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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12400-12404:2024年3月29日(金)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12400. Good Fridayの祝日の朝に

12401. 今朝方の夢

12402. 良遍の思想の懐胎に向けて/平常心

12403. 仏教の血肉としての宗教性を感じながら

12404. 唯識学を通じたヴァーチャルリアリティゲームをしているかのような楽しさ


12400. Good Fridayの祝日の朝に     


時刻は午前5時を迎えた。今日のオランダは“Good Friday”という祝日のようである。そのことについて、昨日のパーソナルトレーニングの際にパーソナルトレーナーのエリーザから聞いた。今週の日曜日が復活祭の日であり、その翌日の月曜日が祝日であることはすでに知っていたが、今日もまた祝日であることはすっかり忘れていた。オランダは日本よりも祝日の数は圧倒的に少ないが、丸8年オランダで生活していても全ての祝日をまだ完全には覚えていない。それもおそらく今の自分の生活スタイルが毎日祝日のようなものだということと関係しているかもしれない。毎日が祝日のように感じられ、実際にそうしたゆとりのある形で日々の生活を送れていることに本当に感謝したい。


昨日のジムでのトレーニングを受けて、今日はアクティブレストを兼ねて、午後には散歩がてら珈琲屋に立ち寄って、2種類のコーヒー豆を購入したいと思う。毎朝コーヒーを飲むことは1つの楽しみで、午後からは一切コーヒーを飲まないようにしていることもあって、朝のコーヒーの味は格別である。オランダはまだ寒いこともあって、そうした気候に合わせた形でコーヒー豆の煎りの具合を決めている。今日は深煎りの豆を購入しようかと思う。もう少し季節が暖かくなってきたら浅煎りのまめにしてみよう。気候に合わせてコーヒー豆を選び、それを味わう楽しみがある。


今日もまた唯識学研究に没頭していきたい。唯識学研究は自分のライフワークなのだから焦ることなく、一歩一歩の歩みを楽しみながら、喜びを噛み締めることを通じて探究を前に進めていく。無窮の研鑽が必要な当該領域の探究をするに当たって、焦ることはとても馬鹿げている。それはそもそも汲み尽くすことのできない道なのである。そんな道を歩む際に焦りや肩に力を入れることは大変馬鹿げている。リラックスした気持ちで、絶えず平常心で探究を地道に積み重ねていくのである。ただただ楽しさと喜びの感情の中でゆっくりと歩き続けていくのだ。それが何よりも重要であること改めて思う。昨日のジムでもそれと同じようなことを考えていた。ジムでのトレーニングも焦ることなく着実に積み重ねていくことによって、身体が確かに変わり、健全な身体が獲得されている。筋力量に絞って見れば、それは着実に増加の方向に向かっている。もちろん無駄に筋肉をつけることには関心はなく、健康でいられるための筋肉量がこうして確保され、これからも筋肉量の維持増強に励むことを通じて長く健康な状態で自分のライフワークに没頭したいと思う。そのようなことを改めて思う朝だ。フローニンゲン:2024/3/29(金)05:25


12401. 今朝方の夢


時刻は午前5時半を迎えようとしていると、1羽の小鳥の鳴き声が聞こえてきた。どうやらここ最近はこの時間帯から小鳥たちは鳴き声を上げ始めるようだ。彼らにも習慣というのがあるのだろう。気候に応じて彼らの行動も変化し、今この時期はこの時間帯から美しい声を上げ始めてくれるようだ。


今朝方は2つほど断片的な夢を見ていた。1つは、大学時代のゼミの友人を援助する場面である。何の援助を彼が求めていたかというと、彼が突如天から降ってきたかのように思いついた研究アイデアを発表することに関する援助である。私たちは市民ホールのような場所にいて、彼がそこで研究アイデアについて発表したいと突然述べた。それはあまりにも突然のことだったが、私はできる限りの援助をしたいと述べた。彼曰く、発表の際のタイムキーパーが必要とのことで、その役割を誰かに担ってほしいとのことだった。その役割を自分が行うとは申し出ず、その役割をしてくれる人を雇おうということになった。その際にまずは先生に掛け合ってみて、先生のお墨付きを得た方がタイムキーパーの役割を担う人を雇いやすいのではないかということになった。なので先生を呼んで、先生に相談してみることにした。先生はどういうわけかゼミの指導教官ではなく、自分にとっては全く見知らぬ先生だった。彼はその先生のことを知っていたようだったので、最初は彼と先生の2人でのやり取りとなった。しかし先生は一向に彼の言い分に納得しておらず、タイムキーパー役を雇うことに対して反対をしていた。少し自分が間に入った方がいいなと思ったので、2人の会話にそっと入り、彼がなぜ先生に相談したのかの背景を説明し、なぜ先生のお墨付きが必要なのかを相談した。すると先生は徐々にその理由を納得し、最終的にはタイムキーパー役を誰かにお願いすることを許可してくれた。友人と私はそれを受けてホッとした。そのような場面があった。


