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タイトル一覧
11738. 第23回のシロシビン・セッションを終えた形で新年を迎えて
11739. 新年最初の夢
11740. 意識と光に関する研究に向けて
11741. 大乗仏教の瑜伽行唯識学派の意識論と量子物理学/光・波・確率・意識と偶然性
11742. 見る者・見られるもの・見ること/『古事記』と昨日のシロシビン・セッション
11743. 不完全性を内在させた完全性/釈迦と親鸞の教えとサイケデリクス
11744. 型の習得と実践/古神道とサイケデリクスの往還
11745. 昨日のシロシビン・セッションで与えられた宿題である霊と光について
11746. 新年最初のトレーニングを終えて
11747. 徹頭徹尾の内観/光明三昧/出発と帰入/光と虹
11738. 第23回のシロシビン・セッションを終えた形で新年を迎えて
時刻は午前5時半を迎えようとしている。先ほど、こんな朝早くの時間だが、爆竹が数発上がった。昨日も午後9時前に就寝したのだが、ちょうど新年を迎えた午前0時のタイミングで、フローニンゲン市が毎年行っている盛大な花火が打ち上げられた。そこで一度目覚め、少しだけ花火を眺め、そこからはまたベッドに戻って花火の音だけを楽しんでいた。時間にして10分ぐらいの盛大な花火であった。
シロシビン・セッションから一夜が明け、年もまた1つ変わった。年変わりのタイミングでシロシビン・セッションを行えたことも何かの縁だろうか。今もまた昨日のセッションでかけていた宇宙を題材にした音楽を流している。やはり音楽の力は偉大であり、昨日のセッションがあれだけ深いものになったのもこの音楽の力によるところが大きい。年明け最初のセッションもまた引き続きこの曲をかけたいと思う。自然音のプレイリストは次々回に試すことにする。昨日のセッションは、セット・セッティング・服用量のいずれもが望ましいものであり、セッションを積み重ねながらリフレクションを継続していたこともまた体験の深みに影響していたように思う。何よりも、シロシビン・マッシュルームを摂取する際にはシロシビンが死んでいないかが重要であることを再確認できたことも大きい。乾燥させる際には完全乾燥させる必要があり、乾燥できたと思って蓋を開けてみると、青く変色して湿気ている場合もある。その場合にはもうそのマッシュルームは鮮度が落ちていて、それを摂取しても深い体験に入っていくことは難しい。こうした小さな発見を地道に見つけていきながら、少しずつシロシビン・セッションを行うスキルが高まっているのを実感する。サイケデリック実践もまた1つの知性領域であり、スキル領域なのであるから、試行錯誤と内省によってそれにまつわる知性も技術も伸びていくのは当たり前と言えば当たり前だが、それを明確に知性・スキル領域と捉えることによって、着実にその領域に付随する知性とスキルを伸ばしていこうという意欲が生まれる。
昨日のセッションから得られた最大の事柄は、私たちの存在は霊であり、光であって、無限の可能世界の中に偶然的必然性によって誕生した存在なのだということである。また、私たちが出会う時、そこには霊の交流と光の交流がある点も重要な学びであった。生きとし生けるもの全てが霊であり、光であり、非生命的物質にもまた霊があり、光があるのだ。この宇宙は霊と光でできているということ。それを絶えず心に留めながら2024年を充実した形で過ごしていきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/1(月)05:39
11739. 新年最初の夢
時刻は午前6時を迎え、今再び花火がどこかで上がった。いよいよ今日からは2024年という新たな年であり、今年はきっと自分にとっての大きな飛躍の年になるだろう。そんな予感がする。
昨日のシロシビン・セッションを終えて、新年最初に見ていたのは下記のような夢だった。
