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【サイケデリック学探究記】11800-11808:2024年1月9日(火)



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タイトル一覧

11800. 今朝方の夢

11801. 今朝方の夢の続き

11802. 学術世界に根を下ろすことへ向かう自分

11803. 大学で担当したい2つのコース

11804. 直接体験に基づく研究活動の大切さ

11805. 責任:個人の意識と普遍意識の観点より

11806. 常に存在し続ける意識/井筒俊彦先生の英文書籍を購入して

11807. バーナード・カストラップと井筒俊彦先生の意識論を架橋させる試みに向けて

11808. 意識哲学への本格的な目覚め


11800. 今朝方の夢


時刻は午前5時を迎えた。部屋の温度が18.5度と暖房の設定温度を随分と下回っていたのでどうしたのかと思っていたところ、外気がマイナス6度とのことで、その寒さによって暖房が追いつかない状態になっていることに気付いた。今も暖房はせっせと動いてくれているが、外の寒さが暖房の稼働を凌いでいるようだ。今日と明日は最高気温と最低気温共に同じ温度で、最高気温はマイナス2度、最低気温はマイナス6度である。どうやら最低気温の時間帯に自分は起床したらしく、ここから午前10時頃まではずっとマイナス6度のままのようだ。今日も明日も雲ひとつない快晴のようだが、この寒さは本当に厳しい。そんな寒さの中で、今朝方の夢をいつものように振り返っている。


夢の中で私は、ひょんなことからスペインの名門サッカークラブのレアル・マドリードに加入することになった。自分が加入したのはトップチームではなく、Bチームだったが、それでもこのチームは物心ついた時からの憧れのチームだったのでとても嬉しく思った。友人たちは自分が学者としての仕事をしていると思っていたので、まさか自分がレアルに加入するとは思っていなかったようで、心底驚いていた。友人の中には自分がレアルに加入したことを信じていない人もいた。それくらいの突然の加入であったし、青天の霹靂の事柄だった。

レアルに加入することになったので、早速スペインに飛んだ。すると、スペインに到着してすぐにレアルが欧州CLの決勝に進むという嬉しいニュースがあった。自分はもうレアルの選手なので、決勝をスタジアムで観戦する機会が与えられていて、とても嬉しく思った。すると、時空を飛び越えて、もう自分は決勝を目の前で観戦していた。レアルは相手チームに1点ビハインドで、試合時間も残りわずかだった。しかしそこからレアルは同点弾を決め、そして逆転ゴールを決めた。最後に逆転ゴールを決めたのは、かつてレアルに長年所属していたレジェンドのラウルで、彼のゴールは本当に見事だった。自陣からのキレのある長いドリブルから見事なシュートを決めた時、スタジアムには轟く歓声が沸き、私も思わず立ち上がって歓声を送った。試合後、選手の宿泊先のホテルでスーツを着てインタビュー対応をしていたラウルと話をする機会があり、「逆転弾のあのゴールは本当に素晴らしかった」と伝えると、ラウルは微笑みながら「どうもありがとう」と述べた。こうしてチームに帯同してトップチームの選手たちと気軽に交流できることに大きな喜びを自分は感じていた。そこから私は、彼らとより密なコミュニケーションを取るためにスペイン語の勉強に力を入れようと思った。そのような場面があった。


それ以外に覚えている夢としては、豪勢な一軒家の中で、知人の女性と体を撫で合ってマッサージをしている場面であった。最初はテーブルを囲んでお喋りを楽しんでいたところ、ひょんなことからエネルギーワークの一環としてお互いにマッサージをし合おうという流れになった。しかもそれは口に出してそうなったのではなく、なんとなくの雰囲気でそうなった。実際にマッサージをし合ってみると、お互いに高いエネルギーを持っている者同士ということもあり、身体は寛ぎ、そして身体にエネルギーが満ち満ちてくるような感覚があった。総じてそのマッサージはお互いに気持ちの良いものであり、時間を忘れてマッサージをし合い、至福な時間を過ごしていた。フローニンゲン:2024/1/9(火)05:24


11801. 今朝方の夢の続き      


今日は暖房の力だけではどうにもできそうにない寒さなので、湯たんぽに何度かお世話になることだろう。後ほどにアニマルフローの実践を終えて、カカオヘンプドリンクを作った後に湯たんぽの準備をしようと思う。お腹や腰あたり、そして足元を温めるようにしたい。

