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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12276-12281:2024年3月9日(土)



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タイトル一覧

12276. 外国語を学ぶ醍醐味に関するふとした考え

12277. 今朝方の夢

12278. 今朝方の夢の続き

12279. 唯識思想の概念・数式モデル化/法味の味わい

12280. 「主観」と「客観」より/現象的遊観者として生きること

12281. 法悦と人生の変化を感じて


12276. 外国語を学ぶ醍醐味に関するふとした考え


時刻は午前3時半を迎えようとしている。今朝方の目覚めもすこぶる良く、目覚めた瞬間からいつものように、唯識思想を研究できるという喜びの感情が溢れて来た。唯識思想の研究を始めてからというもの、毎日がこのように至福さで始まり、至福さで終わることに感謝の念が尽きない。


今の気温は2度と低いが、昨日と同様に今日も雲ひとつない快晴に恵まれるとのことで、日中の最高気温は8度ほどだが暖かさを観じられるだろう。太陽が出ているのと出ていないのとでは同じ気温でも体感温度に随分と差がある。今日は太陽が出続けているから特に午後には暖かさを感じられるのではないかと思う。そんな中、午後には書籍の受け取りと買い物がてら近所の玩具屋に足を運びたいと思う。先日日本から注文した唯識思想関連の書籍が数冊ほど届いたという連絡を受けたので、それを受け取りに行って来る。ここから来週にかけて注文した全ての書籍を受け取ることになる。受け取った30冊近くの書籍もすぐさま初読が終わるだろう。それくらいに旺盛に唯識研究を進めていく。唯識研究においては何の引目もなしに和書を参照することができることを嬉しく思う。和書を読み込むおかげで、唯識思想の洋書がとても読みやすくなっている。英語のままで唯識思想を理解することも当然できるし、むしろ英語の方が表現は簡潔でわかりやすいのだが、日本語が持つ深みと豊かさゆえに、日本語で唯識思想に触れておくと、英語を通じての簡潔明瞭な説明に加えてさらに豊かな理解を獲得することができる。1つの言語ではなく、複数の言語を通じてある対象を理解していくことの便益を改めて感じる。これも唯識思想からすれば当然のことだと言えるだろう。言語は固有の感覚意味世界を有しており、母国語だけではなく、外国語を学ぶことを通じて、母国語にはない固有の感覚意味世界に入っていくことができる。外国語を学ぶことを継続すればするだけ、その固有の感覚意味世界が自分の内面世界となり、それはさらに育まれていき、これまで知覚できなかった感覚や意味を掴めるようになってくる。そして世界を見るレンズは言語によって左右されることからも、世界をこれまでとは違ったレンズで見ることができるようになる。喩えて言えば、外国語を学ぶことはOSとしてもアプリケーションとしても母国語のそれらとは全く違ったものをインストールすることであり、異なったOSとアプリケーションを通じて世界を生きることを可能にするのである。確かに現在の翻訳機能はとても便利になったが、翻訳機能に頼っていると、決して外国語習得に伴う本当の醍醐味をいつまでも味わうことはできない。それは外国語に固有の感覚意味世界に参入し、それを自分の内側に取り込む形で新たなOSとアプリケーションで世界を生きることを可能にすることなのだ。現在世の中に出回っている翻訳機能は本当に便利なものになり、多くの人がそれを使っているだろうが、それに頼り切ってしまうと、外国語を学ぶことでしか得られない真の醍醐味は一生得られないままになるだろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/3/9(土)03:40


12277. 今朝方の夢   


今日もまた唯識思想の研究に没頭専心していこう。今日は午前中にオンラインゼミナールの第70回のクラスがある。ゼミナールももうそれくらいの数を積み重ねてきたのだなとしみじみ思う。しかしゼミナールはここからがさらに面白くなってくる。現在取り扱っている神道のテーマが終われば、本格的に唯識思想について扱っていく。予定としては5月の中旬から唯識思想をテーマにして扱えそうであり、それまでにどれだけ自分の方で研究を進められるかがゼミナールのクラスの充実さにもつながってきそうである。ゼミナールのクラスをさらに充実したものにしていくという利他的な目標を掲げて、今日もまた唯識思想についてできる限り多くのことを学びたい。


