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タイトル一覧
11926. 社会と共創する探究活動に向けて
11927. 無意識の深層構造における変化/今朝方の夢
11928. バーナード・カストラップの分析的観念主義について
11929. サイケデリック学者の仕事と意識哲学者の仕事の差異化/意識の粘着性・執着性
11930. 純粋意識と分別意識
11931. ジョージ・バークリーの観念主義について
11932. 立って活動することの習慣化に向けて
11926. 社会と共創する探究活動に向けて
時刻は間も無く午前5時を迎えようとしている。天気予報の通り、深夜から雨が降り始めており、今も強い風と共に雨が降っている音が聞こえてくる。辺りが真っ暗で何も見えないが、おそらくこの雨と8度程の気温で雪は随分と溶けているのではないかと思う。ここから日の出前の午前8時の段階で最高気温の9度に達し、そこから午後5時までは同じような気温で推移するようである。今の風の強さは風速50kmほどあるので相当に強い。今降っている雨は午前中に止むのだが、今日は一日中比較的風の強い日になるようだ。
今日からまた新たな週を迎え、心機一転の気持ちである。実際には、毎日が心機一転の気持ちで新たに始まる。そのような自分を見ていると、自分は毎日生まれ変わりを果たし、それを実感しているようである。この毎日の生まれ変わりこそがミクロな成長であり、それを知覚し、実感していることは肯定的なことだと言えるだろうか。とても微細な成長を感じられているということ。その成長実感を大切にしながら、今日もまたゆっくりと着実に自らのライフワークを前に進めていこう。
今日は午後にジムに行くのだが、その前にUPSから届けられた書籍を受け取りに行こうと思う。土曜日に指定された保管所に行ってみたところ、土日は休みのようだったので、今日改めて足を運ぼうと思った次第だ。UPSから荷物が届くことはこれまであまりなく、これまで保管場所にしていた場所がもうUPSの取り扱いをやめてしまったので、今回は初めての場所になる。土曜日に散歩がてら下見をし、すでに場所を確認しているので、今日は速やかに書籍を受け取ることができるだろう。先日注文した合計50冊の書籍のうち、大半はすでに受け取っているが、今週は10冊ぐらい新たに受け取ることになりそうである。それらを受け取り次第初読を進めていきたいと思う。日々自分の研究テーマに関する読書に明け暮れることは楽しみ以外の何ものでもなく、そこで得られた知識と考察を世の中に共有していき、学術機関に所属しながら研究成果として論文の形にまとめていきたい。その思いは日毎に強まっている。同じ次元で対話のできる同僚や協働者の存在の大切さを考えたときに、今の自分は一刻も早く学術機関に戻るべきかと思う。もちろん、今こうして好き勝手に自分の研究テーマに関する文献を旺盛に読むことができているのは特権的なことかもしれないが、学術機関に所属するとまた違う特権が与えられ、それに基づいた形での研究生活を送っていきたい。学術機関での諸々の仕事をこなしてくことは、社会と共創し合いながらの探究活動と言えるのではないだろうか。フローニンゲン:2024/1/22(月)05:10
11927. 無意識の深層構造における変化/今朝方の夢
ここ最近は無意識の層で何やら変化が起こっているようである。それを実感するのは、夢の内容と質感の変化である。これまで何年も見続けていた夢の中の構造パターンに何か変化があるようなのだ。夢を生成する構造が変化したことにより、夢の中で開示される夢の内容と質感に確かな変化を感じる。それを生み出したのはもちろん様々な要因があるだろうが、1つには兎にも角にもシロシビン・セッションを体系的に頻度高く行い始めたことが関係しているだろう。少なくとも2週間に1回行うこの実践を通じて、無意識の深層構造に間違いなく変化が起きている。それは今のところ夢の中での変化として現れているが、覚醒している状態における通常意識においてもきっと何かの影響を与え始めているのではないかと思う。無意識の層が浄化されていき、無意識と深く繋がることが通常意識においてできるようになってくると、日常はどのように変化するのだろうか。日常を見る目が変化し、知覚できるものも変わってくるだろうか。ここからはその観察をしたい。
今朝方見ていた夢でまず覚えているのは、全てが無限に続く道であるという自覚のもと、目を閉じて歩いている自分はある1つの無限への道を歩いていたことだ。白い道が目を閉じている状態でも知覚され、私はその道をただひたすらと歩いていた。近くには誰も人がおらず、目を閉じた世界に見えるのは白い道だけだったので、その空間にも人は誰もいなかった。しかし自分はそれでもその白い道を歩き続けていた。楽しいとか辛いとかそんな感情が生まれる余地は全くなく、道に導かれる形で私は道に尽くす存在としてその道をただひたすらに歩き続けていた。そのような場面があったのを覚えている。
