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タイトル一覧
11828. シロシビン・マッシュルームの成長から見る環境の大切さ/探求的ダイモーンの目覚め
11829. 意識論と宇宙論の探究について/目覚めたダイモーン
11830. かつて住んでいたアーバイン/今朝方の夢
11831. 今朝方の夢の続き
11832. 宗教と哲学と科学の対話の促進に向けて
11833. 世界記述と世界創造/死の擬似体験としてのサイケデリック・セッション
11834. サンスクリット語の学習意欲の高まり/ソウルフル、スピリットフルな生き方
11835. 観念主義の誤解/大乗仏教的な救済解放実践としての日記の執筆/空間と個人
11836. 意識哲学の研究の方向性/意識そのものを体験させてくれる探求実践テクノロジーとしてのサイケデリクスと瞑想
11837. 汎心論・分析的観念主義・唯識思想を架橋させながら
11828. シロシビン・マッシュルームの成長から見る環境の大切さ/
探求的ダイモーンの目覚め
時刻は午前5時半を迎えた。今の気温はマイナス1度だが、この気温でも暖かさを感じるぐらいである。というのも昨日のこの時間帯はマイナス8度あり、それと比べると7度も差があるからだ。マイナスの世界を一括りにするのではなく、マイナスの世界でもそこでの気温差が体感に影響することがわかる。昨日よりも外の気温が高いので、室内の気温も高くなっており、室内の今の気温は19.5度ある。これは適温であり、20度を少し超えるぐらいであればさらに暖かく感じるだろう。
先ほどキッチンに置いているシロシビン・マッシュルームの栽培キットを眺めたら、再びマッシュルームの頭が地上から出ていた。中には、一夜にして大きくなったものもあった。それについては明日にでも収穫して乾燥させようと思う。栽培キットの説明は正しく、気温管理が栽培において本当に大事であり、室温が19度を下回ってしまうとマッシュルームの発育は阻害されてしまうようである。一方で、その気温を超えると発育は進み、20度を超えるとさらにぐんぐんと成長していくことがこれまでの経験からわかっている。今日からは少し暖かくなるので、4周目の栽培が進むことに期待したい。可能であれば、もう1回か2回ぐらい収穫をして、英雄の服用量分の収穫ができればと思う。
シロシビン・マッシュルームの成長が気温に影響を受ける様子を眺めていると、気温というのは環境要因であり、そこから生命が育まれるに際しての環境の大切さを改めて思う。それは人間にも当てはまり、知力を含めた諸々の能力や知性を育んでいく際に、環境が重要であることを改めて思わされる。今いるフローニンゲンの環境は、静けさに包まれていて、1人で学術研究に打ち込むには申し分ない。また、シロシビン・セッションを含めたサイケデリック実践を積み重ねていく上でも理想的な場所である。しかし今の自分はやはり新しい環境での新たな挑戦を望んでいて、そこでまたもう一段自己を深めていきたいと思っている。学術研究に関しても1人で行うのではなく、他の学者と協働し、切磋琢磨し合いながら学術的な仕事に携わりたいという思いが沸々と湧いているのが最近の自分の特徴である。今年の夏から果たして再びアメリカでの生活が始まるだろうか。その新たな生活と挑戦に思いを馳せる。
意識について、このリアリティについて全身全霊をかけて深く知りたいという探求的ダイモーンに取り憑かれている自己がいる。どうやら自分は、パンドラの箱を開け、探求的ダイモーンを呼び覚ましてしまったかのようである。いや、おそらく自分がパンドラの箱を開けたのではなく、自分を超越した何ものかが自分のためにそれを開けてくれたのだろう。そうとしか表現できないような形で、自分は日々探究活動に勤しんでいる。今日もまた自らに降りかかってきたダイモーンと共に旺盛な探究活動に取り組みたい。そのようなことを思う朝だ。フローニンゲン:2024/1/12(金)05:45
11829. 意識論と宇宙論の探究について/目覚めたダイモーン
今日もまた早朝より暖房がせっせと稼働してくれていて、そのおかげで2階の書斎に暖かさが広がっている。そのおかげで今日は、ここ数日間のように寒さを感じながら探究活動に勤しむ必要はなさそうなので感謝したい。