夢の中で私は、外国の見慣れない街の駅構内にいた。その駅はとても整備されていて、大変広かった。そこは確かに外国なのだが、日本の新幹線も走っていて不思議に思った。ついに地球から国境線が撤廃され、日本と欧米の間の鉄道網が整備されたのかと思った。駅の中にはなんと立派なコンサートホールがあり、試しに覗いてみた。ちょうど演奏が始まる前だったので席に腰かけると、そこから盛大な演奏が始まった。自分の前に座っていた日本人女性が偶然にもピアノ奏者で、彼女がこれから演奏することになっていた。すると後ろに座っていた日本人男性が私とその女性に声を掛けてきた。そこでお互いに自己紹介することになり、そこで驚いたのは、そのピアニストの女性が自分と同じ日本の大学を卒業していたことである。何やら彼女は在学中には管弦楽団に所属していたらしく、ピアノの腕前はプロ級とのことであった。メガネをかけて優しげな表情を浮かべている彼女の芯には強い心があって、知性と心の強さの双方を感じられた。いざ彼女が席を立って壇上に向かっていく際に、自分も席を離れた。そう言えば、自分も音楽の課題を出されていたことを思い出したのである。具体的には、その駅の中の音楽学校の試験を受けなければならず、その試験の課題曲がハイドンのもので、楽器はピアノではなくハープシコードを演奏することが求められていた。ピアノを習ったことのない自分がハープシコードをいきなり演奏することができるだろうかと思ったが、つべこべ言わずにまずは試してみようと思い、課題曲の楽譜をもらいに向かった。駅構内の音楽学校に到着すると、そこには駅員の男性がいて、その男性が楽譜集を渡してくれた。当初予想していたのは、課題曲の楽譜だけか、それが収められた1冊の楽譜集だったのだが、なんと10冊近く楽譜集を渡された。そんなに大量の楽譜集をもらっても困ると思ったし、果たしてこれは無料なのだろうかと思った。どうやら気前よく無料で配布しているらしく、この音楽学校の太っ腹さには驚かされた。そこから私は知り合いと一緒に練習するか、それとも1人で練習するかを考えたときに、試験まで時間がないので1人で黙々と練習した方がいいと思った。なので早速ハープシコードが置かれている教室に向かった。そのような夢を見ていた。
確かこの夢の後半には、結局試験は後日に延期され、そこから新幹線に乗って自宅に帰ろうとしている場面もあったように思う。駅構内が如何せんとても広かったので、スマホで地図を開き、GPS表示を確認しながら列車の乗り場に向かったのを覚えている。また、途中で駅員にチケットの購入方法を尋ねている場面もあった。2024年に見た最初の夢は、音楽と駅に関するものだった。人生が宇宙の音楽に乗って、新たな駅を通過していくイメージが脳裏に浮かぶ。フローニンゲン:2024/1/1(月)06:24
11740. 意識と光に関する研究に向けて
昨日のシロシビン・セッションを受けて、マインドと量子の関係はどのようになっているのだろうかと気になった。また、意識と光の関係性についても探究を深めたい。そもそも光に関して言えば、セッション中のピーク体験においては白い光を知覚することがよくあり、昨日も白と明確に表現するのは難しいが、光に包まれ、光と化す体験があったのを覚えている。こうした意識と光に関する研究も哲学・科学・神学の三位一体を総動員していく必要があるだろう。いずれか1つでは完全に片手落ちである。三位一体でアプローチをしても見えないものがまだまだあるはずなのだから、たった1つのアプローチだけを採用して満足することがないようにしたいものだ。個人の意識は表観すれば光、裏観すれば霊と見えるだろうか。そこで見られる対象となっている意識は光も霊も超えた存在なのだろうか。意識の謎は深まるばかりである。しかしながら、体系だったシロシビン・セッションを少しずつ継続する中で、徐々に意識の深層的性質が見え始めているのも確かだ。それは牛歩の歩みではあるが、着実に意識とは何かの断片が集まり始めている。