その他には、外国の建物の中で、見知らぬ外国人の男性と思われるアニメのキャラクターとアカデミックな話をしていた。当然ながらその男性もサイケデリクスを摂取しことがあり、話の初めはサイケデリック科学に関するものだった。お互いに最新の論文をいくつも読んでいて、その論文タイトルや著者を頭に入れていたので、その場に論文はないがお互いに頭の中から情報を引っ張り出してきて、有意義な意見交換を行っていた。そこからは科学主義に傾倒している社会全般の意識の問題を指摘し、サイケデリック哲学について対話を行なっていた。その男性との対話を通じて、こうやって英語でサイケデリクスや意識について自由闊達に話ができるアカデミックな環境に早く身をおきたいという思いが強まってきたところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/1/22(月)05:25
11928. バーナード・カストラップの分析的観念主義について
ジョージ・バークリーは西洋哲学に大きな貢献を果たしたが、彼が提唱した観念主義は独我論的であると批判されることがある。バークリーの観念主義においては、意識において知覚されたものを存在と認め、知覚されないものの存在を認めないという点で確かに問題を含む。昨日読み進めていた仏教現象学の書籍の中で述べられていたように、唯識派はこうした独我論的な観念主義とは一線を画したものであり、両者を混同してはならないように思う。また、唯識派の思想とつながるバーナード・カストラップが提唱した分析的観念主義も、「観念主義」という名称が付されているが、バークリーのそれとは区別して考えなければならない。分析的観念主義では、私たちが認識していようがいまいが関係なく、物質の存在と物質世界を認める。ではどのような点が観念主義なのかというと、物も心も全て意識の中にあるという発想を持っている点である。カストラップがよく喩えに出すのは、飛行機の操縦画面の比喩で、操縦画面に対象が映し出された瞬間に私たちはそれを認識するが、物質もそれを知覚した認知も全て意識内の現象なのである。操縦画面に映し出されていない無限に広い世界を認めながらも、それらもまた意識の中にあるとする発想が分析的観念主義にはある。カストラップはこのメタファーをもう少しうまく説明していたように思うので、彼がどのような説明をしていたかはもう一度書籍を確認したい。いずれにせよ、物も心も個人の純粋意識の中にあるとする点が特徴的であり、もう1つ特徴的なのはカストラップ自身がショーペンハウアーとユングに強い影響を受けており、とりわけユングの無意識論からの影響が色濃く分析的観念主義に見られる点である。すなわち、分析的観念主義では個人の純粋意識の中で全てが生起すると考えるだけではなく、純粋意識を超えた普遍意識の存在を認め、個人の純粋意識もまた普遍意識の中にあると発想する点である。これは唯識派の思想ともつながってくるであろうし、カストラップ自身が純粋意識と普遍意識の最終的な一致を説いているのであれば、それはヴェーダンタ学派の不二一元論につながる。いずれにせよ、心の世界と物質の世界を認めながらも、それは全て意識の中にあると発想する点においては、サーンキヤ学派の二元論とは少し異なる点があるだろうか。ここからはインド哲学と分析的観念主義の双方の理解を深め、両者の関係性をより明瞭なものにしたい。フローニンゲン:2024/1/22(月)06:21
11929. サイケデリック学者の仕事と意識哲学者の仕事の差異化/意識の粘着性・執着性
今は少しばかりサイケデリック学者の仕事と意識哲学者の仕事を分けて行うのが賢明な時期なのかもしれないと思う。それはしばらくの間続きそうであり、続けた方が良さそうに思う。サイケデリック・ルネサンスの勃興を受けて、確かにサイケデリクスの学術研究は一気に花開いたが、学術機関の中にはまだサイケデリクスに対して偏見を持っている人がいるのは事実である。そうした状況を鑑みて、サイケデリクスに対する社会的スティグマがもう少し緩和されるまでは、両者の肩書きの仕事を分別して行うのが良さそうだと最近考えている。論文を執筆する際にも、これまでは常にサイケデリクスと絡めて意識哲学の話題を取り上げていこうと思っていたが、今は差異化の時期と捉えて、両者を切り分ける形で論文の執筆に従事した方が賢明かと思った。これは今のところの考え方で、またすぐに考えが変わるかもしれないが、今のところはそのスタンスでサイケデリクスと意識についての研究を進めていこうと思う。本来はそれらは決して切り分けることができず、両者を包括的に扱うことによってそれぞれの真理がさらに紐解かれていくことは常に念頭に置いておきたい。現状の時代精神を鑑みたときに、上記のようなアプローチで研究を進めていく方が賢明に思えた。もちろんそれが小賢しいアプローチだと感じたら、最初から両者を絡めて積極的に論文を執筆していく。論文のタイトルや内容に関しても、見せ方があり、その見せ方に注意をすれば、サイケデリクスに対して偏見を持っている学者たちにもその論文を読んでもらえる可能性が高まり、自らの学術研究が何かしらの妨害に遭うことも防げるのではないかと思う。差異化と統合化。この発達原理は何も個人の内面の発達にだけ当てはまるものではなく、仕事の進め方にも当てはまるということを肝に銘じておきたい。