起床した時にふと、ここからは西洋の意識哲学に加えて、仏教の意識哲学を可能な限り広く深く学んでいこうと思っているのだが、そこに神道をどのように絡めることができるだろうかと考えていた。やはり自分は神道の意識論の研究もしたく、とりわけ古神道が持つ独特な意識論は研究対象として魅力的で、欧米の研究者たちに是非とも共有したいものである。仏教も神道も対象として無限の広さを持っているので、テーマとしてはまずは意識論を扱うことにしたい。それに付随して形而上学思想を扱うこともあるだろう。意識論に加えてもう1つ関心があるのは宇宙論である。ちょうど昨日はインドからヒンドゥー教の宇宙論に関する書籍が届けられた。今日はまずその書籍の初読から探究を始めようと思っているが、仏教に影響を与えたヒンドゥー教の宇宙論に触れながら、先日読んでいた仏教の宇宙論との比較を行ってみたい。そうした比較研究を進める中で、神道の宇宙論の輪郭と全体像を明らかにしていく試みにも着手したい。宇宙論と意識論は自分の中では密接に関わっており、深層的にはそれらは完全に重なるものだと思っている。この宇宙の成り立ちと意識の成り立ちは、深い部分では完全に合致するというのが自分の発想である。そしてそもそも宇宙と意識について探究するのは、自らのサイケデリック体験を無限に広く深く紐解くためであり、サイケデリック実践をさらに深めていくためでもある。また何より、自分が何者であって、自分はどのような世界を生きているのかという究極的な問いに応えるためには、意識と宇宙について深く知らなければならない。そのような思いから意識論と宇宙論の探究に乗り出した自分がいる。それに導いてくれたのが、目覚めた探求的ダイモーンである。自己を超越したダイモーンは、ある種創造と破壊の双方の力を内包しており、ダイモーンとの付き合い方を誤ると身を滅ぼしかねない。かつて偉大な学者や芸術家たちがダイモーンに取り憑かれ、発狂して精神がおかしくなってしまったり、自ら命を絶った例は枚挙に遑がない。それだけダイモーンというのは危険な存在でもあるのである。超常的な力を持つダイモーンが自らに降りかかり、自分はできるだけダイモーンと対話をしながら、良好な関係を築く形で探究活動に打ち込みたいと思う。おそらくダイモーンに取り憑かれて人生を狂わされてしまった人たちは、ダイモーンの客体化と対話が不十分だったのではないかと思う。ダイモーンは創造と破壊を司る巨大なシャドーだと捉えれば、適切に客体化をし、対話をする形で自己一致させる必要があるのである。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/1/12(金)06:00
11830. かつて住んでいたアーバイン/今朝方の夢
先ほど何気なく、調べる必要もないことを調べていた。ふと、かつて西海岸で住んでいたアーバインの町の気温を調べている自分がいたのである。アーバインの今の気温は20度近くあり、そして晴れの日が続いており、なんと天国的な世界がそこに広がっているかを思った。かつてその地で生活をしていた身からすると、当時の暖かく穏やかな冬を思い出さずにはいられなかった。カリフォルニアには様々な町があるが、アーバインは治安も教育水準もカリフォルニアで随一の場所であり、そのような町で1年を過ごせたことに改めて感謝をしていた。そこからふと、いつかアーバインでなくても原点回帰としてカリフォルニアに戻り、カリフォルニアのどこかの大学に勤めている可能性もなきにしもあらずかと思った。
今朝方の夢についてまだ振り返っていなかったので、取り急ぎ夢について振り返っておこう。昨日は読書というよりも文章の執筆に多くの時間を注いでいたように思うので、果たして今日はどうなるか気になるところだ。着実に書籍を読み進めながら、それに並行して思索を深め、日記を綴っていきたいと思う。
夢の中で私は、夢を目撃する者として存在していた。どのような場面を目撃していたかというと、熱血感のある比較的若い男性が高い塔の中の螺旋階段を駆け上がり、最上階に向かっている様子である。その男性は正義感にも溢れていて、観察している限り、不正や曲がったことを許せない性格を持っているのだと思った。塔の最上階にはその男性のフィアンセの女性が先に到着して待っているようだった。その男性は彼女に会うためという目的と、塔の最上階にはこの世の真理があって、その真理を掴むためという目的を持って塔を懸命に走って登っているようだった。塔を駆け上がることも中盤に差し掛かった時、塔の外の下にいた傍観者たちが一斉に歓声を上げた。