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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12216-12223:2024年2月28日(水)



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タイトル一覧

12216. 諸行無常を感じながら

12217. 今朝方の夢

12218. 今朝方の夢の続き/遊戯かつ娯楽としての唯識思想の探究

12219. 今朝方の夢を再び振り返って

12220. 夢の振り返りによる変化の実感

12221. 無上なる幸せ/自分を惹きつけて止まない唯識思想

12222. 日本法相宗の歴史的発展を明らかにするための博士課程での研究案

12223. 仏教辞典の読解に三昧没頭して


12216. 諸行無常を感じながら 


時刻はちょうど午前4時を迎えたところだ。今朝方は3時半頃に起床し、起きてすぐにシャワーを浴びるのではなく、昨夜から行っていたシロシビン・マッシュルームの乾燥をさらに進めるために2階に上がって、キッチンのオーブンを再度稼働させた。新栽培キットでの栽培も順調に進んでおり、ここから収穫ラッシュを迎える。昨夜の段階では大きく育った数本のマッシュルームだけ収穫したので、今夜もまた収穫できそうである。マッシュルームの生命力は驚くほど強く、発育力も素晴らしい。朝の段階でそれほどの大きさでもなかったものが夜には一気に大きく育っていることもあるのである。もちろんそれを促すための環境整備は大切で、室温と栽培キット内の湿度の管理、そして酸素を定期的に供給することが重要になる。酸素の供給は難しいことではなく、栽培キットのビニール袋を開けて空気の入れ替えをするだけでいい。湿度管理も簡単で、霧吹きを使ってビニールを湿らせるだけでいいのだ。今夜と明日の朝、あるいはそのどちらにおいてもかもしれないが、大量の収穫が楽しみである。


早朝のこの段階での気温は1度と低いが、今日は1日を通して晴れのようであり、8度まで気温が上がるようだ。明日からはもう最低気温も5度を超えてくるし、土曜日からは最高気温も10度を超えてくるので3月の足音が聞こえてくる形である。フローニンゲンが完全に春に入るのはまだまだ先で5月中旬ぐらいになるだろうが、それまでの期間においても着実に少しずつ暖かくなっていくことを楽しみたい。この世は本当に諸行無常である。そんなことを季節の進行に対して思うし、自分の人生に対しても思う。心身の有り様も生まれてからこのかたまで一度たりとも同一のことはなく、絶え間ない変化がそこにあった。長い時間をかけて変化はさらに目に見える形で大きくなり、それこそ5年前、10年前、20年前の自分の心身と今のそれらを比較してみると、その変化は歴然としている。身体に関しては普段から鍛えているということもあってむしろ昔よりも機能が向上しているようにすら思えるが、それでも着実にどこか向かうべき場所に向かって小さく変化しているのを感じることは確かだ。世の無常性を感じながら日々を生きることもまた仏道修行の一環かと思う。全てのものが無常であれば、執着や煩悩は減っていくはずである。諸行無常を絶えず念頭に置きながら、日々の取り組みの1つ1つを大切にし、毎日出会う全ての事象に感謝していきたい。フローニンゲン:2024/2/28(水)04:10


12217. 今朝方の夢   


今日もまた落ち着いた心で集中力を高く保って唯識思想の研究に打ち込みたいと思う。昨日も興奮と感動の最中で探究が進んでいた。本当にここまで網羅的で深い心の実践理論を自分は知らない。そのようなものが今から1400年以上も前に誕生していたということを思うと驚いてしまう。もちろんその期間に様々な仏教者が理論を洗練させていったわけだが、そうであったとしても唯識思想を大成させた段階での世親の唯識論にはため息が出てしまうぐらいに感銘を受ける。今日もまたそのような唯識思想の探究にとことん打ち込んでいく。


