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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12741-12746:2024年5月25日(金)




⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12741. 赤いコマドリ/日々の複利の成長を意識して

12742. 今朝方の夢

12743. 徹底的に細部にこだわったスピーキング能力の向上実践

12744. VRTXバンドを用いたトレーニングを行って

12745. 発音の矯正トレーニングおける幾つかの工夫

12746. 第81回のゼミナールのクラスを振り返って


12741. 赤いコマドリ/日々の複利の成長を意識して


時刻は午前5時にゆっくりと近づいている。今朝方は午前4時半に起床したのだが、その瞬間には小雨がしとしとと降っていて、そんな中に小鳥たちの鳴き声が鳴り響いていた。小雨の降る音と小鳥の音の二重奏によって今朝方は目覚めた形となる。小鳥たちの鳴き声を聞きながら、昨日家のオーナーのフレディさんと敷地内で会った時に聞いた話を思い出した。フレディさん曰く、先日赤いコマドリが鳩に襲われて怪我をしてしまったらしく、そのコマドリが敷地内の地面をうろうろしているそうであった。実際にその場所を見せてもらうと、本当に赤く小さなコマドリがいて、ぴょんぴょんと跳ねながら姿を隠した。先日そう言えば鳩がホーホーと庭側で鳴いていたなということを思い出し、その後にその小さなコマドリと喧嘩をしてしまったのかもしれないと思った。動物の世界においても自他の区別があり、それによって争い事が起きてしまうことを改めて思う時、無知による分別から生じるいざこざは生きとし生けるものが背負う宿命なのかもしれないと思った。人間もまた分別を通じて争い事を生み出す生き物だが、人間はそれを超えていくことができる。無知を克服し、智慧と慈悲によってそうした状態から脱却することができるのだ。まさに唯識学が示しているのはその道である。


そのようなことを考えながら、今日の午後から行われる第81回のゼミナールのクラスに思いを馳せる。今日のクラスもまた充実した対話が実現され、数多くの実践案が共有されるだろう。唯識学はとにかく実践的な思想体系なのであるから、単に座学的なお勉強モードで話を進めていくのではなく、むしろ毎回のクラスでは先週から今週にかけてどのような実践を唯識学の観点から行い、その実践体験談を積極的に共有するような場作りをしていきたいと思う。それに加えて、課題図書を読んで閃いた独創的な実践案についてもクラスで共有し合うことを通じて、実践の引き出しをとにかく豊かなものにしていきたいと思う。今ゼミナールに参加してくださっている受講生の方々とであればそれがきっと実現されるであろうと考えている。自分もまた先週から今週にかけて行った実践について振り返り、課題図書から汲み取った実践案について考えを巡らせたい。唯識学の枠組みを通じて、日々複利で成長していくことを心掛けたい。厳密に成長量を測定することは難しいが、1日1%成長すれば、1年で37倍の成長になる。それを仮に4年間毎日続けていけば、4年後には200万倍に成長することができる。その差がどれほど大きいことか。唯識学の探究、英語のスピーキング能力の向上実践、筋力トレーニングにせよ、細部にこだわり、集中した状態で行う意識的な鍛錬を心掛けていけば、1日1%の複利的成長は十分に可能なのではないかと思う。日々の複利の成長を意識してこれからの日々を充実した形で過ごしていきたいと思う朝だ。フローニンゲン:2024/5/25(土)05:03


12742. 今朝方の夢 


小雨の降る微かな音に耳を傾けながら、雨の世界の中を輝かせる小鳥たちの鳴き声に耳を傾けている。昨日にフレディさんと話をしたおかげで、今鳴いている小鳥がコマドリ(robin:ヨーロッパコマドリ、別名「コマツグミ」)だということが分かったことは収穫であった。これまでは単に小鳥という括りで彼らのことを呼んでいたが、庭にやってくる小鳥たちにはいくつかの種類があり、赤い背中をしたコマドリもいれば、緑色の背中をしたシジュウカラや鶯のような小鳥もやって来ることがある。これまであまり小鳥の名前についてこだわっていなかったので、今度近くの木にやって来て姿を確認したら、彼らの名前を調べておきたいと思う。それを通じて、小鳥たちと共に生み出す心の世界をより豊かにできれば幸いである。