それはその男性への激励であるのに加え、歓声の中に塔の螺旋階段を登る方向の助言もあった。傍観者たちは、右回りに登った方が早く塔の天辺に辿り着けると主張していたが、その男性はその助言を無視し、自らが信じる左回りの方向を採用し続けた。彼にとってみれば、塔を早く登ることが理想なのではなく、自分が信じた方向で登ることが理想だったのだ。だから彼は引き続き時計回りで塔を登り続けた。彼がもう間も無く頂上に到着するという時に、頂上で待っていた婚約者の女性が姿を消しそうになっていた。どうやらその女性はまるでシンデレラのように、特定の時間しかそこに留まれないようだった。彼女が消えるまで残り10秒を切った時、時刻を知らせる時計が2つに分裂し、片方は30秒からカウントダウンされ、もう片方は10秒からカウントダウンされ始めた。ところが、後者の時計に関しては時間の歪みを受けているようで、時間の進み方が前者の時計と全く異なっていて、不規則なリズムで刻まれていた。後者の時計のカウントが4秒を切った時、夢を目撃している自分は、もうその男性は婚約者の女性には会えないのではないかと思った。そこで夢の場面が変わった。
この夢は実に示唆深い。もしかしたら塔を懸命に登っている自分は今の自分の姿を映しているかのようである。また、最後に現れた2つの時計についても、きっと後者はカイロス時間を刻むもので、前者はクロノス時間を刻むものだったのではないかと思う。後者の時計が刻むカイロス時間こそを自分は大切にしたい。それは一定で流れていくものではなく、不規則な進行を所与とする。きっとカイロス時間の感覚を深めれば深めるだけ、カイロス時間からも脱却し、時が流れることのない永劫的な今に生き続けることができるのではないかと思う。そのようなことを思わせてくれる夢だった。フローニンゲン:2024/1/12(金)07:03
11831. 今朝方の夢の続き
さて今日もまたモーニングコーヒーを淹れ終え、ここから美味いコーヒーを味わいながら朝の読書に取り掛かっていく。先日に新年最初の書籍の一括注文をし、合計で40冊ほどの書籍を注文した。しかし、そこからまだまだ読みたい学術書が見つかり、購入予定の文献リストにさらに20冊ほど追加された。当面はまず届けられた40冊の書籍の初読を終えることと、昨年に購入した400冊近い書籍の中で良書に絞って何度も繰り返し読んでいくということを優先させる。新たに追加された20冊ほどの書籍は2月に入って注文しようと思う。昨年からの変化として、毎月か2ヶ月に1回旅行することはなくなり、もはや旅行から得られることよりも書物で得られることの方に価値を置いている自分がいて、旅行の代わりに毎月多くの書籍を購入している自分がいる。本当にそれは旅行の代わりとなる大いなる学びを自分にもたらしてくれている。
今朝方の夢について先ほど振り返っていたが、夢にはまだいくつか断片的な続きがある。それらについて振り返ることもまた意識探究上の大切な実践である。
夢の中で私は、品の良い料亭の座敷にいた。座敷には長方形の背の低いテーブルが置かれていて、私の目の前には小中学校時代の双子の姉妹がいた。2人と談笑を楽しみながら昼食の料理が到着するのを待っていた。するとすぐに昼食が運ばれてきた。見ると、豪勢な寿司が振る舞われ、久しく本格的な寿司を食べていなかった自分にとっては極めて有り難かった。そこから寿司をつまみながら、引き続き双子の姉妹と談笑を楽しんでいた。
次の場面では、マリオカートのようなゲームの中に入り込んでいる自分がいた。小中高時代のある友人(HY)がライオンのような獰猛なキャラクターを選択し、本来は彼はとても性格が優しいのだが、性格が変貌し、周りにいるキャラクターの上に乗り掛かり、殺して食べてしまうということを繰り返していた。なんて残酷なことをするのだろうと思って見ていると、どうやら彼は完全に理性を失ってしまっているようで、なんとも打つ手がなかった。しかし、周りのキャラクターを殺して食べ終えた瞬間だけ少し理性が取り戻されることに気づいたので、その瞬間を狙って彼との対話を試みた。すると、それが功を奏し、獰猛なキャラクターから優しいキャラクターに変化する光景を見た。冷静な彼に戻ったところでここからレースを始めようと持ちかけた。そのような夢があったことを思い出す。フローニンゲン:2024/1/12(金)07:37
11832. 宗教と哲学と科学の対話の促進に向けて
