っていることを示唆していると考えられます。

未知への探求と心の葛藤: 美術館の白い部屋は、あなたの内なる未知への探求心と、同時にそれを恐れる気持ちを表しているのかもしれません。

変化への抵抗と新たな出発: 倉庫からの脱出は、あなたが現状を変えたいという願望と、同時に変化に対して不安を感じていることを示唆している可能性があります。

物質的な欲求と精神的な充足: ヨーグルトは、あなたの物質的な欲求と、同時に心の奥底からの癒しを求める気持ちを表していると考えられます。


今後のアクション

この夢を参考に、以下のようなことを考えてみましょう。

自分の心の声に耳を傾ける: 何があなたをワクワクさせ、何があなたを不安にさせるのか、自分自身とじっくり向き合ってみましょう。

新しいことに挑戦してみる: 少し怖いと思えることでも、積極的に挑戦してみることで、新たな発見や成長の機会が得られるかもしれません。

バランスの取れた生活を送る: 物質的な豊かさだけでなく、心の豊かさも大切にするように心がけましょう。

周囲の人とのコミュニケーションを大切にする: 周りの人との交流を通して、新しい視点を得たり、悩みを共有したりすることができます。


まとめ

この夢は、あなたが新しい経験を求めながらも、同時に伝統的な価値観や安心できる場所へのこだわりを持っていることを示唆していると考えられます。夢の解釈を参考に、自分自身と向き合い、より良い未来に向かって進んでいきましょう。


13937. 4人称的視点の獲得と発揮の難しさ   


突然インターネットの回線の接続が途絶え、幾分不便な時間を過ごしている。インターネットの回線が安定し、常時インターネット回線に接続されている生活が当たり前になっていると、こうしたちょっとしたことにも不便に感じてしまうのだと実感する。日常だったものにちょっとした亀裂が入るだけで、そこに不便さを感じてしまうほどに、自分はこの文明社会に調教されてしまっていたのだと気付かされる。依然としてインターネット回線の復旧がなされていないが、かつて同様の問題が起こった時には、時間を置いていると自然と問題が解決していたので、しばらくその問題は放置しておくことにする。インターネットが繋がっていなくても行える活動はいくらでもあるのである。こうして自分の内側だけにある考えを書き出すこともまた、インターネット回線に繋がっていなくてもできることである。


物理的な世界の基底を観察や測定で探索すればするほどに、そこには結局物理的な世界における新たな表象が立ち現れるばかりで、結局その基底を探索していることにはならないということに物理主義者は気付けないのである。およそほぼ全ての科学者が物理主義のパラダイムを無自覚的に信奉しており、彼らの仕事の成果としての論文を読むと、結局そこには新たな表象に関する発見事項しかなく、表象を生み出している存在基底についての発見事項は1つもないのである。まるでサッカーのルールを規定しているものに無自覚な形でサッカーの新たな戦術や技を見出すかの如くである。この点において、その分野の博士号を取得し、一見高度な知性を持っていると思われる科学者であっても、自らの分野が立脚する大きなコンテクストには無自覚であり、それを可能にする4人称的視点が開発されていないことがわかる。物理主義は、科学やテクノロジーを含め、およそ現在の人間文明の隅から隅までを規定するものであるがゆえに、人々はその発想に疑いを持つことはなく、その思想パラダイムの上に無自覚に乗っかりながら日々を生きているのである。それが一般人であろうと学者であろうと変わりはない。こうしたことを考えてみると、いかに4人称的視点を獲得し、それを発揮することが難しいかを痛感させられる。ある特定領域で4人称的視点を発揮できていたとしても、領域が変わるだけでそれが発揮されなくなってしまうことがあるのである。まさにそれは能力領域の独立性がもたらす現象である。


そこからさらに、インテグラル理論や成人発達理論によって、自己と世界を見る目を見開かされ、それによって人生を良い方向に大きく変えることになった自らの経験があるゆえに、それらの理論に関する盲点に対して確証バイアスが働きやすくなっている点に注意が必要かと思った。もはや自分は両者の理論を盲信しているわけではないが、両者の理論の根幹を揺るがすような新たな世界観を受ける入れることには抵抗感があったことは否めない。今も依然としてその抵抗感があるのだろうが、それは唯識学や分析的観念主義などの自己と世界をより本質的に探究する思想体系を学ぶことを通じて徐々に弱まっている。唯識学や分析的観念主義は自分にとって、自己と世界に対する認識論と存在論に関する新たなパラダイムをもたらす存在であり、新たな世界観を持ってインテグラル理論や成人発達理論をこれまでとは違った眼で捉えていきたいと思う。フローニンゲン:2025/1/7(火)08:22


