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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12224-12228:2024年2月29日(木)



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タイトル一覧

12224. 今朝方の夢

12225. 唯識思想と共に歩む心の成長道

12226. 玄奘の『成唯識論』を前にして行った合掌と一礼より

12227. 唯識思想がもたらす幸福感を噛み締めて/日常に遍満する修行の機会

12228. 環世界・人人唯識/唯識思想との出会いをもたらしたこれまでの薫習


12224. 今朝方の夢


時刻は午前3時半を迎えた。今の気温は6度と比較的暖かく、日中は8度まで気温が上がる。最高気温はさほどでもないが、少しずつ春に向かっているフローニンゲン。この街での生活もひょっとしたら後少しになるかもしれないと思うと、自ずからこの街で過ごす日々が大切なものとなり、季節の微細な変化にも敏感になる。まさに死期が迫って来た人が日々の一瞬一瞬を感度高く捉えるのとどこか似ているように思える。ある街で生活をすることをやめて別の街で生活することもまたある種の死の体験なのだから、今の自分の感覚が鋭敏なものになり、この街で過ごす日々の小さな変化を捉えるというのは当然のことなのかもしれない。そうしたことを考えながら今朝方の夢について振り返っていた。


夢の中で私は、夢を目撃する者として存在していた。いくつかの夢の場面がまるで万華鏡のように変化していき、それらの夢を1つのガラス玉として見ている自分がいた。目撃していた夢の中では欧米人や日本人が主たる登場人物になって場面が展開されていた。まずはそうした形で夢と接していた自分がいたことを思いだす。


その他に覚えていることとしては、日本で卒業した大学の一橋大学の図書館で勉強に励む学生たちを眺めている場面もあった。図書館では学生が夜遅くまで勉強をしていて、その姿には打たれるものがあったし、自分もまたより一層学術研究に打ち込もうと思う刺激をもらった。ある男子学生はロースクールの入学に向けて六法全書を片手に勉強に励んでいた姿が印象的であった。母校を舞台にした場面としてもう1つ、大臣を務めたことのある大先輩の卒業生が小さな教室でインタビューを受けていた場面を覚えている。その先輩とは年齢が何回りも違うため、気安く話変えられるような感じではなかった。そうした遠慮をしながら先輩のインタビューを聞いていると、少し質問してみたい事柄が出て来て、それを質問するべきか考えたところで夢の場面が変わった。


今朝方はその他にもまだ夢を見ていたように思う。幾分目まぐるしく展開していく夢だったようにも思うし、1つ1つの場面にある程度滞在していたように思える。ここから自分が行いたいことは、見た夢に対して唯識思想の観点や仏教思想全般の観点を適用することである。そのための道具箱を構築していく必要があり、今日の探究活動もそれに向けた一歩になるだろう。覚醒状態の自分だけではなく、夢の中の自分も対象にしながら唯識思想を通じて心の成長を図ること。それをこれからの取り組みとして主眼を当てたい。フローニンゲン:2024/2/29(木)03:53


12225. 唯識思想と共に歩む心の成長道


ゆっくりと午前4時に近づく朝の世界。辺りはまだ真っ暗で、当然ながらこの時間帯では小鳥たちの鳴き声は聞こえてこない。彼らが気持ち良く鳴き声をあげられるように彼らに祈りを捧げる自分がいる。オランダで過ごす歳月が増していくに応じて、自分は信心深くなった。確かに今は仏道に入り、宗教心が涵養されたことは確かだが、信心深さは特定の宗教を信奉するしないにかかわらず、心の成長と関係しているのではないかと思う。特定の宗教を信奉していても信心深くない人は世の中にたくさんいるのである。慣習的な霊性と後慣習的な霊性は全くの別物である。今自分の中では、大乗仏教瑜伽行唯識学派の思想を学べば学ぶだけ、自らの心の成長が少しずつ実現されているという実感がすでにある。それは毎日起こっている。唯識思想を通じて自分の心の様子を眺めてみると、成長に向けて反省するべき事柄が山のように見つかり、それと1つ1つ向き合う形で毎日が進んでいる。こうした地道な取り組みを続けていけば、きっと継続的な成長が実現できるだろう。ここからの自分の心の成長に関して、唯識思想はなくてはならないものであり、成長に関する最良最善の羅針盤である。


