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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12055-12061:2024年2月6日(火)



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タイトル一覧

12055. 仏教の教えを体現した生き方を心掛けて

12056. 今朝方の夢

12057. 今朝方の夢が象徴すること

12058. 今朝方の夢の続き/大欲

12059. 3界3身を浄化するための探求と実践

12060. 唯識研究のための中国語とチベット語の学習/インドの論理学の帰納法的特徴

12061. インドの論理学の帰納法的発想の応用へ向けて


12055. 仏教の教えを体現した生き方を心掛けて   

   

時刻は午前3時半を迎えた。昨日はジムで良い汗を流し、ゆっくりと入浴して熟睡できたこともあって、今日の目覚めはすこぶる良かった。目覚めの良さはいつものことだが、今日はとりわけ目覚めの質が高かったように思う。こうして毎朝素晴らしい目覚めと共に早起きをしていると、1日が本当に充実する。その豊かさにこちらも驚くほどであり、その充実した1日を毎日噛み締めながら生きている。こうした日々を過ごせていることに大いに感謝しなければならない。


ここ最近は仏教の教えを体現した生き方を心掛けているように思う。インド哲学と出会い、それに含まれるインド仏教の唯識思想の探究を始めて以降、仏教への敬意と愛の念が深まるばかりである。ここから仏教の用語体系に慣れ親しみ、それを生活の中に体現させていきたい。英語の用語体系だけではなく、日本語の用語体系にも親しむために、仏教の用語辞典を日本から取り寄せようかと考えている。それを毎日パラパラと眺めながら、少しずつ日本語でも仏教の言葉を習得していきたい。自分の毎日の言語生活は英語だけではなく、日本語も介入するのである。確かに学術研究においてはもはや英語が主たる言語になっているが、生活言語としてはまだ日本語が介在する場面もあるのである。それを踏まえると、日本語でも仏教用語を学ぶことのメリットを感じる。今のところ、自分が学んだことの共有は日本語で行っているのだから、仏教用語を日本語で学んでいくと、情報発信においても仏教的な世界観が体現されたものになってくる可能性がある。仏教が持つ広く深い心の理論を伝えること。仏教の倫理的な教えを体現した生き方を自らが日々過ごす中で得られたことをまた伝えていくこと。倫理や道徳が崩壊しつつある社会の中にあって、仏教が持つ倫理・道徳側面も非常に大きな意義と価値を持つように思う。とにかくまずは自分が広く深く仏教を学び、それを体現した生き方を日々行っていく必要がある。単に仏教を学術的に研究するのではなく、その成果を絶えず自他のために役立てていく必要があるし、仏教を体現した日頃の生活態度が重要なのだ。


まずはしっかりと唯識思想の用語体系と思想体系を押さえていくことに集中し、西洋の意識哲学上の問題に対して唯識思想からアプローチしていくために、またどこかのタイミングで西洋の意識哲学にも慣れて親しんでいくようにする。東西の意識哲学の往復運動をダイナミックに行っていくことを心掛けたい。そのダイナミックな運動の中で、選択と集中の形で唯識についてはとにかく深く習熟することを心掛けていく。それが自分の学術研究上の大事な柱になる。また、学術研究上のみならず、日々の生活の指針にもなる。それが唯識思想の魅力である。唯識思想を共に学ぶ仲間を見つけていこう。国籍は問わず、唯識思想を共に学び、それを生活に活かすことを多くの人と行いたい。まずはゼミの場やラジオで唯識思想を扱ってみることを検討しよう。そして後々は欧米の学術機関で読書会を開く形で唯識思想を学び合うことができたらと思う。フローニンゲン:2024/2/6(火)03:41


12056. 今朝方の夢 


今朝方は1つ印象に残る夢を見ていた。それについて書き留めておきたい。


夢の中で私は、北海道に向かう飛行機の中にいた。もうすぐ北海道に到着するとのことで機内の窓から外を眺めると、青森を通過しようとしているところだった。そこで私はどうしたものか、まだ青森の上空にもかかわらず着陸を念じた。すると驚いたことに、その念が飛行機に伝わり、飛行機が突然着陸モードに入り、青森の空港に向かって急下降し始めたのである。飛行機は予定しない場所に着陸しようとしていたので、空港の滑走路から大きく外れ、滑走路を走り抜けて海の方向に向かっていった。このままだと海の上で止まるなと思っていたところ、実際に海の中に入っていき、海の上で飛行機が止まった。幸いにも乗客に怪我はなく、それは安心したが、客席から機長室が見え、真正面の窓の向こうには見たことのない大きさの白いバッファローの大群と白いライオンが数匹いた。彼らは反対側の岸辺で飛行機に対して威嚇をしていた。まるで自分の縄張りに入ってくるなと言わんばかりであった。