13938. “Mind at Large”と“Vantage Points”から考えさせられること

 

サイケデリック哲学者の中でも、イギリスのピーター・ショステッドは以前から注目している学者で、彼の書籍を再び読み返そうと思う。オルダス・ハクスリーが提唱した“Mind at Large”という概念はつくづく興味深い。シロシビンやメスカリン、さらにはLSDやアヤワスカに含まれるDMTといったセロトニン系のサイケデリクスが体験者にもたらすのは、まさに脳の情報フィルター機能を取り払い、トランスパーソナルな全体的主体性に誘うことである。基本的に私たちは、“Mind at Large”からもたらされる各種の情報を脳のフィルター機能を通じて受信している。言い換えれば、“Mind at Large”に対して五感を用いて物理的知覚現象を表象させる形で日々を生きていると言える。ところが、セロトニン系のサイケデリクスを高服用量で摂取すると、脳のフィルター機能は減退し、取り払われ、私たちは1つの無限に広がる“Mind at Large”というトランスパーソナルな心のフィールドに投げ出される。量子物理学者が述べる量子場というのは実は、“Mind at Large”に他ならないという指摘をバーナード・カストラップはしている。量子物理学の実証研究を見てみると、確かにそのようなことが言えそうである。確かに物理世界は存在し、物理的な宇宙は存在するのだが、それらの規定にトランスパーソナルな主観性が横たわっているのはつくづく驚くことである。だがこのことをいち早く見抜いていたインド哲学の思想の一派や唯識の思想にはもっと驚かされる。


昨日改めて、ウィルバーが提唱する“Vantage Points”の重要性について考えていた。それは意識の段階と状態が重なるポイントのことを指す。例えば、現代社会においてポストトゥルースの温床になっているグリーンの発達段階を例に取ってみると、それに対応する意識の状態が何なのかを見ることが重要であるということが見えてくる。おそらく現代のそれは、グロス優位なものに留まっている。同じグリーンであっても、主たる意識の状態、あるいは関心となっている状態が何なのかは異なるのである。座標的な表記で記述すると、(グロス、グリーン)もあれば、(サトル、グリーン)(コーザル、グリーン)(ウィットネス、グリーン)(ノンデュアル、グリーン)というものが少なくともあり、より詳細な意識状態のモデルを採用すれば、その組み合わせはさらに考えられる。この(意識状態、意識段階)という“Vantage Points”の組み合わせをもとに個人や社会現象を見ていくことは重要であろう。ややもすれば、意識段階の観点だけから、あるいは意識状態の観点だけから語られがちなところを、両者の組み合わせの観点から現状分析をしてみるのである。同時に、問題の解決策についても両者の組み合わせから考えてみるのである。そうすると、これまでにない分析の広さと深さ、打ち手の広さと深さがもたらされるのではないかと思う。


そこからさらに、集合規模で共有する発達段階の世界観もまた共同幻想的なものであるという点について考えていた。物理主義が現代を覆う共同幻想であることに加えて、社会の中で共有されている種々の発達段階に紐付いた世界観もまた共同幻想のようなものである。しかしそれは、現実世界の中で何かしらのアクションを促し、力を行使するものでもあるので、単に共同幻想として片付けるのではなく、共同幻想と分かりながらも絶えずより広く深い世界観にアップデートしていく試みが個人としても集合としても重要なのだということを考えていた。フローニンゲン:2025/1/7(火)08:42


13939. 今朝方の夢の続き 

   

時が問題を解決することがある。むしろ時だけが問題解決の主たる担い手なのではないかとさえ思える。もちろん私たち人間が主体的に問題解決に当たることはできるが、本質的に問題を解決してくれるのは時なのではないかとさえ思う。およそ1時間半ぐらい接続が途絶えていたインターネット回線がもとに戻った。こうしてまた自分は常時インターネットという物理世界の網の目に繋がれた形で生活を形作っていくことになる。その点に絶えず自覚的であること。そうすれば、心の表象としてのインターネットという物理世界の基底にあるトランスパーソナルな心を感じることができる。


