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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12175-12183:2024年2月22日(木)



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タイトル一覧

12175. 自覚の道

12176. 今朝方の夢

12177. 仏教と出会えた幸せ

12178. シロシビン・マッシュルームの栽培を通じた仏道的学びと実践

12179. 今朝方の夢から考えるハーバード神学大学院での学び

12180. 賛歌賛絵・輝歌輝絵の世界の中で

12181. 示唆深い夢

12182. 日本独自で展開された法相唯識教学の歴史的発展過程の研究に向けて

12183. 今日のトレーニングを振り返って


12175. 自覚の道 

       

時刻は午前4時半を迎えた。今日もまた昨日同様に、午前1時(厳密には昨日全く同時刻の01:08)に目が覚めたが、今日はもう少し睡眠を取ることにして、午前4時に起床した。理想は午前2時半から4時までのどこかで目覚めることなので、今日はその最大値を取る形での起床となった。今の自分にとっての最適な睡眠時間はまだ確定しておらず、それもおそらく日々の心身の状態で若干差があるのだと思うが、ここでも過剰に睡眠を取るのでも、過少に睡眠を取るのでもないという中庸を心がけたい。仏教の教えは睡眠1つにおいても実践できるのだ。


ある経典の中に、「仏教とは自覚教である」という記述があるらしい。自覚とは自分を深く知り、悟ることに他ならないのである。睡眠1つ取ってみても、自分について知ることができる。それは自分の身体の状態かもしれないし、心の状態かもしれない。はたまた、自分にとっての睡眠の意味や価値観なども知ることができる。こうしたことに1つ1つ気づいていき、考察し、己を知る試みが悟りへの道なのである。


自分はまだまだ無学者になるには程遠いということを痛感する。「無学」という言葉は、「世間」という言葉と同様に、本来の仏教用語の意味を離れて逆の意味や逆の印象を与える言葉として使われてしまっている。本来「無学」という言葉は、もう学ぶことのないほどに悟った状態や人のことを指す。完全に悟りの段階に到達した人はもはや学ぶことがないのである。反対に、そうでない場合は私たちは一生涯学ぶ必要があるということだ。自分はきっと無学者にはなれないであろうから、命が尽きるまで学ぶ気概でいる。晴れてこの秋から再び大学院に戻ることができたら、そこでの学びは自分にとって4回目の修士課程になるし、そこから博士課程への進学も考えている。博士号についても1つではなく、2つや3つ取得することも検討しており、自分にはまだまだ学びたいことが山ほどあるのである。学びたいことの多くは今はもう仏教関係の事柄になっているが、これからも学びの歩みを止めることはないだろう。その過程の中で、絶えず自分自身について少しずつ知っていくことが悟りへの道なのだ。唯識思想の言葉で言えば、自らの識について深く知っていくことが無学者への道なのである。今日もまた自分は自己の新たな側面を知るだろう。1つと言わず、いくつもそれに気づくに違いない。こうして自分自身に対する無知さを少しずつ超克していくことを何よりも大切にしたい。各種の自覚を持つこと。その集積がいつか本当の意味で悟りという自覚を開いていく。フローニンゲン:2024/2/22(木)04:56


12176. 今朝方の夢 


時刻は間も無く午前5時を迎えようとしている。今の気温は9度と比較的暖かく、今日は日中の最高気温も12度になるとのことで、3月が近づいてきていることを気温からも実感させる。確かにフローニンゲンの冬が完全に終わったと感じさせるのは5月の中旬でまだまだ先のことだが、それでももう極寒の寒さを感じることはなくなってきていることは有り難い。室内ではとても快適に過ごさせてもらっていることに感謝である。今日は夕方から小雨が降るかもしれないので、ジムに行く際には折り畳み傘を持参したいと思う。