昨日の段階で唯識思想や仏教全般の思想に関する専門書の初読を全て終えたので、今日からは本格的に英文書籍の再読を始めていく。本日まず取り掛かるのは、“On realizing there is only the virtual nature of consciousness: An English translation of Xuánzàng's Vijñapti Matratā Siddhi”という書籍で、本書は玄奘の主著『成唯識論』の全10巻に対する英訳である。唯識思想の発展に大きく貢献した玄奘の本書を英訳で読めるというのはとても有り難く、翻訳者には本当に感謝している。『成唯識論』は日本の法相宗において最も重要な書物として扱われているぐらいの最重要文献と言ってもいいだろう。数日前に初読をした時に、本書の内容の豊かに本当に心を打たれ、また心を奪われた。丁寧に再読をしていこうと思っているので、今日1日かけても全てを読み返すことはできないだろう。焦ることなく少しずつ本書の再読を進めていき、その過程の中で自らの心の成長につながる振り返りのワークをしていく。確かに自分は唯識思想に対して学術的な研究をしていこうと思っているが、学術研究の枠組みだけを通じて唯識思想を捉えるのは実にもったいない。なぜなら、唯識思想は本来人々の心の成長を実現させ、悟りを開かせるためにある実践的な思想体系だからである。その性質を骨抜きにして唯識思想に触れるのは非常にもったいない。再読にどれだけ時間がかかってもいいので、ページをめくるたびごとに自己の心の内面を見つめ、自己成長につながる内省的な問いを自身に投げかけていく。唯識思想と共に歩む自らの心の成長道が自分でも楽しみだ。フローニンゲン:2024/2/29(木)04:07


12226. 玄奘の『成唯識論』を前にして行った合掌と一礼より       


早朝の午前5時を目前にして今日の唯識思想研究に取り掛かったのだが、書見台の上に置かれた三蔵法師こと玄奘の全10巻の『成唯識論』の英訳“On realizing there is only the virtual nature of consciousness: An English translation of Xuánzàng's Vijñapti Matratā Siddhi”を前にして咄嗟に取った行動に自分でも驚いた。なんと無意識的に自分は初見台に置かれたこの本を前にして合掌し、一礼お辞儀をしてから書物に手をつけたのである。逆に言えば、これまでの自分はなんと敬意のない形で書物と向き合って来たのかと猛反省させられたのである。これからは書見台に置かれたどんな本に対しても差別することなく合掌をしてお辞儀をしなければならない。それは自分の中で儀式として確立しなければならない大切なもののように思えた。信心深く1冊の書物と向き合うことを通じて始めてその書物の内容を深く汲み取ることができるのではないだろうか。その書物の著者と書かれている内容とに成り切るためには、そうした儀式が不可欠のように思えてくる。合掌をし、お辞儀をすることで精神が統一され、書籍の内容が頭に入りやすくなるであろうという実利的な効果も想像できている。今後はまずは意識的に書物を前にして合掌と一礼を習慣付けていく。その習慣が定着したら、もはや意識せずとも1冊の書物に対して敬意を評して接することができるようになっているだろう。書物の中には著者の精神が宿っているのである。その精神に敬意を評しないというのは何事なのだろうか。これまでの自分は学術研究に従事するものとしてなんと敬意を欠いた人間だったのだと愕然とする。これは別に学術研究に従事している人間であろうとなかろうと大切なことに思える。一体誰が墓石の前で手を合わせずにいられるだろうか。何かの縁で自分の手元にやって来て、自分が選んだ書籍であれば、本来書籍の中に内包されている著者の精神を感じられるはずである。それに敬意を評して、墓石の前で手を合わせるかのように感謝の祈りを捧げることを自分はこれから徹底していきたい。これは何も書籍に対してだけではなく、本来はありとあらゆることに対して行って行くべきである。それが自分の霊性や徳を育み、心の成長を促す。食事についてはいつも手を合わせているが、日常生活の中でその他に感謝を捧げやすい対象が何かを探してみよう。例えば、今日の午後に行く予定のジムでのトレーニングの際にも、ジムの中でトレーニングを始める前に合掌をして一礼してみようかと思う。それで身体細胞や筋肉がどのように働きを変えるのかについても観察して見たいと思う。全ての存在と事象への感謝。それを合掌と一礼で形として示すこと。それを自分の日々の生活の中に溶け込ませていこう。フローニンゲン:2024/2/29(木)05:01


12227. 唯識思想がもたらす幸福感を噛み締めて/日常に遍満する修行の機会   


唯識思想を学ぶ際に自分が大切にしているのは、とにかく書物の中に書かれている教えを自らの内面世界での現象に適用することである。それを通じてつぶさに自分の心の内側を観察していく習慣を徹底的に作り上げていき、観察の精度を高度化させるようにしている。そしてそれに負けずとも劣らずに重要なことは、唯識思想を学ぶことができていることへの幸せを感じることだ。この幸福感を感じられるか否かが唯識思想の本質的な理解への到達度を左右するように思うし、実践適用の度合いを左右するように思う。とにかく書物を読みながら自分の内側を観察していくことと、唯識思想に触れている、あるいは包まれている幸福感を噛み締めることを大切にしたい。