意識哲学の探究を通じて意識について少しずつ知れば知るだけ、自分の内側の内奥から力が湧き上がってくるのを感じる。同様に、宇宙について少しずつ知れば知るだけ、自分の内側の内奥から力が湧き上がる。この現象は何なのだろうか。人はきっと、自己の深層と繋がり、深層の最奥部を通じて宇宙と繋がることによって、極大的な生命エネルギーが湧き上がるような存在なのかも知れない。今自分はそのような存在にますます近づいているのを実感する。そのエネルギーに支えられる形で毎日の探究と実践が着実に積み重なっていく。
たった今、ヒンドゥー教の宇宙論に関する書籍を読み終えた。そこに書かれていたこととして印象に残っているのは、現在の宇宙物理学で議論されている多元宇宙論を先取りする議論がヒンドゥー教の宇宙論の中でなされていることである。科学はひょっとしたら宗教の後追いなのかも知れない。確かに学問の成り立ちの歴史から考えても、神学が最初にあって、そこから哲学が派生し、そしてようやく誕生したのが科学だった。それを踏まえると、科学が宗教上の発見事項を後追いする形で研究を進めているというのは頷ける。同時に、そうであれば、宗教で語られていることに虚心坦懐に耳を傾けることによって、科学によってまだ明らかにされていない自己と宇宙の真相に触れられるのではないかと思う。自分が今いくつかの宗教の意識論や宇宙論を学んでいるのはそうした意味があるのだろう。意識論に関して言えば、確かに西洋の意識哲学は精緻な議論を進めているが、実はそこで議論されていることの本質的な問題については既に仏教の中で取り扱われていることが多く、その問題の解答も提示されていることが多い。西洋の意識哲学者の中にはそのことに気づいて宗教の叡智を参照している人もちらほらいるが、その数は多くない。また宗教における意識論を研究している研究者は逆に、自らの研究分野に閉じてしまい、意識哲学者との対話をあまり積極的に行っていない印象である。こうしたところにも分断を見る。自分がやるべきこと、そして実現したいと思っていることは、宗教と哲学と科学の対話を促進することであり、対話の媒介者となるべく、それら三者を佳境する研究をしていくことである。自らの研究の発表が対話の土台となり、そこで対話が醸成されることを強く望む。その仕事をこれから本格的に着手していきたいと思っている。そのためには、兎にも角にも力をつけていく必要があるし、形としての仕事を成していく必要がある。それが対話の共通土台となり、対話の花が開く。それを期待しながら今日もまた探究活動に没頭邁進する。フローニンゲン:2024/1/12(金)08:23
11833. 世界記述と世界創造/死の擬似体験としてのサイケデリック・セッション
宗教にせよ、哲学にせよ、科学にせよ、それは世界を記述、説明しようと試みるが、世界がどうなっているかを説明しているように見えて、実は説明を通じて世界を表象的に生み出しているのではないかと思い始めている。すなわち、それらの試みは世界に対する説明という表面的な様相を見せながらも、内実は世界を形作って創造しているのである。例えば、物質の構造について説明する際に科学を採用した場合、その説明を受けると多くの人たちは、物質がそう成り立っているのだと錯覚してしまう。実はそこでなされている説明は物質の成り立ちという世界を新たに生み出しているのではないかと思ったのである。というのも究極的にこの世界は分割することができず、絶えず一なるものとしてありのままに存在しているからである。そうした一なる全体から部分を切り出して説明することが自然言語や数学言語を媒介した説明作業なのであり、それは世界を語っているようでいて、逆に世界を切り取りながら新たに生み出しているのではないかと思ったのである。ゆえに、世界を記述して、その記述モデル通りに世界が動いているというのは単なる錯覚で、人間が世界をそのように記述創造しているのだという気づきが得られた。