今朝方の夢をいつものように振り返っておきたい。夢の中で私は、大学3年生を迎え、学期最初のオリエンテーションに参加していた。キャンパス内には学年が変わったことによって、新入生のフレッシュな顔がたくさんあったし、逆に大学を卒業していった先輩たちの顔も想像された。その週はまだオリエンテーションということで、どの授業を履修するかのお試し期間であった。私は、とりあえず自分で組み立てたその学期の履修表を眺めながら、各曜日の特定の時間に該当する授業のオリエンテーションを聞きに行った。そこでどのような授業がどのように行われるのかを理解した上で最終的な履修登録をすることにした。大学3年年生という後期課程に入ったこともあり、ここからはさらに専門的な授業も履修していこうと思った。自分のカリキュラムを自分で決めることはやはり楽しく、それを通じて自分が何に関心を持っているのかも明らかになってくるし、自分の思わぬ関心に気づくというような発見があった。


いざある授業が行われる教室に行ってみると、そこはかなりの満席で、席を見つけるのが難しかった。すると、予備校時代の知り合いの2人が3人がけの長机の両端にそれぞれ座っていて、私はその真ん中の席に座らせてもらうことにした。3列ある長机の列のうち、真ん中の列の前から3番目ぐらいの長机の真ん中の席に腰掛けた形となる。そこは先生の姿が真正面に見え、黒板全体も見えやすかった。早速先生はオリエンテーションを始め、そのクラスの趣旨と全体の流れを説明した。周りを見ると、もうその授業を履修する気満々の生徒で溢れていて、彼らはもう教科書を購入していた。私は随分と出遅れていて、正直なところまだ休みボケが抜けておらず、自分がどのような授業を履修するのかについても確かに全体は決まっていながらも、細部については詰められておらず、周りの学生との差を感じた。そう言えばその授業は事前に履修目的について短いレポートを提出することになっていたなと思い出したところ、先生がちょうどそのレポートを学生たちに返却し始めた。自分のレポートを受け取った時に、先生が自分が手に持っていた履修予定の授業の表を見て、「君はもう3年生なんだからもっと専門的な授業を履修した方がいい。見せてご覧なさい。これとこれとこれは履修するのはやめて、もっと専門的な授業を入れなさい」と言われた。合計で5つほどの授業を丸で囲まれ、それらについては別のもっと専門的な授業に替えるようにとフィードバックを受けたのである。先生の授業は以前履修していたこともあり、先生は私のことを知っていたのでそのフィードバックを有り難く受け取って履修項目の変更を検討しようと思った。すると最後に、「あっ、あとこのレポートを君の友達に渡しておいてくれないか」と言われ、友人のレポートを先生から受け取った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/2/22(木)05:13


12177. 仏教と出会えた幸せ   


時刻はまだ午前5時半を迎えたところだが、早くも1羽の小鳥が鳴き声を上げた。最近は早朝の時間も寒さが和らいだおかげか、小鳥たちの澄み渡る鳴き声が聞こえてくる時間が早くなっているように思う。日の出に関しても随分と早くなり、午前7時半頃からだんだんと明るくなっている。以前であればまだその時間は真っ暗だったというのに。こうしたところからも季節の着実な進行を感じる。自分の人生という季節もまた着実な歩みを進めている。日々の取り組み1つ1つが高い集中力と充実さの中で行われており、それが毎日の幸福感の源泉となっている。そうした形で日々を過ごしていると、自分が着実に自他に対して何か貢献できるような形で成長を遂げているのを実感する。真剣に仏法を学び始めた今においては、今後の人生はさらに充実した実り多きものになるに違いない。仏教と深層的な出会いをこのタイミングで行えたことに本当に感謝している。きっと今だったのだろう。数年前でも数年後でもなく、今だったのだ。「なぜ今なのか?」その問いは、まさに先日のハーバード進学大学院(HDS)の最終選考面接でも尋ねられたものだった。こと仏教に関しては、もう巡り合わせとしか思えないのである。仏教用語で言えば、それは縁がもたらしたものだったのだ。種々の縁が絡まり合い、それが時の発酵過程を経て実を結んだ結果として、自分は深く仏教を学び、それを実践するという仏門の道に入った。慈悲と慈愛に満ちた菩薩に少しでも近づけるように精進しようと決心した発心が芽生えたのは、偶然性を超えて諸縁がもたらしてくれたものなのだと思う。これまでの数多くの種まきの結果が仏道修行の道という巨大な果実を自分にもたらしてくれたのだ。悟りを開くとか、解脱するとか、そうした果実ではなく、自分にとって大変有り難かったのは、仏教と出会わせてくれたことなのであり、仏門の道に入らせてくれたことなのだ。ただそれだけで感謝の念が一杯である。