昨日に、最近の夢は断片的なものになりがちであると述べていたが、今朝方の夢には一連のストーリーがあった。夢の中で私は、屋外のサッカーコートでサッカーと微積分の講習会に参加していた。その一見するとあり得なさそうな組み合わせの講習会は、参加してみると創意工夫に満ちていてとても楽しいものだった。サッカーの指導を受けながら、同時に大学1・2年生レベルの微積分の講義を受けるという内容であった。その講習会には随分と多くの人が集まっていて、参加者同士であれこれ話し合いながらサッカーの練習と微積分の問題に取り組むことは楽しさや喜びの感情を参加者に醸成させていた。講習会が無事に終わると、そこからは打ち上げをするとのことで、場所を移動することになった。打ち上げ会場にはすでにたくさんの飲み物や食べ物が用意されていて、サッカーの講習を通じて体を使い、微積分の講習を通じて頭を使ったので、お腹がぺこぺこ状態であった。いざ打ち上げが始まる前に、どういうわけか私は持参していた白い粉薬を飲んだ。それは風邪薬のようでいて、何のための薬なのかよくわからなかったが、とにかくそれを飲む必要があると思って、水と一緒に口に入れた。しかしそれは思ったほど水に溶けず、口の中で玉玉になり、苦さがあった。追加で水を飲むことによってなんとか胃の中に薬を流し込み、これから食事を楽しもうと思った。すると、会場の端っこに大学時代のクラスメートが数人いたので彼らに声を掛けた。彼らは真面目に先ほどの講習会で習ったことを復習しているようだった。サッカーの技術的な話や微積分の公式の確認などを同時に行なっていて、彼らはまさに文武両道の精神を体現しているなと思った。ふと視線を上げると、近くに外国人の若い女性がいた。彼女は同じ大学に通っている留学生らしく、彼女に“Join us!”と声を掛けたところ、彼女は嬉しそうにこちらにやって来たが、次の時間の英語のクラスの試験について少し不安に思っていると述べた。彼女はほぼネイティブレベルの英語力を持っているが、そんな彼女でも次のクラスの英語の試験は心配なのだと思った。実はその場にいた私たちもその英語の試験を受けることになっていたので、彼女が心配な表情を浮かべていることを通じて、こちらまで心配になりそうになった。彼女は実践的な力としては英語はもうネイティブレベルであったが、日本の大学入試のような形式の試験には慣れていないらしく、私たちは逆にそうした試験には強いこともあって、やはり次の時間の英語の試験はさほど心配することはないと思った。すると彼女は先に失礼すると述べてどこかに消えてしまった。そこから私は講習会で空腹になった腹を満たすために食事をいただこうと思った。次の時間がまた英語の試験だということを考慮して、GI値の高い食材には口を付けないようにし、かといって少しだけしか食べないというのではなく、せっかく美味しそうな食材がたくさん並んでいるのだから、食べれるだけ食べておこうと思った。食事をある程度のところで終えた後、そこで振る舞われていたポカリスウェットが懐かしかったので持参したペットボトルに補給させてもらい、会場を後にして次の時間の英語のクラスが行われる部屋に向かうことにした。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/5/25(土)05:29


12743. 徹底的に細部にこだわったスピーキング能力の向上実践


今日もまた黒豆の水煮を作るための調理を始めた。今日から昼食に蕎麦を食べることにしたので、昼食時に鍋を使えるようにするために、黒豆の水煮を早朝に作っておこうと思った。時刻はまだ午前6時半を迎えたところだが、早速調理に取り掛かった。昨日就寝前にすでに黒豆を水に浸すことをしていたので、先ほど速やかに調理を開始することができた。鍋が沸騰したら灰汁を取り、そこから1時間ほど弱火でじっくりと煮込んでいけば完成である。黒豆の水煮の調理はそれだけなのでとても簡単である。