先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるので、それらについても振り返っておきたい。


夢の中で私は、見慣れない豪華な一軒家の中にいた。その家には数多くの部屋があり、それぞれの部屋には必ず豪勢なシャンデリアがあった。その家は芸術作品であるかのような美しさがあり、そうした家に住んでいることに感謝の念を改めて持った。すると、ある部屋で母とばったり出くわしたので、そこで少し話をした。なんと母は、昔自分がやっていたカードゲームを始めたようで、デッキの構築と真剣に向かっているようだった。母のデッキを見せてもらうと、なかなかに良いカードが揃っていたので驚いた。私からあまり助言をする必要のないぐらいに母はそのカードゲームについて勉強しているようだった。母が嬉しそうにそのカードゲームの話をする様子を見て、自分もまたそのカードゲームを始めてみようかと思った。そうすれば母と一緒に遊ぶことができると思ったのである。しかし、自分には他にやるべきことがあったので、再びそのカードゲームを始めるところまでは行かず、母にはまたそのカードゲームを通じて新しい交友関係を作って欲しいと思った。


母と別れた後、まるで迷宮のような大きな家の中を引き続き歩いていた。自分の家なのだがまだまだ足を踏み入れたことのない部屋がたくさんあり、散策にはもってこいだった。しばらく歩いていると、見慣れない部屋に辿り着いた。どうやらそこは別の人に貸している部屋のようで、その部屋の住人の女性が親切にも部屋を見せてくれた。すると私の横には前職時代の女性の先輩社員がいて、彼女と部屋を眺めていた。その部屋にも豪勢なシャンデリアがあり、息を飲むような美しさだったので、しばらく見惚れていた。すると自分の足元にハイテクな体重計があることに気づき、体重計にアフォーダンスされるかのように、体重計に自然と乗っている自分がいた。すると体重は58.0kgを示し、筋肉が付いたので62.0kgぐらいはあるかなと思っていたのでまだ随分と軽いのだなと思った。そのような場面があった。

それ以外にも覚えている場面としては、一軒家の地面が崩れていて、地盤の奥が見えている場面があったことである。崩れた地盤の奥には水が川のように流れていて、その川に大量のミミズと数多くのモグラがいた。ミミズもモグラも川に流されながらどこかに向かっていた。一方で、数匹のモグラは川に流されることなく、地盤の安定した場所で寛いで眠っている様子が見えた。私の横には父がいて、モグラの様子を眺めながら、地盤の改善をした方がいいのかどうかを話し合っていた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/9(火)05:47


11802. 学術世界に根を下ろすことへ向かう自分 


つい今し方、モーニングコーヒーを淹れた。その香りに誘われながら、少し考え事をしていた。さて今日もまたどんな発見があるだろうか。きっと今日も発見に満ちた1日になるだろう。読書を通じて得られる種々の発見と、そこから展開される自分の考察に希望を見出す自分がいる。毎日新たな知識を得て、あは体験としての発見を得て、自分の考察が深まっていくことが何よりの楽しみなのである。日々の自分の生活の本質はそれである。これからもずっとこのような形で日々を過ごしていきたい。


そのようなことを思いながら、ここから本格的に学者としての仕事を学術機関の中で行っていくことについて考えていた。これまでの自分は学会発表や論文の執筆にそれほど熱心ではなく、むしろ学術の世界と実務の世界をつなぐための一般書の執筆に力を入れていた。学術論文として出版したものは、ジョン・エフ・ケネディ時代の1本の論文とフローニンゲン大学時代の1本の論文しかない。また学会発表としては、横浜、ロンドン、アムステルダムの3箇所で発表したことがあるぐらいだ。このようにこれまでの自分はどちらかというと実務家として活動をしており、学術の世界と実務の世界をつなぐ架け橋のような存在として人間発達の分野に関わっていた。だがここからは本格的に学術世界での仕事に舵を切っていこうと思う。もちろん実務の世界とも引き続き関係を持っていく。これまでの経験上、企業との協働によって自分の研究が進展していく姿を目撃していたし、実務の世界との協働を通じて学術の世界では得られないような発見や気づきがあるのは確かである。今後も実務の世界とのつながりを大切にしていきながらも、学術世界に根を下ろしていくような取り組みをしていきたい。そのためにもまずは4つ目の修士号を所得し、その流れで博士課程に進学して博士号を取得することが重要になるだろう。博士号の取得には少なくとも5年間はかかるとのことなので、その5年間はじっくり自分の研究に取り組める贅沢な時間になるだろう。そうした贅沢な時間をどこで過ごすのかを真剣に検討したい。自分の研究テーマを考慮すると、すでに世界のいくつかの大学が候補に挙がっている。数としては多くないが、この大学なら自分の研究に没頭できそうだという直感を得ている大学がいくつかあるのは幸いである。自分が最も進学したいと思う大学の博士課程に進めるようにするためにも、4つ目の修士課程でどのように過ごすかは大きな鍵を握るだろう。そこでは積極的に学会発表に出かけ、可能であれば修士課程に在籍中に何本かの査読付き論文を執筆したいと思う。日本語での書籍の執筆の優先度合いはグッと落ちるだろうがそれでいい。今の自分は兎にも角にもグローバルな形で世界の様々な研究者や学生たちとコミュニケーションを図りたいと望んでいる。それが自分の研究を広く深くするために不可欠なことだとわかっている。自分の日本語ですら日々進化していくのだから、英語力を磨いていくことは本当に継続して毎日行っていきたいと思う。大学という組織に所属することを望む自分が現れるとは思っても見なかったことであるが、その実現に向けて今日もまた一歩の歩みを前に進めていく。フローニンゲン:2024/1/9(火)07:05