今朝方は1つ印象的な夢を見ていた。夢の中で私は、日本のある航空会社の飛行機に乗り、滑走路から離陸されるのを待っていた。空港はロサンゼルスの空港のようで、その日は晴れていたので見事な空が上空に広がっていた。ロサンゼルスらしい気候だなと思いながら、離陸を静かに待っていると、飛行機が動き始め、離陸専用の通路に向かい始めた。そしていざ離陸に向けて速度を上げようとしたら、機体が突然停止し、外部が燃え始めたのである。慌てる乗客を客室乗務員がなだめ、機長のアナウンスを受けて私たちは外に避難にした。するとそこには山脈と山間にある民家が見える景色が広がっていた。その傍に萌えて爆発しそうな飛行機があった。そんな場所に放り出された私たちは、その場から避難することが求められていた。避難と言ってもどちらの方向に批判したらいいのかわからず、それはもう機長も客室乗務員もわからないことであった。なので乗客は思い思いに自分が望む方に歩き始めた。そこは山間だったので川が流れていて、小さな川ではあったが、少し増水しているようで、それを飛び越えていくことに躊躇された。しかし私は直感的に、その川の向こうに行けば確実に助かると思った。だがそうであっても自分はその川を飛び越えることをせず、もう少し辺りを散策して様子を伺うことにした。すると、川の向こうにロサンゼルスの現地に生活している日本人の比較的若い見知らぬ男性がいて、スピーカーを掲げて、なぜか私を含めて3人を名指しにし、国賊呼ばわりした。どうやら私と残りの2人だけがまだその場から避難しておらず、他の全員は避難して速やかに日本に帰ろうとしていたようだった。つまり、私を含めた3人は日本に帰ることを拒否していると彼は思っているようで、それゆえに私たちを国賊呼ばわりしているのだと分かった。それにしても「国賊」とはなかなかひどい言葉だなと思い、それを受けて私はますます日本に帰る気を失い、散策を続けた。


再び機体のある場所に戻ってくると、そこでは事故の原因解明に向けた検証が行われていた。するとどういうわけか、自分を含めた乗客がまた機内の中にいて、先ほど事故があったのを同じ時空間に戻って事故を再体験することになった。私たちにはもう事故の記憶があるので、今度は何が原因で事故が起きたのかを観察する意識と眼があり、それを通じて原因を解明しようとした。どうやら原因はコクピットのある部分の下に取り付けられた車輪に問題があるようだった。それがうまく回転せず、だからつっかえてしまって機体が燃え始めたのだと分かった。原因が分かったことによって、私も含めた乗客たちは安堵し、今後同じような自己が起きないことを願った。そのような夢を見ていた。


先日に日本の航空会社で事故があったことをどこか思い起こさせる夢だった。また、夢の中の小さな川での自分の意思決定や、国賊と呼ばれた時の自分の反応を含めて、色々とまだ振り返りをしたいと思う。フローニンゲン:2024/2/28(水)04:28


12218. 今朝方の夢の続き/遊戯かつ娯楽としての唯識思想の探究


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあることを思い出したので、それについても振り返っておきたい。夢の場面としては飛行機の事故に関するものと同じで、機体が燃えた原因を解明した後に、機体があった脇の草原で小中高時代の友人たちと草サッカーをしていた場面があった。そこには友人たちだけではなく見知らぬ若い欧米人たちもいて、彼らと一緒にサッカーに興じていた。最初こそサッカーボールを使っていたのだが、いつの間にかサッカーボールがiPhoneの部品に変わった。iPhoneを構成する小さな部品をサッカーボール代わりにして、私たちは器用にもサッカーを楽しんでいた。iPhoneを構成する部品は1つではなく無数にあることから、気がつけば先ほどまで全員で一緒にサッカーを楽しんでいたところから、いくつかのグループに分かれてサッカーを楽しむことになった。私たちのグループには小中高時代の親友(HO)がいて、彼とは小学校の時に同じサッカーチームに所属していて、いつも息が合ったプレーをしていた。そうしたことから彼と一緒に組んでサッカーをすることは今でも楽しく、当時を思い出させるかのようであった。私たちのグループでは紅白戦をすることはせず、そもそも人数が数人程度だったので、iPhoneの小さい部品をリフティングして落とさないようにする遊びをした。私たちのチームは彼と私だけで、反対側のチームには4人ほどの欧米人がいた。親友の彼と私の息の合ったプレーは相手チームのメンバーたちを驚かさせ、私たちはゲームを優位に進めていった。しばらくそれに興じていると、随分と時間が経ったことに気づき、別のグループではどのような形で遊んでいるのか気になったのでその様子を見にいくことにした。すると、遠くの方のグループでは小さな部品を器用に蹴ってパス交換していて楽しんでいる様子が見えた。自分もそのグループに混じって一緒に遊びたいと思ったところで夢の場面が変わった。