光であり、霊であり、宇宙そのものである意識。意識の謎の解明に向けて今日もまた探究活動を進めていく。日々の地道な探究活動がシロシビン・セッションを地に足の着いたものにさせてくれる。学術研究は自分にとって最良のグラウンディングエクササイズなのである。学術機関に戻って論文を書いたり、教鞭をとったりするようになれば、尚更それはグラウンディング活動になるだろう。そうした地に足を着ける実践を絶えず行いながら、何ものにも囚われることなく望むだけ天につながるシロシビン・セッションという実践道を歩んでいく。
仏教の意識論は本当に天晴れである。西洋の心の哲学を凌ぐような詳細な分析が意識に対してなされている。それを受けて、神道の意識論の独自な貢献にはどのようなものがあるかを精査していきたいと思う。川面凡児先生を含め、幾人かの神道神秘家の意識論は本当に深く参照したいと思う。神道神秘家についてはどこまで遡るかが悩ましいが、2022年に秋田に訪れ、墓参りをした平田篤胤や、中世の神道を切り開いた吉田兼倶などの神道思想にも手を広げて探究をしていくかもしれない。吉田兼倶が説いた唯一神道では、「人に在りては心と云うは神なり」という発想のもとで神道の思想が展開されていく。これはどことなく大乗仏教の瑜伽行唯識学派の意識論とつながるものがありそうである。フローニンゲン:2024/1/1(月)07:28
11741. 大乗仏教の瑜伽行唯識学派の意識論と量子物理学/光・波・確率・意識と偶然性
今、新年最初の書籍として大乗仏教の瑜伽行唯識学派の意識論と量子物理学を絡めた学術書を読み進めている。その中に掲載されている図を何気なく眺めていると、昨日のシロシビン・セッションでの体験と紐づくものがあった。端的には、ひょっとするとこのリアリティは、光と波と確率を物質的な性質とし、それら3つを主観的に投影する形で立ち現れてくるものなのではないかと思ったのである。その投影機の役割を果たすのが脳である。純粋意識と呼べるようなものはもはや光と波と確率が合わさったものであり、具体性を持たないが、それが自らの個別意識として立ち現れる瞬間に光と波と確率は1つの様相ないしは景色を提示し、私たちはその様相的景色の集まりをリアリティと認識して瞬間瞬間を生きているのかもしれない。昨日はあえて日本語の高校物理の教科書を購入して勉強し直そうと思ったぐらいに今物理学に関心を持っている。とりわけ量子力学は、意識と宇宙に関する客観的側面について探究する際の必須の学問分野であり、素人ながらこの分野の探究を意識と宇宙の主観的側面と絡めて進めていきたい。
脳はやはり光と波と確率を選び取る装置のようなものなのだろう。意識を表観すれば、それは光と波と確率の総体であり、脳はその総体からある確率を通じて1つの光と波を汲み取る装置のようにますます思えてくる。脳が意識を生み出すという発想は、とにかく限定的な限界のあるパラダイムから生まれたものであることが、これまでのシロシビン・セッションでの直接知覚体験と、旧態依然としたパラダイムに縛られなかった過去の偉大な哲学者や物理学者の説と符合する。
昨日のセッションでは、光についてずっと思いを巡らせていた。自己が光と化している最中にもぼんやりと光について思いを馳せている自分がいたように思う。光について思いを馳せれば馳せるほど、なぜ自分が山口県光市に引っ越して、そこで幼少期と青春期を長く過ごしたのかについて考えざるを得なかった。それは九鬼周造の言葉で言えば、光市に自分が舞い降りたのは、その邂逅の源泉に原始偶然性があり、それ以上遡ることのできない何かが実在していたとしか考えられない。偶然性というのもまた自分にとっては1つの大事なテーマである。九鬼周造の偶然性の哲学を含め、日本思想の観点から偶然性についてさらに深堀りをしていきたい。とにかく今は西洋の思想を離れて、日本に根付き、日本で展開された思想を通じて自分の関心テーマを深めていきたいという強い欲求がある。それは自己超越欲求から生まれたものに違いない。フローニンゲン:2024/1/1(月)08:09