第28回のシロシビン・セッションを明日に控えた今朝方は、1つ印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、修学旅行の一環として海沿いにある旅館に宿泊していた。まずは観光として早速海を見にいこうということになった。砂浜に到着してみると、なんとそこは実家の目の前の瀬戸内海だったので驚いた。どうも見慣れた景色が広がっているなと思ったが、むしろそれが自分の心を落ち着かせてくれ、友人たちにこの海の魅力を紹介しようと思った。すると、右手に前職時代の女性の上司がいた。その方が私を含めたその場にいた数人を笑顔で手招きし、そちらの方に来るように合図を送っていた。どうやらそちらの方にその日に宿泊する予定の旅館があるらしかった。上司が手招きする方にみんなで走っていこうとすると、満潮のため海水が砂浜の上の方まで上がってきていたので驚いた。今日は随分と潮が高く、普段よりも遥かに海水が浜の上の方まで上がっていたのである。私たちは足元が濡れないように、まだ海水が上がってきていない場所を辿って行きながら旅館の方に向かった。すると、砂浜に一台のバスが停車していた。それに乗って旅館に行くのかなと思ったらそうではなく、バスの向こう側に旅館があるようだった。それではそのバスは一体何のためにあるのだろうと思い、常識的に考えればあり得ないが、きっとそれは単なるオブジェとしてそこに置いてあるだけなのだろうと妙に納得した。


満潮で潮が普段以上に上がった砂浜を無事に抜けると、旅館が目の前に現れた。私たちは早速旅館に入り、旅館の入り口で旅館の人に挨拶をした。夕食前にまずは砂浜を走って汚れた足を洗いたいと思い、みんなでシャワーを浴びることにした。大浴場での入浴は夕食後の楽しみということで、まずはシャワーをさっと浴びて体を綺麗にすることにした。シャワールームはとても狭く、3つのシャワーが同じ個室空間の中にあるという変わった作りになっていて、そこで4人の友人と自分を含めて5人で一斉にシャワーを浴びた。そこから体を綺麗にしていったわけだが、シャワーを浴び終える頃に私がふと思わぬことを口ずさみ、それがみんなにとって面白かったらしく、自分もよくよく考えると笑えることを思わず述べてしまったなと思った。気がつけば大爆笑する形で目覚めていた。今日は午前3時に大爆笑する形で目覚めるという実にめでたい形での起床となった。フローニンゲン:2024/3/9(土)03:55


12278. 今朝方の夢の続き


今朝方もまた新旧シロシビン・マッシュルームの栽培キットから収穫をした。旧栽培キットの方からも依然として収穫ができることに驚く。今日も立派な2本のマッシュルームを収穫することができ、土の上にはまだ小さいものが1つ頭を出していたので、引き続き収穫が行えるようだ。仮にこの夏から再びアメリカでの生活を始めることになれば、オランダを離れる前までの期間における隔週のシロシビン・セッションは、新旧の栽培キットから収穫されるもので十分に事足りそうで何よりである。これからも引き続き愛情を注いで立派なマッシュルームを栽培し、それを用いて有意義なセッションが行えたらと思う。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、もう1つ印象に残っている夢を思い出したのでその夢についても振り返っておきたい。夢の中で私は、見慣れない外国の街にいた。そこは確かに観光地化されていたが、落ち着きもあって自分にとっては心地良い場所だった。むしろその街は自分の生活拠点の1つになっているかのようであった。丘の住宅地を歩いていると、突然前方からやって来た日本人の男性に声を掛けられた。その男性の表情はどこか怒っているように見え、どうしたのだろうと思った。彼は自分に声を掛けてきたというよりも、自分に怒りをぶつけたいのだとすぐさま分かった。彼を相手にしないようにスッと歩みを進めていこうとした瞬間に、彼が小さな針をポケットから取り出し、それを私の右腕に刺した。その針は鍼灸で使われるぐらいに細く小さなもので、右腕に針を刺された瞬間には何も痛みを感じなかった。ひょっとしたら時間差で何か悪い影響が現れたり、針の先に毒が塗られていたりしたら怖いなと思った。その男性はすぐさま姿を消し、そこから私は刺された右腕を眺めながら歩いていくことにした。しばらく経っても何も変化が起こらず、特に問題ないように思えたのでほっとした。すると、今度は前方から小中高時代のある友人(SN)がやって来て、彼も先ほどの男性に針を刺されたようだった。友人の彼はなんと3本も針を刺されてしまったそうだった。そこで彼とは一体あの男性は何を目的に人に対して針を刺して回っているのだろうかと話し合った。そのような夢を見ていたことを思い出す。