飛行機はバッファローの威嚇もあって、迂回してその孤島に着陸することにした。無事に乗客全てが機内から降りた時に、その孤島は先ほどのライオンやバッファローを含めた動物たちの縄張りのようで、妙な緊張感があった。自分には動物たちが発するエネルギーが感じられ、彼らが怯えているか、嫌がっているか、はたまた怒っているかのエネルギーを感じた。おそらくそれら全てが混ざり合ったエネルギーだったように思う。とりあえず動物たちに襲われないように機体を森の中の古びた廃墟に隠した。そこはかつては工場だったようだ。その廃墟の近くにまた別の工場の跡地があって、そこにアニメのキャラクターが3人ほど動物たちの人質になっていることを知った。私は彼らを必ず助け出さなければいけないと思った。彼らを工場から救出し、この島から脱出することをミッションに掲げた。乗客の中で自分に協力してくれる人がいなくても、自分は1人でもそのミッションを遂行する覚悟でいた。


3人のキャラクターが捕まっている工場には動物たちだけではなく、魔女がいるようで、その魔女が動物たちをコントロールし、3人をそこに留めているようであった。なので最終的にはその魔女を打ち倒さないといけないと思った。いざ工場の跡地に向かおうとすると、幸いにも応援に駆けつけてくれた友人がいて、彼の後ろにはたくさんの乗客の男性たちがいた。彼らと一丸になれば、3人の救出は可能だろうと思った。いざ工場に入る際には身を潜め、できるだけ見張りの動物たちに気づかれないように心掛けた。工場に無事に潜入すると、そこからは私1人で工場の上の階に向かっていくことにした。というのも私だけが唯一空を飛ぶ能力を含め、魔法が使えたからである。工場の壁際に沿って気づかれないように宙に浮き、影が光で投影されないように気をつけながら壁伝いに上の階に向かっていった。3人がどこにそれぞれ捕まっているかはなんとなく想像がついたので、1人1人救出していくことにした。すると、すぐに2人の救出が終わり、その速やかさに自分でも驚き、もしかしたらそれもまた魔女の画策なのかと思った。3人目の救出に向かおうとした時、そこに魔女がいたので、そこで最後の決戦が行われることを覚悟した。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/2/6(火)03:58


12057. 今朝方の夢が象徴すること 


先ほど振り返っていた今朝方の夢が象徴することについて少し考えを巡らせていた。まず最初に、飛行機の不時着が象徴することはなんだろうか。幸いにも乗客に怪我人はおらず、無事に着陸することができた。しかし当初とは違う場所に着陸したことが何を象徴しているのだろうか。あの夢の中では北海道を目指して飛行機が飛んでいたが、結果としては青森から先に広がる北海道の領土に思える孤島に辿り着いた。当初自分の中では北海道で何かをする目的があったように思えるが、予期せぬ形で到着した孤島でより重要な目的を見つけたことが興味深い。そもそもそれこそが自分に課せられた使命的な目的だったように思えてくる。その島では3人のアニメのキャラクターを救うという大切な目的を見出し、その目的の達成に向けて動き出している自分がいた。物理的現実世界においても、当初の目的とは違った場所に行き、そこで新たな目的を見出すというのは往々にしてあるのではないだろうか。少なくともこれまでの自分の人生はその連続だったように思う。仮に目指していた場所に辿り着いたとしても、そこでは当初の目的以上に自分にとって大切な目的を見出し、その遂行に向けて日夜精進を重ねる自分がこれまでにもいたように思う。


