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タイトル一覧
12169. 仏道修行の道に入って
12170. 『唯識三十頌』の写経と音読について
12171. 仏教辞典を読む楽しみ
12172. 今朝方の夢
12173. 楽修・大欲・善達
12174. ハーバード神学大学院での学術研究の陰陽/森有正先生に励まされてのこの8年の欧州生活
12169. 仏道修行の道に入って
時刻は午前1時半を迎えようとしている。決してこの時間帯まで起きているのではなく、むしろ逆で、今日は午前1時に目覚めて活動を始めた。昨日の起床もなかなかに早かったが、今朝方の起床は午前1時であった。昨夜就寝したのは午前9時前で、午前1時に起床しても4時間はしっかりとした睡眠を取っていることもあり、今朝方は目が覚めた瞬間にしゃきっと起きてシャワーを浴びて活動を始めることにした。これまでであれば午前1時に目が覚めても2度寝をしていたが、惰眠を貪ることもまた仏教では戒められているので、試しに午前1時に目覚めて活動を始めることにした。午前1時に目覚めてここから活動を始めると、正午までに一体どれだけ自らの取り組みに時間を充てることができるだろうかと考えると思わずニヤけてきてしまう。唯識思想を思う存分学べると想像するだけで笑みが止まらないのだ。現在自分に最も至福感を与えてくれるのは食事でも睡眠でもなく、その他諸々の事柄でもなく、ただ一点、瑜伽行唯識学派の思想を学ぶことなのだ。午前1時にすっきり目覚めてシャワーを浴びながら、「昨日も随分と早く起床していたな。今朝方は1時に起床か。まるで仏道修行をしているような形だな」と独り言を述べていたが、「まるで仏道修行」ではなく、文字通り「仏道修行」なのだ。自分の人生は、そして日々は、もはや仏道修行なのである。全ての学術研究も実践も、自分にとってはもはや仏道修行の一環として存在しており、仏道修行を離れてそれらは存在していないのである。学術研究もサイケデリック実践を含めたその他諸々の実践も、自分にとっては全て仏道修行に他ならない。そのような明確な認識がもたらされた。
さて、今朝は午前1時に起床したということもあって、正午までの活動の中でうまく休憩を挟み、脳を休めるような意味での瞑想実践を所々挟んでいこうと思う。今朝は起床した時間が時間だけに、ひょっとしたら午前中に2回ぐらいは脳を休めるためにシャバーサナのポーズをしながらの瞑想を書斎の床のヨガマットの上で行うかもしれない。とにかく無理をせず、適宜休憩を取りながら唯識研究に今日も打ち込んでいこう。4時間の睡眠はどこかナポレオンを思わせるが、ナポレオンは確か3時間ほどしか寝ていなかったように思えるので、彼の方がまだまだ短眠であることがわかる。上には上がいるということ。そのようなことも改めて教えてもらった次第である。フローニンゲン:2024/2/21(水)01:34
12170. 『唯識三十頌』の写経と音読について
昨日と今朝はたまたまいつもより早く目覚めたので、今後も4時間睡眠を続けていく気はなく、身体の求めに応じる形で睡眠時間を変えていくというこれまでのスタンスをこれからも採用しようと思う。実際に今日は4時間睡眠で活動してみてどのような活動の質になるのかを観察してみたい。早く起床してどれだけ多くの活動時間が確保できたとしても、活動の内容と質が重要になるのは言うまでもない。むしろ活動の時間が少なくても、しかるべき活動内容に対してしっかり集中をしていれば、本来それで問題はない。肝心なのは集中力である。自分が取り組むべき事柄に集中力高く従事しているかどうか。それを試金石にして活動の質的評価をしたいと思う。自分の場合は単純明快で、唯識思想に関してどれだけ集中して学べているのかを基準にして取り組みを評価していく。
そういえば昨日に、唯識思想が日本に伝わったのはどうやら飛鳥時代(592-710)ではなく、奈良時代(710-784)のようだという知識の細かな補正があったが、唯識思想の伝来は飛鳥時代とする説と奈良時代とする説の2つがあるのかもしれない。と言うのも、唯識思想の大家である三蔵法師こと玄奘に師事をしていた道昭(629-700)は飛鳥時代に活躍したのであり、彼が中国から日本に戻ってきたのもまだ飛鳥時代であったからだ。日本への唯識思想の伝来、法相宗の伝来は果たしていつが定説なのかについても改めて調べてみようと思う。