11742. 見る者・見られるもの・見ること/『古事記』と昨日のシロシビン・セッション
見る者、見られるもの、そして見ることの三位一体で立ち現れる現象世界。人間界も自然界もこの三位一体を通じた現象世界として捉えることができそうだ。同時に、現象世界を超えた超越世界というものが紛れもなく存在していることもここからわかる。見る者、見られるもの、見ることのいずれかの不在によって現象世界は立ち現れることはないが、それらが不在の状態でも実在する世界があることを私たちは想像することができる。そうした現象世界として立ち現れていない世界を超越世界と呼ぶことができる。それはこれから立ち現れる現象世界かもしれないし、立ち現れることのない可能性としての世界かもしれない。いずれにせよ、この世界が現象世界のみで成立していると考えるのは非常に狭い認識力に基づいているように思う。
大乗仏教の中観派の思想においては、一切を空とみなす。空をリアリティの根本と捉えるこの思想に近しい思想が神道神秘主義思想の中にあるだろうか。それについてアンテナを張って調査をしてみよう。また、全てが相互依存して成立するという縁起の思想と合致する思想として神道の中にどのような考えがあるだろうか。それについても調査をしたい。
『古事記』の国土と神々の誕生の物語と昨日のシロシビン・セッションを絡めてみると、自らの霊が霊として顕現した背景に、高御産巣日神と神産巣日神の二神による生成の霊力が確かにあったことがわかる。天地開闢の際に誕生したもう1つの神である天之御中主神についてはどのように関連づけられるだろうか。高御産巣日神と神産巣日神の二神は両親の霊を出発点にして、そこから無限に遡ることで存在を知覚できたが、天之御中主神はもはや何か個別具体的な霊を生む存在ではなく、全ての霊を生むフィールドのように感じられた。それは場としての神なのかもしれない。そのようなことを考えていると、西田幾多郎の場所の論理についてやはり深く学ぶ必要があるということがまたちらつく。いずれにせよ、『古事記』は自らの存在と意識と宇宙について理解する必須の文献であることが見えてきており、手元にある『古事記』をじっくり読み返していきたいと思う。『古事記』が示すのはこの世界に関する事実ではないが、この世界に関する真実であることを忘れてはならない。事実と真実を混同せぬようにして『古事記』の読解を進めていこう。フローニンゲン:2024/1/1(月)08:52
11743. 不完全性を内在させた完全性/釈迦と親鸞の教えとサイケデリクス
真の完全は不完全をも内包したものであるがゆえに、この世界は完全なものとして不完全性が生じるのだろう。不完全性を内在させた完全性についても探究を深めていきたいと思う。
釈迦はかつて「苦行は悟りの因ならず」と述べた。これは自身の苦行体験と悟り体験の双方から生まれた言葉だろう。釈迦は自らの体験を振り返り、苦行によって悟りに到達することも起こり得るが、苦行は悟りを直接的に導くものではないと考えていたのだろう。それでは私たちはどのようにして悟りに到達することができるのだろうか。釈迦の考えはきっと、「悟りという直接体験によって悟りに至る必要がある」と述べたのではないかと思う。禅においてもとにかく言葉よりも直接体験を重視し、悟りという直接体験を大切にする。釈迦でさえもが苦行を否定していたにもかかわらず、現代においてはなおも意識の発達において苦行に価値を置き、苦行を強いるような「苦行教」あるいは「苦行主義」のようなものが見受けられる。こうした発想は、サイケデリクスの摂取による悟り体験を得る際の障害になる。釈迦の根本思想に立ち返れば、とにかく悟り体験を得ることがまずもって重要なのであり、それがなければ何も始まらないのである。悟りへの道は多様に存在しており、その手段は無数にある。その1つにサイケデリクスを位置付けるというのは何らおかしなことではないし、実際に釈迦自身がインドに生息する何かしらのサイコアクティブな物質を摂取していた可能性もある。この点については考古生化学の研究が待たれるところである。いずれにせよ、現代に跋扈する苦行主義とサイケデリクス忌避主義に対してそれを乗り越えていく取り組みに従事していきたいと思う。今はひたすらに自らの研究を進めていき、それを通じて得られた知見や考察を世の中に共有していくことが重要な活動になるだろう。