早朝の小鳥たちの鳴き声を聞きながら、先ほど朝の英語のスピーキング能力の向上実践に取り組んでいた。ここまでの12年間の欧米生活のおかげで、英語空間に浸ることを通じて、英語の大枠についてはもうかなり抑えている形となった。しかし細部についてはまだまだである。細部は無限の広さと深さを持ち、ここからは細部にこだわっていくフェーズである。短期的な目標として、ネイティブが持つ冠詞と単数・複数形の感覚を習得することを掲げたい。今使っている学習教材の音源の細部にこだわって聴いていると、冠詞や単数・複数形についてこれまで自分はあまり意識してリスニングをしていなかったことに気付かされる。それでいて、スピーキングの際にはそれらが正しいかどうかを無意識のどこかでいつも気にしていながらも、結局そのコンテクストにおいてどれが正しい表現なのか明確にさせないままこれまで過ごして来たように思う。そうした悪き習慣をここで一度断ち切るためにも、学習教材の例文の中でなぜそこにその冠詞が付されているのか、なぜそこが単数系なのか複数形なのかにこだわって学習をしていこうと思う。こうしたこだわりのある学習をしない限りはその道を極めることはできない。細部を大切にしない人には能力の向上は見込めないのである。もちろん全ての学習・実践分野において細部にこだわる必要はない。自分の生活や人生において必要だと思う分野に限ってそうしたことをすればいいのである。先ほど作り始めた黒豆の水煮だって細部にこだわればキリがないのである。少なくとも自分が大切にしたい分野や極めたいと思う分野については、徹底的に細部にこだわって意識的な取り組みをしていく必要がある。それは遠回りのようでいて、一番の近道である。


学習教材を活用しながら今のところ気づいたのはその点だろうか。その他にもまだまだ知らないイディオムがたくさんあるし、頭で知っているイディオムでもそれを自分の発話の中で活用できるかはまた開きがある。それを受動語彙・能動語彙という。これまでの英語学習と欧米生活で膨大に蓄積されてきた受動語彙を能動語彙に変えていくための実践を今とにかく心掛けている。その方法はシンプルで、受動語彙を自分なりの例文作成を通じて口に出してみるというアウトプットの実践を行っている。今後もこの実践を続けていき、自分の内側に蓄えられた受動語彙を能動語彙に転換していく作業を行っていく。イディオム、冠詞や単数・複数形以外にも時制についてもさらにこだわる必要があるだろう。そうしたことを考えてみると、今一度何か網羅的な文法書を読んで文法の基礎を確認する必要があるように思う。6月の初旬あたりに再び唯識学関係の書籍を日本から注文する際に、合わせて英語の文法書についても何か良いものを取り寄せてしてみようと思う。フローニンゲン:2024/5/25(土)06:50


12744. VRTXバンドを用いたトレーニングを行って


起床食後から降り注いでいる小雨は、午前8時を迎えようとしているこの時間帯になっても小さな音を響かせて天空から地上に降り注いでいる。ちょうど今、午前8時を伝える教会の鐘の音が聞こえてきた。


つい先ほど朝の筋力トレーニングを行い、栄養補給を兼ねた朝食を摂り終えた。今日から朝食にはバナナとリンゴといった果物を摂取し、オートミールを食べることにした。これまではそれらを昼食に摂っていたが、今日からの昼食では蕎麦かパスタ、それに加えてレンジで茹でたジャガイモにヘンプシードと醤油を和えたものを食べるつもりでいる。そのため、今日から朝食のメニューを変えた形になる。これまでは全粒粉のパンにピーナッツバターをたっぷり塗って朝食に食べていたが、どうも全粒粉のパンは自分の腸に合わないような気がしたので摂取を速やかにやめた。先週の日曜日のシロシビン・セッションでも、全粒粉のパンが自分の腸と相性があまり良くないことを知らせるようなメッセージを受け取ったので、このように腸の様子に敏感となり、腸の声に耳を傾けながらここからの食実践も工夫を重ねていきたい。