夢の中の針には何も毒が盛られていなかったが、基本的にこの社会では、人々が毒を持った言葉を交わして日々生活をしている。それは気づかないような小さな毒もあれば、大きな毒もある。毒の量も大きさも実に様々で、自分が相手に毒を持った針としての言葉を投げかけていることに気づかなかったり、そうした針を打ち込まれていることに気づかないこともある。しかしながら本来針は鍼灸にあるように人を癒す働きも持っている。どのような言葉をどのように投げかけるかが、相手にとって毒にもなれば良薬にもなるのである。そして相手の言葉をどう受け止めるか、自らどのような言葉を発するかは、全て識の中での出来事になる。外境での出来事ではなく、全ては内境での出来事なのだ。普段自分がどのような言葉を相手に発しているか、そして他者からどのような言葉をどのように受け取っているかもまた唯識思想の観点から観察してみることは非常に有益だろう。フローニンゲン:2024/3/9(土)05:02


12279. 唯識思想の概念・数式モデル化/法味の味わい    

   

ここから今日のゼミナールのクラスまで、旺盛に唯識研究を進めていこう。その過程の中で、唯識思想の概念を使って心の成長につながる概念モデルをいくつか実験的に作ってみようと思う。仏教は実に充実した因果関係モデルを提示しているので、それを参考にしながら、唯識思想の概念をモデル化していく。それはすなわち数式モデルにも転換できることを意味する。例えば、阿頼耶識の概念は積分と相性が良いことにすぐさま気づく。積分の中の変数として時間、そして末那識と前六識を通じた種子を組み合わせていけば、それだけで1つ積分モデルが作れる。それができれば、まさに自分がフローニンゲン大学で行っていたような応用数学を活用したシミレーションが行える。なるほど、自分がフローニンゲン大学で学んでいたことはこのように繋がりを持ってくるのだなと気付かされる。アメリカを離れてオランダにやって来たのはこのためだったのかもしれない。フローニンゲン大学では、知性をとりわけ非線型ダイナミクスとダイナミックシステムアプローチという2つの応用数学領域からモデル化してシミレーションする研究に従事していた。知性を心と置き換えて、唯識思想の中にある豊富な概念群を活用すれば、数式モデルはいくらでも作れそうである。重要なことはそれをどのように実社会に活かすかであるが、それもまたすでにいくつもの応用事例を考えることができる。端的には、人が関係することで心の成長と関係のない領域を見つけることの方が難しいので、応用事例はもう無数に考えられそうである。コーチングやセラピーのコンテクストは言わずもがなであり、教育のコンテクストでも活用できる。さらには、VR世界におけるゲームの制作などにおいても心の数式モデルをうまく活用することなどもできるだろう。自分は本当に数学と英語によってこの人生を豊かにしてもらったのだとつくづく思う。今はそこに唯識思想が加わり、ここからなお一層のこと人生が豊かになっていきそうである。その豊かさを少しでも他者や社会に共有・還元していくこと。それを忘れてはならない。


心の器を磨き、心の成長を実現させる瑜伽行唯識派の思想。唯識思想を学ぶ過程の中で、真理の味である「法味」が絶えず味わえることに喜びと感謝の念が尽きない。法味の味わいを伝えることは、多くの人がこれから唯識思想の学習を始めてもらえるきっかけとしてとても大事なのではないかと思う。美味しいものを食べて舌鼓を打ちながら感動するのと同じことが真理にも当てはまる。真理も食すことができ、真理も味わうことができるのだ。そしてそれは食べ物を食すのを遥かに超えた無限かつ深遠な歓喜をもたらすはずだ。フローニンゲン:2024/3/9(土)05:31


12280. 「主観」と「客観」より/現象的遊観者として生きること   


昨日興味深いことに気づいた。昨夜も就寝前の時間まで唯識思想に関する書籍を読み進めていたのだが、それが和書であったことも手伝って、英語における“subject”と”object”がそれぞれ「主体」と「客体」ではなく、「主観」と「客観」と表記されていることに気づいてハッとしたのである。「主体」「客体」という言葉を用いてしまうと、どうも私たちはそれらを実体化しがちであり、唯識思想においては、あるいは大乗仏教全般においては、永遠不変の固定化された実体を認めず、全ては空であると考えるので、見事な言葉の選択かと思った。あくまでも見るものも見られるものも「観点」としての意識現象に過ぎないのである。私たちはどうしても「主体」や「客体」という言葉を使うと、見る存在がいると実体化してしまい、見られる対象が存在すると実体化してしまう。しかし、それらはあくまでも仮そめの現象として所縁によってその瞬間に立ち現れているだけであって、何ら固定化された実体ではないのである。このあたりからもわかるように、唯識思想は唯物論とは当然かけ離れたものであるだけではなく、素朴な観念論とも異なり、むしろ現象論と近しいことが見えてくる。それにしても、私たちの意識世界の中に主観と客観があるだけで、それらは所縁によって生成消滅を繰り返し、千変万化するという発想は見事である。見る主体があると「有」を前提とした西洋の心理学や心の哲学よりもさらに踏み込んだ心の理解が唯識思想の中に見られる。