この夢の中では遊びに興じている自分がいた。そこではサッカーを通じて身体を自由に動かして体を動かす喜びに浸っている自分がいた。今この日記を書いている自分も夢の中のその感覚を思い出す。そうした喜びだけではなく、今の自分には唯識思想を探究する精神的な喜びがある。そこでは自分の知性が自由に運動をし、知性が大いに喜びに浸っているのだ。そしてそれ以上に重要なのは、自分の探究が絶えず他者の人生に何かしらの観点で寄与しているという感覚であり、今後はその感覚をさらに育んでいくことが重要になるだろう。仏教においては、釈迦が人々を解放・救済する活動を「遊戯」「娯楽」というらしく、まさに自分がここ最近感じている遊びや楽しの定義に合致していることに驚きを隠せない。唯識思想の探究と実践は自分にとって他に無い最良の遊戯であり娯楽なのは、そこに自他的な何かがあるからだろう。今日もまた遊戯かつ娯楽としての唯識思想の探究を思う存分楽しみたい。フローニンゲン:2024/2/28(水)05:23


12219. 今朝方の夢を再び振り返って      

 

時刻は午前5時半を迎え、今日もまた毎朝の最良の楽しみの1つであるモーニングコーヒーを淹れた。その味わい深い香りに誘われる形で今朝方の夢についてまた振り返りをしていた。そう言えば、オランダの街で2人の知人に昼食をおごる場面があったことを思い出したのだ。私たちはカフェで軽めのランチを取っており、そこではお互いにこれから何か協働する可能性を模索しての話し合いを行なっていた。結果的に今すぐに3人で何かを始めようということにはならなかったが、楽しい時間を過ごすことができた。2人の知人がわざわざオランダに来てくれたので、昼食は自分が持つことにし、代金の支払いをクレッジカードで行った。金額は25ユーロか25ドルとのことで、3人分のランチにしては割安だなと思ったのを覚えている。それ以外にも、ジョン・エフ・ケネディ大学時代の親友の1人であるジョハン・カメスザーデに会う場面もあった。彼が遠くから自転車を押してこちらに向かっているのが見えたので、私はすぐさま彼のところに駆け寄っていった。私の背後には自分の知り合いがたくさんいたが、彼らは日本から外に出て生活をしたことがないためか、外国人と接することに慣れておらず、少し抵抗感があるようだった。それを含めて、私は積極的にジョハンのところに行って、そこで楽しげなやり取りを見せれば彼らの気持ちも少し変わるだろうと思った。ジョハンは粋な帽子をかぶっていたが、帽子のせいで視界が狭くなっていたのか、最初私がやって来たことに気づかなかった。なので私は自分の名前を名乗り、彼に声を掛けたところ、ジョハンは驚きと共にすごく喜んだ表情を浮かべた。そこから私は、彼が博士論文をもとにして執筆した書籍に対してお礼を述べた。彼のその書籍を周りの日本人にも紹介し、ジョハンの研究内容が自分を含めた多くの人にインスピレーションと洞察を与えたことにお礼を述べたのである。それに対してもジョハンはまた嬉しそうな笑みを浮かべ、そこから少しばかり立ち話をして別れた。そんな場面があった。ジョハンが夢の中に登場するのはおそらく未だかつてなかったように思う。以前、自分のゼミナールで確かにジョハンの書籍を取り上げ、ジョハンについてあれこれ紹介していたが、その時には彼は一度たりとも自分の夢には出てこなかった。なので今朝方の夢に彼が現れたのはとても不思議である。ジョハンもまたサイケデリクスの研究を進めており、意識論と宇宙論の観点からサイケデリクスの研究に取り組むという大変意欲的な試みをしている。彼との共通点で言えば、数あるサイケデリック体験を通じてシロシビン・マッシュルームに主眼を当てたことである。ジョハンもまたシロシビンという物質に注目し、自分もまたそれに最大の関心を寄せている。そして何よりキノコの世界に魅せられているという点も共通していて、まるで菌学者のポール・スタメッツ教授のようである。ひょっとしたら、ジョハンとはドラマの『センス8』に登場する「ホモセンソリアム(homosensorium)」のような形で、菌糸的な無意識ネットワークで繋がり、そこで情報伝達をお互いに行なっているのかもしれない。そんなことを考えさせてくれる夢だった。フローニンゲン:2024/2/28(水)05:51


