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タイトル一覧
12189. 心の鍛錬期間としてのハーバード神学大学院の合格発表までの時間
12190. 今朝方の夢
12191. 唯識思想に基づく夢の振り返り実践
12192. 学識即実践知
12193. 夢の世界で覚醒し、夢から覚める手伝いをすること
12194. 客人/浄土の実現
12195. 感謝/聞精進・思精進・修精進/集中と智慧
12189. 心の鍛錬期間としてのハーバード神学大学院の合格発表までの時間
時刻は午前4時を迎えようとしている。今朝方の起床は午前3時半で、昨日か一昨日の日記に書き留めていたように、それくらいの時間の起床は理想的である。十分に睡眠を取ることができており、目覚めはとてもすっきりしていて、今日もまた旺盛に学術研究に従事できるであろう。今日は午前中にゼミナールの第68回のクラスがあり、それに向けての準備は昨日の段階で終わっているので、ゼミの開始までの時間を読書に充てたい。また、午後からも望むだけ唯識思想に関する探究をしていこうと思う。
昨日ふと、ハーバード神学大学院(HDS)の合格発表までの期間は心の鍛錬になると思った。それは自分と向き合うという意味で心を磨く最良の機会だと思ったのだ。合格発表まではおよそ2週間ほどある。まだ結果が出ていないため、自分の目の前には2つの道に進む分岐点が見えているかのような状態である。そのような分岐点もまた自分の識が生み出した虚像に過ぎないのだが、それによって自分の心が動かされていることを観察することができる。唯識思想においては、私たちが何か行動を起こして得られる結果は無記であるとする。すなわち、結果そのものは善でも悪でもないのである。結果をもたらした行動の背後にある意図には善悪がある。行動そのものには善悪・無記の3種類があり、行動を起こす意図には善悪がある。できるだけ善き意図を持って何事にも取り組みたいと改めて思う。善き意図というのは、自分のことだけを考えるのではなく、常に自他共に幸せにすることを考えることだ。そのようなことを考えながら、再びHDSの合格発表までの期間の過ごし方に話を戻したい。無記であるはずの結果に対して、しかもまだその結果が出ていない状態であれこれと考えて心が動いている状態を見るにつけ、仏教が教える苦の根元である執着と煩悩の大きさを見る。執着と煩悩が大きいから本来無記であるはずの結果に対して右往左往するのである。本質的に無記の結果、かつそれがまだ出ていない状態においてはとりわけどっしり構え、いずれの結果であってもそれは自分が過去に撒いてきた種の結果なのだと受け止めたい。自分にとって望まない結果が出たときには、その結果をもたらした過去の行動を振り返るだろう。それと同様に、仮に望む結果が出たときにも、それをもたらした過去の良い種蒔きについて振り返っておきたい。それら共に心の成長の機会がある。迷うなかれ。平穏であれ。そんな励ましの声が聞こえてくる。
この件はもう少し角度を変えて色々と内省をしたい。まだどこか自分の内側に気持ち悪さが残る。最終選考面接を終えてから1ヶ月近く結果を待たせるというのは、HDSの粋な計らいかと思う。他の出願者も同様に、結果に応じて色々と自分の将来について考えているに違いない。究極的に悟っていない人間にはまだまだ様々な執着があり、自分を悩ませる煩悩がある。それらを見つめさせ、可能な限り手放す期間を与えてもらっているかのようだ。そう考えると、そうした時間を与えてくれたHDSには感謝の念が溢れてくるし、この時間そのものに対しても多大な感謝の念を持つ。フローニンゲン:2024/2/24(土)04:10
12190. 今朝方の夢
今日もまた静寂な闇に包まれている朝の世界の中で、穏やかな心で今朝方の夢について振り返っている。今朝方の夢ではとても印象的な事が起こったので、それについて忘れないように書き留めておきたい。