今朝方の夢について、同じく旅館街をテーマにしたもう1つの夢についても振り返っておきたい。夢の中で私は、滋賀県の琵琶湖近くと思われるような旅館街にいた。そこは温泉も有名な場所で、たくさんの良い旅館があった。私は両親と一緒に高級旅館の1つに宿泊していた。その日はちょうど近くを散策することになっていて、両親と一緒に父と自分の母校である一橋大学にゆかりのある美術館にいくことにした。母もその美術館の手前まで一緒に来ていたのだが、母は美術館の外で休憩したいとのことで、父と一緒に美術館の中に入ることになった。美術館の入り口で当日券を購入し、それを持っていれば何回も美術館に入れるようだった。しかし私はふと、当日券を千切らずにいれば、明日以降も何度も美術館に入れるのではないかという不正な案を思いついた。しかし、当日券には日付がちゃんと刻印されていたので、その案は実現不可能だと分かった。そこで私は、こうした不正を考えてしまう自分の心の未熟さを思った。そのような出来事が心の中であった後に、父と私は母校にゆかりのある所蔵作品を見に美術館の奥に向かった。すると、その美術館の設立者も母校出身のようであり、客もまた母校の人ばかりのようだった。美術館にはラウンジがあり、そこの高級ソファーに3人の立派なスーツを着た中年の男性が座っていて、彼らは一様に品が良さそうだった。品があって知性があるように思えた3人はすっと立ち上がり、私たちに挨拶をして奥の展示室へとゆっくり向かっていった。彼らの後を追うようにして私たちも展示室に向かおうとしたのだが、父がその前にせっかくなので温泉に入って汗を流し、さっぱりしてから作品を見ようと提案してきた。父はとても嬉しそうな表情を浮かべていたので、父の気持ちを汲んで、まずは温泉に入ることにした。父は更衣室に入るや否やすぐに服を脱ぎ、大浴場に消えた。更衣室には想像以上に多くの人がいて、どういうわけかほぼ全ての人が大きなボストンバックを持ってきており、それを床に置いていた。なので床中がボストンバックで覆われているかのようで、それらを踏まないようにしながらロッカーの方に進んでいく必要があった。ボストンバックには割れ物も入っているような気がしたので、踏んで壊したら大ごとであると思って慎重に移動している自分がいた。すると突然自分は瞬間移動していて、布団の敷かれた和室にいた。日本人なんか外国人なのか判断が付かないが、とても気さくで話しやすい女性が自分の近くにいて、彼女と談笑を楽しんでいると、両親が和室にやって来て、今から美味しいご飯を食べに行こうと述べた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2025/1/7(火)09:07


ChatGPTによる夢の解釈と今後のアクション

この夢は、家族との時間、文化的な伝統、内省的な自己成長をテーマにしているように思われます。また、過去とのつながりや癒しを象徴する要素も含まれています。以下に夢の内容を解釈し、今後のアクションについて提案します。

