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【サイケデリック学探究記】11756-11764:2024年1月3日(水)



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成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスやその他のテーマについてお話しさせていただくチャンネル「インテグラル・サイケデリックラジオ」はこちらからご視聴いただけます。

タイトル一覧

11756. 翻訳書の出版を控えて/今日の活動予定

11757. 今朝方の夢

11758. 絶対無と創作活動/殺生の表裏一体性に気づいて

11759. 今朝方の夢の続き

11760. コーヒーの良き香りから井筒俊彦先生へ

11761. 日本思想という三番目の神との出会い

11762. 三項思考への意識/空(くう)と霊/三昧の存在論

11763. 意味の変化と存在の変化/量子意識・量子ヒーリング/ディーパック・チョプラとサイケデリクスとの関係性

11764. 共時性と同時性に満たされた磁場で生きるために


11756. 翻訳書の出版を控えて/今日の活動予定 


時刻は午前4時を迎えた。今、暖房が入っている音だけではなく、外では強風が吹き荒れていて、その轟音が聞こえてくる。今日は特に外出する予定もないが、夕方まで強風が続くようだ。今夜からいよいよフローニンゲンはまた冬らしくなる。今年はこれまでのところ、11月末にかなり寒い1週間があったが、それ以降は比較的暖かく、どこか拍子抜けしてしまうとことがあった。しかし、明日からは最高気温が0度近くになり、最低気温もマイナスの日が出てくる。それくらいの方がフローニンゲンの冬らしいので嬉しく思う。仮に来年からアメリカでまた生活を始めるとなると、今回の冬がフローニンゲンで過ごす最後の冬になるので、フローニンゲンらしい冬を最後に味わっておきたいという思いがある。


昨年の夏にトランスヒューマニズムに関する英文書籍の翻訳を終え、原稿は完成しているが、そこからプロジェクトを一旦保留にさせてもらい、サイケデリクスの研究と実践に専念することにした。いつかその原稿がまた陽を浴びて書籍として世に出ることを望むが、今はそのタイミングではないのだろう。その代わりに、10年前に翻訳をしたオットー・ラスキー博士の書籍の翻訳が2月末か3月に出版されることになった。昨日もそのやり取りを監訳者の中土井遼さんと編集者の方と行っていた。10年前にすでに翻訳を済ませていたこともあり、こちらとしてはやることはあまりなく、ゲラの確認だけで済んだのはとても有り難かった。自分はもう成人発達理論を直接的に活用した仕事に従事することはないだろうが、本書の反応を含め、書店に並ぶ日が待ち遠しい。


さて今日もまた午前中は読書に励みたいと思う。午後からは年初最初の「インテグラル・サイケデリックラジオ」の収録がある。新年最初のラジオがどのような展開をみせ、そこで生まれるものから何を学ぶのかがとても楽しみである。ラジオはその1週間までの学びを振り返る意味でも非常に大切な役割を担っているし、その瞬間の自分の関心や考えを共有する最良の場になっている。今年もこのラジオを通じて英気を養い、大いに飛躍していきたいと思う。ラジオの収録を終えたら部屋の掃除をし、そこから夕食準備の時間まで再び読書に没頭する。今日の読書では、西谷啓治や西田幾多郎の書籍をまず再読し、そこからサイケデリクスの法規制に関する書籍を何冊か再読しておこうと思う。前者に関しては今年の学術論文執筆のため、後者に関しては今年の大企業との協働のためと位置付けている。フローニンゲン:2024/1/3(水)04:26


11757. 今朝方の夢


今日は本当に朝から風が強い。先ほどもけたたましい音の風が鳴り響き、家が少し揺れるかのようだった。それくらいに強い風が吹いている。そんな中、今朝方の夢について振り返りをしておこうと思う。