それ以外にも印象に残っているは、大きな白いライオンと白いバッファローである。それらは珍獣と呼べるような姿をしていた。突然やってきた飛行機に対して彼らは威嚇していたが、おそらく彼らはその島の守神のような存在だったのではないかと思う。早速ドリームディクショナリーを調べてみたところ、バッファローは力を象徴するらしく、自分の根元を象徴するとのことである。また、目的から逸脱するという意味もあるらしく、まさに飛行機が目的地とは少し違う場所に着陸したこととも合致している。また白いバッファローの意味についても記載があり、曰く、願望の成就を象徴しているらしい。それらを総合的に考えると、自分の精神の根っこにある仏教を深く学びたいという願望の成就を願っている自分が深層意識にいることが見えてくる。また、これまで焦点を当てていたサイケデリクスについては、それだけを対象にするのではなく、仏教の観点からそれを捉えていくという目標の修正が行われていたことも関係しているように思う。また、ライオンも基本的には力を象徴するらしいが、白いライオンはより具体的に荘厳な力を示すらしい。それは自分が内側に秘めていた力に突然気づくということも意味しているらしく、ここ最近のシロシビン・セッションを通じての自分の種々の能力への気づきと目覚めを思い起こさせるし、唯識研究に向けた自分の集中力の強さなども思い起こさせる。夢は本当に自分の様々なことを包みかすさず教えてくれるものだと改めて夢に感服する。夢もまた識であり、唯識なのだ。フローニンゲン:2024/2/6(火)05:00


12058. 今朝方の夢の続き/大欲


早朝の呼吸法とアニマルフローの実践、創作活動と夢の振り返りも落ち着いたところで時刻を確認すると、まだ午前5時になったばかりであることに嬉しく思った。ここから正午までの時間を唯識研究に充てていく。日本でどれだけ唯識について研究され、それがどれだけ広く人々の間に知られているのかはあまり知らないが、とにかく自分は自らの関心に従って、英語空間に存在している唯識思想の専門書を足掛かりにして、将来的にはサンスクリット語の原典読解まで到達したいと思う。とは言え日本語でも唯識について説明する機会が今後あるように思えるので、日本語での用語体系にも馴染んでおきたいと思う。そのような思いから、先日発見した唯識の用語辞典をどこかのタイミングで日本から取り寄せようと考えている。そのついでにいくつか唯識に関する日本語の専門書も購入を検討したいと思う。当面は辞書さえあれば事足りるかと思うが、日本での唯識の議論にどのようなものがあるかを押さえておくことは、ここから欧米の学術機関で唯識思想を研究する上できっと役に立つはずである。日本独自の唯識研究や観点があるはずなので、それもまた大切にしたい。


すでに今朝方の夢は振り返り終えたと思っていたが、もう1つ断片的な場面を思い出した。夢の中で、見慣れない大型書店にいたのを覚えている。そこは日本の大都市の大型書店で、平日の昼ごろの時間であったが、客がちらほらいて、それぞれが思い思いに好きな本や雑誌に手を伸ばしていた。私は特に何か買いたい書籍があってその本屋にいたわけではなく、どのような書籍が今日本で読まれているのかを観察することが目的のようだった。正直なところ、最近は本屋での良書との出会いの頻度が減っており、一般受けする書籍が書店で幅を利かせているのは残念である。そのような思いを抱きながらブラブラと書店の中を散策していた。すると、レジで店員の中年女性が大きな声を上げた。「立ち読みはほどほどにしてください」という声がフロアにこだました。最初私に対して述べた言葉かと思ったが、どうやらそれは勘違いで、近くにいた中年男性に対するものだった。それを知って少しほっとした自分がいたのと同時に、自分もまた立ち読みをしていたことは確かなので、必ず1冊は何か本か雑誌を買って帰ろうと思った。そのような場面があった。


人の振り見て我が振り直せ。そのような言葉を思い出す夢だった。他人の行動を見て、良いところは積極的に取り入れ、悪しき振る舞いは自らがそのような振る舞いをしないようにしていくこと。そのような教えを汲み取らせてくれる夢だったように思う。そこからふと、欲そのものには善悪はなく、善き欲としての大欲を抱くことという仏教の教えを思い出した。我欲であってもそれは大なり小なり人は必ずもっているものであり、それそのものを完全になくすことは基本的には不可能であるし、我欲そのものもまた善悪超越的な性質を持つ。その他諸々の欲を私たちは持っており、究極的な悟りの段階に辿りつかない限り、私たちは種々の欲と付き合っていかなければいけない。その時に、まずは中道を心掛け、程々の欲を持つように心掛けることが重要かと思う。しかし、自他の双方にとって有意義なことについては大欲を抱き、それに向かっていくことも重要かと思う。自他ともに苦から解放されることを目指し、社会をより良くしていくというのは今の自分が抱く大欲であって、その大欲に基づく形で日々の学術研究の研鑽と種々の実践がある。そのようなことについて考えていた。フローニンゲン:2024/2/6(火)05:22