今週の日曜日には、第27回のシロシビン・セッションが控えている。HDSの最終選考面接を無事に終えながらも結果がまだわからないというこのタイミングで行うセッションでは、どのような事柄が開示されるだろうか。そこで、開示される新たな真理は一体どのようなものだろうか。どのようなものが開示されようとも、今の自分には頼るべき存在がある。それが仏教である。仏の教えを絶えず参照しながらセッションを積み重ねていけば、きっと自分は正しい道をどこまでも遠くまで歩けるような気がしている。時に生じるであろう迷いや疑いもまた仏法と照らし合わせて光を当てていくのである。仏教の思想体系と実践体系が、ここまで自らのサイケデリック実践を強力に後押ししてくれるものになるとは思ってもいなかったことである。ちょうど今聞いている、ハーバード大学でインド哲学に関する博士号を取得した若いアメリカ人男性のポッドキャストの中で、インド哲学のあの深淵な哲学思想と実践体系の背後には、カンナビスやチョウセンアサガオなどのサイコアクティブな物質の存在があることが指摘されており、それは確かに今も数多く存在するサドゥーたちを見れば一目瞭然のことである。実際に釈迦や竜樹、世親や玄奘なども何かしらのサイコアクティブな物質を使って悟り体験を深め、思想体系と実践体系をさらに精密堅牢なものにしていった可能性についても調査をしていきたいものである。きっと現代を生きる仏教徒が竜樹や世親、さらには玄奘などと比べて小粒なのは、サイコアクティブな物質に関する叡智を忘却してしまったからではないかと思う。フローニンゲン:2024/2/22(木)05:55


12178. シロシビン・マッシュルームの栽培を通じた仏道的学びと実践


朝の楽しみは何もモーニングコーヒーを淹れてそれを味わいながら学術研究に従事するだけではない。その他にも創作活動や日記の執筆などの楽しみもあるが、それ以外にも、シロシビン・マッシュルームの栽培キットを毎朝眺める楽しみがある。ちょうど先ほど旧栽培キットを眺めると、3本ほどさらに収穫ができそうだったので収穫をし、オーブンでの乾燥を始めた。説明書には2~3回ほどの収穫と書かれていたが、もう6回目の収穫となる。さすがにここまで収穫をしてきたので、土の量も減り、ここからは多くの収穫は見込めそうにない。旧栽培キットに関してはほぼほぼお役目を終えたという感じである。ここからは霧吹きで湿度を高めることや酸素を入れ替えることを保留にし、仮にまた頭が出てくるようなことがあればそれをしたいと思う。いずれにせよ、旧栽培キットにここまで多くの収穫をもたらしてくれたことには本当に感謝である。そんな栽培キットのお役目を終える姿を見ていると、諸行無常を感じる。その栽培キットとの最初の出会いの日が懐かしい。購入し、自宅で開封したときの感動。それと同時に、果たして自分はきちんと栽培ができるのだろうかという一抹の疑いのようなものがあったことが懐かしい。それらを諸々含めて、諸行は本当に無常なのだと知る。こうしたことを体験を通じて教えてくれたのがその栽培キットであった。