夢の中で私は、日本で通っていた母校の大学にいた。ゼミの友人とゼミが行われた部屋で少し話をした後にそこを離れると、ふと後輩とのミーティングの約束があったことを思い出した。数人の後輩が勉強会をしたいと述べていて、最初の数回を自分のレクチャーに当てたいと依頼を受けていたのである。私はその依頼を引き受け、最初は成長について取り上げるのが良いだろうということで、成人発達理論に関するレクチャーをすることになっていた。しかし私はもはや成人発達理論に関するレクチャーをすることに乗り気ではなく、後輩たちのためを思ってそれを引き受けたという背景がある。


ミーティングが行われる教室に到着すると、すでに数人の後輩がいて、挨拶をしてくれた。いざミーティングが始まり、自分が担当する最初の6回分のコンテンツは確定した。その後の回をどうするかについて話し合いを始めたときに、ある後輩が名乗りを挙げ、彼が担当することになった。彼は日本の由緒正しきある有名な神社についてレクチャーをしたいと述べ、うちの大学の学生にしては変わった関心を持つなと思った。彼が手に持っていたのは学術書に定評のあるルートリッジ出版の学術書で、中身を見せてもらうと、なんと英語ではなく日本で書かれた漫画だったので驚いた。しかし漫画とは言えど、さすがルートリッジ出版の書籍で、内容的には非常に濃く、それで何回分かのレクチャーが行えてしまうと思った。ところが彼はホワイトボードを前にして、コンテンツの内容を考え出すことに苦戦しているようだったので、少し手助けをした。こちらからいくつか質問をすることによって、その質問と回答をコンテンツにする方向性に落ち着いた。彼の話の中で「ラビ」というユダヤ教に関するキーワードが出ていたので、ユダヤ教と神社を絡めたり、ユダヤ教と神道を比較するような観点を持ってみることも勧めた。


彼のコンテンツ案が無事に固まると、部屋の扉が開いた。そこには成人発達理論に精通しているある知人の方が立っていて、ニコニコしながら部屋に入ってきた。とてもご機嫌の様子だったので、何か良いことでもあったのかなと思っていたが、どうやら後輩のような若者たちが成人発達理論に関心を持って勉強会を立ち上げたことをその方は嬉しく思っているようだった。そこからはその方にも加わっていただく形でミーティングを進めた。その方は私の後ろの席に座り、その部屋には窓らしい窓はなく、部屋は高層階だったので窓がないのだろうと思ったが、実は窓はちゃんとあって、少しだけ開閉できるようになっていた。その方は窓を少し開けて新鮮な空気を部屋に取り入れた。そこからはその方を交えて、フレッシュな意見交換をしながらコンテンツの内容を固めていった。その際に、その方の知人をお呼びする形で、その人が研究している内容に対して建設的な批判を加える回を設けるのはどうかといたずら好きな表情でニコニコしながら提案していたのが印象的だった。フローニンゲン:2024/1/3(水)04:43


11758. 絶対無と創作活動/殺生の表裏一体性に気づいて

 

毎朝の日課である呼吸法とアニマルフローの実践は本当に心地良い。それを通じて身体が活性化され、精神が大いに活性化される。日々が充実したものになっている1つの要因として、朝のこの日課があることを忘れたくない。アニマルフローで体を動かした後は、お決まりのカカオヘンプドリンクを作り、それを飲みながら創作活動に励むというのが流れである。先ほどは、まさに昨日の日記で書き留めていたように、マインドフルではなくマインドレスの状態で創作活動に取り組めていた。頭を空っぽにした状態でデジタル絵画を描き、作曲をしている自分がいた。それは意図的にそうしたのではなく、創作活動と向き合うと自然にマインドレスの状態になるのが興味深い。創作活動とは自分にとって、絶対無へ至る窓なのだろう。創作活動をひとたび始めようとする意志が芽生えると、それ以降は意志は消え、自分は絶対無と化す。おそらくこの感覚がたまらなく生きた心地を味わわせてくれるがゆえに自分は人知れず創作活動に打ち込んでいるのだろう。興味深いのは、深い生きた心地というのは、自分が何者かである実感ではなく、何者でもなく絶対無を感じる瞬間に生じるものなのではないかということである。おそらくそのような形を通過しない生きた心地というのは、多分にエゴが混入したものかと思う。そうした生きた心地を否定している訳ではなく、ただそれよりも深い生きた心地があるということを自分は知ってしまったのである。今後もこのマインドレスを通じた絶対無の意識状態の中で創作活動を続けていきたいと思う。そこに深淵な生きた心地が充満している。