昨日より、『唯識三十頌』の暗記に向けて、写経と音読を始めた。今日もそれを実践してみようと思う。30の詩と冒頭と終わりの言葉を合わせれば、合計で32行ほどだが、全てを完璧に暗記するには時間がかかりそうである。仮に完全に暗記できなかったとしても、写経と音読を通じて、言葉の質感を身体に染み込ませておきたいと思う。そうすれば、日本語訳を読んだときの理解がより一層深まるだろうし、中国語のそれと日々接することを通じて、中国語の読み方も自然と体得される可能性がある。玄奘が翻訳した中国語の訳文を写経と音読によって何度も味わっていると、幼児が言語を自然と習得するような形で、文法を含めた言葉の並び方や運搬方法が自然と身についていく可能性があると思った。幸いにもその日本語訳があり、日本語訳での意味理解があるがゆえに、中国語で読んでもすでにある程度の理解が可能である。今後は、日本語訳でそれぞれの詩の意味をさらに理解していくことに努め、中国語の翻訳に対して写経と音読を続けていくと、中国語のままでそれを理解することも進展していくであろう。これがまさに多言語を学ぶことの良さであり、大いなる意義である。すなわち、日本語と中国語の双方を用いて『唯識三十頌』に違う形で触れていると、双方の言語から汲み取れるものが相乗効果的に増していくということである。日本語と中国語で『唯識三十頌』に親しめば親しむだけ、原語のサンスクリット語でまた学び直したときに、理解が非常に速やかにいくのではないかと思う。『唯識三十頌』の写経と音読は、唯識探究の一貫かつ仏道修行の一環でもあることはもはや明確である。フローニンゲン:2024/2/21(水)01:53
12171. 仏教辞典を読む楽しみ
時刻は午前2時半を迎えたところである。早朝午前1時に起床してみると、本当に午前中の時間が豊かに使えそうで何よりであると感じる。今日も夢日記を執筆したら、早速午前中の研究活動に取り掛かり始めよう。今はもっぱら大乗仏教の瑜伽行唯識学派に関心を持っているのだが、広く仏教についてもその思想に大変関心を持っている。その関心を抑えることはできず、ただただ純粋に仏教について知りたいという一心で、古典的なのだが仏教辞典を最初から最後まで片っ端に目を通していくことにした。それだけ仏教用語に親しみたいという克己心があるのだ。先日日本語と英語のそれぞれの言語で2冊の辞典を受け取っており、まずは春秋社から出版された『唯識 仏教辞典』という辞書を昨日の夕方から読み始めた。文字通り、「あ」から読み始め、この辞典は合計で1100ページほどあるのだが、夕方から読み始めたにもかかわらず、すでに120ページほど読み進めていた。それだけ食い入るようにページをめくっていたのである。おそらく本日十分に時間をかければ、この辞典の大抵を読み終えるのではないかと思う。辞典を最初から最後まで読み解く楽しみを感じるのは幼少期以来のことかもしれない。幼少期においても自分が関心を持った図鑑に関しては最初から最後まで食い入るように眺めており、それと同じことを今成人になっても行っているように思う。童心というのは学習上の肝なのかもしれない。純粋な喜びと楽しみの感覚で学ぶという童心をいつまでも持ち続けていることが今の自分を形成し、今の自分まで運んできてくれたのだと思う。ここからの精進においても、童心は決して忘れないようにしたい。
英語に関する仏教辞典として、プリンストン大学から出版された“The Princeton Dictionary of Buddhism”も先日に届けられたので、ここからもうしばらく日本語で執筆された唯識思想に関する専門書を読み込んでいった後に、上記の日本語の辞典と同じく最初から最後まで用語に目を通していきたいと思う。こちらの辞典は唯識思想に限定されず、広く仏教について扱っており、サンスクリット語やパーリ語などでも表記がなされているため、今後の仏教研究において非常に有益かと思う。他の学術系出版社から出版されている仏教辞典と比べてみたときに、プリンストン大学出版から出版されているこの辞典が最も良いと判断した次第だ。仏法を学ぶことを通じて、学んだ内容をすぐさま日常の生活に落とし込んでいくこと。それが仏道修行の自分なりの進め方である。今日もまた克己精進である。フローニンゲン:2024/2/21(水)02:55