11803. 大学で担当したい2つのコース


モーニングコーヒーの温かさにホッとし、その美味に舌鼓を思わず打つ。至福な時間の中に佇む自己。湯たんぽがお腹や腰を温めてくれていて、その温もりに感謝する自己。今日もきっと充実した1日になるだろうという確信がある。今日の読書もまたバーナード・カストラップの書籍から開始する。カストラップの思想体系は、ここから重箱の隅をつつくぐらいに深く理解したい。そのためには、彼の著作物の全てを何度も繰り返し読んでいくことが鍵を握る。ケン・ウィルバーの書籍をかつて何度も読み返していたのと同じように、カストラップの書籍を繰り返し読むことを通じて、彼の発想方法を自分の内側に取り込み、そこからまた自分の発想の枠組みを更新していこうと思う。これだと思う惚れ込む学者を見つけたら、その人物の著作物を全て何度も繰り返し読むということが重要であり、カストラップ以外にも今の自分を惹きつけているのは京都学派の哲学者たちであり、それに加えて井筒俊彦先生がいる。


そこでふと、今後世界のどこかの大学で教鞭をとることになったら、「サイケデリック哲学・科学・神学」のコースを担当するだけではなく、京都学派や井筒先生の思想を取り上げるコースを担当したいという思いが湧いてきた。京都学派や井筒先生の思想の射程は極めて広いので、取り上げるとするならば、意識論・形而上学・存在論の3つに絞る形がいいだろうか。それはサイケデリック研究とも絡む内容であり、2つのコースが相互に良い影響を与え合うのではないかと期待する。自分が心底好きなことをコースとして提供できることほど有り難いことはない。大学で教鞭をとることの面白さはきっとそこにあるのだろうし、何よりも毎年新しい学生と交流できることは大きな刺激になるだろう。それら2つのコースを大学院レベルの講義として提供することができたら、さらに大きな刺激が得られるだろう。受講生の関心に応じたユニークなエッセイを中間・期末に読むことは自分にとって刺激となり、自分の研究もさらに進展するはずである。この1年間ほど毎週末にゼミナールを運営しながら、ゼミの受講生たちからの発言や洞察の提供のおかげで、自分がどれだけ成長させてもらったことか。それを踏まえると、世界の様々な国から集まる大学でアカデミックの共通言語である英語を用いて学生たちとやり取りをすることは本当に多くの学びを得させてもらえることになるのではないかと思っている。こうした思いから、大学という組織に所属することに対してかつてあまり好ましく思っていなかった自分の心が変わり始めている。こうした変化をもたらしてくれたのもまたサイケデリクスとの深層的な出会いのおかげであり、定期的なシロシビン・セッションのおかげかと思う。自分に変化と学びをもたらしてくれる有形無形の存在の全てに感謝の気持ちで一杯である。フローニンゲン:2024/1/9(火)07:17