朝食前の筋力トレーニングとして、昨日に受け取ったVRTXバンドを早速使ってみた。VRTXバンドの公式Youtubeチャンネルの動画を参考にして、腕のトレーニングをまず行ってみた。バンドのおかげでこれまで鍛えづらかった上腕二頭筋や前腕の筋肉も効果的かつ効率的に鍛えることができ、VRTXバンドを購入して良かったと早速実感する形となった。そこからは背中の筋肉を鍛える動画を参照して、背中を鍛えていった。さらにはふくらはぎの筋肉ついても鍛えていったのだが、その部位についてはVRTXバンドを用いることなく自重で鍛えていった。ふくらはぎを鍛えることに関してもVRTXバンドを活用できるのか調べてみようと思う。いずれにせよ、このバンドのおかげでトレーニングの幅が間違いなく広がり、負荷量の調節に関しても6種類の負荷量が異なるバンドのおかげで非常に汎用性がある。午後にゼミナールを終え、夕方にもまた同じ部位を鍛えていきたい。その際には先ほど鍛えていなかった肩の筋肉も鍛えてみたいと思う。ここからしばらくはYoutubeの公式チャンネルにある全ての動画を視聴していき、VRTXバンドの活用の可能性に関する全体像を把握したいと思う。何度も繰り返し動画を視聴しながら鍛錬を続けていくことで、どの部位にどのように効かせていくかのコツを掴んでいくことができるだろし、そこから自分なりの創意工夫を働かせて、新たなトレーニング方法を構築することもできるだろう。このバンドはそれだけ応用可能性がある。おそらく無限の可能性が眠っているような気がする。ダンベルにせよ、トレーニングバンドにせよ、決まった角度からの決まった動きを強いるマシーンよりも多様な刺激を入れれることは望ましく、もちろんその分最初は効かせ方のコツを掴むのは難しいかもしれないが、慣れてくればダンベルやトレーニングバンドを通じたトレーニングは大きな効果をもたらしてくれるに違いない。ここからのトレーニングライフがより充実したものになると実感させてくれる時間を過ごしていた。フローニンゲン:2024/5/25(土)08:10


12745. 発音の矯正トレーニングおける幾つかの工夫


発音の矯正トレーニングを今日も続けている。それは筋力トレーニングと同じぐらいに実りが多い。これまでも折を見て発音記号についての学習や発声方法についての学習をしていたのだが、今改めて全ての発音記号に対する発声の仕方を見つめ直していると、まだ完全に習得できていない発声方法や音の識別が難しいものがあることに気付かされた。それらは思わぬ発見であり、この機会にそれらを全て洗い出し、それらをきちんと習得できるように鍛錬を続けている。英語の発声においてはとにかく舌の位置が重要になり、それを意識して発声していくことは筋力トレーニングと等しい。筋力トレーニングおいてもどの部位を鍛えるかを意識して、その部位を指揮的に伸び縮みさせることが重要なのと全く同じで、英語の発声のおいては舌の位置をどこからどのように動かしていくかが鍵を握る。このように考えてみると、英語の発声に関する鍛錬はもう筋力トレーニングとほぼ同じものだと思ってしまっていいのではないかと思う。それは舌を鍛え、舌をうまく活用できる鍛錬だったのである。先ほどのトレーニングで発見された課題についてはこれから音声教材を用いたスピーキングの鍛錬をする際にも意識したいし、日常においても意識したい。今視聴している発音に関する教材も1回だけではなく、間隔を置かずにもう一度視聴し、少し時間を空けて3回目の視聴をしたいと思う。