12172. 今朝方の夢
先ほどモーニングコーヒーを淹れ、ホッと一息つきながら仏教辞典を読み進めていくことにした。とにかく肩肘の力を抜いて、心身をリラックスさせて日々の学術研究に当たりたい。童心と同じく、子供のように緩んだ身体で研究活動に当たりたいものである。モーニングコーヒーの香りに誘われながら、そう言えば今朝方はまだ夢について振り返っていなかったので、午前1時に目覚めた瞬間に見ていた夢について振り返っておきたいと思う。
今朝方の夢のテーマは怒りであった。夢の中で私は、小中学校時代に過ごしていた社宅にいた。社宅には小中高時代の親友(NK)と大学時代の女性友達か誰か女性が一人いて、どういうわけか中学校1、2年生の時の担任の先生がいた。4人で自分の部屋の中で話をしていると、先生が少し私を苛つかせる発言をした。先生は自分の存在を軽んじるような言葉をさりげなく投げかけたのである。私はその言葉に一触即発しそうになったが、なんとか冷静さを保とうとした。すると先生は私の部屋を出て行き、父の部屋に向かって行った。その時に、親友が先生を呼び止めて私に対して失礼なことを述べたことを謝らせようとしたのだが、その時に私は廊下を歩いていく二人に対して、「そんなバカに説明しても無駄だよ」と述べた。そんなバカとは先生のことを指しており、その言葉を親友と先生の双方に聞こえるように述べた。すると先生は逆に怒りを露わにして私の方に向かってきた。先ほどの先生の言葉を受けて私は思わず、「一般平均に合わせなきゃいけないのがオレの人生なんだよ!」と叫んだ。その言葉に先生はハッとしたようで、自分に対してはもはや何も言わず、その場から消えていった。その瞬間に目を覚ました。
この夢は示唆深い。最後に先生に対して述べた捨て台詞は、日本で生きていた時に感じていた生きづらさの最大の要因の一つであった。この点についてはもはや説明が不要かと思う。日本を飛び出し、アメリカの西海岸で生活を始めた時に、自分の背中に翼が生えたかのように、自分の魂は伸びやかになり、そこで自分の潜在能力が目覚め、それを思う存分働かせることが初めて可能になった。あの時の解放感は今も忘れることができないし、今も自分が日本で生活をしていない理由も今後もそうしない理由も、夢の中の自分の発言が全てを説明してくれている。自分の個性と潜在能力と可能性を抑圧する国ではもう生活したくないのだ。それは子供っぽい理由だろうか。自分はそうは思わない。固有の個性と潜在能力と可能性を持った存在として、自らのそれらを断固として平準化を推し進めようとする圧政から守り、それらを花開かせることは一つの権利ではないだろうか。そのような権利が踏みにじられる国には絶対に住みたくないのである。そのようなことを考えるのと同時に、やはり夢の中の自分もまた物理的世界の自分と同様に自我への我執があることに気づく。夢の中ですぐさま攻撃的になる自分の様子を見ているといつも冷や冷やする。たった一つの言葉で即座に激怒しそうになり、我を忘れて目の前の相手に暴言を吐いたり、殺してもかまわないという思いで武術の攻撃を仕掛けようとするあたりにまだまだ内面探求の至らなさを見る。社会生活の中で他者と接する時にもシャドーワークの機会は溢れているが、それ以上に重要なのは夢の中の自分の振る舞いを通じたシャドーワークだと言えるように思えてくる。フローニンゲン:2024/2/21(水)03:41
12173. 楽修・大欲・善達
時刻は午前6時半を迎えた。3月を目前にして、ここ最近は日の出が随分と早くなったことに加え、小鳥たちが活動を始める時間も早まっている。その証拠に、今、まるで湖面を輝かせるかのような美しい鳴き声が朝の静謐な世界に広がっている。それは本当に心を清らかなものにしてくれる。
先ほど、仏教辞典の「ち」の箇所まで読み終え、気がつけば1100ページのうちの700ページまで来ていた。ここで一旦辞典から離れ、唯識の専門書の再読に取り掛かる。夕方にまた辞典に戻ってきて、「ち」行以降の用語を眺めていこうと思う。ひょっとしたら今日か、遅くとも明日には辞典を最初から最後まで読み終えることができそうである。意識を集中させて辞典と向き合っていると、時が経つのはあっという間であり、気がつけば歩みが進んでいたことに気づかされる。心をある対象に集中させるという意味での専心の重要性を改めて思う。