12220. 夢の振り返りによる変化の実感   


夢を振り返ること。それは自分にとって、自身の阿頼耶識を見つめることとその浄化の意味がある。もう8年ほどこうして日々夢について振り返っていると、そのおかげで自己洞察が高まり、振り返りによって何か特殊な能力が獲得されたかのような感じがすることも最近は増えている。8年間も同じ実践を毎日コツコツと積み重ねていけば、それは何か特殊な能力が獲得されたり、能力が高度化するのも頷ける。発達心理学者のカート・フィッシャーのダイナミックスキル理論を待つまでもなく、夢を振り返ることを通じて獲得される能力は必ず存在しており、8年間かければそれが高度化するのも必然かと思う。夢を振り返るという個別具体的なタスクに伴う夢を振り返るという能力が、2つの博士号を取得するぐらいの期間である8年の歳月を経てゆっくり着実に育まれていった。ここ最近は2週間に1度のシロシビン・セッションの力も借りて、阿頼耶識の浄化が進み、同時に阿頼耶識から生起するモノの種類が変わり、無意識と顕在意識の融合を感じ始めるという不思議な体験をしている。具体的な現象としては、日中のふとした時に、以前見た夢がパッと思い出される頻度が増えていて、その映像や感覚をもとに目の前の取り組みに従事していることが増えている事柄を指摘することができる。ここからさらに夢の振り返りとシロシビン・セッションの掛け合わせを進展させていけば、自分の意識内で何が起こるのだろうという楽しみがある。自分の脳内と意識内でまた新しい構造的変化が生じ、それが脳と意識に興味深い作用をもたらすだろう。

モーニングコーヒーの香りに誘われる形で、今朝方に最初に振り返っていた飛行機の事故の場面について改めて振り返っていた。あの場面の中で、山間の小さな川を飛び越えることをせず、もう少し辺りを散策して様子を伺うことにした自分を今冷静に見つめている。あの川は三途の川というよりも、物理的現実世界と涅槃的世界の間に流れる川のように思える。夢の中の自分は、その小さな川は少し助走をつければ簡単に飛び越えられると思った。それは、涅槃の世界に入ろうと思えば簡単に入れる自分を想起させる。しかし夢の中の自分はそれをしなかった。何をしたかというと、こちらの世界に留まって散策を続けたのである。少し大きな眼で見れば、自己と世界の探求の旅を続けたのである。そして何より、この世界に残り、この世界で生きる人たちの解放と救済に向けて尽力するために世界をさらに散策しようと思ったのではないかと思う。涅槃の世界に完全に入ってしまうと、そこからはもう戻ってこれなくなる。蝋燭の火をふっと消した時の火のようにそれは深く安らかに滅してしまうのである。そうした状態に寛げるにもかかわらず、自分はこの世界の中で多くの人に解放と救済をもたらすために世界の散策を続けた。その姿はどこか、4種類ある涅槃の中でも大乗仏教が最も重視する「無住所涅槃」を思わせる。完全な涅槃に入らず、迷いと煩悩のある世界にも留まらず、どちらの世界も行き来しながらにして多くの人を幸せにしたいと心から望む自分が夢の中の自分のあの行動を取らせていたように思える。ここからも、物理的世界におけるこの自分の意図と行動が、阿頼耶識の種によって影響を受けて意識が知覚させる夢の中の自分の行動を導いていることがわかる。とにかく私たちがやるべきことは、日常世界における自らの意図と行動をできる限り自他によっての善きものにしていくことなのだと思う。無理をせず、できる限りのことをすればいい。その小さな積み重ねは、阿頼耶識にしっかりと着時に良い形で薫習されていき、夢の世界の自分の意図も行動も変えていく。それが物理的世界の自分の意図と行動を変えていき、世界を変えていくことに必ずつながっていくのだろう。そんなことを思わせてくれる夢だった。フローニンゲン:2024/2/28(水)06:09


12221. 無上なる幸せ/自分を惹きつけて止まない唯識思想     

 

無上なる幸せ。朝の世界に染み渡る小鳥たちの清澄な鳴き声に耳を傾けていると、自分の存在の奥深くから幸福感が滲み出してきて、自らは至福と化す。そこにはもはや主体と客体の区別はなく、自分は小鳥の鳴き声であり、至福なのである。“I am blissful”と形容詞表現で状態を表すのではなく、“I am bliss”なのである。幸せを届けてくる小鳥の鳴き声。宝箱としての鳴き声の中にある幸福という宝物。それにただただ感謝し、それと一体となることにもう少し寛がせてもらおう。小鳥と共にこの無常なる世界の中でひと時を過ごせること。それがただただ愛おしく、感謝の対象となる。