夢の中で私は、見慣れない空き地にいた。その空き地の横には空き家があり、少し不気味な雰囲気を発していた。空き家をぼんやりと眺めていると、気づけば空き家の中にいた。外見とは違い、家の中は意外と綺麗で驚いた。家の一室に足を踏み入れたとき、そこに小中高時代の2人の親友(SI & NK)がいた。どうやら2人もまた空き家の散策をしていたようだった。少し休憩がてらその場に腰を下ろして話をすることにした。すると、片方の親友(SI)が今度結婚式か何かでスピーチをすることになったらしく、その原稿を見て欲しいと私に述べてきた。驚いたことに、原稿はしっかりとした紙ではなく、何かの広告の裏に書かれていた。原稿が書かれた素材に惑わされず、原稿の中身を確認してみたところ、しっかりとした内容だったので何も問題ないと彼に伝えた。すると彼は嬉しそうな笑みを浮かべた。休憩もほどほどに、私たちはそこからもう少し空き家の散策をし、外に出た。外の空き地には親友(NK)の車が止まっていて、別の親友はまだ空き家の中にいたが、私たちは車に乗り込んで、その親友を置いていく振りをしようということになった。少し慌てて発進をしたので、車の横に止められていた数台の車にぶつかりそうになり、危ないところだったが、そこからは冷静になり、まだ空き家の中にいる親友がちょうど家から出てくるタイミングで車を思いっきり走らせようということになった。いざ彼が家から出てきたとき、車の中にいた親友と私は笑いながら車を発進させた。そこで夢の場面が変わった。
もう1つの夢のある点がとても印象に残っている。夢の中で私は、母と一緒に見慣れない住宅地の坂道を買い物帰りに歩いて登っていた。母と色々と会話を楽しみながら歩いていたので決して疲れることはなく、むしろ程よい幸福感の中にあった。すると、道端で1人の老女に話しかけられた。何やらその老女は坂道の上のスーパーで買い物を終えたところらしく、荷物が重いので隣の通りにある自分の倉庫まで運んでくれないかとお願いしてきた。その老女がお願いをしてきたのは私たち2人に対してではなく、母に対してだった。若く力のある私ではなく、どういうわけかその老女は母を選んでそのようなお願いをしたのである。母は快くその依頼を引き受け、老女と一緒に一本道の違う通りにあるその老女の倉庫に向かって行った。私は先に帰ることにして歩き始めた。しばらくしたところで、奇妙な胸騒ぎがあった。「隣の通りに倉庫なんてあったか?隣の通りにも住宅しかなく、倉庫など見たことないぞ」と思ったのである。母の身に何か悪い事が起きそうな予感があったので、すぐさま母を探しに走り出した。その一帯は道が入り組んでおり、一本道が違うだけでも別世界のような雰囲気を発していて、隣の通りに関する土地勘をほとんど持っていなかったが、懸命になって母を探した。すると、不気味な廃墟郡のある空き地に到着した。「母はここにいる」そんな確信があった。その廃墟群は過去にきっと何かおぞましい事が起こったに違いないと思わせる雰囲気を漂わせていた。その瞬間に、夢の中の自分はその場所をかつての夢の中で訪れたことがあると気づいたのである。そこでは、夢の中の自分がかつての夢を思い出し、その夢の中の場所が今目の前に広がっている認識と、その認識をもとに自分が夢の世界の中にいるとハッと気づいたのである。しかし、それが夢の世界であっても母を探し出す必要があると思ったので引き続き懸命に探していると、今は亡き母方の祖母が突然空き地に現れ、その入り口付近から、母がいる場所を教えてくれた。祖母と一緒に母がいる空き家に向かうと、そこは空き家ではなく惣菜を販売していて、母はそこで特製のカレーのルーを含めて、特産品を購入していた。母が見つかってとにかくホッとしたのと、こんなところにこんな良い店があるなんてと思って驚いた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/2/24(土)04:36
12191. 唯識思想に基づく夢の振り返り実践
先ほど今朝方の夢について振り返っていると、夢の内容を振り返る際に唯識思想の観点を活用するとさらに有益な振り返りになると思った。夢を振り返る実践は優れたシャドーワークの1つだが、それをどのような枠組みで振り返るかによってシャドーワークの効果は大きく異なるであろう。そうしたことを鑑みたときに、フロイトの精神分析理論よりも精緻に無意識の層を解明している唯識思想を活用しない手はないと思ったのである。もちろん今は唯識思想について学びたての段階なので、毎回の夢の振り返りに唯識思想を活用することは難しいかもしれないが、少なくとも毎朝夢を書き留めている際には唯識思想の観点を意識しておきたいと思う。その意識があるだけで、仮に文章の形に残しておかなくても、脳内で有益な振り返りができるはずであり、それが思わぬ治癒をもたらしたり、大きな自己発見をもたらすことがあるだろう。夢の中の自分は物理世界の自分と同様に執着と煩悩を持つ存在であり、ひょっとすると物理世界の自分以上に執着と煩悩を持っていると言えるかもしれない。