意識の粘着性。それは非常に面白い性質である。そもそも普遍意識がある個人の純粋意識に粘着する形で個としての意識が生成され、その意識は様々な対象を認識することで現象界の万象と一体化することができ、それを通じて対象を把握するというのはとても興味深い。ある対象を意識が認識するというその粘着性によってこそ対象が対象として認識できるのである。同時に、その粘着性が過度なものや病理的なものになると、各種の中毒や苦悩につながり、精神病につながったりもする。意識が持つ執着の力は否定的にも働くが、そこから執着を手放す形で私たちは対象と非二元になれたり、普遍意識と非二元になれたりする。これもまた驚くべき事柄ではないだろうか。意識は何かを捉え、それに執着する性質を持ちながらも、その執着を手放す性質も持ち合わせているのである。そのような対極的な性質があるのは、兎にも角にも最初から私たちには固有の純粋意識があり、それは常に普遍意識でもあるという究極原理があるからだと言えるだろうか。フローニンゲン:2024/1/22(月)07:02
11930. 純粋意識と分別意識
唯識派の意識哲学で重要な指摘の1つは、非二元の純粋意識と分別を司る意識の双方が私たちに備わっているとみなしている点にある。残念ながら現在の意識研究の中では、後者の分別意識にばかり焦点が当てられて研究が進められている。当然ながらそれは重要な仕事ではあるが、現在完全に盲点になっている非二元の純粋意識についてさらに哲学的・科学的な研究が進むことを期待したい。自分はそこに哲学的な観点で貢献を果たしていきたいと思っている。世界を把握し、分別を司る機能としての意識ではなく、非二元の純粋意識そのものの性質をさらに解明していきたい。それについてはインド哲学の様々な学派の中で非常に重要な指摘や議論がなされているのでそれらを参照しながら、同時に新たな理論仮説を形成するために、自らのサイケデリック体験を大切にしていき、その直接体験を出発点にして理論仮説の形成に向かっていく。どんな科学的な理論も最初は科学者の直接体験に基づく直感や閃きが出発点になっている点を忘れないようにする。意識研究のコンテクストにおいて、科学は意識や世界がどのように振る舞うのかの予測モデルを作り上げることを主な仕事とし、哲学は意識や世界がどのような性質を持っているのかの理論仮説を提示していくことを主な仕事とする。両者が手を取り合うことの大切さは、それぞれが固有の役割を担っているからである。もちろん科学者も理論仮説を絶えず構築しているし、哲学者もまた自らの直接体験という一人称的実証データをもとにして自らの理論仮説を検証することができる。ゆえに両者は完全に切り分けられるものではないながらも、それぞれに固有の強みを認識しながら、両者が手を取り合って意識の本質研究に乗り出すことができたら、これまでにはない進展を意識研究の分野は見せてくれるのではないかと思う。昨日あたりの日記でも書き留めていたようが、両者の交流と対話を促進する架け橋としての役割を積極的に担いたいものだ。意識とリアリティについてさらに広く深く知ることができたら、それはきっと人類にとって、地球にとっての大きな貢献になるのではないかと思う。フローニンゲン:2024/1/22(月)07:46
11931. ジョージ・バークリーの観念主義について
唯識派の思想についての書籍を読んでいると、やはりジョージ・バークリーの素朴な観念主義とは異なる点が随分とあることに気づく。唯識派の思想においては、私たちの意識内で立ち現れるものは外界を正確に表象しているのではなく、自らの意識を通じて投影されたものに過ぎないという見方をする。例えば、目の前の書籍を認識するとき、それは書籍そのものを正確に表象しているわけではなく、自分の意識を通じて部分的に投影された対象としてそれが知覚されているのだとみなす。ものそれ自体を完全に把握することはできないとカントが指摘しているように、唯識派においても物を完全に表象仕切ることは私たちの意識には不可能で、あくまでも部分的にそれを投影する形で対象認識が行われていると考えているように思える。唯識派の教典をまだ読んでいないので、解説書を通じての部分的な理解かつ粗い理解だが、少しずつ理解を洗練させていく形で、唯識派の思想を通じて意識とリアリティの真理に少しでも近づけたらと思う。
