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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12212-12215:2024年2月27日(火)



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タイトル一覧

12212. 禅定と悟り

12213. 間断なき唯識探究/今朝方の夢

12214. 地道な唯識思想探究を楽しみながら

12215. 唯識思想に関する重要な文献の読み込みに向けて


12212. 禅定と悟り      

時刻は午前3時半に近づいている。今の気温は1度と低いが、今日は天気が良いようで、日中は7度まで気温が上がる。最低気温が低いのは今日までで、明日からは6度まで最低気温が上がるようなので寒さはさほど感じないのではないかと思う。今日は晴れるので、午後にはアクティブレストがてら近所の玩具屋に行って書籍を受け取りに行き、その足でスーパーに立ち寄って買い物をしてこようと思う。受け取る予定の書籍は随分と前に注文したもので、1冊は唯識思想とも関係のあるインド仏教に関する専門書で、もう1冊は分子物理学に関するものだ。後者については、以前のシロシビン・セッションの際に物理学を学んでおかないと体験が紐解けない現象に遭遇したため、それを受けて物理学関係の書籍を一括注文したときに購入したものである。今はもう物理学よりも唯識思想の枠組みを通じて体験を解釈し、咀嚼する方に意義を感じているが、物理学に関する基礎知識もあって損をすることはない。


昨夜、唯識思想の実践的価値の1つは、それがある種の神秘体験としての禅定を強調するのではなく、むしろ言葉の形にできる悟りを大切にすることだと思った。この点はサイケデリック実践においても重要なことかと思う。サイケデリック実践において禅定に入るというのはある意味当たり前なのである。向こうが勝手に脳内の物質を変え、意識状態を深いものにしてくれるため、禅定は誰でも入れる。当然ながら禅定にも種類があり、その点にも注意が必要だが、禅定に入ることを目的にしてサイケデリクスを摂取するのは心の成長の観点からするとあまり望ましくない。むしろ、言葉の形を伴った真理を得ることの方が重要であり、自らに対して悟ることが重要になる。自己の存在について悟りを得て、それについてさらに言葉を当てて学びとして定着させていくと尚良しである。サイケデリック実践も修行の1つだが、その際に神秘体験としての禅定に囚われるのではなく、自らの言葉で真理を語れる悟り体験をこそ大切にし、それを咀嚼して体現させるために自ら言葉の形にしていく努力を怠ってはならない。そうした意味でサイケデリック体験後の振り返り日記を書くことは重要になる。自分にとっては毎回のシロシビン・セッションで得られる悟りの体験を言葉にすることは非常に意味がある。ある意味禅定は言葉を超えた体験でもあるので、そもそも言語化が難しい。しかし、悟りの体験では言葉の形になった真理としてそれがやって来ることもあり、それを言葉の形に残しておけば、後にまたその真理に立ち返ることができる。こうした少しずつ蓄積されていく自己の真理を足掛かりに、一歩一歩深い真理に到達していくのがサイケデリック修行の意義なのだと改めて思う。フローニンゲン:2024/2/27(火)03:33


12213. 間断なき唯識探究/今朝方の夢


今日も唯識思想を探究できる喜びに朝3時半から包まれている。厳密には午前3時に目覚めた瞬間に脳裏によぎったのは唯識思想であった。本当に寝ても覚めても唯識思想である。書籍から離れている時も、四六時中唯識思想を自分の内面現象に当てはめるという実践に取り組んでいる。書籍を読んでいる時も唯識思想、書籍から離れている時も唯識思想である。全く間断のない唯識思想探究が行われている姿は、間断のない末那識や阿頼耶識の働きを彷彿させる。しかし自分の唯識思想探究は自己執着心の働きは極めて弱く、自他の成長と救済に向けた大欲に基づくものであり、多分に純粋な阿頼耶識に導かれての行為にも思えて来る。そのようなことを考えていると、今朝方の夢についていくつか思い出した。


夢の中で私は、母と神妙な顔をお互いに浮かべて話をしていた。何の話をしていたかというと、小中学校時代の親友の両親が突然どちらも亡くなった件について話をしていた。親友の彼とは特に小学校の高学年の時によく遊んでいて、彼の家に泊まらせてもらう時には彼の両親に本当によくしてもらっていた。なのでその分彼の両親が亡くなった知らせを聞いたのは残念でならなかった。彼は気落ちしていないかどうかを確かめるために、すぐさま彼の家に立ち寄ろうとしたところで場面が変わった。


次に見ていたのは、見慣れない土地にある5階建ての塔の中にいた場面である。最初1階にいて、そこから歩いて螺旋状にうねった階段を登っていき、最上階に到達した。すると最上階には黒板があり、教室が広がっていた。私はその教室に一番乗りをしたので席が選び放題だった。選んだのは一番後ろの席で、肘や荷物が置けそうな石の台がある席だった。一番後ろの席と言っても列は3列しかなく、非常にこじんまりとした教室だった。教室の前方の右側の壁に小窓があり、小窓から太陽の光が差し込んでいた。「さて今からどのような授業が始まるのかな」と楽しみにしていたところ、特に先生がやって来る様子はなく、その代わりに高校時代のサッカー部の友人がやって来た。どういうわけか、彼が私の大学院の出願に際しての推薦状を執筆してくれることになっていて、すでに執筆した推薦状の内容を見せてくれた。内容についてこちらがとやかく言うことはできないと思って黙っていたが、少し言葉遣いを見直して欲しい箇所があった。するとその念が通じたのか、彼が突然、「ごめんちょっと待って。この箇所の表現が稚拙なので言葉を改めるわ」と述べた。私はそれを聞いてホッとし、そこの箇所さえ直してもらったら良い推薦状になると思った。