死の擬似体験としてのサイケデリック・セッション。今週の日曜日には第24回のシロシビン・セッションを行う。大晦日に行った前回のセッションからちょうど2週間が経ち、その間にも自分の探究活動は着実に進行していた。この2週間で学んだことと考察を重ねたことを動員する形で今週末のセッションを実施したい。そこではまたしても大いなる気づきと発見がいくつも得られるだろう。そして何より、そこでは死を先取りする形で死の擬似体験がもたらされるだろう。サイケデリック実践以上に自我の死を感じさせてくれるものはない。そこには死があって、新たな誕生がある。脳科学的にも、自我を司るデフォルト・モード・ネットワークが解体されることからも、嘘偽りなく自我の死を深く経験させてくれるのがサイケデリック・セッションの特徴である。今回は自我のどのような部分が死ぬのだろうか。ひょっとしたら部分でなく、全体が毎回死を経験していると言えるかも知れない。そこにはミクロな死があって、そこからまたミクロな誕生がもたらされる。5年前の、3年前の、1年前の自分の自我はもうここにはいないところにも、自我が仮の空的存在だということが見えてくる。そしてそれをありありと実感している自分がいる。そうした明確な意識が自我の脱皮を後押ししてくれている。ここから脱皮に次ぐ脱皮を繰り返し、自我が完全に空的な存在だという体感が自分の中に体現され、それを通じて自我に囚われず、何ものにも囚われずに自由の境地を体現して日々を生きていく自分の姿が想像されるし、既に自分はそのように生きているとさえ思えてくる。フローニンゲン:2024/1/12(金)09:00
11834. サンスクリット語の学習意欲の高まり/ソウルフル、スピリットフルな生き方
仏教の意識論と宇宙論の探究に目覚めた自己は、厳格な学術研究を希求し始めた。英語での文献読解を超えて、とりわけ大乗仏教の経典の原語であるサンスクリット語を本格的に学びたいという動機が高まっている。仮に原始仏教である上座仏教についても探究をしていくのであれば、その経典の言語であるパーリ語を学んでいく必要がある。その時にはパーリ語も学び、何としても原典に当たって研究をしていきたいと思う。英語に翻訳された翻訳書をいつまで読んでいてもダメなのである。とにかく原典に当たること。その姿勢を徹底させたい。
果たして最後のピースは埋まるのだろうか。現在、ハーバード神学大学院に出願した書類審査の結果を待っている段階で、仮にそれが通ればオンライン面接に進む。振り返ってみると、意識と宇宙の探究はこれまでも自分はずっと行っていたのだと気付かされる。欧米でのこの12年間においては少なくとも、発達心理学を通じてまずは意識について探究していた。その時にはそれが宇宙論にまで繋がるという認識はなかったが、間違いなく内面宇宙の探究をしていたことは確かである。そしてその時の自分のアプローチはどちらかというと哲学的なものだった。そこからフローニンゲン大学に移ってからは、応用数学を活用した厳格な科学的な手続きに従って意識の発達現象について探究をしていた。そうした自分の探究上の個人史を振り返ってみた時に、哲学を出発とし、そこから科学に移行したことが窺える。フローニンゲン大学を離れてからは探究上の彷徨が始まり、再び哲学に戻ってきたような印象である。そこからおそらく2020年だったと思うが、神道への目覚めがあり、それを通じて神学に関心を持ち始めた。当初はキリスト教神学の研究を細々と行っていたが、やはり自らの出自に関わる神道と仏教に関心を持って今に至る。
学術的な鍛錬として今の自分にまだないのはやはり神学なのだ。果たしてその最後のピースを埋めることが今年実現するだろうか。もちろんそのピースが埋まったからと言ってそこで終わりではなく、むしろそこからが自分の学術研究の始まりだと思っている。哲学・科学・神学のピースが埋まった時、それが三位一体のものとして飛翔し、そこから真に自分の学術研究が花開いていくのではないかと思う。それを待ってくれていた存在がいるのである。仮に自分が哲学に留まっていたり、科学に留まっていたりすると、自分が使命として与えられた事柄に従事できない可能性があったのだ。それをさせないために、一見するとここ数年の人生においては何か扉が閉ざされていた感じがしていたが、実際は必要な扉に導くための現象がそこで生じていたのである。そのようなことを思わざるを得ない。今は静かに書類審査の結果を待ち、その結果がどうであれ、自分は自らに与えられた使命を全うするべく毎日を全身全霊で充実した形で生きていくだけだ。それが自分なりのソウルフル、スピリットフルな生き方なのである。フローニンゲン:2024/1/12(金)09:31
11835. 観念主義の誤解/大乗仏教的な救済解放実践としての日記の執筆/空間と個人