11804. 直接体験に基づく研究活動の大切さ


自分は兎にも角にも直接体験と紐づけた形で研究活動に従事したいのだという思いを強く持っていることに改めて気づいた。哲学・科学・神学を問わず、学問に打ち込む際には全て自らの直接体験を大切にするという姿勢を持ち続けたい。自然科学者であっても直接体験から出発することは重要である。なぜなら彼らが研究テーマを選ぶ際には彼ら自身の直接体験が基盤になっているし、研究手法の選択やデータの収集・解析方法の選択にも彼らの主観的な直接体験が根幹に横たわっているからである。ある意味全ての学者は、自らの直接体験に紐付く価値観や信念と無縁であることはできず、彼らの研究の着眼点と研究姿勢の背後には彼らの直接体験があるのだ。直接体験はそれぞれの人に固有のものであり、それゆえに固有の直接体験から出発した研究はユニークさを帯びることになる。逆に言えば、個人の直接体験を蔑ろにし、客観的という名の下に主観性を骨抜きにしてしまうと、研究は総じて当たり障りのないつまらないものになる。そこには固有性が滲み出してこないのである。そのような状態での研究はアカデミックの世界への貢献は希薄である。こうしたことを鑑みて、とにかく自分の研究活動では直接体験を大切にしたい。それは受け持つ講義でも同じである。コースのタイトルやコース説明にも、それこそ「サイケデリック体験」という言葉を入れることが望ましいだろう。先ほど書き留めた日記に続く形で、将来受け持つことを期待するコースのタイトルやその内容について自然と思いを馳せている自分がいた。「サイケデリック哲学・科学・神学」というコースは、そこにすでに「サイケデリック」という言葉が入っているので、近年のサイケデリック・ルネサンスの隆盛を受けて、多くの学生に関心を持ってもらえるだろう。一方、京都学派や井筒俊彦先生の思想を扱うコースを欧米の大学で受け持つとなった時に、「京都学派」「井筒俊彦」と言われてもピンと来ない学生が大多数であろう。なので、京都学派と井筒先生の意識論・形而上学・存在論の観点からサイケデリック体験を紐解いていくというような内容のコースとし、タイトルにも「サイケデリック体験」という言葉を入れようと思った。そうすれば、サイケデリクスに関心のある学生にコースを受講してもらうことにつながり、彼らがこれまで馴染みのなかった京都学派や井筒俊彦先生の思想と出会ってくれるきっかけになるだろう。


それらのコースを受け持つために、ここからの日々の読書の焦点はサイケデリクスに関する哲学・科学・神学を広く深く探究していくことに加え、京都学派と井筒先生の意識論・形而上学・存在論の理解を深めていくことを意識したい。今日の読書もそれに連なるものになる。フローニンゲン:2024/1/9(火)07:43


11805. 責任:個人の意識と普遍意識の観点より


時刻は午前9時を迎え、ようやく辺りが明るくなった。今日は雲ひとつない見事な空を拝むことができている。その天晴れな空を眺めながら、先ほど考えていたことを書き留めておきたいと思った。


これまで個人の意識を超えたトランスパーソナルな意識のことを「究極意識(ultimate consciousness)」や「絶対意識(absolute consciousness)」と呼んでいた。実際に意識哲学の分野や宗教学の中でそのような用語体系が用いられているから、その慣行に従ってそれらの言葉を用いていた。しかしそうした言葉よりも「普遍意識(universal consciousness)」という言葉の方がしっくりくるような感じがしたので、当面は普遍意識という言葉を使うことにした。


私たちの個人の意識は普遍意識の鏡である。私たちは普遍意識を共有していて、共有している意識の中で自分固有の意識が生まれる。一見するとそれは個人にだけ帰属しているように思えるかもしれないが、普遍意識からそれが生まれているゆえに、個人の意識であっても個人にだけ帰属するものではないということが見えてくる。私たちが他者の気持ちがわかるというのもそうした理由からなのだと思う。共感というものを突き詰めてみれば、「共意識」あるいは「共有意識」というものがあるからなのだろう。


そこから自らがこの世界に対して果たすべき責任について考えていた。現代を覆うとりわけハイパーオブジェクト的な問題は、確かに個人の手には負えないものである。しかしそれに対して虚無主義に陥るのではなく、個人の意識に映し出された問題へ関与することは諦めたくはない自分がいる。ハイパーオブジェクトの問題と言えど、個人としてその問題の一端やプロセスに関与することは可能なのである。それがどれだけの意味や影響があるのかについて考えてみると、それらはトランスパーソナルな問題ゆえに意味や影響は極めて小さなものかもしれないが、その小さなものが何かを動かす可能性を自分は諦めたくはない。現代社会においては問題がどんどん高度化し、複雑なものになっていく。そんな中で、個人の取り組みと関与には確かに限界があるし、その貢献は微々たるものであるが、自分の意識に映し出された普遍意識のある光景を無視するわけにはいかない。最終的には、自分の意識で捉えられた景色の実在性を認め、そこにそれぞれが真摯に関与していくということが未来の世代と社会に対して責任を果たすことなのではないかと思う。個人の意識と普遍意識の観点からそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/1/9(火)09:18


