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タイトル一覧
12779. 喉の痛みを受けて
12780. 今朝方の夢
12781. 実践としての読書について
12782. 唯識学の適用範囲について
12779. 喉の痛みを受けて
時刻は午前6時半を迎えた。日曜日の朝はとても静かで、庭側の木に止まっている1羽の小鳥の鳴き声が聞こえてくる。きっとそれはいつものコマドリだろう。昨日と同様に今日もまた朝から少し曇っていて、今この瞬間は朝日を拝むことができない。風も少しあり、青々とした木々の葉が揺れている。もう木々は十分に緑色を付けているが、フローニンゲンの気候はまた冬に戻ったかのようにとても肌寒い。昨日の午後から喉の痛みを感じ、それはきっと寒さのせいかと思った。確かに毎日8時間ほどは英語のスピーキング能力の向上実践に充てているので喉の使いすぎもあり得たが、音源を聴いてそれに対して発話をするということを繰り返しているため、少なくとも音源を聞いている間は声を発しておらず、8時間ほどの学習時間とは言え、喉を痛めるほどの量ではないかと思う。主要因は寒さがぶり返したことだと確信したのは、今朝方起床した時に鼻水の色がいつも季節が変わる時の色になっていたことである。それは風の初期に見られるような色で、その色の鼻水が出る時には喉の痛みを伴うことが多い。今朝方の鼻水の色を見て、今日はあまり無理をしないでおこうと思った。とは言え喉の痛みは昨夜よりもマシになっているので、できる範囲で英語のスピーキング能力の向上実践に取り掛かる。いつもより声量を落とし、喉に負担がかからないように口の動きだけ意識しておく形で発声をしていこうと思う。幸いにも今日は午後から第34回のシロシビン・セッションを行うので、午後からはたっぷりと休息できる。いつも思うが隔週のシロシビン・セッションは、休息とリセットをもたらす本当に望ましい実践になっているような気がする。それに加えて、それは心を磨き、心を深めていく瑜伽行でもあるため、この隔週に行う実践はこれからも大切にしていきたいと思う。この実践はまた1日のファスティングも伴うため、胃腸を休めるのにも効果的である。こうした実践を2週間に1度習慣化させてここからさらに継続した先に待つ自分の姿が楽しみである。自分を手放した自分が待っているだろうか。フローニンゲン:2024/6/2(日)06:43
12780. 今朝方の夢
部屋の室温が随分と下がっている。外気は14度ほどと肌寒さを感じさせる気温であり、今日は16度までしか気温が上がらないので1日中肌寒い形となりそうである。来週は最低気温が10度を下回る日が多々あり、冬に逆戻りしたかのようである。夏を感じられるようになるのはまだ随分と先のようだ。
今朝方は2つほど断片的な夢を見ていた。まず覚えているのは、小学校6年生の時にお世話になった先生が登場するものである。私は数人の友人たちと先生の授業を教室で受けていた。もうすでに自分は大人になっていたのだが、先生の授業はとても懐かしく、そして大人であっても学びのあるものに感じられた。私たちは当時のように先生の生徒として授業を熱心に受けており、授業の中では活発なやり取りを先生とした。先生は私たちの積極的な質問や発言を喜んでいて、先生の授業にも熱がさらに入っていった。時を忘れるかのようにしてお互いに授業に熱中していると、静かにその場面は消えていった。
もう1つ覚えている場面として、高校時代のサッカー部のキャプテンの友人が晴れて教師になり、母校の高校で英語を教えている場面である。自分はどういうわけか彼の授業を見学するために生徒として教師にいた。生徒の目線で彼の授業を見学することを彼が望んでいたからそのような形となった。教室の後ろの席について彼の授業を聞き始めると、彼はなかなかにちゃんと準備をしていて、教え方も上手かった。しかし内容としては自分が学ぶことはもうあまりないようなものだったので、彼の教えた方だけ確認したら、あとはそこから自習を始めた。いわゆる内職と呼ばれるものである。彼は途中で自分が内職をしていることに気付いたが、特に注意してくることもなく、内緒をしながらも彼の話には耳を傾け、どのようなことを教えているかを引き続き聞いていた。そのような夢を見ていた。
とりわけ前者の夢は懐かしさの感情が強く、夢の中の自分はとても温かい気持ちになっていた。実際にはこの夢の前後にもまだ何か他の夢が存在していて、それらの夢の移行はとても滑らかだったように思う。夢の中で味わった感動が今もまだ余韻として残っている。フローニンゲン:2024/6/2(日)06:54
12781. 実践としての読書について