どうしてこうも毎日やりたいことがたくさんあり、ここからやりたいことがたくさんあるのだろうか。やりたいことは自他の幸福の実現に向けたものであり、そこにはもはや我執はほとんど感じられなくなってきている。仏教においては欲を持つことを否定しておらず、欲の性質がどのようなものなのかが問われるのだ。それが善き欲であれば仏教はそれを肯定し、逆に悪しき欲であればそれを戒める。今の自分は生きとし生けるもの全てが幸福になれるような世界の実現に向けて自分にできる取り組みを毎日少しずつ前に進めている。その最たるものが唯識思想の探究なのである。今はまだ探究の初期のためにそこで得られた智慧や洞察を共有することが難しい状況だが、必ずや自分は世界の人たちに唯識思想に宝玉のように詰まっている無数の叡智を共有したい。それができるような自分になるために自己の心を育んでいく。それは終わりのないプロセスであると知りながら、そのための学びと実践を怠ることは決してしない。


なぜ唯識思想は自分をこうも惹きつけるのだろううか。それは単純な理由で、自分も世界も全てが識だからである。存在も現象も全て識なのだ。だからその識について詳細緻密に論じた唯識思想に惹かれているのである。世の中の全ての問題は最終的には識に還元できる。それは還元主義的と批判されるかもしれないが、よくよく考えてみると、少なくとも人間が介在する社会の全ての問題は人間の識に原因を見つけることができる。文化も社会システムも全て識の産物なのであり、その疲弊も病理化も私たちの識が招くことなのだ。逆に、それらを健全なものに育んでいくのもまた私たちの識にかかっているのである。とにかく識についてこれでもかというぐらいに深く知らなければならない。そう、まさに釈迦が述べたように、私たちの苦や悩みの根元には無明なる無知が潜んでいるのだ。それは端的には、識に対する無知さだと言えるだろう。逆に言えば、識に対して理解を深めいけば、無明はどんどんと明けていく。今は悩みと迷い多き暗い世界に生きていたとしても、自分の心の内側を見つめ、識についてしれば知るだけ、きっと自分の世界は明るくなっていく。


時計の針は午前6時半を迎えたが、まだ暗いフローニンゲンの朝の世界。そんな世界にも小鳥たちが健気に清らかな鳴き声を上げ、世界を明るくすることに尽力してくれている。そんな小鳥たちに後押しされて、自分もまたこの世界を少しでも明るくしたいと思う。光。洋々とした光。「光」も「洋」も自分にゆかりのある言霊だ。その言霊の権化としての自分がなすべきことはもう明確にわかっている。今日もまたその実現に向けて小さく一歩を進めていけばいいのだ。小鳥たちが世界に投げかける1つの鳴き声のように。フローニンゲン:2024/2/28(水)06:34


12222. 日本法相宗の歴史的発展を明らかにするための博士課程での研究案


小鳥たちの美しい鳴き声を身に纏いながら、ゆっくりと唯識思想に関する探究を今日も始めた。まだ夜明け前だが、すでに気持ちは明るく、意気揚々としている。


唯識思想を大成したインド人の世親と、世親の唯識思想を東アジア全域で広げることに多大な功績を果たした中国人の玄奘。今、彼ら2人の功績に感謝しながら両者の仕事を丹念に辿っている。ここからまず取り組むべきことは、世親と玄奘が残した仕事に関する英訳書を徹底して何度も繰り返し読み込んでいくことである。それを通じて確実な知識基盤を自分の内側に構築したい。それを受けて初めて自分なりの独自かつ意義のある研究ができるだろうし、唯識思想の叡智を実践に資する形で他者に共有できるようになってくるのだと思う。今手元には、世親が残した仕事の大半を英訳で読める専門書が揃っているし、玄奘が唯識思想に対して果たした最大の功績である『成唯識論』についても昨日の日記で書き留めたように英訳の専門書が手元にある。彼らの書籍を英訳してくれた人たちにも多大な感謝の念を送りたい。