上記の釈迦の言葉に加え、親鸞の指摘も思い出す。親鸞もまた、人々が自らの修行や行為によって悟りを得て救済されることの難しさを説いていた。その考えが「絶対他力」という言葉に結実していった。全ての生命に霊が宿り、全ての物質にも霊が宿ることを考えると、サイケデリクスに宿る霊との交流を通じて悟りの体験を積んで救済を得ることに何の問題があるのだろうか。現代人は非力なのだがなぜか自力で何か事を為そうとする性質を持っているように思う。助け合いや相互扶助の考え方が希薄になりつつある世の中を眺めながら、他の慈悲と慈愛に頼り、自らが他へ慈悲と慈愛に満ちた行為をするという在り方を多くの人が体現する世の中になってほしいと切に願う。フローニンゲン:2024/1/1(月)10:43
11744. 型の習得と実践/古神道とサイケデリクスの往還
これまでの先達としての学者たちの思想や考えを学ぶというのは、武術で言うところの型の習得に該当するのだろう。種々の型に触れながら、それぞれの型に通定する普遍的な型の習得に励んでいる自分がいる。型の習得の際にとにかく重要になるのが、今の自分が直面している思想的・実存的・霊的アジェンダに対して型を適用することである。そうしたアジェンダへ型を適用することは、実践に他ならない。自らの思想的・実存的・霊的問題に取り組むことを実践と言わずして何と言おうか。いつも自分が解せないのは、書物を通じた学びが実践ではないと思っている人が数多くいることである。これはとんだ誤解である。おそらくそうした誤解を持っている人は、書物を通じた型の習得という意識が希薄であり、何よりもその習得の際に自らの思想的・実存的・霊的問題に取り組むという問題意識が欠落しているのではないかと思う。問題の解決に向けた取り組みは実践であることは、本来誰でもすぐにわかるはずである。水道管が故障した問題の解決に向けて取り組むことは実践であるし、サッカーの技術向上の問題の解決に向けて取り組むことは実践であり、数学上の難問の解決に取り組むこともまた実践である。そうした実践と全く同じくして、思想的・実存的・霊的問題の解決に向けた取り組みを内包した読書というのは完全なまでに実践である。それを理解していない人があまりにも多すぎるのは非常に残念な事態である。
神道の中でもその核となり、源流にある古神道に立ち返りながらサイケデリクスに関する研究と実践に重視すること。古神道とサイケデリクスを往還させていく研究と実践。その方向性を色濃くしていくのが2024年の在り方になるだろう。縄文人の思想や世界観の探究もそれに連なるものである。古神道の教えと世界観の理解のために、再び言霊学の研究を進めていく。2024年は学術研究上もそれに紐付く実践上も、自分にとって変革の年になる予感がしている。フローニンゲン:2024/1/1(月)11:15
11745. 昨日のシロシビン・セッションで与えられた宿題である霊と光について
時刻は午後2時を迎えた。早朝こそ雨が降っていたが、雨はすっかり止み、青空も少し見えている状態だ。もう30分ほどしたら読書の手を休めて、2024年最初の筋力トレーニングを自宅で行い、その後に有酸素運動としてフローニンゲンの街を走ってこようと思う。今日もまた郊外の方に向かっていくランニングコースを走りたい。年明け最初の清々しい汗をかければと思う。
意識が脳から生まれるという発想にせよ、記憶が脳内にあるという発想にせよ、それは天動説を信じているかのような発想であり、地球が平面だと信じているような発想なのだろう。それらを覆す実証結果が先端的な科学から出たとしても、人々がそれを受け入れて世界観を変えていくには時間がかかりそうである。