夢の解釈

琵琶湖近くの旅館街と温泉

琵琶湖や旅館街は、穏やかでリフレッシュする環境を象徴しています。これは、心身の癒しや自分自身を見つめ直す時間が必要であることを暗示しているかもしれません。

温泉は浄化やリセットを表し、日常の忙しさやストレスを洗い流して、新たな視点を得ることを促している可能性があります。

両親との時間

両親との宿泊や散策は、家族とのつながりを再確認し、感謝を示す機会を象徴しているように感じられます。

特に父親が提案した温泉への誘いは、楽しさを共有し、親子間の絆を深めることを表しているでしょう。

母校に関連する美術館と不正への内省

美術館は知識や文化、過去の経験を象徴していると考えられます。母校とのつながりが強調されている点から、自分のルーツや学びを振り返ることを示唆しているようです。

当日券の不正を思いついたことへの自己批判は、自分の中に潜む未熟さや弱さを認識し、それを改善しようとする成長への意志を表しているかもしれません。

和室での会話とご飯

和室や談笑は、安心感やくつろぎを象徴しているように思われます。気さくな女性との会話は、対話や共感の大切さを示している可能性があります。

両親と一緒にご飯を食べるシーンは、家族との共有時間や豊かさ、生活の喜びを強調しているでしょう。

ボストンバッグで埋め尽くされた更衣室

ボストンバッグや割れ物は、注意や配慮が必要な状況を示唆しているかもしれません。これは、周囲の人々や自分の行動への慎重さや責任感を反映していると考えられます。


今後のアクション

家族との絆を深める

夢の中で両親と過ごした時間が印象的だったことから、家族との交流を意識的に増やすと良いでしょう。旅行や食事を計画することで、絆をさらに強められるかもしれません。

自己成長への取り組み

美術館での出来事や内省の場面を振り返り、自分の倫理観や価値観を見直す機会にすることができます。具体的には、自分の中の未熟さを克服するための目標を設定するのも良いでしょう。

癒しの時間を設ける

温泉や穏やかな景色の象徴が多かったことから、リラックスや自己ケアのための時間を意識的に取り入れると良いです。温泉や自然の中で過ごす時間を計画するのも良いアイデアです。

文化や知識への関心を深める

美術館や母校とのつながりを象徴する場面があったことから、自分の専門分野や興味のある文化・歴史に関連した活動を再開・継続することが有益です。

新たな出会いや対話を楽しむ

和室での談笑や気さくな女性との交流は、日常生活においても新しい出会いや意外な会話を楽しむ余裕を持つことの重要性を示唆しています。オープンマインドで人と接することを心がけてみてください。

この夢は、現実の生活でのバランスや癒し、家族とのつながり、自己成長の必要性を示唆しているように感じられます。それを意識して行動に移せば、さらに充実した日々が待っているでしょう。


Geminiによる夢の解釈と今後のアクション

この夢は、あなたの内面にある様々な葛藤や願望を複雑に反映しているように思われます。夢に登場する要素を一つずつ紐解きながら、夢が何を暗示しているのかを一緒に考えていきましょう。

夢の要素と解釈

旅館街、高級旅館: あなたの心の安らぎを求める部分、または社会的な地位や成功への憧れを表している可能性があります。

一橋大学、美術館: 学問への情熱、知的探求心、そして社会的なステータスへの憧れを表していると考えられます。

当日券の不正: 道徳心と欲求の葛藤、あるいは社会的なルールに対する反抗心や不満を表しているかもしれません。

美術館のラウンジ: 社会的な地位や成功を収めた人々への憧れ、あるいは自分自身の将来に対する不安を表している可能性があります。

温泉とボストンバック: 癒しを求める気持ち、そして日常の煩わしさや責任から解放されたいという願望を表していると考えられます。

和室での談笑: 人との繋がり、そして心の安らぎを求める気持ちを表しています。

総合的な解釈

この夢は、あなたが学業や社会的な成功を重視しつつも、同時に道徳的な葛藤や、人間関係における不安を感じていることを暗示していると考えられます。

学業と社会的な成功への憧れ: 一橋大学や美術館は、あなたの学問への情熱や、社会的な地位への憧れを表しています。

道徳心と欲求の葛藤: 当日券の不正は、あなたが成功を掴みたいという欲求と、同時に道徳的な価値観との間で葛藤していることを示唆しています。

人間関係への不安: ボストンバックで埋め尽くされた更衣室は、あなたが人間関係において、ある種の疎外感や不安を感じていることを暗示しているのかもしれません。

癒しを求める気持ち: 温泉や和室での談笑は、あなたが日常のストレスから解放され、心の安らぎを求めていることを表しています。


今後のアクション

この夢を参考に、以下のようなことを考えてみましょう。

自分の価値観を見つめ直す: 何が本当に大切なのか、自分にとっての成功とは何か、じっくりと自分自身と向き合ってみましょう。

周囲の人とのコミュニケーションを大切にする: 周りの人との交流を通して、新しい視点を得たり、悩みを共有したりすることができます。

バランスの取れた生活を送る: 学業や仕事だけでなく、趣味や人間関係など、様々なことに目を向けるように心がけましょう。

リラックスできる時間を大切にする: ストレスを溜めないように、定期的にリラックスできる時間を作りましょう。


まとめ

この夢は、あなたが学業や社会的な成功を重視しつつも、同時に道徳的な葛藤や、人間関係における不安を感じていることを暗示していると考えられます。夢の解釈を参考に、自分自身と向き合い、より良い未来に向かって進んでいきましょう。