この話題に付随して、シロシビン・マッシュルームを育てることの背後にある殺生の表裏一体性について考えていた。育てることと殺すことは、コインの裏と表の関係なのかもしれない。例えば、生花もまた「花を生かす」という言葉を当てながら、実際のところは花を切って花を殺しているのである。だが興味深いことに、それが花を生かすことにつながるという発想がそこにある。花を切った時に広がる良い香りは死の香りと考えられているらしく、あれは生きていることを象徴する香りではないのだ。ここに日本人の美意識の面白さを見出す。日本人の美意識と自らのサイケデリック体験を絡めてみると、また何か新しい発見があるに違いない。ちょうど昨日読み返していた日本思想に関する学術書にも日本人の美意識に関する論文が収められていたので、またそれを読み返してみよう。今栽培4周目を迎えたシロシビン・マッシュルームも、最終的には殺すことを通じて自分の内側に取り入れられる。いや、ここでふと思ったのは、自分は生→殺→生の超越的な生の形でマッシュルームを摂取していると思ったのである。生花の発想もまた、前超の虚偽を越えて、超越的な生の形で花をそこに在らしめているのではないかと思った。少なくとも自分がマッシュルームを摂取する際には、生きた状態から確かに外見上は収穫と摂取という殺の形式を辿るが、それは命を殺しているわけでは決してなく、命は絶えず生きたまま自分の内側に入り込み、自らの命と1つになると思ったのである。生花も、切り取られた花を見てそれが死んでいるとは誰も思わないはずである。少なくとも深い美意識がある人は、そこにある花の命の動きを見て取れるはずであり、そこでもまた外形上は殺の形式を辿りながらも、花の命は絶えずそこに息吹き続けているのである。この気づきは自分にとって大きなもので、次回のシロシビン・セッションの際には、シロシビン・マッシュルームの命と自らの命が1つになるという感覚を大切にしたいと思うし、この感覚をさらに育んでいきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/3(水)05:41


11759. 今朝方の夢の続き     


外は引き続き風の轟音が聞こえる。室内においては暖房が自動で入っている音が聞こえ、パソコンからは波の自然音が聞こえてくる。こうした種々の音に囲まれていると、自分が1人ではないという感覚が静かに立ち上がってくる。


朝の読書に取り掛かる前に、今朝方の夢の続きについて振り返っておきたい。先日のシロシビン・セッションで直接体験を得たように、夢の世界が現実世界と調和的統合をようやく果たし始めているのだから、その流れを停滞させないためにも、夢について振り返れるだけ振り返っていく。そうすれば夢の世界が拡張され、その拡張された夢の世界が現実世界に流れ込んでいる形で現実世界の自分の意識が拡張していくだろう。まだまだ自分の意識はこれから広がり、深まりを見せていく。無限縮小と無限拡大の2つのベクトルを意識して、意識をいずれの方向にも極限まで辿り着かせてみたい。


夢の中で私は、日本で卒業した大学の近くのカフェにいた。カフェの2階からぼんやりと窓の外を眺めていた。行き交う人たちと大通りの木々を眺めていると、そろそろ自宅に帰ろうと思った。自宅に帰る際に途中でスーパーに立ち寄って昼食を購入しようと思った。カフェを後にし、スーパーに向かい、行きつけのスーパーの中に入ると、店内はいつも以上に明るく感じられた。ちょうど昼食時のセールをしていて、いくつかの食べ物が割引になっていた。ちょうど自分が食べたいものがことごとく割引になっていたのでラッキーだなと思い、3つほど美味しそうな食材を購入することにした。3つ合わせてもわずか241円ほどで、日本の物価は本当に安いなと思い、逆にそれで経済は果たして本当に大丈夫かと少し心配になった。一消費者としてのミクロ経済学的な観点と一国全体としてのマクロ経済学的な観点は必ずしも一致するとは限らず、一消費者として嬉しい日本の物価の安さは、国全体で見ると経済的競争力のなさの現れではないかと思ったのである。そのようなことを考えながらレジで買い物を済ませた。