昨日のシロシビン・セッションで与えられた宿題である霊と光について、何かヒントを得るために川面凡児先生の全集を紐解いた。すると、霊魂の違いに関して、表観すれば魂と呼び、裏観すれば霊であり、表裏合観すれば霊魂となる、という記述があった。それに続く形で、霊魂は不二であり、カミであるという記述がなされており、昨日の直接体験と照らし合わせると大変腑に落ちた次第だ。昨日もまた体験中に自分の丹田が活性化される瞬間があり、そこに直霊が宿り、腑が直霊の宿り場所だと感じた。体験中、宇宙万有の全てが霊だと触知していたのは、あれは裏観を続けていたからなのだと思う。なるほど、通称目撃者の意識状態というのも大きく分けると3つに大別でき、表観、裏観、表裏合観の3種類があることがわかる。これまでの目撃者の意識状態において自分は大抵の場合、表観を使っていて、時に他の2つの観察手法を活用していたが、これまではそれら3つが渾然一体となっていたがゆえにそれらの差異と作用が区別できなかったのだ。こうしたことに気づかせてくれたのも川面先生の神道神秘主義思想のおかげである。
また無限の稜威としての光が放射し、1つ1つの光の放射が固有の霊であるという認識もまた川面先生の発想と通じるものがある。ただし昨日の体験中には、光を放射する中心まで考えが及んでおらず、存在の根元には必ず中心があるし、存在そのものにも中心があるゆえ、次回のセッションでは光の根源的中心と固有の霊の中心について何か発見を得たいと思う。
また。出発するものは必ず帰入するという川面先生の考えを採用すれば、帰入の道についても何か直接体験を得たいところである。これまでのセッションはどちらかというと常に無限拡散する出発の連続道であり、帰ってくるという現象を感じさせるような直接体験はさほどなかったように思う。無限に拡散していく意識の存在と霊の活動ゆえに無限に関心を持ったことは喜ばしいが、今度は中心に帰していく道について考察を深めていかねばなるまい。ひょっとしたらこの中心への帰入が絶対無への回帰現象なのかもしれない。これまでの体験は詰まるところ、絶対無からの出発を多く描写するものであり、ここからは絶対無に帰っていく描写を伴う知覚体験が得られるような予感がする。フローニンゲン:2024/1/1(月)14:08
11746. 新年最初のトレーニングを終えて
夕方の空が美しく輝いている。時刻は午後4時を迎えようとしていて、先ほど新年最初の筋力トレーニングとランニングを終えて自宅に戻ってきた。途中に小雨がぱらつく瞬間もあったが、それは通り雨で、通り雨に打たれることもまた心地良いものであった。
この宇宙のありとあらゆる遍く存在が歌を歌っている。そうした実感をもたらしてくれるランニングだった。宇宙の存在の全てが言霊の歌を歌っているということを知っていただろうか。星も惑星も草花も昆虫も動物も、そして人間も非生命的物質もまた言霊の歌を絶えず歌っている。この大宇宙は言霊の歌であり、交響歌だったのだ。そのような実感を伴いながら、自宅を出発して郊外に向かって走っていた。クリスマスの2日目もジムが休みだったので、その時にも外をランニングしたのだが、今日もその時と同じコースを走った。およそ35分間ぐらいの程よいランニングだった。
ランニングの最中に、昨日に色々な場所で打ち上げられた花火の残骸を見た。それを見て粋ではないと思った。打ち上げた花火をきちんとゴミ箱に捨てたり、持ち帰るという発想がどうやらオランダ人の若者にはあまりないらしい。誰が花火を打ち上げているのかは厳密にはわからず、勝手に若者が打ち上げていると想像しているが、もし大人たちが打ち上げているのであれば、ゴミを道端に放置するという美意識は自分の美意識と相容れないものがある。そのようなことを考えさせられる光景も目撃した。このように、宇宙のありとあらゆる遍く存在の歌を聞くという美的体験のみならず、醜い光景も目撃するというまさにこの世の純粋様相を目撃したかのようであった。