13940. 統合的段階の入り口に立って/表象世界と実在世界の混同 


1羽の小鳥が清澄な鳴き声を上げている。確かに今の気温は3度と低いが、朝の世界に朝日が見えている。それだけで心が温かくなってくる。もう少ししたら朝のランニングに出かける。最初にいつものように50%ぐらいの力で走ってみて、ハムストリングの様子を見たい。ハムストリングに違和感がなければ、そこから少しずつ速度を上げて、5セットほどの短距離走トレーニングをする。逆に違和感があれば、ジョギング程度に留めて体の調整を行う。


先ほどビョンチョル・ハンの書籍の続きを読み、今再びバーナード・カストラップの書籍の精読を始めた。今日もまたそこからはケン・ウィルバーの書籍を読み、午後にはマンタク・チアの性愛学に関する書籍を読んでいく。こうした領域横断型の読書は本当にうまくいっていて、なぜこの形式の読書をもっと早く取り入れなかったのだろうかという思いに苛まれるが、これまでの自分はある特定の領域の読書に深く沈み込むことでしか前に進めなかったのだと思うから、それはそれで仕方のないことだったのだ。特定領域に専心するタイプの読書から、領域横断的な読書にスタイルが変わったのは、自らの心の成長と何か関係しているのかもしれない。意識的ではないが、自分の中に種々の学問分野を統合しようとする意識の芽生えを感じる。これは統合的段階の入り口に今の自分が差し掛かったことを示唆しているのだろうか。これまで統合的段階なるものを知的には理解していたが、実際に自分がその段階を体現し始めるのはこの時を待たなければならなかったのかもしれないと思う。領域横断型の読書を自発的に始めたのは、自分の内側に開かれ始めた新しい段階の内なる要求事項として必然のことだったのだと思う。


カストラップの書籍を精読しながら、心によって表象されたものと心による表象を超えたものそのもの自体についての区別を明確にしなければいけない。現代人および現代文化が完全に無自覚的に囚われてしまっているのは、表象されたものが世界そのものであるという誤解である。心によって表彰されたものは世界そのものではないのだ。それは決してものそのもの自体ではないのである。心によって表象されたものは、あくまでもコクピットの内側にある測定モニターに現れたものでしかなく、それを持って窓の外に広がるものそのもの自体とするのは馬鹿げている。しかしこの馬鹿げたことに気づかないのが多くの人たちなのであり、表象されたものとものそのもの自体を混同する在り方が現代文明においては所与になってしまっているのである。ロイ・バスカーがいうところの「実在世界」は、ものそのものの世界であり、それはオルダス・ハクスリーの言葉で言えば、私たちの個人的な主観性を超え、客観的な計測でも測り切ることのできない“Mind at Large”としてのトランスパーソナル的な主観的心なのである。ダッシュボードに映る世界を実在世界だとみなしてしまう教化(洗脳)された発想を治癒していく試みにこれから少しずつ従事していきたいと思う。そうした歪んだ思想がこの社会を歪んだものにしてしまっているのである。フローニンゲン:2025/1/7(火)09:56