世親と玄奘の仕事を深く理解した後に自分がなすべきことは、日本で独自に発展していった法相唯識教学を世界に共有することである。それを通じて唯識思想に関する研究分野はさらに豊かなものになるだろう。今のところ自分の知る限り、法相唯識教学について積極的に英語で論文を執筆している人を知らない。自分はそれをしたい。それを行いたいという気持ちが大海のように膨れ上がっている。これは自分の人生をかけたプロジェクトになるかもしれない。玄奘が命をかけてインドに渡り、命尽きるまで仏教書の翻訳プロジェクトに殉じたのと同じく、自分もまた日本で独自に発展していった法相唯識教学の歴史的発達過程を研究することに人生を捧げたいと思っている。その始まりの鐘を鳴らすのが博士課程での研究になるだろうか。博士論文の執筆に向けての研究は風呂敷を広げすぎてはならず、今の自分の身の丈に合った少し背伸びをするぐらいのタスクレベルの研究に従事するのが望ましいだろう。博士論文での研究は焦点を絞って研究していくことが重要だ。それで言えば今のところ、博士課程での5年間ほどの時間を使って行いたいのは、日本の法相宗の大成者である善珠(724-797)と護命(750-834)の思想の比較研究である。前者の善珠は興福寺に拠点を持つ北寺系の法相宗の大成者であり、後者の護命は元興寺に拠点を持つ南寺系の法相宗の大成者である。善珠はいくつかの唯識思想の解説書を残しているが、中でも『唯識分量決』に注目している。本書は、善珠の独自の唯識思想を知る格好の書籍であるのに加えて、玄奘と窺基以外のその他の重要な中国の唯識論者の思想にも言及しているらしく、資料的にも価値が高い。護命については彼が残した数多くの書籍の中でも唯一現存している『大乗法相研神章』を取り上げたい。この書籍の価値はなんと言っても法相宗内における北寺系と南寺系の思想上の論争点を取り上げていることと、他の宗派との論争点を取り上げていることだ。これらの論争点を研究することは、日本における法相宗の発展を理解する上で非常に重要であり、それを超えて日本の仏教がどのように発展していくのかを理解することにもつながるという歴史的重要性を持つものだと考えている。そうした観点で、善珠と護命の上記の2つの重要な文献を取り上げ、それぞれを深掘りしながら比較するということを是非とも博士課程での研究テーマにしたいものだ。フローニンゲン:2024/2/28(水)07:06


12223. 仏教辞典の読解に三昧没頭して


気がつけば時刻はもう午前10時半を迎えようとしている。昨夜より、プリンストン大学から出版された1000ページを超す仏教用語辞典の“The Princeton dictionary of Buddhism”を、先日『唯識 仏教辞典』に対して行ったように、最初の用語から順番に見ていくことにした。特に唯識思想に関する単語を立ち止まって見ていくことにして辞書のページをめくっていると、いつの間にかもうこんな時間になっていた。まさに極度な集中状態を通じた三昧の意識状態がそこにあった。三昧の状態は至福さをもたらす。それは対象と一体化し、自我を忘却して世界と一体となっている広大無辺の感覚があるからだろうか。そこからふと、学ぶことは対象と成ることであり、深い学びは対象と成り切ることなのだという気づきがやってきた。どんな学習対象も実践対象もそれを真に物にするためにはそれと成り切らなければならない。それと主客一致の状態を実現して初めて、その対象の叡智を汲み取り、活用することができるのだ。自分の場合は、自己が唯識思想に成り切るまで一生涯を通じて唯識思想の探究に打ち込みたいと思う。この汲み尽くすことのできない叡智の集積体と涅槃一体になることを目指して探究に打ち込む。


今はまるで絵画鑑賞をするかのように唯識思想の専門書を読む楽しみがあり、まるで音楽鑑賞をするかのように仏法に関するポッドキャストを聴く楽しみがある。今日もその楽しみ三昧である。上述の時点も“S”の途中までやって来て、ページ数で言えば820ページに到達した。この調子で読み進めていけば、昼食前に全て読み終わるかもしれない。いずれにせよ、午後の早い段階で辞典の初読が終わる。この時点の良さはなんと言ってもサンスクリット語と漢字と日本語の発音までが表記されており、さらには仏教思想の中にある各種の分類が巻末にリスト化されていて、色々と調べるのに便利な点だ。今回の初読においては唯識思想に関係する用語を中心に見ていった。再読の際は印を付けた箇所を精読していき、三読目以降からは唯識思想以外にも気になる用語を追っていこうと思う。辞書をこのような形で食い入るように読むとはまさか思っておらず、その辺りにも唯識思想の魅力、そして仏教の魅力を知る。フローニンゲン:2024/2/28(水)10:27


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