11806. 常に存在し続ける意識/井筒俊彦先生の英文書籍を購入して    


なるほど、意識が立ち現れるとか、意識が顕現するという表現はかなり大雑把なものであり、不正確さがそこに潜んでいると思った。意識について研究すればするだけ、そして意識の本質を探るべくサイケデリック実践を重ねれば重ねるだけ、意識というものが常に今この瞬間に存在し続けているものなだと思った。では何が立ち現れるかというと、それは意識の内容物であったり、気づきの意識としてのメタ認知などである。しかしそれは意識そのものではない。意識そのものは立ち現れるとか立ち現れないとかで表現できるものではなく、絶えず今ここにあり続けるものなのだ。なので夢を見ない深い眠りの意識においても意識は存在し続けているのである。そこでは意識に浮上する内容物はなく、また気づきの意識としてのメタ認知も生じていない。だがそうした状態であっても意識がないとするのはおかしなことであり、意識は常に存在し続けていると捉える方が正確な描写なのではないだろうか。意識の内容物や気づきの意識は立ち現れたり、立ち現れなかったりする。しかし意識そのものはそれらの二元的な極を超越した形で存在し続けているという立場を保持して考察を進めていこうと思う。


サイケデリック体験を日本思想の観点から紐解いていくに際して、京都学派を代表する思想家の英文書籍はもう随分と取り揃えた。京都学派の中でもまずは自分は西田幾多郎先生と西谷啓治先生の思想に注目していこうと思っている。2人の絶対無の思想はサイケデリック体験を紐解く上では欠かせないものであるし、意識の場所性を考えるにあたっては西田先生の場所の論理を押さえる必要がある。京都学派以外には、この20年ほど前に学生の頃に出会った井筒俊彦先生の思想を大切にしたい。井筒先生の日本語の全集はアラビア語の解説に関する最終巻を除けば全て持っているし、英文書籍についてもほぼ全て持っている。調査してみたところ、まだ持っていない書籍の中で最重要だと思われたのは、井筒先生が継続的に参加していたエラノス会議での学会発表をもとに執筆された種々の論文が収められた“The structure of oriental philosophy: Collected papers of the Eranos conference (vol.1)”と“The structure of oriental philosophy: Collected papers of the Eranos conference (vol.2)”という2冊の書籍である。それらをオランダ、ドイツ、イギリス、アメリカのアマゾンを通じて入手できないかと調べてみたところ、新品に関してはオランダのアマゾンが一番条件が良さそうであったので、早速それら2冊を注文することにした。個人的にはあと1冊、“Creation and the timeless order of things: Essays in Islamic mystical philosophy”という書籍も手元に置いておきたかったが、パキスタンからの郵送になるので、郵送代を含めて少し入手が困難なのが残念だ。この書籍についてはまた近い将来何かしらのタイミングで入手することになるだろう。そのようなことを思いながらふと日本のアマゾンを調べてみると、上記2冊は慶應大学出版から出版されていることもあり、日本のアマゾンで注文した方が郵送料を含めても安いことわかり、オランダのアマゾンではなく、日本のアマゾンを経由して注文しようと思った。少しずつ着実に自分のライフワーク必要な書物が揃っていくことに静かな喜びを感じる。フローニンゲン:2024/1/9(火)10:28


11807. バーナード・カストラップと井筒俊彦先生の意識論を架橋させる試みに向けて


とにかくここからの自分の学術研究は、広く多くの人との対話に開かれたものにしていきたいという思いから、英語空間で仕事を進めていく。英語であれば全世界の人の目に触れることができ、多くの人に開かれた形で対話が可能となる。サイケデリック研究を進めるに当たって、それを日本思想と絡める際にも、やはり日本語の文献を参照していては日本語を読めない研究者に対してフェアではなく、可能な限り英語文献を参照していきたい。幸いにも京都学派や井筒俊彦先生の書籍は英語のものも多く、それらを参照する形で論文を執筆していきたい。川面凡児先生の書籍については残念ながら日本語のものしかないので、仮に川面神道神学と絡めた論文を執筆する際には、その思想のエッセンスに絞って言及していきたいと思う。