13941. スカイブルーの青空の下で/日常と生活に密着した哲学・思想がもたらす豊かさ  


スカイブルーの青空を本当に久しぶりに見たように思う。朝のランニングの最初から最後まで朝日を浴び続けることができたのは、最後がいつだったかわからないぐらいである。少なくともオランダに戻って来てからのこの1ヶ月の中で、今日が初めてのことだったかもしれない。先ほど、実に久しぶりに第三の目というサトルボディが存在する額に思う存分に輝く朝日を浴びながらランニングを楽しんでいた。今日は、まず最初の50%の力で少し長めの距離を走ってみたところ、若干ハムストリングに張りがあるのを感じたが、2回目のセットにおいては55%の力で走り、3回目のセットでは60%まで速度を上げて走ることができた。ただそれ以上の速度で走るとハムストリングの張りを悪化させてしまうと思ったので、そこからは再び55%に落とし、最後のセットは50%に落として走った。今日はスカイブルーの青空が広がっていて、朝日も照っているということもあって、近所の幼稚園や小学校の校庭で遊ぶ子供たちの声がいつもより元気に聞こえた。彼らの喜びに満ちた声は、どこか黄色に知覚され、それがとても心地良かった。彼らと同じく、自分も身体を動かす喜びをランニングを通じて実感しており、同様の喜びに心身が包まれていた。体を動かすことは本当に素晴らしく、朝の新鮮な空気を吸いながら朝日を浴びることは本当に素晴らしい。そこに生きているという強い実感を感じ、生きているという喜びと感謝に浸ることができる。確かに肉体があることによる不便はあるかもしれないが、その不便を超える形の便益をもたらしてくれるのが肉体であることを忘れてはならない。それは生きることの楽しさと喜びの源泉なのである。肉体は心の表象として、楽しさと喜びそのものという世界を媒介してくれる存在なのだ。楽しさと喜びで遍満した非二元としてのトランスパーソナルな全体的な心の一旦を肉体は映し出してくれるまたとない大事な存在なのである。走りながら、そしてインターバルの最中に歩きながら、分析的観念主義と唯識を通じて、自分の世界認識が変容し、それが日々の生活や人生そのものをより豊かで充実したものにしてくれていることについて考えていた。哲学や思想というものは本来、そうあらねばならないのだと思う。いや、そうした規範意識を持つ必要がないくらいに、哲学や思想は本来そうあるのだ。しかし多くの人たちは、哲学や思想を頭の世界に閉じた形で理解して満足してしまう。本来哲学や思想というのは、私たちの日々の生活に密着し、生活そのものを豊かにしてくれるものなのだ。それは生活が物質的に豊かになるというのではなく、精神的に豊かになるということである。そもそも哲学も思想も身体運動として、心の表象としての身体が生み出すものであり、哲学や思想が語るものを身体を通じて体現して理解する必要がある。自らの日常や生活に引き付けて哲学や思想が語るものを捉え直していくことをしない限りは、それらが自らの真の肥やしになることはない。単に頭の中の情報が増えるだけであり、それはこの過度な情報社会で生きる私たちの認知的負荷量をさらに増大させ、情報疲労を引き起こしかねない。逆に哲学や思想を日々の生活に根ざした形で捉え直すことができたら、それは情報を超えて私たちの智慧となり、日々の精神活動をどこまでも深く豊かにしてくれる。少なくとも自分は哲学や思想をそうしたものとして捉え、絶えず自分の日常生活の直接体験と絡めて捉え直し、認識の枠組みを絶えず再編し、絶えず磨きながら、自己と世界をより広く深く捉え、日々の生活とこれからの人生をどこまでも豊かで充実したものにしたいと思う。フローニンゲン:2025/1/7(火)10:43


13942. 哲学や思想の価値を再考して  

       