当然ながら夢の中の自分もまたリアルな自分であることを考えると、夢の中の自分を見つめることは本当に重要だということがわかってくる。夢の中で善き行いをしている自分については一旦そのままにし、自分の執着や煩悩を強く投影させるような行為をしている自分については特に注意して向き合ってみようと思う。今朝方の夢の中ではさほど悪行は見られず、親友を少しからかう行為を行ったぐらいであったが、それは親友を傷つけることにはつながっておらず、むしろ親友に笑顔をもたらすものであったため、その背後には人に笑顔になってもらいたいという自分の意図があるように思える。その意図は善に区分されるものだろう。しかしその善が何か自分の自我を喜ばせるものであったり、執着や煩悩が姿を変えたものであれば、「有漏善」と呼ばれる。それは善行であることに変わりはないので、否定されるべきものではなく、むしろ何もしないよりはそうした善行を積んでいくことが重要だと唯識思想では考える。重要なことは、何もしないよりも有漏善を積み重ねながら、そこで漏れてしまっている自分の執着や煩悩は何なのかを考えるシャドーワークを行うことである。本質的な執着や煩悩に気付かない限りは、有漏善は有漏善のままとなり、決して無漏善を行うことにはつながらない。一切の執着や煩悩を離れた清々しい善行を行えるようになりたいものである。そのためには、地道に有漏善を積みながら、その背後にある執着や煩悩を観察していこう。まずはこの観察が重要になる。観察によって素粒子に振る舞いの変化が起こるように、執着や煩悩を発見し、それを観察することによって、執着や煩悩の振る舞いを変え、少しずつそれらを手放していく試みをこれから四六時中行っていきたい。それだけ自分の日々の生活には執着や煩悩が溢れているという自覚がある。この自覚もまた本来の意味の悟りに向かう上で極めて重要なものになる。フローニンゲン:2024/2/24(土)05:18
12192. 学識即実践知
時刻は間も無く午前6時を迎えようとしている。少し前にモーニングコーヒーを淹れ、今それを味わいながらこの日記を執筆している。朝の日課である2枚のデジタル絵画作成と2曲の即興演奏作曲を終え、ここから本格的に唯識思想に関する学術研究を進めていきたい。こうして毎日日英の専門書を往復する中で、少しずつ着実に唯識思想の理解が深まり、それをリアルタイムの自分の心の姿に適用し、自己成長実践が実現していることを嬉しく思う。世界には自己成長を促す様々な学問分野や実践技法があるが、サイケデリクスを除いてこれほどまでに心の治癒と変容の双方に有益な枠組みを自分はやはり知らない。それと出会えたことの喜びを感じながら、これを世界中の多くの人に共有したいという思いが自分の内側に湧き上がっており、その実現に向けた一歩として、欧米の大学院で唯識思想に関して博士号を取得するということが重要になるのだと感じている。博士号の取得はもちろん通過点に過ぎないが、博士論文の執筆過程でさらに詳細に唯識思想に学ぶことを通じて学識が身につき、唯識思想は兎にも角にもその正式名称である「瑜伽行唯識学派」という名前が示しているように、実践を絶えず希求するものであったから、学識は即実践知に転換される。自分の中では学識と実践知は非二元であり、決して分離されるようなものではない。唯識思想の魅力は、とにかく学んだことが逐一即実践に活かされるということである。もし仮にそれができないのであれば、それはやはり日本の教育の失敗に原因があると言えるだろうか。本来はどんな知識も実用に転用することができ、実践に結びつかない知識など無いと言えるほどである。しかしながら、実践を脇に追いやって単に知識を情報として学ぶ教育に長く浸っていると、知識即実践という本来の非二元関係が見えなくなってしまうのである。ひょっとしたら日本で唯識を学んでいる人にもそういう傾向が見られる可能性はある。いずれにせよ、自分にとって唯識思想は実践思想に他ならず、自他の心の治癒と成長にそれ以上ないほどに貢献してくれる存在である。
確かに自分は遠回りをしていたのかもしれない。西洋の成人発達理論やインテグラル理論を学ぶという遠回りはしかし、自分が唯識と出会うための必要不可欠な道だったのだ。その道がなければ、そしてその道をじっくり時間をかけて歩まなければ、きっと唯識思想には出会わなかっただろうし、出会ったとしてもその意義と価値を見落としていたであろう。唯識思想が持つ無限の力を見出すためには、自分のこれまでの歩みは阿頼耶識への必要不可欠な種蒔きだったのである。その意味で、唯識思想との出会いは偶然ではなく必然であったと言えるだろう。仏教は本当に自分自身を含めた自分のものの見方を変え、生き方を変えてくれる。執着と煩悩を少しずつ手放しながら、とにかく自他への善行あるのみである。唯識思想という同伴者がいれば、自分はきっとそれに絶えず従事し続けることができると確信している。フローニンゲン:2024/2/24(土)06:05