昨日、自らの凡夫性、そして凡夫から菩薩までの道のりを考えると、気が遠くなるような気持ちになり、同時に悲壮さや絶望感を感じていた自分がいた。しかし、もう輪廻の果てまでもその歩みを喜んで楽しみながら行うという覚悟のようなものが芽生え、少し光が射したかのような爽快さがある。どうやら、自ら望んで無限に楽しみながら学びと修行に励むことを「楽修(ぎょうしゅう)」と言うらしい。まさに自分は自らの凡夫性の克服と自他の解放に向けて楽修に従事し続けていく。自他に対して慈愛に満ちた態度で接し、自他の解放を実現させるという大欲を抱くこと。それが自分の生命力の根源となり、他者やこの世界へ貢献する活動への最大の後押しとなる。現にこうして自分の内側から、およそある一個人の心身から醸成されるとは思えないような活動エネルギーが湧き上がっているのは、自分がそうした大志・大欲を抱いているからだろう。仏教は利己的な欲を否定しながらも、利他的な欲を否定せず、むしろそうした大欲を抱いてこの世界をより良きものにしていくことを志向していた点に深く共感する。
自らが抱く大志と大欲の実現に向けて、日々の学びと行を絶えず深めていく努力をしていこう。学びと実践の淳熟。そして、絶えず清らかで素直な心としての淳浄心を持ちたいものである。さらには、善く悟りに向かっていくという善達を心掛けたい。何事も善く熟達していくという意味での善達を心掛けながら自らに与えられた使命としての学習・実践領域に深く深く善達していく。そんな生き方を毎日これから生涯を閉じるまでしていきたい。フローニンゲン:2024/2/21(水)06:46
12174. ハーバード神学大学院での学術研究の陰陽/
森有正先生に励まされてのこの8年の欧州生活
小鳥の鳴き声がまだ辺りに静かにこだましている。それに耳を傾けていると、自然と心は落ち着き、瞑想の意識状態へと自ずから導かれていく。小鳥たちが住う自然には、まさに然るべき形での自ずから性がある。
静かに落ち着いた気持ちでハーバード神学大学院(HDS)からの結果報告を待っている。それは3週間後の月曜日に届くのではないかと例年の動向を見ていて思う。HDSの学術研究は陰陽の両側面があり、それが一つの大円を形成している。陰の側面はサイケデリクスに関する研究であり、陽の側面は唯識思想に関する研究である。そのどちらか一方を研究するのではなく、そのどちらも研究していき、しかもそれらを分離させて研究させていくのでもなく、それらを相互に架橋させる形で両者を研究していく。そのような形で大円を形成させていき、その研究成果を広く世に波及させていく。きっとHDSでの研究の初期は、自分の研究は大海の一滴に過ぎないだろう。しかし、研究の足並みに応じて、滴る水滴は大きくなり、それは波紋を作ってどこまでも拡散浸透していく。そのようなビジョンが知覚される。
昨夜、38歳を迎えて東京大学での職を投げ打ってパリで研究生活を始め、65歳という若さでパリで客死された森有正先生の歩んだ道について考えていた。なんと森先生がパリに渡ったのと全く同じ歳に自分もまた新天地のアメリカに行くかもしれないというのは何かの偶然だろうか。森先生はパリでの研究生活を始めて、完全にパリに捉えられた。魂が捕縛されたのである。そんな森先生も晩年は東洋思想へ関心を示されておられたように記憶している。東洋思想、とりわけ仏教について、自分の目覚めは遅くも早くもなく、自分にとっては今が目覚める時だったのだと思う。振り返ればこの8年間の欧州生活は、自分が生まれるよりもずっと前にすでにお亡くなりになられていた森先生の著作物から常に励ましをもらっていたような気がする。日本からオランダに向かう行きの機内でも森先生の主著の『バビロンの流れのほとりにて』を食い入るように読んでいた。森先生の生き方とそれが綴られた書物に支えられてこの8年間を過ごしていた自分を今こうして振り返る時、森先生には感謝の念が尽きない。また、自分が徒然なるままに執筆するこの日記も誰かの励ましや支えになることはあり得るのだろうかという思いも芽生える。自分が書き記す言葉が、少しでも誰かの何かしらの役に立ってくれるのであればとても有り難く思う。フローニンゲン:2024/2/21(水)10:10
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