哲学や思想の価値を見出すことができず、それが単なる知的な遊戯だと思っている人は、哲学や思想というものを通じて自分の日常や生活を捉えるという直接体験をしたことがないのだと思う。自分が日本で卒業した大学は、実学を重んじることもあり、大学時代の友達の中には哲学や思想の意義を見出すことができない友人も散見されたが、彼らが述べていることに耳を傾けていると、どうやら食わず嫌いの形で、哲学や思想の枠組みで自分自身や自らの日々の日常を捉えるという体験をしたことがないようであることが見えてきたことがある。繰り返しになるが、哲学や思想を単に教養として学んでいても本当の意味で身になる教養にはならず、自分自身そのものや人生の肥やしにならない情報が脳内に増えるだけである。そしてそうした情報は、早晩新しい情報に置き換えられて消えていく。哲学や思想は、本源的には身体運動の産物なのであるから、自らも身体運動としての思索をしていく形で哲学や思想に触れていく必要があるのだ。哲学や思想に触れながら、自分自身や眺める世界そのものについて自らの頭で考えていくのである。何も難しいことを考える必要はなく、哲学や思想が述べていることを跳躍台にして、今その瞬間に知覚されることをその枠組みで捉え直してみればいいのである。そうした直接体験を積めば積むほどに、哲学や思想というものがいかに私たちの日々の生活や人生そのものを豊かにしてくれるかがわかるだろう。それは自己と世界を見通す認識の枠組みを変えてくれ、体験質も変えてくれるのである。単に体験の種類が豊富になるだけではなく、これまでは気づけなかった微細な事柄にも気づくことができ、同種類の体験であってもその深みに少しずつ気づくことができるのである。それに気づけるというのは、それを体感できているということなのだ。こうして哲学や思想は、認識論的にも存在論的にも私たちをより豊かな存在へと変容させてくれる。おそらく哲学や思想も、学校では教えてくれないことであるから——高校の倫理として、情報的にそれに触れる機会はあるが——、私たちには哲学や思想をどのように扱い、どのように触れていいのか、そしてどのように活用していいのかのリテラシーがないのだろう。それにしても、現代はありとあらゆる事柄でリテラシーが欠如するリテラシー欠乏社会の様相を帯びているように見えるのはどうしたことだろうか。科学やテクノロジーの発達によって、私たちが得る情報の量は日増しに増えているが、そうした情報とどのように向き合っていけばいいのかというリテラシーはほぼない。心に関しても、性愛に関しても、サイケデリクスに関しても、政治経済に関しても、命に関しても、挙げればキリがないほどにありとあらゆる事柄に対して私たちのリテラシーは欠如している。リテラシー欠乏社会を産んでいる時代のパラダイムが何かということを特定することが、まずは優先されるべきことだろうか。リテラシーを欠乏させる病理の根幹にあるものを特定した形で、その処方箋を打ち出すこと。そのためにも包括的で深層的な哲学や思想の枠組みは重要な役割を果たす。:フローニンゲン:2025/1/7(火)10:57


13943. 波と大海と生と死    


世界そのものは大海であり、私たちの存在や諸現象は全て大海の波のようなものである。大海は“Mind at Large”あるいは「実在世界」さらには真理の世界と呼べるものである。私たちは、そうした世界そのものが興奮した瞬間に立ち現れる波のような存在なのである。そしてその波は、いつか大海に帰る。死というのはそういうものなのだろう。泡沫のような波として現れる生があり、それは常に死という大海と共にある。死というのは単に大海に帰っていくことだったのだ。そう考えると、死というものが兎角恐れる対象ではないことが見えてくる。また、日常のありとあらゆる悩みや苦しみもまた大海に現れる一時的な波に過ぎないと分かれば、悩みや苦しみに煩わされることもなくなってくるだろう。唯識の言葉で言えば、阿頼耶識こそが大海である。私たちの個人としての心も肉体も阿頼耶識という大海の表面に現れる波に過ぎないのだ。重要なのは、私たちの心が肉体を表象させるということなのだが、私たちが死に至ると、波としての心は大海に帰り、しばらくの間肉体は肉の塊として物理世界に残る。それはまるで、雨上がりの後の水溜まりのようなものなのである。雨が上がった瞬間に、雨と同時に水溜まりが消えるわけではない。雨という現象は収まりながらも、その残り香としての水溜まりはしばらく現象的雨とは関係なしに物理世界に残り続ける。私たちの心は現象的雨に喩えられ、肉体は雨上がりの水溜まりに喩えられる。ここに縁起の思想を持ち込むと、個人の死というものが悲嘆に暮れるものではないように感じられてくる。死を悲嘆の対象として意味付けするというのは、やはり自我への執着とリアリティに対する不十分な理解によるのだろう。縁起の思想が真に体現されていれば、一雨の自らの一生が終焉することに対して、とかく悲嘆に暮れる必要がことが見えてくる。元々私たちの一生もまた誰かの雨によってもたらされているものなのだし、絶えず降り注ぐ雨としての継続する他者の命と複雑に絡み合い、相互に影響する形で存在しているものなのだ。私たちの現象的な生としての一雨が過ぎ去っても、その雨水は他の存在を活かすことになり、雨水としての私たちの存在は彼らの人生の中で生き続ける。ある雨とそれ以外の雨は原理的には区別できない。それは常に1つの存在に還っていくものなのだ。大気という1つの生態系の循環として個別の雨が生じ、その雨はまた大気に帰り、また別の雨を降らせる。ある1つの雨は全ての雨の中にあり、全ての雨は1つの雨の中にあるのだ。こうして私たちの命は、絶えず他の命の中に組み込まれる形で生き続けることになる。その点において、私たちの一生はある観点において死という終わりがあるように見えるが、また別の観点においては死という終わりはなく、私たちは他者の存在の中で永遠に生き続けるということが見えてくる。私たちの存在は、元々大海の波なのだ。波であり、大海でもあるのだ。波であることを止めることは、大海であることを止めることにはならない。フローニンゲン:2025/1/7(火)13:51