観念主義(idealism)の伝統を改めて丁寧に辿っていくと、観念主義者たちは物質世界の存在を否定していたわけではなく、むしろ心が物質を生み出しているというようなナイーブな発想を決して取っていたわけではないことがわかる。観念主義者たちが大切にしていたのは、個人の心を超えた存在を認めることだったのだということに気付かされた。有名な哲学者で言えばまさにカントは、個人の意識を超えた世界の存在について言及していた。確かに世の中には、自分が認識をしたから物が存在するのだというナイーブな一元論的観念主義者もいるし、観念主義者は物質世界の存在を否定しているというナイーブな批判を観念主義者に対して行う者もいる。こうした状況を踏まえ、改めて観念主義者たちが真に伝えようとしていたことを改めて理解し、それをできるだけ正確に共有したいと思う。
こうして日々自分が学び、考えた事柄、そしてそれを通じて得られた洞察を共有することが、大乗仏教的な救済解放行為にならないだろうかと考えていた。それを目的にしてしまうのは本末転倒かもしれないが、何かしらその貢献が自然に実現されている可能性があるように思えてきた。日々綴っているこの些細な日記もまた、存在者の救済解放に向けた実践としての意味合いを帯びていることにはたと気づかされた次第である。日記の執筆は大乗仏教的な救済解放実践であるという認識。その認識をここから強く持ちたい。
「空」の「間」と書いて「空間」。英語において空間は、“space”と呼ばれるが、それは宇宙の意味もある。空間が空っぽの間であって、同時に宇宙でもあるというのは何かとても興味深い。そしてそこに空間の持つ深淵な意味を感じる。空間を空っぽと空っぽの間と捉えてみることと、空(くう)なる存在と空なる存在の間と捉えてみると、自らの空間認識はどのように変化するだろうか。意識は本質的に空間を持つのだろうか。何もなく、空っぽで、無限の広がりを持つという点においては、意識は空間性を内包していると言えるかもしれない。意識の性質について空間の観点からも考察を深めたい。
そこから、「個人」というものについて考えていた。個人は確かに固有の存在なのだが、その固有の存在は英語の“individual”にあるように、“in-divisible”、すなわち分割不可能な非二元な存在なのだと思う。個人は個人として分割不可能な非二元的存在なだけではなく、そうした個人と個人の関係性もまた本来非二元なのである。意識は分割できず、それが本質的に非二元であることと、個人の性質及び人と人との関係性もまた必然的に非二元であることが見えてくる。フローニンゲン:2024/1/12(金)11:09
11836. 意識哲学の研究の方向性/意識そのものを体験させてくれる探求実践テクノロジーとしてのサイケデリクスと瞑想
つい今し方、ルートリッジ出版から出版された汎心論に関する論文集の再読をしていた時に、意識哲学の探究は本当に無限に広く、無限に深いということを改めて感じた。この研究領域については絶えず自分なりの方向性を持って、それを検証しながら進んでいかないと無限の迷宮に迷い込むと思った。今のところ、まずは意識哲学の全体像を掴み、どのような哲学的な問題が議論されているのかを網羅的に把握することに努めたい。そこから自分がやるべきことは、西洋の意識哲学の議論を理解した上で、東洋の意識哲学を深く理解していくことである。とりわけ仏教の意識論を深く研究し、その枠組みで西洋の意識哲学で議論されている問題の解決に乗り出してみる。それがどれだけ通用するのかは今から楽しみである。西洋の意識哲学の問題を眺めていると、それをまた西洋の哲学の枠組みで解こうとするから堂々巡りの現象が起きているように思えるし、新たな問題をどんどん派生させているように思えてくる。そうした状況に終止符を打つことができたら完全なる問題解決かと思われる。それを東洋の意識哲学の枠組みで実現できないかと画策している。西洋の意識哲学で議論されている問題は、独自な認識の枠組み、そしてパラダイムでフレームされているため、それとは違う認識の枠組み及びパラダイムを導入すれば、問題がスルスルと解決していく可能性がある。もちろんそれは可能性であり、実際のところは西洋の意識哲学が立案している問題は一見すると難問ばかりである。いずれにせよ、今は西洋の意識哲学で議論されている問題を網羅的に把握することに努めながら、並行して仏教の意識論を深く学んでいく。仏教の意識論と言ってもこれまた広く、どの学派のどのテキストを参照するかを具体的に定めなければならない。自分の場合は中観思想と唯識思想をまずは核に据えてみようと思っている。