新栽培キットの方に目を向けてみると、嬉しいことに小さな頭を出しているマッシュルームがいくつかった。それが起こるまでは栽培キット内の二酸化炭素濃度を高めておく必要があり、逆にそれが起こったら今度は酸素濃度を高めていく必要がある。同時に湿度を高めるために霧吹きを使って栽培キットを湿らせていく必要がある。当初想定していたタイミングとほぼ同じぐらいの時期にこうして新たな生命が誕生したことを嬉しく思う。今週末のセッションでは、旧栽培キットの6周目の収穫でもたらされたものを摂取すれば事足りるように思うが、仮に新栽培キットで今頭を出したものをここから2日ぐらいで大きく育てることができたら、日曜日に摂取することも可能かもしれない。それができるかどうかのギリギリのタイミングである。栽培について焦ることなく、しかるべき大きさになるまで待つことが大切なので、今週の日曜日のセッションではやはり、旧栽培キットで収穫されたものだけを用いようと思う。マッシュルームを育てることそのものからも諸行無常などの仏教とつながる教えを学び、マッシュルームを摂取することによってさらに知覚体験や獲得される真理が仏教につながるという最大の学びをもたらしてもらっていることに深く感謝したい。この探究実践道をどこまでも極めていこう。そうすれば自分も達者に近づいていき、他者や社会にきっと今よりも有意義な形での何かしらの貢献ができる日がやって来るだろう。フローニンゲン:2024/2/22(木)06:20


12179. 今朝方の夢から考えるハーバード神学大学院での学び        


今日はまだ朝の学術研究を始めておらず、日記を執筆することに時間を充てている。言語阿頼耶識から言葉が淀みなく暴流(ぼる)の如く流れ出て来る体験は、シロシビン・セッション後に起こることなのだが、今日はその前触れとして朝から言葉を紡ぎ出している自分が随分といる。一応この日記を執筆し終えたら、今日もまた唯識研究に勤しむ予定だ。そしてそこでの読書体験を午後にはジムに持ち込み、ジムで筋力トレーニングをしている最中に唯識思想を回想しながらその教えを身体に染み渡らせていこうと思う。筋力トレーニングの中で筋肉を伸縮させるリズムと呼吸のリズムに合わせて唯識の思想を肉体に染み込ませていくのである。活字空間から離れ、唯識の学びを肉体次元に落とし込む最良の機会として週に2回のジムでのトレーニングがあり、2週間に1回のシロシビン・セッションがある。それらは学びを統合化し、血肉化させる本当にまたとない機会である。それらの機会に深く敬礼し、感謝の念を捧げたい。


今朝方の夢に関して断片的に思い出したことは、豪雨の後に道が水で満たされ、ちょうど人間の膝ぐらいの高さまで水がある状態の道を1匹の白い犬が全速力で走り抜けていく場面があったことである。その犬の脚力には驚かされたし、その勢いにも驚かされた。脇目もふらずに一心不乱に走るというのはこういうことなのかと学ばされた次第だ。そんな場面を思い出しながら、仮に良縁あってこの秋からハーバード神学大学院(HDS)に通うことになったら、夢の中のその白い犬のように脇目もふらずに全速力で駆け抜けたいという思いがある。自分の場合はなかなかあの犬のように前以外は一切視界に入れずに走ることはできないと思うが、少なくともあの犬のような勢いとエネルギーを持って、走ることを大いに楽しむ形で駆け抜けたい。博士課程への進学に向けての全力疾走と、博士課程後の無限に広がる学術研究の可能性に向かって自分にできる最大限の出力で思う存分に駆け抜けたいと思う。自分はその時が来るのを辛抱強く6年間待っていたのである。フローニンゲン大学を離れてのこの6年間は、一人自宅の書斎に籠もっての探究の日々であった。それはそれで申し分ないほどに楽しく、毎日喜びをもたらしてくれていた。しかし、やはり自分は他者と共により遠くへ行き、他者と切磋琢磨しながら研究を進めていくことで得られた知見を広く世の中に共有していきたいのである。そう考えると、もう我慢の限界であったように思う。学術研究を何の制約もなしに自分の能力を全て解放させる形で思う存分とことんまでに行える場所を今回何かの縁で見つけることができたのである。HDSからの合格通知を受け取ったわけでは決してないが、晴れてHDSに進学することができたら、この6年間で蓄積させてきた学びの全てをぶつけたいと思うし、この6年間溜め込んだ探究エネルギーを抑圧一つなしに完全解放させたいと思う。夢の中で水たまりにも負けずに全力疾走するあの神々しい白い犬の姿からそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/2/22(木)06:45