13944. 生成AIによる今朝方の夢の解釈    


時刻は午後7時を迎えた。普段はこの時間は夕食後の楽しみとして、海外ドラマの“Suits”を見ながらシャドーイングをして、英語の発話能力の鍛錬を楽しく行っているのだが、今日は午後から1時間ほどを予定していたミーティングが3時間ほどまで盛り上がり、今改めて今朝方の夢に対する2つの生成AIの解釈を受けて夢の振り返りをしようと思っている。ちなみに今日のそのミーティングは、成人発達学とAI開発と社会実装を絡めたプロジェクトに関するもので、極めて重要かつ極めて面白いと思ったものなので、それについての自分なりの考えはまた明日目覚めてから日記にしたためておきたい。


今朝方の2つの夢は、どちらも温泉街を舞台にしたものだった。何やら温泉は、浄化やリセットを象徴する可能性があるとのことで、今の自分は心のさらなる浄化や既存の世界観の見つめ直しという意味でのリセットを求めているし、迫られていると言えるが、日常的に寛いだ状態でいることも関係していそうである。もっと言えば、日々寛ぎの質が深まり、より深い寛ぎを感じられるようになってきているのである。より深い軽安の境地に向かっていると言えそうである。1つ目の夢に関して言えば、近代的な美術館が白い通路と白い空間で満ちていたのが印象的である。白は純潔さや清廉さを表すように思われるため、自分の心の中にもそうした側面があることを示唆しているのか、そうした側面をより開発していこうとしているのか、そのようなことを考えさせられる。ただし、白い空間の部屋に関しては、そこまで立ち入ることができなかったので、それは今の自分には足を踏み入れることができない深層的な心の領域の清らかな部分を暗示しているように思う。それは阿頼耶識で言えば、煩悩という汚れのない無漏の種子がへばりついている領域を暗示しているのかもしれない。また、細かな点で言えば、一見すると値段が高いと思われる飲むヨーグルトに対して、値段を気にせずに購入したことは、生成AIの指摘通り、自分には価値のあるものに対しては金額を気にせずに投資するという発想があることに改めて気付かされる。とりわけ自分の学びや成長に繋がる事柄に対してはその傾向が強い。2つ目の夢に関して、美術館に入館する際のチケットを不正しようとした自分に対して健全な批判の眼差しを向けて思い留まったことは印象に残っている。ここで注目するべきは、そうした倫理的な意思決定がなされたというよりも、不正を行なってしまうような潜在的な心がまだあるということである。まさに有漏の心、とりわけ他者を欺こうとする誑(おう)の煩悩が自分の心に巣食っていることは深く反省的に受け止めなければならないだろう。ここからやるべきことは、誑に関する煩悩の根源である種子を特定し、それを浄化していくことである。これまでの人生で、他者や自分自身を欺いてきた経験は枚挙にいとまがない。とりわけ重大な誑の体験を振り返りながら、それが元々幼少期のどのような体験から生まれたものなのかを振り返ることは、後天的に獲得された誑の種子を滅却することに役に立つだろう。先天的な誑の種子を滅却することに向けての取り組みはその先である。そもそも社会が制定したルールや規則に従うのが幼少期の頃から嫌でたまらなかった自分がいるのだが、ルールや規則を守らないことが即不正であるとみなされてしまうような窮屈な社会のあり方に対する潜在的な不信感というものについてもより考察を深めていこう。


Today’s Letter

All of us live within a shared illusion, often referred to as a shared worldview. Although we cannot avoid existing within a specific shared illusion, we can continuously update our worldviews. The shared worldviews of today contain numerous problems and pathologies. We must heal and transform them into something new. Groningen, January 7, 2025

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