外に出て少し歩いたところで水が飲みたくなり、ペットボトルの水を購入するために近くのコンビニに入った。するとそこで偶然にも小中高時代の親友(NK)と出会い、彼と少しそこで立ち話をした。お互いに必要なものを持ってレジに行くと、レジで会計をしている小柄な男性がレジの若い店員と何やら話をしていた。話に耳を傾けて見ると、その男性があるドラッグを試そうと思っているらしく、レジの店員は様々なドラッグ体験をしている経験者のようで、その男性は店員から助言を得ているようだった。しかしその男性の話す内容を聞いていると、ドラッグに関する知識がほとんどなく、彼が試そうと思っているのはサイケデリクスではなく、かなり危険な新種のハードドラッグで、どうしたものかと思った。自分からも助言をした方が良いかと思ったところで、店員の男性がちゃんとそのドラッグの危険性について指摘してくれたのでホッとした。しかしあろうことかその男性はその助言に聞く耳を持っておらず、彼は何のために助言を求めていたのかと思った。どうやら、彼は適切な知識についての助言を求めていたのではなく、自分が摂取しようとする危険なドラッグに都合の良い情報だけを求めていたようだと気付かされた。こうした在り方をドラッグに対して持っている人はきっと世の中無数にいるだろうなと思い、今目の前で目撃しているミクロなケースを一刻全体のマクロなケースとして取り上げた場合に、自分に何ができるのかを考えながらコンビニを後にした。フローニンゲン:2024/1/3(水)06:07


11760. コーヒーの良き香りから井筒俊彦先生へ


静けさに満たされた早朝の世界。その世界に佇んでいると、自然と自分の心も満たされていく。外の世界は依然として闇で満たされていて、それが心の世界を光で満たしてくれる。日の出まであと2時間ほどある。そんな中で先ほどモーニングコーヒーを淹れた。モーニングコーヒーを淹れる最中の意識状態はやはり特殊なのだろうか。コーヒーの良い香りに誘われる形で特殊な意識状態となり、ここからの研究についてまた方向性が少し明確になった。引き続き細々とではあるが、着実に川面凡児先生の神道神学の探究をしながらも、その探究の成果を論文の形にするのはしばらく温存しておき、その代わりに日本思想との関係性でサイケデリック研究を進め、論文を執筆していく方向性については昨日の日記で書き留めていたかと思う。日本思想の中でもとりわけ自分は西田幾多郎先生と西谷啓治先生の仕事に注目しており、彼らの思想を通じて自身のサイケデリック体験を紐解いていきたいと思っている。さらに時代を遡れば、空海の思想もぜひ採用したいところであり、空海の思想の研究に向けても優れた英文書籍を既に何冊が見つけたので、それらを購入して読み進めていきたいと思う。


そして先ほど閃いたのは、改めて自分の原点でもある井筒俊彦先生の仕事に立ち返ろうというものだった。井筒先生の意識論には本当にこれまで深く啓発され続けており、折を見て先生の全集を読み返していた。また、英文でしか出版されていない井筒先生の書籍も全て手元にあり、日本語の全集と英文書籍を駆使して、自らのサイケデリック体験を井筒先生の意識論から紐解いていく形で論文を執筆することも是非とも行いたいと先ほど思ったのである。実際にこの思いが言葉になったのは今この瞬間だが、以前からその潜在的な思いがあったようで、書斎の机の上には井筒先生が執筆した英文書籍が数冊ほど置かれた状態になっていた。その時の自分は、いつか井筒先生の書籍を通じて論文を執筆することを予感していたのかもしれない。まずは井筒先生が展開する仏教の意識論を軸にし、そこからはイスラム神秘主義の意識論も採用する形で自分のサイケデリック体験を紐いていければと思う。自分の学術研究も結局は自己を理解し、自分を取り巻くリアリティを理解するためなのだとつくづく思う。学術研究が実践であるというのはまさにそれゆえなのだ。自己を広く深く理解し、自己を取り巻く世界について理解を深めていく実践として学術研究があり、その成果を論文にしていくこともまた誰かへの貢献としての実践なのである。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/1/3(水)06:31