12193. 夢の世界で覚醒し、夢から覚める手伝いをすること
時刻は午前6時を迎えたところで、今朝方もまた自分にとってのまるで天使であるかのような小鳥が木々にやってきて、美しい鳴き声を上げ始めた。最近はめっきり就寝時間と起床時間が早くなり、小鳥たちよりも活動を開始する時間が早くなっていて、彼らを出迎える形で自分がいる。とにかく自宅の周りにやってくる小鳥たちの鳴き声が美しく、それをどうやって他者に共有したらいいかと考えあぐねてしまうぐらいだ。人が作ったクラシック音楽にも崇高な美が宿っているが、自宅の周りの1羽の小鳥の鳴き声にはもっと素朴な美が宿っている。それは複雑さゆえの崇高さではなく、シンプルさゆえの崇高さが体現されていて、自分の心に一直線に差し込んでくる美光のようだ。
ここ最近はシロシビン・セッションの継続のおかげか、過去に見た夢の内容が覚醒状態で再想起されることが多くなっている。数回前のセッションの中で、意識の全階層が一度全て階層構造が崩壊し、一なる意識が実現したことと関係があるのかもしれない。階層構造の溶解現象はとても興味深く、それでいて体験中はそれを信じることができなかった。顕在意識と潜在意識が渾然一体となるというのは人によっては恐ろしいことだろうし、自分も最初は面食らってしまったほどである。現在、顕在意識に潜在意識の過去の沈殿物がどんどんと流れ込むようになってきており、それらを発見して観察することを日常的に行なっている。昨日も何度か過去の夢が脳裏にちらつく瞬間があった。明日は第27回のシロシビン・セッションが控えており、そこでの体験はまたこの現象を加速させるだろう。顕在意識と潜在意識が渾然一体化が落ち着き、両者が調和的統合化を果たすとき、きっと自分はまた新たな能力を開花させ、それを自他のために活用していくだろう。それはある種自分に課せられた使命である。
それにしても、今朝方の夢の中の現象はとても不思議だった。夢の中の自分がかつての夢の中で訪れたことがある場所にいると気づいたのは興味深い現象だった。覚醒中の自分が夢を再想起する力が高まっているだけではなく、夢の中にいるドリームセルフ(夢自己)も夢の再想起能力を高めているというのはかなり面白い。そして、夢の中の自分は今いる世界が夢の世界と気づきながらも母を助けるために尽力したというのは、究極的な悟りを得て完全に涅槃の境地に入れるはずの菩薩が、あえて涅槃の境地に入らず、衆生を救おうと尽力することに似ているように思えた。自分は自らが生きる世界が夢だと知りながらも、夢の世界から自分1人が脱却するのではなく、あえて夢の世界に留まる形で、1人でも多くの人が自分を苦しめる夢から覚めていく手伝いをしていきたいと思う。そのような意味で自分はいつまでも夢の世界を生きる人間だと言えるかもしれない。夢の中で覚醒し、夢の世界にあえて留まることを通じて衆生を救済するのである。そんな使命感がふつふつと湧いてくる。フローニンゲン:2024/2/24(土)06:20
12194. 客人/浄土の実現
時刻は午前9時を迎えた。土曜日の朝の空は比較的晴れていて、気持ち良さをもたらしてくれる。そこからも、自分の存在が依他起性によって生じていることがわかる。空のおかげで晴れ晴れとした自分の心がこの瞬間に刹那的に生じているのだ。
この現象世界を眺めるとき、まるで自分の世界の中にお客として認識されるのが「客体」なのだと気づけば、見られるもの全てが愛しく思える。自分が認識する世界は常に無数の客人で賑わっていて、それら客人の存在が自分の人生に彩りをもたらしてくれている。同時に、主客未分の発想で言えば、自分もまた自分の世界における客人なのであり、認識されるものはまた主人でもあるのだ。私たちは自分がこの世界の主人と思ってしまいがちだが、唯識思想に基けば決してそうではないことがわかるだろう。私たち自身もまた客人に他ならず、無数の客人と合一した存在でもあるのだ。私たちはこの現象世界に刹那的に立ち現れる主客身分の存在なのだ。