最後に覚えている場面として、以前一緒に協働していたある知人の女性の方が、昔はかなりの豪傑で破天荒な生き方をしていたことを知って驚いた場面があった。その方はお酒に酔っていたのか、過去行って来た武勇伝を色々と話してくれ、それを聞いていると、かなりとんでもない生き方をしていたのだなと思った。最初こそ面白く聞いていたが、後半になって来ると流石にこちらも引いてしまうぐらいに破天荒な生き方に驚かされた。店を出てもまだその方は少し酔っていたようなので、肩を貸して歩くことにした。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/2/27(火)03:50


12214. 地道な唯識思想探究を楽しみながら  

   

時刻は午前4時半を迎えた。早朝の諸々のルーティン的取り組みがひと段落したので、ここから本格的に唯識思想探究に取り掛かる。昨日の続きとして、唯識思想に関する洋書を読み進めていく。昨日の段階で手元にある和書の専門書の再読を全て終えたので、そこからは書籍を1週間か10日ぐらい寝かせ、そこからまた和書の3読目を始めていこうと思う。今日からは再び以前のように洋書三昧を楽しみたい。洋書を通じて唯識思想を学ぶのと、和書を通じて唯識思想を学ぶのとにはどちらも一長一短がある。まず前者の英語を通じて学ぶことに関していえば、英語の言語的特性ゆえに1つ1つの概念に対する説明が非常に明確でわかりやすい点を挙げることができる。逆に言えば和書の場合はそこに短所があるのだが、しかし日本語のとりわけ漢字の象形文字としての特徴ゆえに、その漢字の作りから意味を推察することができるという長所もある。どちらも共に陰陽の二側面を持っており、ゆえに双方を通じて唯識思想を学ぶことが互いの欠点を補完し合いながら理解を深めていくことにつながっているのを実感する。現段階ではまだサンスクリット語を学んでいないのでなんとも言えないが、今後本格的にサンスクリット語を学び始めたら、きっとさらに唯識思想の理解が広く深くなるだろう。ハーバード神学大学院には宗教テキストを読解するための言語コースが豊富に用意されており、晴れて合格することができたら、サンスクリット語のコースを継続して2年間受講したいと思う。言語コースの履修に向けた準備としては、日頃から読んでいる和書・洋書問わず書籍の中に出て来るサンスクリット語の単語もできるだけ合わせて覚えるようにしていこう。そうすれば、本格的にサンスクリット語の原典を読み始めたときの理解の助けになるはずである。唯識思想に関するサンスクリット語の単語学習を今からコツコツと進めていこうというわけである。こうした積み重ねもきっと馬鹿にならず、千里の道も一歩からと言われる言葉通りの成果をもたらしてくれるに違いない。毎日のこうした地道な取り組みが阿頼耶識に薫習されていき、良い結果をもたらす種となる。今はとにかくそうした良い種を多く蒔く準備の期間なのである。大きな飛躍と跳躍を祈りながら、そしてそれを楽しみにしながら今日もまたコツコツと地道な探究を続けていきたいと思う。フローニンゲン:2024/2/27(火)04:45


12215. 唯識思想に関する重要な文献の読み込みに向けて         


時刻は午前10時を迎えた。早朝から唯識研究に没頭しているとあっという間にこの時間になった。今日から唯識思想に関する洋書の専門書を読み始めたのだが、今後の研究の進め方に関して1つ発見があった。それは何かというと、オックスフォード大学出版やルートリッジ出版から出版されているトピックごとあるいはテーマごとの唯識思想の関連書を読み進めるよりも先に、世親や無著の英語翻訳の書籍を繰り返し読み込んで理解を深めることが重要だということである。自分の中にはすでに研究トピックやテーマがいくつもあり、それについてこれから論文を執筆していこうと思っているため、それらのトピックやテーマのアイデアをぼやかせないためにも、まずはしっかりと世親や無著の書籍を読み込んでいき、アイデアを醸成させていきたい。他の研究者が執筆した彼らの関心テーマに基づく書籍を読んでいると、自分の研究アイデアが薄らいでしまったり、自分の研究アイデアと今のところ関係が内容に思える箇所を読んでも頭に入ってこないということが生じる。そうしたことを防ぐためにも、兎にも角にも世親と無著、とりわけ唯識思想の大成者である世親が残した書物を読んでいくのが賢明である。それで言えば、改めて“Seven works of Vasubandhu: The Buddhist psychological doctor (2nd. ed.)”という作品は大変素晴らしいと思った。この書籍には世親が残した主著7冊の翻訳が納められている。当面はこれを何度も繰り返し読み込んでいくことにしたい。また、日本の法相宗が正典として仰ぐ三蔵法師こと玄奘の全10巻から成る主著『成唯識論』の英訳である"On realizing there is only the virtual nature of consciousness: An English translation of Xuánzàng's Vijñapti Matratā Siddhi”また非常に素晴らしい。先ほどからこの書籍の初読を始めたのだが、これも何度も擦り切れるぐらいに繰り返し読み込みたい。もはやたくさん書籍を読むことよりも、本当に重要な書籍を何度も繰り返し読み込むことの方がこと唯識研究においては重要だという思いが強くなっている。ここでも集中力を活かし、目移りすることなく本当に重要な文献を10回でも、100回でも繰り返し読み返すことにしたい。可能であれば全てのテキストを暗記するぐらいまで読み込むことができれば、唯識思想の学術研究もその実践適用も自由自在になるのではないかと思う。唯識思想に関する原典及び仏教用語辞典の読み込みをここから本当に強く意識して毎日取り組みたい。フローニンゲン:2024/2/27(火)10:12

 


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