11761. 日本思想という三番目の神との出会い      


見落としていた三者関係。それにはたと気付かされた。これまでの自分は迷いの中で東西の思想を行ったり来たりする形で自分の思索を小さく小さく進めてきた。それが本当に深まってきたのかはわからないところがあるが、とにかく西洋と東洋の思想を往復する中で、何かをつかもうと必死であった。何かを理解したいと常に必死だった。その何かは既に変数から定数に変わり、それは自己と世界だったのだと気づいたのは最近になってのこととだった。自己を裏観すれば霊であり、世界を裏観すれば宇宙と言える。自分は自己と世界、霊と宇宙について理解をしたいとただそれだけを望んでこれまで生きてきたのである。そんな中で、自分はこれまであまり自らの出自である日本思想について関心を持ってこなかった。というよりも、日本思想は東洋思想に括られるものと無意識的に思っていたのである。あるいは、「日本には思想などはない」という言説に飲み込まれ、日本思想を顕在化させることに至っていなかった自分がいる。しかしながら、今ようやく日本思想というものがありありと固有の輝きを放って凛として存在しているとわかったのである。それは大雑把な分類上は東洋思想に括られるのかもしれないが、地理上においても実は日本は辺境に位置し、西洋でも東洋でもないユニークな場所に位置しているのではないかとゼミの受講生からかつて指摘を受けたことがあった。そのことを思い出してみたとき、安易に日本思想を東洋思想の中に包摂してはならないという考えが芽生え、日本思想の独自性に注目し、独自な位置付けをしてみたところ、なんとそれがまさに日本思想の根元にある縄文時代から続く「和」の発想をもとに、西洋思想と東洋思想という2項に加わる新たな項として存在が現れ、それら2項を媒介・交流させる働きをするのではないかと直感的に気づいたのである。


これまでの自分の中での苦難は、西洋思想を学んでいても、東洋思想を学んでいても、それらに根付く奥深さに心を打たれ、発見と考察の深まりの喜びに浸りながらも、それらの思想を自分の身体の奥底、あるいは魂や霊の次元で何か掴み損ねているような感じがしていたことである。また、それらの思想を自らの知性が使いこなせていないという違和感がずっとあり、それを隠し続けてこれまで生きてきた。そうした違和感に蓋をし続ける形で生きなければならないという過酷さの中で、何か閾値を越えたかのようにして我が国に太古から根付く日本思想との邂逅があったのである。そうした深層的な出会いに至るまで欧米での12年間の生活を要した。己を知り、世界を知るという探究というのは、本当に長大な時間を要するプロセスである。こうして欧米での12年間の月日を要して出会った日本思想は、探究の始まりを告げるものに過ぎない。12年間かけてようやく探究が始まったのではないかと言えるほどだ。探究のゼロポイントの到達。


これまでも確かに探究活動をしていたことは確かであろうから、探究の次元が変わり、新たな次元での探究がようやく始まったと述べた方が正確だろうか。いずれにせよ、古事記の三神構造にあるように、日本思想は西洋思想と東洋思想という二神を媒介し、交流を深めるための神だったのである。ようやく、本当にようやくそれら三神を通じた自己と世界、霊と宇宙の探究が始まる。この始まりに震える喜びを感じている。自らの魂と霊の歓喜する雄叫びが聞こえてくる。世界全体がその鳴り響く雄叫びと化している。フローニンゲン:2024/1/3(水)07:21