それ以外にも、想像力を働かせて、想像したコンテクストの中で自分がその表現を話していることを想像するという二重の想像を働かせることを意識したトレーニングも行なっている。さらには、音源を聴いている最中には耳に聞こえてくる音から情景を思い浮かべることも意識している。抽象的な概念であってもそこには必ず心的情景を描くことができる。そうしたことを意識して訓練していけば、言葉に付帯する情景想起能力を高めていくことができる。言葉の情報処理能力を高めるためにもこうした意識を持つことは重要であり、実際に情景を思い浮かべることを習慣することが望ましいかと思う。正午までまだ時間があるので引き続き英語のスピーキング能力の向上実践に励み、午後のゼミナールのクラスが終えてからも夕食準備までの時間を大いにこのトレーニングを楽しみながら行いたいと思う。フローニンゲン:2024/5/25(土)10:38


12746. 第81回のゼミナールのクラスを振り返って 

   

時刻は午後3時半を迎えた。少し前に第81回のゼミナールのクラスを終えた。今日もまた前回に引き続き、実りの多いクラスとなった。今日からまた新しく2名の方をゼミナールにお迎えすることになり、冒頭に自己紹介をしていただいたのだが、改めて唯識学は素晴らしい人たちを引き寄せてくれるなと思った。今日からご参加いただいた方のユニークなバッグラウンドや取り組みはこれからのゼミナールにまた新たな花を添えてくれるだろうと思った。

今日のクラスの内容を振り返りながら、改めて唯識学を学ぶことを通じて実現させていくことは智慧と慈悲を深めていくことを通じた自己を含めた全存在の救済と解放であるということを思った。そうした生き方をしていくことこそが唯識を生きると言えるだろう。唯識について学ぶ段階から、唯識を通じて生きる段階へ、そして唯識として生きる段階へと順序を経て学びを深めていくことは重要だろうが、可能であれば最初から唯識として生きるという生き方を心掛けていくのが重要なのではないかと思う。


今日のクラスの中で、唯識学は女性の成仏についてどのように考えているのか、女性の存在や役割についてどのように捉えているのかというジェンダーの問題と関わる非常に重要な問いかけをグループワークの中でいただいた。このテーマについてどのような議論が学術研究の場や仏道修行の現場でなされているのかは不明だが、本来の仏の教えの本義に立ち返ると、男性と女性の分別など関係なく、どちらも共に成仏の可能性があるはずであるし、智慧と慈悲を獲得して衆生の救済に向けて成長と実践を積んでいく在り方は同じなのではないかと思う。しかし、唯識学のお膝元のインド、チベット、仏教といった国では、やはり男性優位的な社会構造があり、それが僧院の中にも跋扈していたのではないかと思う――この傾向は日本にも見られるし、世界的にも見られてきたことである――。もちろん優れた尼僧の活躍なども文献に残っているし、今も昔も僧院で尼僧が存在し、活動していることは確かである。しかしながら、全世界的に見て男性優位な価値観は仏教国の中でも当然ながら存在しており、それが仏の本来の教えを曲解する形で女性の成仏の可能性や役割などを歪めてきた可能性は十分に考えられる。このジェンダーに関するテーマは非常に現代的でもあるので、こと唯識学がどのようにこの問題と向き合ってきたのかについて調査をしてみたいと思う。日本の男性優位的な世界の中ではあまり女性の僧侶が活躍したという話は聞かないが、日本の法相唯識学において、あるいは広く日本の仏教における女性の歴史にも注目してみたい。

男性性・女性性の観点でいうと、ひょっとしたら前者は智慧と対応付けられ、後者は慈悲に対応付けられるかもしれない。そう考えてみると、自分の内側で男性性と女性性の双方を健全に育んでいくことは、智慧と慈悲を健全に育んでいくことにきっと繋がって来るのではないかと思う。どちらかの性質ではなく、双方の性質を意識して、それらの発達度合い・健全度合いを今一度見つめ直したいものである。フローニンゲン:2024/5/25(土)15:47

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