自分と自分の争い、自分と他人の争いを水に流すという意味での「浄」化の必要性を強く感じる。私たちは自らの心の中で自らと争い、自らの心の世界に他者を投影する形で他者と争う。そうした争いに終止符を打つことが重要な時代は今以上にないのではないだろうか。そう思わせるぐらいにこの世界は心が乱れ、世界が乱れている。そうした世界情勢を見るにつけ、ますます唯識思想の実践的叡智を世界に共有したいという思いが強まる。日本社会にそれを共有することに加え、欧米社会にもそれを広く共有していきたい。日本や欧米以外には今のところご縁はないが、今後もしそうしたご縁があれば、この地球上場所を問わず唯識思想の叡智の共有に命を捧げたいと思う。浄土はあの世に存在するのではなく、本来この瞬間に存在する。今この瞬間を浄土にすることができるのだ。浄土の実現に向けての学術研究とその実践にこれからより一層力を込めていく。
仏教における重要な修行の1つは確かに瞑想実践だが、それ以上に重要なのは自他のための善行なのである。それが最良の修行である。個人で瞑想実践をすることを通じて虚妄に気づき、執着と煩悩をどんどんと滅していきながら、それに並行して自他のために善行を積んでいくことが大切になる。善行は本当に小さなことでもいい。それを積み重ねていくことによって、いつか大きな果をもたらすだろう。とにかく小さな善き種をたくさん撒くこと。それが浄土の実現に不可欠なのではないだろうか。フローニンゲン:2024/2/24(土)09:12
12195. 感謝/聞精進・思精進・修精進/集中と智慧
小鳥たちの美しい鳴き声が夕方の世界にこだましている。今日は午前中にゼミナールの第68回のクラスがあった。本当に最近のゼミナールのクラスの充実ぶりは自分でも驚いてしまうほどであり、どれだけ自分にとって大きな学びの機会がそこにあるかに感謝しっぱなしである。最近は発心を通じて仏道に入ったこともあり、本当に感謝の念を四六時中持つことが多くなった。何かそれだけで仏教を学ぶ意義があるのではないかと思うぐらいである。感謝の念を持つことで心が温かくなり、それを通じて日々が平穏かつ充実したものに感じられることだけでも十分に思えてくる。もちろんそれに加えて、自らの心をさらに耕し、成長させることを通じて、今度は他者に対して貢献していくことができれば尚良しである。仏教と出会えたこと、仏教を生み出してそれを現代まで伝承してくださった先人たちに感謝である。
ここからの日々は仏教思想書を通じての「聞精進(もんしょうじん)」と、仏法を正しく解説している人の教えを聞くという聞精進を続けていく。その継続は、「正聞薫習(しょうもんくんじゅう)」として仏法の教えが自らに血肉化されていくことを促してくれる。またそれは阿頼耶識への善き種蒔きでもある。それと同時に、幸運にも得られた教えを自分で思索するという「思精進(ししょうじん)」を日々の内省日記を通じて行なっていこう。書くという実践以上に思索を深めてくれる実践はなく、その実践を支えてくれる屋台骨として仏法の教えに与らせてもらう。さらには、唯識思想に関する英文論文の執筆もまた思精進の実践に他ならないことが見えてくる。このように、自分の日々の生活も学術研究も仏教上の実践に他ならないことが見えてくる。仏教的実践に繋がらない実践など何一つないのだということが明々白々な事実として見えてくる。それもまた一つの真理だと言えるかもしれない。この真理に基づく絶え間ない実践が、「修精進(しゅしょうじん)」となるのだ。
心静かで心が集中した状態の禅定で智慧を発揮していくことが瑜伽行唯識学派の在り方であり、実践なのだ。自分はその生き方に大いに共感・共鳴する。心が集中した状態に湧き上がってくるなんとも言えない充実感。確かに集中の最中はそれを感じることは難しく、むしろそれを感じられてしまうというのは集中度合いが浅いことの証左だろうが、いずれにせよ集中するということは自己を手放して世界そのものと一体化することに不可欠であり、その瞬間に究極的な至福感が芽生えるのではないかと思う。また、私たち人間は結局のところ、言葉を通じて悩みと苦を生み出し、同時に悩みと苦の解放をもたらすのもまた言葉であることを考えると、私たちを解放させてくれる言葉の結晶としての叡智を獲得し、それを発揮し、他者に共有していくことの大きな意義を見る。この集中と叡智の双方を大切にする教えと実践がどこまでも広く深く内包された瑜伽行唯識学派の思想・実践体験が深く自分の心を打つのはそうした理由によるのだと改めて気づかされる。フローニンゲン:2024/2/24(土)15:41
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