こうしたことを考える前に、LSDの体系的なセッションを自らに課していたクリストファー・ベイシュ教授がサイケデリクスを意識そのものへのアクセスと探求に活用できるテクノロジーであると見立てていたことについても考えていた。確かにサイケデリクスは、意識の内容物に囚われることを超え、メタ意識としての目撃者の意識を超え、意識の基底とでも表現できる意識そのものとの合一体験をさせてくれることがある。それは表現を変えれば非二元との体験とも呼べるだろうし、空の体験とも言えるだろう。この体験を客体化してしまった瞬間にそれは非二元状態からの解除を意味し、意識そのものと意識の内容物としての気づきの意識の分離が起こる。メタ意識ですら意識の内容物なのであり、意識そのものではないという点には注意が必要である。心理学における意識の定義は、意識はメタ意識とされることが多いが、意識哲学からすると、意識そのものはメタ意識を超えたさらに奥深く謎めいた存在なのである。
今週の日曜日のシロシビン・セッションにおいて、意識そのものに関する考察を深めてくれる体験としてどのようなものがもたらされるか楽しみである。意識そのものへの理解を深めるためには、意識そのものに触れる直接体験を豊かに積みながら、同時に意識哲学の研究を進めていくということが重要になるだろう。まさに前者における意識そのものを体験させてくれる探求実践テクノロジーが自分にとってはサイケデリクスなのであり、瞑想実践なのだ。フローニンゲン:2024/1/12(金)13:53
11837. 汎心論・分析的観念主義・唯識思想を架橋させながら
この日記を書き留めたら、散歩がてら近所の玩具屋に立ち寄って、書籍を受け取ってこようと思う。どうやら先日注文した40冊の書籍の大部分が届いたようなので、結構な重さになることを覚悟しておこう。
先ほど瞑想をしている最中に、汎心論と分析的観念主義、そして唯識思想を絡めた形での考察を通じて1つ気づきを得た。そもそも分析的観念主義は、汎心論を否定しており、物質が意識を持つことを認めない。これは手続き的にどのように可能なのかについては検討したい。それは、他者に心があるのかどうかをどうやって把握するのかという問題ともつながる古典的なテーマである。分析的観念主義は、物質が意識を持っていることを認めず、人間も物質も、全て意識の中に存在しているとする。ここで述べている意識は個人の意識と普遍的意識の双方である。個人の意識を例に取った場合、個人の意識の中で認識される物質は、上映されている映画の登場人物のようなものであり、映画のスクリーンに映される登場人物は単なる電気的なビットに過ぎないが、鑑賞者はそこに映し出される登場人物を意識を持った存在だと錯覚して映画を楽しむ。このように分析的観念主義では、全ては意識の中に立ち現れる現象であり、物質に意識があるとするのは錯覚であるとみなす。これは全てが識であり、全てが識の現れであるとする唯識思想と相通じるものがある。
さてここに普遍意識を導入したらどのようなことが言えるだろうか。個人の意識は普遍意識でもあるとする梵我一如の思想を考えると、普遍意識を導入したとしても同じことが言えるだろうか。仮に個人の意識と普遍意識を差異化してみると、個人の意識は普遍意識に包摂されており、結局は個人の意識に映し出されるものは、普遍意識が上映する映画のようなものであるゆえに、それは幻想的なものだと言えるかもしれない。そもそも普遍意識は究極的なものでもあるので、個人の意識は幻想的なもの、仮の存在としての空的なものだとする中観派の思想とも合致しそうである。すなわち、個人の意識の中で上映されるものも幻想的なものであり、仮のもので空的なのだが、それだけではなく、個人の意識も普遍的意識から見れば幻想的なものであり、仮のもので空的なものなのだ。そうした意識に映る物質に意識が宿るとするのは確かに錯覚なのかもしれない。物質の振る舞いは意識があるように見えるが、それは意識が存在していることを意味しない。あくまでも物質は意識の中で上映されている映画の登場人物のようなものであり、それがスクリーン上は電気信号に過ぎず、電気的なビットに過ぎないことを思う時、汎心論の考え方に陰りが見えてきた。引き続き、汎心論、分析的観念主義、唯識思想を架橋させながら考察を深めていこう。フローニンゲン:2024/1/12(金)15:23
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