再びジョージ・バークリーの“A Treatise Concerning Principles of Human Knowledge”を簡単に読み返してみたところ、どうも自分の中でバークリーが真に伝えたいと思っていることを誤解していたことに気づく。バークリーの観念主義を独我論だとみなしたのは彼の批判者であって、バークリーは独我論を超えて、どちらかというと分析的観念主義や唯識論に近いより洗練された観念主義を展開していたことに気づく。確かにバークリーは物質の存在を否定し、それについては自分は異論があるが、目の前に存在する物質はその意識が知覚する限りにおいて自分の意識内に存在すると捉え、物質を含めた事物は観念的なものだと捉えた点は共感するものがある。もう少し補足すると、上述の書籍の例のように、バークリーもまた書籍に触れたときには書籍そのもの自体を認識しているわけではなく、書籍を身体感覚などを通じた知覚として認識しているに過ぎず、書籍もまた観念の束なのであるという発想は分析的観念主義や唯識派と近い発想なのではないかと思う。独我論だと批判されたのはバークリーの初期の思想であって、そこから展開された思想はさらに洗練された観念主義であった。最後に、バークリーが物質の存在を否定した背景には、物質を認識する意識そのものの実体と、普遍意識としての神の存在のみを実体として認めていたことが挙げられる点を書き留めておきたい。観念主義は決して一括りにすることができず、素朴な観念主義から非常に洗練された観念主義が存在し、それは観念主義の発達段階とも取れるため、観念主義の歴史を辿りながら、その発達プロセスを押さえ、洗練された観念主義の思想の理解を深めていきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/22(月)08:43
11932. 立って活動することの習慣化に向けて
時刻は午後5時を迎えた。つい先ほどジムから戻って来て、シャワーを浴びて今に至る。夕方の世界に小鳥の鳴き声が響き渡っている。今日はとても暖かい1日だった。早朝こそ雨風が強かったが、午後にジムに出かけた際にはポカポカとした日光が地上に降り注いでおり、気温も9度ほどあったのでマフラーがいらないほどであった。書籍の受け取りを済ませてジムに向かって散歩をし、ジムに到着する頃には体も温まっており、それが良い準備運動になっていたようである。
今日のジムでのトレーニングは無理をせず、調整の形で必要な箇所の筋力を鍛えていった。木曜日のパーソナルトレーニングの際にかなり追い込んで鍛えるので、月曜日に追い込み過ぎてしまうと、中2日の休息では回復が追いつかず、木曜日のトレーニングに支障が出る。なので月曜日の自主トレーニングでは、木曜日に鍛えいない箇所を中心に鍛えたり、筋肉痛がない箇所を鍛えるようにしている。そして、トレーニングの終わりの有酸素運動を気持ち多めに行っている。今日はローイングマシンを8分ほど漕ぎ、その後にスキーマシンを3分ほど用いた。それを終えた後にランニングマシンで20分ほど様々な速度で走ることを行い、良い汗を流した。いつもランニングマシンで走り終える頃には随分と汗をかいていて、冬のこの時期にもしっかり運動すれば発汗が促されるのだと実感する。外はまだ寒いので、外をランニングしていても発汗量はさほどではなく、ジムの中で走ることによって発汗が促進されている。
ジムに行く前にふと、研究者という仕事柄、毎日読書をする時間が長いので、実家にいる時と同様に、今日からできるだけ立って読書をすることにした。こうして執筆している日記も立って行ったり、中腰になって股関節を動かしながら執筆するなどして、座る姿勢を長時間維持しないようにこれから心がけていきたいと思う。そうした工夫によって日々の身体の変化を観察し、同時に読書の集中力や内容理解度への影響も観察したい。基本的に座るという動作は食事の際やヨガマットの上に座して瞑想を行う時ぐらいに留めてみると、どのような変化が自分に起こるのか観察してみよう。オンラインミーティングの際にも両親が行っているように立って行うようにしてみる。それを早速今日から徹底させてみようと思う。健全な肉体に健全な魂が宿るという言葉に従う形で、日々の何気ない身体動作を見直し、バランスボールに座る時間でさえも極力減らしていこうと思う。立つことによって姿勢改善と血流の促進が促され、それは学術研究だけではなく、日常の様々なところで良い影響をもたらしてくれるだろう。フローニンゲン:2024/1/22(月)17:11
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