12059. 3界3身を浄化するための探求と実践        


唯識思想を本格的に学び始めたことに伴い、これまで学んできた成人発達理論やインテグラル理論、そして長年積み重ねてきたサイケデリック体験が1つにまとまり始めている。私たちの解放に向けた実践として、意識に対する深い理解を持ち、意識を変容させていく試みが求められる。その際に、意識の3層構造をまずは押さえる必要がある。それはまずグロスの意識状態としての「欲界」における意識であり、次に夢を見ている際の意識状態が最もわかりやすい例として挙げられるサトルの意識状態としての「色界」における意識、そして最後に夢を見ない深い眠りの意識状態としての「無色界」における意識が挙げられる。最後の無色界における意識がまさに阿頼耶識と呼ばれるものだ。私たちはそれら3つの意識階層を理解し、それぞれの意識階層で生じるものに囚われないようにしなければならず、それぞれの意識階層を浄化していくことが悟りには求められる。


唯識思想の実践的な価値は、その方法論を示していることにある。それぞれの意識階層には対応する身体構造があるとし、インテグラル理論においてはそれぞれをグロスボディ、サトルボディ、コーザルボディとわかりやすく表現している。これを仏教用語で説明すれば、それぞれは「応身(ニルマナ・カーヤ)」、「報身(サンボガ・カーヤ」)、「法身(ダルマ・カーヤ)」と呼ばれる。3界と対応づけてもう一度繰り返すと、欲界の身体は応身(ニルマナ・カーヤ)、色界の身体は報身(サンボガ・カーヤ)、無色界の身体は法身(ダルマ・カーヤ)と呼ばれる。それぞれの身体を浄化させていくことがある意味悟りの成就となる。通常、ヨーガの身体的な業や瞑想実践は、応身(ニルマナ・カーヤ)と報身(サンボガ・カーヤ)まではうまく浄化してくれるが、最後の法身(ダルマ・カーヤ)の浄化はなかなかに難しい。というのもこの身体は上述のように阿頼耶識と対応したものであり、そうしたコーザルレベルの微細な意識と身体にアクセスするのは短い時間の瞑想では到底不可能に近いのである。1日接心や数日間のヴィパッサナーリトリートなどに参加すれば、その次元の意識と身体にある程度アクセスすることが期待できる。それ以外の方法として期待されるのがサイケデリクスの利用であろう。もちろんサイケデリクスの活用は魔境体験を引き起こしたり、色界と無色界の暴走を招きかねないので注意が必要である。しかし、適切な目的・環境・服用量の変数と定期的なサイケデリック実践を通じて、法身(ダルマ・カーヤ)の浄化を果たしていくことができるのではないかと思う。日頃自分は毎日数回に分けて短い時間の瞑想をしている。それはとりわけサトル次元の意識と身体(報身(サンボガ・カーヤ))の探求と浄化実践だと言える。また、朝に行っている身体実践はグロス次元の意識と身体(応身(ニルマナ・カーヤ)の探求と浄化実践だと言えるだろう。そうした探求と実践に加えて、自分にとってなくてはらないのが、コーザル次元の意識と身体(法身(ダルマ・カーヤ))の探求と浄化実践としてのシロシビン・セッションなのである。そのような意味付けができることに改めて気付かされた。フローニンゲン:2024/2/6(火)07:22


12060. 唯識研究のための中国語とチベット語の学習/インドの論理学の帰納法的特徴   


現代においては残念ながら、唯識思想に関するサンスクリットの原典はさほど残っておらず、その代わりに中国語やチベット語の翻訳が充実していることを知った。それは仏教史から考えてみれば自然なことかもしれず、中国もチベットも古代においては国家事業としてサンスクリット語の経典を自国の言葉に翻訳していった歴史がある。ここから唯識思想の研究を本格的に進めていくために、残存するサンスクリット語の経典を読むだけではなく、自分が読みたい経典が翻訳されている言語に応じて、中国語かチベット語のどちらか、あるいは双方を習得していきたいと思う。いずれの言語において翻訳書を読み解けるほどに読解力を高めたいと思う。


仏教においては苦の根源に無知があると指摘するが、無知とは知識のないことに由来し、「知識」とは自らの識について知ることから得られることを思わされる。「知識」という言葉の意味を考えれば考えるだけ、そしてそれが持つ解放の力を考えれば考えるだけ、識について正しく知ることの重要性が見えてくる。