自宅に近づいた時にふと、自宅を出発し、自宅に帰ってくるという出発と帰入がそこにあることに改めて驚かされた。それは当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、昨日のシロシビン・セッションを終えた自分にとってみればそれは当たり前のものではなく、非常に新鮮なことだった。出発し、帰ってくる場所があること。そして実際にそこに帰ること。人は日々出発と帰入をしているのである。帰還場所を持つこと。物理的にも、精神的にも、霊的にも、自らの帰還場所を持つことの大切さを改めてひしひしと感じながら、大地を踏み締めて走っている自分がそこにいた。
ランニングを終えて夕食準備までのここからの1時間半は、引き続き川面凡児先生の全集を読み返し、言霊学に関する書籍にも目を通したいと思う。新年のスタートはこれ以上にない素晴らしい出発となったことを大いに喜んでいる霊魂がここにある。フローニンゲン:2024/1/1(月)16:01
11747. 徹頭徹尾の内観/光明三昧/出発と帰入/光と虹
内側に潜むものは霊といい、外側に現れているものは魂といい、内外合観して見えるものをカミと呼ぶ。そのような説明を川面先生は行っている。振り返ってみれば、昨日のシロシビン・セッションでは、徹頭徹尾内観が続いていたことがわかる。体験の主体も知覚される客体も双方に「霊」としか表現できぬものであり、それを「魂」や「カミ」と表現することはできなかった。その点において、昨日の体験では外観と内外合観はなされていなかったのだろう。このように昨日のセッションを振り返ってみると実に興味深いものである。また、昨日の体験は総じて「光明三昧」とでも表現するべき、始終光に包まれ、光として純粋持続時間を生きるような体験がもたらされていたように思う。全ての体験が光の持続であり、それは虹を目撃し、虹と化すような体験だったとも言える。自分の実家が山口県光市虹ヶ浜であることに何か神妙な関係性を見出す。光が照り、虹の浜を持つ故郷。そうした故郷は常に自分の霊の中にある。
自己という存在が霊なだけではなく、自分の言葉も霊であり、言葉によって紡ぎ出される人生もまた霊であるならば、自らのこの人生はどこに帰っていくのだろうか。中心に帰るという発想を用いると、自分の人生の中心はどこなのだろうか。まず場所として、自分には帰るべき中心場所があるのだろうか。それは母国日本なのだろうか。あるいは母国ではないどこかなのだろうか。自らが出発した場所は日本だった。では果たして帰るべき場所はどこなのだろう。出発し、無限に拡張していくばかりではなく、中心に帰るということもここからの人生おいて非常に重要な課題のように思えてくる。
霊魂より出発したこの人生。霊魂が必ず帰入の道を歩むように、霊魂より出発したこの人生もまたしかるべき帰入の道を歩むことになるのだろう。日々の一歩一歩の歩みは、表観すれば絶え間ない拡張の道の歩みであるが、裏観すればそれは帰入の道の歩みだと言えるのではないだろうか。自分は人生のどのタイミングで本格的に帰入の道を歩むのだろうか。いや、今述べたように日々の歩みは出発の歩み即帰入の歩みなのであるから、出発することも帰ることも超越した超然的歩みを続けていけばいいのではないかと思う。
これも何かの偶然だろうか。2024年の初日の今日、キーボードを覆うカバーの中で、「う」の文字に該当するところだけがまるで祭りの屋台の型抜きのようにポッカリと抜けた。「宇宙」の「う」の文字、「加藤」の「う」の文字、そして「洋平」の「う」の文字だけがポッカリと穴が空いたことを偶然性を超えた必然性として捉えている自分がいる。フローニンゲン:2024/1/1(月)16:16
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