もう1つ覚えているのは、知人の女性に美味しいアイスがあるとのことで、アイスを勧められていた場面である。私は冷たい飲み物や食べ物を胃腸を収縮させないように一切口にしないようにしている。そのことをその方に伝えると、最初は驚いていたが、それもまた自分らしいということでアイスが不要な理由を納得してくれた。こうして日々常温よりも冷たいものを一切口にしない生活をずっと続けていると、胃腸の状態はすこぶる良く、それが心身の健康の大きな下支えになっていることを改めて実感する。親切な申し出も、それが自分の信念や習慣と相容れないものであれば、これからも必ず断っていこうと改めて思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/3/29(金)05:39


12402. 良遍の思想の懐胎に向けて/平常心


時刻は午前6時を迎えると、辺りはもう随分と明るくなった。そんな中、木々に止まる小鳥が優しい鳴き声を上げている。いつも毎朝こうして優しく美しい鳴き声を届けてくれる小鳥たちに本当に感謝である。彼らの安寧と幸福を願ってやまない。彼らのそれは自分の安寧と幸福につながるのであり、それは非二元なのであるから。


今日もまた『三性論』の読経行から唯識学研究を開始させていく。30分ほどの音読は、朝のアニマルフローの実践と同じく探究上のウォーミングアップになる。呼吸法とアニマルフローの実践が身体を目覚めさせることなのであれば、早朝の唯識論集の音読読経行は知性を目覚めさせることにつながる。そのウォーミングアップを終えたら、昨日に続いて良遍の『観心覚夢鈔』の翻訳解説書を読み進めていこう。今のところ、鎌倉時代に活躍したこの法相宗の僧以上に自分の心を震わせる人はない。少なくともしばらくは良遍を規範にして、彼が残した『観心覚夢鈔』という法相唯識教学上における、いや日本の仏教界における宝のような書物と向き合っていきたい。昨日からの精読はすこぶる捗り、今日か明日には精読も終えるだろう。精読を終えたら、また何度も繰り返し擦り切れるぐらいに本書を読み返していき、良遍の思想が自分の内側に懐胎し、体現される次元に向かっていきたいと思う。


仏道修行の道は永遠無窮のものであることを考えると、そのプロセスの中で一喜一憂してはならないことが見えてくる。絶えず平常心でいること。心が浮き足立つことも落ち込むこともなく、絶えず平常心で無用な力を抜いて修行に励んでいくこと。そうした在り方は唯識学の探究においてもそっくりそのまま当てはまるだろう。無理をせず、毎日少しずつその歩みを楽しみながら前に進めていくこと。自分にとって唯識学の探究はライフワークなのだから、一生付き合うそれに対して進展を一喜一憂するのは馬鹿げている。とにかく平常心で仏道修行と唯識学の探究の双方を進めていきたいと思う。今日もまた平常心の中で輝きに満ちた時間を過ごすことができるだろう。自分の心の世界は本当に眩く輝いており、日々の瞬間瞬間もまた玉虫色に輝いている。その輝きがさらに智慧と慈悲で増すように研鑽精進していきたい。フローニンゲン:2024/3/29(金)06:21