12180. 賛歌賛絵・輝歌輝絵の世界の中で   


一旦日記を書くことから離れ、朝の学術研究を開始しようと思っていたが、先ほど振り返っていた夢とハーバード神学大学院での過ごし方について考えていると、さらに夢の続きがあることを忘れていて、それについても書き留めておきたいと思った。自分にとって、確かに書物を通じた学術研究は極めて重要だが、仏教の教えにあるように、結局は「自覚」という形で自らについて深く知らなければ悟りと解脱は実現されないのであり、書物以上に自らについて振り返る日記の執筆が最も重要な実践であることは言うまでもない。アマナ・マハリシもまた執筆実践を通じて自覚に至ったことを忘れないようにしたい。自らの至らなさを含め、多様な観点で自己を省察していくことが最良の自覚への道かと思う。その過程の中で、絶えず仏法を参照し、しかるべき人からの聴聞を受ければいいのである。偉大な仏教徒が残した書物を読むことは、自分にとって聴聞の実践の1つである。正しい教えを聞くということ。それが聴聞であり、正しい教えを数多く聞く実践が多聞なのである。自分は仏教書を多読することを通じて多聞を行っているのだと気づかされる。仏道の世界に入ったという強烈な自覚が芽生えたことによって、自己と日々が、そして人生がこれまでにない光量で輝き始めた。自分の命が喜んでいるのがわかる。仏教とは命に養分を与え、命を輝かす教えだったのだ。そんなことに遅ればせながら気づかされる。


誰かに聞かせたいほどに、自分で独り占めしていては申し訳ないほどに美しい小鳥の鳴き声が朝の世界に響き渡っている。空はまだ暗く、辺りはまだまだ暗いのだが、そんな中で健気に1羽の小鳥がずっと鳴き声を上げている。この鳴き声の美しさを誰かに共有したいという思い。一緒に聞くことが叶わないのであれば、せめてもということでそれを日記にしたためている。今自分の耳に聞こえている小鳥の鳴き声を音そのものとして共有できなかったとしても、その情景を想像してもらうことを通じて、同じ気持ちを共有できれば幸いである。また、その感覚を持って身の回りの世界を眺めてみたら、小鳥を含めてきっと生命たちが輝く賛歌を歌い上げているだろうし、生命の輝きが織りなす絵画がそこに広がっていることに気づくだろう。この世はどうやら賛歌であり、賛絵であるようだ。この世はどうやら輝歌であり、輝絵であるようだ。互いが互いを讃え合い、互いが互いを輝かせ合う世界に生きているということを私たちは忘れてはいやしないだろうか。フローニンゲン:2024/2/22(木)06:56


12181. 示唆深い夢       


よくよく辺りを観察してみると、朝の7時半ではなく、7時を過ぎた頃から空はダークブルーに染まり始め、7時半の段階では随分と明るくなっていることに気づいた。今日もまた本格的に1日が始まる。