現代社会の中で忘れがちになっていることとして、読書というものがれっきとした実践であるということが挙げられるように思うということについて昨夜寝る前に考えていた。そもそも学習と実践は二分法的に切り分けられるようなものでは決してなく、両者は本質的に不可分の関係のはずである。ところが現代人の多くは学習と実践を切り分けてしまう傾向が強い。おそらくその背後には、旧態依然とした教育を受けてきたということが大きく関係しているだろう。「学習する」というのは、そもそもその表現から見て分かる通り、動詞系で表現される行為なのである。それを実践と呼ばずしてなんと言おうか。「読書をする」というのも全く同じことであり、それは本来立派な実践なのである。それを実践として認識できないのは、読書をする側に問題があると考えた方がいいのではないかと思う。読書をする過程の中で、書物に書かれていることを自分の課題に引き付けてその問題の解決に向けて内省をすることは立派な内省実践であるし、書物の内容をもとに自分の心の有り様を観察していくことは立派な観法行である。おそらく読書が実践とならない人は、自分の心を豊かにしてくれるような書物を選んでないからではないかと思う。実際にはどんな書物を読んでいても実践としてみなすことができ、心を深めていく実践に昇華させていくことができるが、きっと現代人の多くは読書をする際に、効率性を求めたり、単に情報を得ることだけを求めて、すぐに劣化してしまうような情報しか掲載されていないような手軽な書籍を読んでいるのではないだろうか。そもそも読書をする人そのものが減ってきている現代社会ではあるが、そんな中で読書をする人はますます効率性やお手軽さを求める時代精神に流され、読書が心を深めるような実践に繋がらなくなっているのだろう。この傾向は拍車がかかるばかりである。それを受けて、今一度読書をするということがそもそも学習するという動詞表現で表されるダイナミックな行為なのであり、実践に他ならないという認識を持って、自分の心を磨いていくための内省実践や観法実践としての在り方を取り戻していく必要があるのではないかと思う。これは自らにも言い聞かせたいことであり、殊更唯識学に関する書物を読んでいる際には、その最中が実践の場であるという明確な意識を持ち、観法行としての読書を心掛けていきたい。フローニンゲン:2024/6/2(日)07:17
12782. 唯識学の適用範囲について
ここから正午まで喉を痛めない程度に英語のスピーキング能力の向上実践に取り掛かろうと思う。途中で休憩がてら唯識学の文献を紐解き、訓読文を訓読文としてではなく、漢文のままに読んでいく読解に従事したい。これもまた自分にとっては1つの行になっている。読解行というものが確かに存在していて、それを行だという明確な意識を持って取り組むのと取り組まないのとでは、得られるものを含め、大きな差を生むであろう。スピーキング能力の向上実践は文字通り実践なのであり、それは立派な行として存在している。単に発話の技能を高めるだけではなく、自らのライフワークとして掲げている日本法相唯識学の欧米社会での宣揚という活動に向けて、それは必要不可欠な技能となることをいつも念頭に置いておきたい。その意識があればあるだけ、発話能力の向上実践に身が入り、高い集中力を持って取りかかれるだろう。それが最終的には多大な実りをもたらすはずである。
昨日のゼミナールのクラスの中で、唯識の教えは実践でどこまで適用できるのかという興味深い話題が出た。それについて今改めて考えているのだが、唯識の根幹の教えである全ては心である点に立ち返り、全てが心の現れであるならば、唯識が適用できない範囲は存在しないと言えるだろう。端的には、その範囲を決めるのは自分の心の器次第なのである。表現を変えれば、己の智慧と慈悲の範囲が唯識の適用範囲だと言えるだろう。もちろん唯識の教えを適用するよりも効果があるような対象や現象も当然あるだろう。卑近な例で言えば、何か怪我をした際にはその場で唯識学の教えを適用するよりも、応急処置の知識を適用した方がいい。料理をする際にもわざわざ唯識学の教えを適用する必要もない。しかし、その怪我をどのように受け止めるのかや料理に対する感謝の念を醸成する際には唯識学は本領を発揮する。このように唯識学は、この世が心の現れであるゆえに全ての対象に対して適用できるのだが、必要性や効力性の観点から無理に全ての事柄に適用しなくていいのであり、そうしないことが賢明な場合も多々あるということを心に留めておく必要があるだろう。唯識の主戦場は兎にも角にも心なのであり、対象や現象が心との結びつきが強ければ強いほど、唯識学の教えは効力を発揮する。逆にその結びつきが弱ければ弱いほど、別の枠組みを照らして課題の解決や実践に乗り出した方が賢明である点を改めて考えていた。フローニンゲン:2024/6/2(日)08:02
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