11762. 三項思考への意識/空(くう)と霊/三昧の存在論 


表観、裏観、表裏合観にあるように、全事物をそれら3つの観点で捉えていくことに加えて、先ほど書き留めていた三神構造の観点、すなわち絶えず事物に対して三項関係を捉えていくという発想の枠組みを意識してみたい。二項関係で議論されている事象に対しても、実は背後に三項目がきっと存在しているはずであり、仮に二項が対立を生じさせているのであれば、その三項目が対立解消の鍵を握ると思うのだ。なるほど、自分の師匠である発達心理学者かつ哲学者のオットー・ラスキー博士が常々述べていた弁証法思考の真髄はそれなのだろう。すなわち、全ての事象に暗在している三項目を見出すことが弁証法思考の本質なのであり、それができて初めて対立解消や思考の飛躍が実現するのではないかと思う。三項目を見出すことと三項関係を見出すこと。それをここから絶えず意識してみよう。


早朝より読書を通じて考察を深めていきながら、それと同時に、必要な書籍をリストアップしていく作業が続いている。昨年の夏の300冊ほどのサイケデリクス関係の書籍に加え、意識と宇宙とサイケデリクスの三位一体を研究するために、そこからさらに年末にかけて100冊ぐらいの学術書を追加で購入していた。新年を迎えてもまだまだ必要かつ読みたい書籍が見つかり、今30冊ほどさらに追加で書籍をリストアップしている。


先ほどの読書の中で、西谷啓治が「空という場所の中心はどこにでもある」という趣旨の言葉を残しており、とても興味深く思った。まさにサイケデリック体験中に得られる非二元的絶対無を通じた空の体得は、自らの空の場所の中心を感じるような体験として捉えることができると思ったのである。あれは自己の空の中心を体験していたのだという実感。さらには、それは霊の発見でもあると思った。おそらく存在論的には、空の中心と霊のありかは重なるのではないかと思う。空の中心に霊が存在し、霊が宿る場所が空の中心なのである。さらにそれを言い換えれば、空の中心は霊であり、霊は空なのである。霊は自己の存在可能性の全てを内包しており、そこから世界が湧出する。湧出の起点であるのと同時に、世界の収束の終点でもある。湧出と帰入の双方を司るのが霊であり、空の中心なのだ。そのようなことを考えていた。


そこから三昧の存在論について考えていた。それは光を蔵する場所的状態である。どうやら内的宇宙には光が満ち満ちていることに加え、その光の根源が宿る場所が存在しているようなのだ。前回のシロシビン・セッションではまさに絶えず三昧の状態が続いていた。そこでは自分は大いなる光に包まれ、光と化していた。その状態の中では自我が溶解しており、煩悩の火が完全に消滅していた。ゆえにその状態は涅槃参入の状態でもあった。その状態において自己の霊は、不生不滅を実感していた。フローニンゲン:2024/1/3(水)08:28


11763. 意味の変化と存在の変化/量子意識・量子ヒーリング/

ディーパック・チョプラと サイケデリクスとの関係性


物理学者のデイビッド・ボームはかつて、「意味の変化は存在の変化である」と述べた。日々絶えずこうして日記を綴りながら新たな意味を見出し、意味を更新し続けている自己の存在は絶えず変化していることを確かに実感する。ボームの慧眼には思わず唸らされる。体系的なサイケデリック実践を通じて、意味の変容は加速するばかりである。それは自己の存在の変容を加速させてもいる。それをここ最近は本当に強く実感しており、意味の変容と存在の変容が足並みを揃えて実現していることが人生の進展を促していると感じる。人生はどこまでも進み、どこまでも伸びていく光のようである。