12403. 仏教の血肉としての宗教性を感じながら


モーニングコーヒーを片手にした午前中の唯識学研究も順調に進んでいる。朝一番の時の鳴き声よりも今は少し控え目な小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。早朝より良遍の『観心覚夢鈔』をずっと読み続けているのだが、その詳細精緻な記述には思わず恍惚感を覚えてしまう。また、仏教の本随である衆生救済に向けた良遍の熱い宗教精神にも心打たれるものがある。これまで自分は仏教が持つ深い慈悲と智慧に基づく宗教性を骨抜きにする形でそれを外側から眺めていたに過ぎないのだということがわかる。本気で仏教を通じて自己を改革しようと思い立ち、衆生を救済するという思いを発心した時、仏教の宗教的側面に気づかないはずはないのである。それに気づかないというのは、仏教を教養として単なるお勉強として外側から眺めているに過ぎないからである。本当に仏教の教えを体現し、自己を変革して、自利即利他の菩薩行に全身全霊で打ち込もうと決意した時に初めて仏教が持つ深い宗教性に気づくのだと思う。これまでの自分は仏教を単なるお勉強の対象としてしか見ていなかったのである仏教の教えを自らの存在の生きた血として肉として体現させるとき、その宗教性に存在が開かれるのである。繰り返しになるが、仏教の奥深い宗教性に気づかないというのは、仏教を表面的にお勉強の対象として捉えているからである。仏教を外側から眺めるのではなく、内側に入って初めて仏教が持つ深淵な宗教性に気づき、それを感じることができる。アメリカの思想家のケン・ウィルバーが述べる内側と外側というのはそういうことである。仏教を外側から眺め続けている限り、その宗教性には気づかず、仮に気付いたとしてもそれは外側の視点を通じた宗教性に過ぎない。そこには内側から捉えた血肉がないのである。良遍の宗教的情熱に触れていると、仏教の宗教性がますます重要だということが見えてくる。それは他の宗教においても同じである。宗教学をもちろん宗教心に基づいて推し進めることは可能であるが、往々にしてそれは宗教を外側から眺める探究実践なのだ。それそのものが悪いわけではない。それには固有の価値と意義がある。しかしそれはあくまでも外側からの眺めであることに気づかなければならない。宗教学者と宗教者の見えている世界が異なることを見れば、外側と内側の眺めの相違は一目瞭然であろう。それに気づかないのというのは、結局その人がどちらかの視点にしか立っていないからである。ここでも視点取得の問題が浮上する。少なくとも自分は外側と内側の双方の視点を取り続けたい。そのための唯識学研究なのであって実践なのだ。仏教を含めて宗教を統合的に眺め、統合的にそれを通じて生きるというのはそういうことを指すのだろう。フローニンゲン:2024/3/29(金)09:00


12404. 唯識学を通じたヴァーチャルリアリティゲームをしているかのような楽しさ


時刻はゆっくりと午後4時を迎えようとしている。今日のオランダはGood Fridayという祝日で、先ほど昨日のトレーニングを受けてのアクティブレストとして散歩がてらコーヒー屋に立ち寄り、その足で復活祭の月曜日分の食料をオーガニックスーパーで購入してきた。コーヒー屋に向かっている最中にふと、唯識学研究のための付箋を購入しておこうと思ったので、フローニンゲン大学のギフトショップに立ち寄って5色の付箋を購入した。大学のメインキャンパスの前を通ると、そこには観光客がたくさんいた。もちろん祝日であっても図書館で勉強している学生たちもいたので、メインキャンパスの歴史的建造物の前は多くの人で賑わっていた。オランダは祝日であっても平日であってもあまり関係なくゆったりとした時が流れている。カフェやレストランで昼からお酒を飲んでいる人たちもたくさんいて、その寛ぐ様子を見ているだけでこちらも心が安らいでくる。この落ち着いた町で生活できることの幸せを噛み締めながら街中を歩いている自分がいた。本当に幸せである。この平穏で幸福な感じが満ち溢れるこの町で暮らせることに深く感謝しても仕切れない。本当に自分は幸せ者である。


自分の心が幸福で満ち溢れているからこの町が幸せに満たされているように思えるという唯識学的な発想が現れる。きっとそうなのかもしれない。やはり自分の心が常に幸福感で満たされたものであるがゆえにこの町が幸せに満ちたように見えるのだろう。


行きと帰り道に、午後に作成していた唯識学の講義用のPPTスライドの内容について振り返っていた。特に四分義について振り返りをしていた。これは非常に奥の深い説明モデルである。その複雑性について考えていると、どこまでも考えが深まっていき、心の詳細な分析が可能になると思った。同時に、その複雑性に圧倒されそうな自分がいて、まだこのモデルを完全に汲み尽くすことができていないと思ったのも事実である。とりわけ四分義が8つの識の全てを対象にするだけではなく、心の働きとしての心所にも当てはまるというのはなかなか理解が難しい。6つのグループの51の心の作用に対してもそれぞれに見分や相分などの四分があるという点についてさらに理解を深めていきたいと思う。四分義についてずっと考え事をしてしばらくしてからは、改めて前五識を1つ1つ意識の上に上げていき、街を歩いている自分がどのように環境世界を生み出しているのかを観法実践していた。こうした地道な実践を日々街中にいる時にも行っていこう。それはまるでヴァーチャルリアリティゲームをしているかのような楽しさがある。フローニンゲン:2024/3/29(金)16:07

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