先ほどもう1つ振り返ろうとしていた夢の場面として、地元の砂浜にいたものがあったことを思い出した。そこで私は、小中高時代の友人(YU)と一緒に海に入る準備をしていた。彼は小さな手漕ぎボートを用意していて、最初はそれを使って海に入っていこうと話していた。しかし、目の前の輝く海を見たときに、ボートではなく体ごと海に飛び込みたいと思ったので、居てもたっても居られなくなった私は、すぐに衣服を脱ぎ捨てて海に飛び込んでいった。すると、砂浜からは輝いて見えていた海も実際は少し濁っていて、その濁りに少し気落ちしてしまった。しかし、それが自分を冷静にしてくれ、さらにくまなく海を観察してみると、白い得体の知れない小さな生き物がいくつもいることに気づき、なんだろうと思ってそれらをじっと観察していた。そのような場面があった。


この短い場面もまた何気なく示唆深い。まず輝く海は、今の自分の深層心理においてはハーバード神学大学院(HDS)や仏教の世界を象徴しているかもしれない。いざ輝く海に飛び込んでみると、外から見えた輝きとは裏腹に濁りも見えてきて、そこで初めて対象を冷静になって眺めることができる。それは対象の空性への自覚と言えるかもしれない。そうした空性の自覚があると、今度はまた新しい色が見えて来る。それが夢の中で言えば、白い得体の知れない生物だったのだ。その小さな生命体は、自分にとって未知の存在で、好奇心を刺激する存在だった。そして、それをじっと観察している自分がいたのである。実際にHDSに行った時にも、きっとその白い生命と同じような未知なる存在と出会うだろう。しかもそれは夢の中でその白い生命が無数に存在していたのと同じく、無数に出会うだろう。仏道の世界においても同じである。きっと未知なものとの出会いが次々とあるに違いない。そうなって来ると、あの白い生き物は諸法の象徴なのかもしれないと思えて来る。仏教において、「法」という言葉には、教え、真理、存在と大きく分けると3つのものがある。最初自分は、あの白い生き物を全ての存在の象徴と受け取っていたが、今改めて考えてみると、全ての存在は固有の真理を体現していて、絶えず何か新しいことを私たちに教えてくれる存在なのだと思うと、「法」の3つの意味を全て満たしたのがあの白い生命体だったのではないかと思ったのである。ということは、あの白い生命体は法だったのだ。夢の中の私は、自分に真理と教えを授けてくれる諸法に満ちた大海原にボートを使わずに自分の身一つで飛び込んで行ったのであり、だからこそ大海原の空性に気づき、そして諸法と出会えたのだと思う。大変示唆深い夢を見たものである。フローニンゲン:2024/2/22(木)07:27


12182. 日本独自で展開された法相唯識教学の歴史的発展過程の研究に向けて


午前中の唯識研究も順調に進んでいる。現在、日を追うごとに仏教、とりわけ大乗仏教の思想への関心が高まっている。サンスクリット語での原典を読みたいという気持ちを抑えながら、またサンスクリット語学習を始める気持ちを抑えながら、とりあえずは手持ちの日英の唯識思想の書籍を何度も読み返している。まずは下記の瑜伽行唯識学派の根本テキストを徹底的に読み込み、瑜伽行唯識学派の思想の歴史的発展過程を捉えた上で、日本独自で展開された法相唯識教学の歴史的発展過程を研究していきたい。

『解深密経(Sandhinirmocana Sutra)』

『瑜伽師地論(Yogacarabhumi-sastra)』

『大乗荘厳経論(Mahayana-sutra-alamkara-karika)』

『中辺分別論(Madhyāntavibhāgaśāstra)』

『摂大乗論(Mahāyānasaṃgraha)』

『倶舎論(Abhidharma-kosa Sutra)』

『成業論(Karma-siddhi-prakaraṇa)』

『唯識二十論(Viṃśatikā kārikā)』

『唯識三十頌(Triṃśikā vijñapti-kārikā)』

これらの文献は、瑜伽行の修行をしていない一般人目線で書かれたものと、修行者目線で書かれたものに大別される。その分類を示しておくと、一般人目線で執筆されたのは『中辺分別論(Madhyāntavibhāgaśāstra)』と『唯識二十論(Viṃśatikā kārikā)』であり、それ以外は修行者目線で執筆されている。とりわけ修行者目線で執筆された書物には、まさにサイケデリック体験の理解を深め、その実践をさらに実りあるものにする詳細で精密な見取り図が開示されている。それを読み解くことの楽しさのみらず、自らのサイケデリック実践を仏典を通じて深めていくことの楽しさの双方がある。