幾分ビッグワードに響くが、サイケデリック研究に紐づく形で、「量子意識」や「量子ヒーリング」の探究も進めている。いずれの分野においても、ディーパック・チョプラは有名な識者である。彼の代替医療的発想はニューエイジ的でもあるので、彼の仕事を好まない人もいるかもしれないが、チョプラが述べていることの中にはいくつも大切な考え方がある。今改めて手元にある彼の書籍を読み返しているのだが、サイケデリック体験ではまさに量子意識と呼ばざるを得ないような知覚体験がなされるし、サイケデリクスを通じて不治の病と呼ばれていたものが突然治ったりする現象は、それが量子レベルでの働きかけをしているからだと思われる。まさにそこでは量子ヒーリングと呼ばれる現象が起きているのだ。対処療法的ではなく、根本的な治癒は常に量子ヒーリングであるというのがチョプラの発想で、自分はその考えに賛同している。量子の次元までアクセスして、そこで問題解決をして初めて治癒が完結するというのは、これまでのサイケデリック体験から得られる洞察と合致する。こうした量子意識や量子ヒーリングについて研究していると、私たちの言葉が深層的な次元で、すなわち量子的な次元で何かしらの働きをしているという仮説が立つが、その仮説は実は既に何人もの哲学者や量子物理学者が指摘していることでもある。言霊学を探究したり、古代縄文時代あるいはそれ以前からあったとされる神代文字の研究をしているのも、言葉の量子次元での作用を知るためである。またそれを自分や他者の治癒に役立てるという実践的な目的でも研究を進めている。


チョプラとサイケデリクスの関係性について調べていると、チョプラはなんと自身が設立したチョプラ財団を通じて、シロシビンを用いた医薬会社のサイビン(Cybin)へ研究サポートをしていることを知った。そこからチョプラとサイビンの会社の役員との対談動画を視聴してみることにした。こうして自らの関心はどんどんと派生的に広がり、派生的につながりを見せていき、未だかつて見えていなかった人間の意識の性質と治癒の秘密が解き明かされていくだろう。フローニンゲン:2024/1/3(水)09:55


11764. 共時性と同時性に満たされた磁場で生きるために


時刻は午後4時を迎えた。今、ゆっくりと日が落ち始めていて、今日もまた充実した1日だったと振り返って思う。今日は午後に、新年最初の「インテグラル・サイケデリックラジオ」の収録があり、今日もまた実りの多い時間を過ごさせてもらった。本編では有り難いことに、自分の大晦日の第23回のシロシビン・セッションの体験についてシェアをさせてもらうことができた。体験を自ら語ることで気づかされることやさらに考えを深めていきたい箇所が次々と顕在化していき、今後のセッションに向けての研究運動・実践運動がまた新たに動き出した感じであった。言葉を発するということ、言霊を発するということにはそのような生成の働きがあると再確認した次第である。


振り返りのセッションで話題に挙がった「存在を空っぽにする」というのは本当に重要なテーマだと思う。それは昨日に「マインドレスネス」の重要さについて書き留めていたこととも合致する。人間には欲望があり、常に何かを求めて自己の存在を満たそうとするが、それを手放し、あえて逆の方向に向かっていく形で存在を空にすることで新たなものを創造していく道を昨日と今朝方に考えていたところだった。そうしたことも踏まえ、今日のラジオでも随所に早田航さんとのシンクロナイゼーションやシンクロニシティを感じた次第である。心に浮かんだことが現実世界で具体的な事象として生じること。そうしたシンクロニシティがどんどんと連鎖的に発生している磁場がこのラジオに形成されている。そして、毎週末のゼミにもそうした磁場が掲載されていることを思う。シンクロナイゼーションは共時性と訳され、シンクロニシティは同時性と訳されることが多い。共時性と同時性に満たされた磁場の中で日々を過ごしていくことが2024年はさらに色濃くなっていくのではないかと思う。それらに満たされた磁場で生きるためには、逆説的に当の本人は空である必要がある。自らが空であるゆえに共時性と同時性に満たされた磁場に佇むことができるのではないかと思う。おそらく自分が雑念や欲望などで満たされていると、共時性と同時性が入っていくる余地がなく、それを体験することが難しくなってしまうのではないかと考えている。そうしたことも踏まえて、今年は自己をできるだけ絶対無の状態に保ち、空を保持しながらいかなる存在とも合一できるようにし、そこから多様なものを生み出していきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/3(水)16:19


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