そのようなことを昨日に考えていたのだが、それ以外にも、汚れのない無漏心を持って真理に遊ぶことを意味する「遊観」を持って自己と世界を絶えず観じて生きていければと思うということについても考えていたことを思い出した。自分は絶えず自己の内側で生起する主観と客観をできるだけ無漏心を持って眺め、少しでも真理に到達したいと願っている。それは悲壮的な願いではなく、楽しみの感情に溢れた願いである。自分は真理に導かれ、真理の世界で遊ぶ者として佇んでいる。その存在もまた固定化された実体を持たず、絶えず真理と触れ合う遊びを通じて真理化が深まっていく動的な存在である。自分は絶えず変化していく現象的遊観者である。とことんまでに真理を見つめ、真理と遊ぶ者なのだ。現象的遊観者として生きる楽しさをこれからも味わい続けたい。それを心底味わい尽くしたい。自分はそんな現象的遊観者であるということ。そのような新たな自己理解が得られた体験をしていた。フローニンゲン:2024/3/9(土)06:01


12281. 法悦と人生の変化を感じて       


時刻は午後3時を迎えようとしている。今日はとても天気が良く、雲ひとつない見事な空が朝からずっと広がっている。そんな中、日本から注文した唯識思想関係の書籍を先ほど近所の玩具屋に受け取りに行って来た。その道中は、今日は土曜日でなおかつ天気が良いということもあって、横切ったノーダープラントソン公園には多くの寛ぐ人たちがいた。彼らの表情は一様に幸せそうであり、それを見ているこちらもまた幸せな気持ちになった。まさに主観と客観の一致がそこにあった。相手が幸せそうだと思えるのはこちらが幸せだからでもあり、そこに主客の一致を見る。いずれにせよ、こうした日々の些細な事柄の中にも唯識思想で説明できる事柄がたくさんあり、実践の場が無数にある。まさに今の自分は法悦を味わっているのだと思う。仏法に触れる喜びが絶えずある。仏法について読んだり聞いたりする喜びだけではなく、仏法の観点を通して自分と世界を眺めることへの無上な喜びがあるのだ。この喜びをもとに学習と実践を進めていけば、どこまでも遠くへ進めるような気がする。願わくば全ての衆生を幸せにするような存在になれたらと思う。それが今世で実現できなかったとしても、それに向かっていく過程で積んだ善い業を誰かに引き渡したいと思う。ある個人の業を他の個人に引き渡せるのかはわからないが、自分が植えた種子は自分の死後もきっと誰かに何かしらの影響を与えるであろう。ここからは日々法悦を味わって、法悦と一体となって日々の唯識研究と実践を進めていきたい。


書籍を受け取るために自宅の扉を開けた時に、オーナーのフレディさんとペイトラさんが庭で作業をしていた。2人に話し掛け、そこからしばらく立ち話をしていた。2人にはすでにハーバード神学大学院(HDS)へ出願したことを伝えているので、その結果について尋ねられた。おそらく来週の月曜日か火曜日には結果が分かるだろうから、結果が出次第すぐに連絡すると伝えた。仮にHDSとご縁があったら、ボストンに早めに行って環境適応をゆっくり行いたいと思うので、6月末には引っ越しをすることを2人に伝えた。すると、インド人のサハル一家もほぼ同じタイミングで引っ越しをするとのことだった。現在インドネシアに数ヶ月滞在しているマークがオランダに戻ってくるのもその時期らしく、今住んでいる家のコミュニティの中では全員色々と人生における変化を経験しているようだ。「人生には変化がつきものだよね」という話を3人でしながら、この数年間一緒に過ごして来た中での思い出話を少々行った。季節は春に近づいて来ており、色取り取りの花々が姿を現し始めた。世界も自己も他者も変化に富んだ時期に差し掛かっているようだ。フローニンゲン:2024/3/9(土)15:04

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