日本独自で展開された法相唯識教学の歴史的発展過程を研究に向けて、それをテーマにして博士論文を執筆していくことを視野に入れて、研究案を英語で執筆しておきたいと思う。そのドラフトの執筆を3月に入ってから行う。研究案のドラフトが出来上がれば、これから大学院に進学したときに、将来の博士論文の指導教官候補にそれを見せ、色々とフィードバックを受けながら研究案をさらに練り上げていくことができるだろう。また、博士課程の進学に向けて修士課程の段階で行っておくべき調査や研究なども明確なものになるであろうから一石二鳥である。願わくば、修士課程の初期の段階からこのテーマに連なる査読付き論文をできる限り多く執筆していきたいし、その成果を学会の場で積極的に発表したい。それを見据えて、3月の初旬に研究案を本格的に執筆するまでに色々と構想を練っておこう。フローニンゲン:2024/2/22(木)08:43


12183. 今日のトレーニングを振り返って


時刻は午後5時を迎えた。なんとか雨が降る前にジムから自宅に帰って来ることができた。今日のジムでのトレーニングを終え、シャワーを浴びて、これから夕食の準備に取り掛かろうと思う。今日もジムで充実したトレーニングができたので、今夜の夕食もさぞかし美味しくいただけるだろう。仏教を本格的に学び始めてからというもの、そして仏道に入ったという確信が芽生えてからというもの、毎日の充実感が格段に増している。仏教の凄さはそうしたところにも滲み出している。


今日はパーソナルトレーナーのエリーザが家のボイラーの修理に立ち会うために少し早めにトレーニングを開始した。いつもより20分ほど早いトレーニングの開始となり、ジムに行く際にはジョギングをしていたのでそれをウォーミングアップ代わりとして、普段行っているアニマルフローの動きや動的ストレッチをしない形で今日のトレーニングを始めた。そのせいなのか、それとも月曜日に少し鍛え過ぎたのか、最後の有酸素運動の時には少し無理をしないようにしようとする意思が芽生えた。1時間のパーソナルトレーニングの最中は特段身体の動きに鈍さや重さはなかったが、最後のランニングの際にはいつもより走る速度を落とし、距離も気持ち短くした。先日の月曜日のトレーニングで追い込んだのは大胸筋ぐらいで、特にトレーニングのし過ぎではないと思うので、やはり柔軟的なウォーミングアップがなかったことが影響しているのだろうか。はたまた昨日に午前1時に起床したことによってそれが睡眠負債となり、体力の低下をもたらしたのだろうか。おそらく可能性としてはそれが一番濃厚かもしれない。いずれにせよ、今日のトレーニングでもエリーザが色々と新しい創意工夫に富むメニューを提供してくれたので、身体だけではなく脳にも新しい刺激が入り、非常に充実したトレーニングを行うことができた。そのことに感謝したい。月曜日のトレーニングはやはり無理をせず、身体全体にほどよく刺激を入れていくことを意識するのと、有酸素運動の量を気持ち増やすことを心掛けたいと思う。それ以外の気づきとしては、とりわけ有酸素運動でゆったりとしたペース設定にしているときにはまるで瞑想をしているかのような意識状態に入れる頻度が増えてきたことは喜ばしいことである。ペースや負荷量を上げるよりも、有酸素運動においては集中力を高めることを目的にし、同一ペースでゾーンの状態に入れるような能力を高めていくということを目標にしたいと思う。それもまた次回のトレーニングからさらに意識したいと思う。フローニンゲン:2024/2/22(木)17:19


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