こうして唯識思想の探究に没頭していると、そこで学んだことを日常生活の至る所で絶えず適用しようとする自己がいる。それは自分の心の成長を促し、より自他の幸福に資する人間に向かっていくために行っているのだが、とりわけ人と接する機会は最良の修行の場である。また、何気なく外出する際も修行の場に出かけている実感がする。こうして1人暮らしを長くしていると、1人での生活においても内面世界に小さな波が生じることはあるが、波を大きくさせるのは間違いなく外界で他者と接している時である。ここでいう外界とは、オンライン上でのコミュニケーションも含まれる。とにかく他者と接する機会は本当に修行の場である。武術で言うところの手合わせをしているかのように、自分の心が試されるのだ。武術の相対稽古と違うのは、自分の技を試すとか、相手に攻撃するとかが生じない点であり、唯識思想を用いた他者との交流における内面探求においては、とにかく自分の心の内側にベクトルを向けて行く。意識の矛先は他者ではなく、常に内側なのだ。おそらく武術の達人であれば意識は絶えず自分の内側に向かっていることだろう。それと同様に、日々の生活の中で他者と接する1つ1つの機会は、自分の内面にベクトルを向ける最良の機会なのだ。今日もまた午後に外に出かけてジムに行くが、それもまた内面修行の一環なのだ。外形として肉体を鍛えているように見えながらも、内実は内面を鍛えているのである。ジムで他者と声を掛け合い、ちょっとしたやり取りをした時の自分の心の内側の機微に敏感になっていこう。どのような動きがそこに見られるかに注意深く観察眼を当てるのだ。他者と言葉を交わす機会は最良の内面修行の場であり、他者と仮に言葉を交わさずとも、他者の文章を読む際やドラマや映画を見る際にも心が動くと思う。そうした場面は自宅で1人でも意識的・無意識的に無数にあるだろうから、それらの機会も心の内側を見つめ、さらなる成長を実現して行く修行の場としたい。日常のありとあらゆる瞬間を心の成長を実現するための仏道修行の機会としよう。心を豊かにする機会はまるで空気のように日常に遍満しているのだ。フローニンゲン:2024/2/29(木)06:09


12228. 環世界・人人唯識/唯識思想との出会いをもたらしたこれまでの薫習


時刻は午後7時を迎えようとしている。今、外で猫が何やら寂しげな鳴き声を上げた。ここ最近はよく猫の鳴き声が聞こえてくる。寒さのためなのか、それとも何か別な理由で鳴き声を上げているのか定かではない。猫には猫の世界があり、それは人間にはなかなか認識できないものなのかもしれない。ユクスキュルのいう環世界というものが存在し、唯識思想で言えば、「人人唯識(にんにんゆいしき)」というものが存在していることを歴然として実感する。猫には固有の世界があるということを認識する自分固有の認識世界が自分の内側に広がっている。そして、それは自分の固有な世界そのものである。


今日は小雨が降る中でジムに行ってパーソナルトレーニングを受けて来た。日中のほぼ全ての時間を唯識研究に毎日充てていることもあって、ふと外に出かけると、研究最中に読んでいた書物の内容が脳裏を駆け巡り、唯識思想のレンズを通して外界世界を歩く自分がいる。逆に唯識思想を学んでいなかった時の自分はまだ目覚めておらず、夢遊病者として外界を歩いていたと言えるかもしれない。それくらいに自分の認識が変わって来ている。外をゆっくり歩きながら、目に映るものや聞こえてくるもの、さらには頬を伝う風などの全てが識内の映像的現象なのだということをありありと理解するようになって来ている。唯識思想は本当に実践的な思想体系であり、他の学問領域とは随分と異なることが明白であり、それは兎にも角にも悟りという目標に向けて構築されたものだからなのだろう。悟りを開き、悟った目で世界を生きることを可能にすることを目的に据えた唯識思想の価値は、なかなか他の学問分野には見出すことができない。発達プロセスのメカニズムを記述する発達心理学にもそれを見出すことはできない。どこまでいってもそれはプロセスやメカニズムの記述を目的にしており、悟りに至るための方法論の提示を目的にしてはいないのである。自分が今こうして唯識思想に出会って唯識思想の魅力に取り憑かれているのは、これまで散々と心の成長プロセスやメカニズムについて発達心理学を通じて学んできたからかもしれない。そう考えると、発達心理学を学んだことは自分にとって必要なものだったのであり、それが阿頼耶識にしっかりと薫習してくれたおかげで唯識思想と出会い、その大いなる価値に目を見開かされたのだと思う。きっと他の人が唯識思想を見てもその意義や価値になかなか気づけないかもしれないところを自分がそれに気づけたのは、これまで積み重ねて来た業があったからなのだと思うし、それは善業だったのだろう。そのようなことを思う夜だ。フローニンゲン:2024/2/29(木)19:03


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