先ほど日本のアマゾンから購入した井筒先生の2冊の書籍は、オンライン上にPDFとして無料で読むことができる。Kindleにせよ、PDFのような電子媒体は読みづらく、五感を刺激してくれないので、自分にとっては好ましくない読書形式である。真に知識を血肉化し、考察を深めていくためには、五感を最も刺激する紙媒体の書籍に限る。今後ホログラムの技術やヴァーチャルリアリティの技術が進化すればこのあたりの問題を解決することができるのかもしれないが、今のところ電子媒体と紙媒体では同じ内容であったとしても得られる情報量に雲泥の差がある。


そのようなことを思いながらも、書籍が到着する前に一度ざっとそれら2冊の書籍のPDFを眺めてみたところ、ここ数日再読を進めているバーナード・カストラップの意識論に関する主張と重なることを井筒先生が述べていることに注目した。これは嬉しい共通事項であり、カストラップは意識哲学(心の哲学)において、デイヴィッド・チャーマーズと同じぐらい注目されている哲学者であり、欧米での認知度はかなり高いので、彼の思想と井筒先生の思想を絡めてサイケデリック体験を論じていくのは得策かと思った。カストラップの思想体系そのもの、井筒先生の思想体系そのものを単独で理解を深めていくことも重要だが、両者を佳境することも常に意識してリサーチノートを執筆していこうと思う。そうすれば、両者を佳境させた論文の大枠が自ずから出来上がってくるであろう。フローニンゲン:2024/1/9(火)11:06


11808. 意識哲学への本格的な目覚め     


時刻はゆっくりと午後3時半に近づいている。世界はすでに夕暮れ時を感じさせる雰囲気を放っているが、雲ひとつないとても穏やかな世界を眺めているのがとても心地良い。


意識哲学への本格的な目覚め。それがここ最近起こった。これまでも「心の哲学」の分野を自分なりに探究していたが、心の哲学を越えて「意識哲学」という、マインドと意識を区別した上での意識の本質を探究していきたいという思いが日増しに強くなっている。これまでの自分の探究は、広義には全て意識に関することだった。成人発達理論にしても、インテグラル理論にしても、それは本質的には意識を扱うものであった。そこでの探究を下地にして、ここからはより学術的に厳格な形で意識研究を進めていきたい。科学を通じてではどうしても意識の機能的側面や意識の内容物に焦点が当たってしまうので、哲学を通じて探究を進めていく。具体的には、意識哲学に関する第一線級の学者の論考に絞って学術書や論文を読み込んでいくことが賢明だろう。ジャーナルに関しては、“Journal of Consciousness Studies”に掲載されている論文を今後全て読んでいくつもりである。このジャーナルに寄稿しているのはその道の第一線級の学者だろうから、大きな刺激と洞察を得られるに違いない。またいつか、こうしたジャーナルに自らも論文を寄稿したいと思う。


第一線級の学者以外の学術書や論文は自分の思考を曇らせてしまう。また感覚を鈍感なものにしてしまいかねない。明晰な思考と鋭敏な感覚を磨いていくためにも、意識哲学の最上級の学術書と論文だけに触れていくことを心掛けていく。


意識についてであれば、その場に書物やノートがなくても頭の中だけでいくらでも思索を進めることができる。様々な理論や概念を思い浮かべたり、思考実験をいつでもどこでも行える。また、サイケデリクスを通じて、自らの意識を用いた実験もできる。実験的かつ実践的なのが、サイケデリクスを通じた意識哲学の魅力である。さらには、サイケデリクスのみならず、ここ最近改めて力を入れて取り組んでいる瞑想実践もまた意識探究には欠かせない手段となるだろう。


ここからはまず、既存の意識哲学の研究でどのようなことが議論されており、どのような論点や争点があるのかを網羅的に理解していくことに努めたい。そして、未解決な問題に対して、なんとか自分なりの貢献をしたいと思う。そうした思いから、まずは意識哲学に関する網羅系の優れた入門書を読み進めていく。それはちょうど明日からの「インテグラル・サイケデリックラジオ」でも取り上げていく予定だ。網羅系の書籍を数冊ほど並行して読み進める中で、デイヴィッド・チャーマーズやバーナードド・カストラップなどの意識論を押さえていき、それに加えて自分なりの独自な貢献になるであろう京都学派や井筒俊彦先生の意識論を深く学んでいくことを行いたい。2024年に入ってからも引き続き自分の探究が加速していくのを実感してとても嬉しく思う。フローニンゲン:2024/1/9(火)15:26

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