時刻は午後2時を迎えようとしている。今日は早朝より風が強く、時折強風が駆け抜けていく轟音が聞こえてくる。そんな中、早朝から今にかけての唯識研究が順調に進んでいることの喜びを感じている。今読み進めている“Buddhist phenomenology: A philosophical investigation of Yogacara Buddhism and Ch’eng Wei-shih lun”は600ページほどの大著で、玄奘の『成唯識論』の解説の他、世親の複数の書籍にも言及があり。唯識思想の研究においてこれから何度も手に取って読み返すだろう。本書を読みながら、インドの論理学に改めて関心を持った。インドの六派哲学の中でもニヤーヤ学派の論理学は注目をしており、先日の書籍の一括注文の際にも関連書籍の検討をしていたが、結局購入は3月以降に持ち越すことにした。2月は唯識に絞って専門書を購入し、それを読み込む時期と設定したのである。インドの論理学の興味深い点は、ギリシャの論理学と特徴が違う点である。とりわけインドの論理学は帰納法的な発想に特徴がある。ギリシャの論理学においては一般論や規則をベースにしてそこから論理を重ねて結論に達するという演繹法を採用する。一方、インドの論理学においては観察をベースにしてそこから論理を重ねて一般論や規則を導くという帰納法を採用する。もちろんこれは大きな分類であり、両者がそれぞれ演繹法や帰納法を採用することもあるだろうが、強みにする発想の方法は両者で異なることが興味深い。インドの論理学において観察を大切にする帰納法が発展したのはひょっとしたら、瞑想のような直接体験を積む実践が悟りに向けて大切にされていたからかもしれない。自らの直接体験という体験事実や体験事例をベースにして論理を積み重ねていくというのは、瞑想という直接体験を重視していたことからすれば至極当たり前なのかもしれない。現在の自分もまた瞑想やサイケデリクスの活用という直接体験から意識哲学を探究していることもあり、ニヤーヤ学派を含め、インドの論理学はどこかのタイミングで深く学びたいと思う。それは自分の意識哲学研究を前に進めていくために不可欠となるだろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/2/6(火)13:52


12061. インドの論理学の帰納法的発想の応用へ向けて       


インドの論理学がギリシャの論理学とは性格を異にして帰納法的であることについて改めて考えていた。ギリシャの思想も本来は神との合一化を希求する側面もあったのかもしれないが、そうした要素はインドの思想に比べて希薄だったように思える。インドの思想においては、兎にも角にも解脱という体験を伴う事象に焦点が当てられていた。悟りというのは言葉の世界の現象なのではなく、それは体験を伴うものなのである。悟りという言葉があって悟りを開けるのではなく、悟りという体験があって悟りが開かれるのである。もちろん悟りという言葉のおかげで悟りの体験に向かっていく知識や動機付けになる点を蔑ろにすることはできない。しかし、最終的に重要なことは言葉でその体験を語ることではなく、実際にその体験を積むことが重要なのである。この点において、インドの論理学の出発点に悟りの体験という具体的な経験事例を置くことが自然の流れであることが理解できてくる。当然ながらインドの論理学で扱われたトピックは無数に渡るだろうが、最も重要なトピックはやはり解脱や悟りであっただろう。そうしたトピックについて扱う際にはなお一層のこと、解脱や悟りという直接体験を個別事例に設定し、そこから論理を積み上げていく必要があっただろうと想像される。インドの論理学について興味が募るばかりであり、3月はインドの論理学の英文専門書を一括注文しようかとやはり思う。インドの論理学を出発にし、仏教の論理学に関しても専門書がないかを探してみよう。いずれにせよ、個別具体的な事例を大切にし、その事例の中に個人の主観的な体験を含めることも可能である点は注目に値する。とりわけ既存の意識哲学の研究における論理展開は演繹的なものが多いようにも思えているので、改めて帰納法的なインドの論理学を用いて意識哲学の研究を行っていくことが重要かと思う。特にサイケデリック体験のように、その体験が各人多様であるものを扱う研究に関しては、尚更インドの論理学の思考法と論理の組み立て方を参考に論証を進めていくことができそうである。


ここからのシロシビン・セッションの体験を通じて得られた発見事項をもとに、法則性を導いていくような帰納法的な試みを実験的に自らに課していきたい。これまでも自分の個別具体的な体験をもとに、それを客体化して振り返りをしてきたが、そこに帰納法的な発想をさらに意識したいと思う。これからシロシビン・セッションの体験だけではなく、平素の夢の振り返りにも応用できる大事な点である。インドの論理学が重視する帰納法的な思考から学ぶことは多く、応用範囲はとてもひろそうだ。フローニンゲン:2024/2/6(火)15:02

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