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【サイケデリック学・意識哲学探究記】11988-11995:2024年1月29日(月)



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タイトル一覧

11988. 第25回のシロシビン・セッションから一夜が明けて

11989. 第25回のシロシビン・セッション後に見た夢

11990. 阿頼耶識の深淵さに触れて

11991. 阿頼耶識の知覚体験を振り返って/ショーペンハウアー、弥勒、無著、世親、玄奘への深い敬意

11992. 末那識の奥深さ/大円鏡智/AIと唯識思想

11993. 平和と平穏が体現された世界の実現に向かって/ナーランダ僧院への想い/八正道を実践する生き方

11994. 唯識論と唯心論との違い

11995. ジムで幸福感を感じて


11988. 第25回のシロシビン・セッションから一夜が明けて 

   

第25回のシロシビン・セッションを終えて一夜が明けた。昨日のセッションは怒涛のような内容で、過去のセッションの中でも最も印象深いものの1つに数えてもいいのではないかと思う。そして一旦は完全乾燥させたシロシビン・マッシュルームを5g以上摂取するハイドースセッションをやめ、次回からはその量を半分程度にしてみようと思う。これもまた実験である。クエン酸が多く含まれるレモン汁を活用し、昨日のようにマッシュルームをできるだけ細かく刻んで調理すれば、2.5gぐらいでも十分に深い体験が得られるのではないかと思う。とにかく自分は意識哲学の研究のためにサイケデリック・セッションを実践していきたいと思っているので、昨日のような知覚体験がなくても当面は十分かと思う。しかし、自分のセッション技術が高まり、人間としての器がさらに涵養されたら、昨日のような体験こそが意識の本質を知る上では重要だとも思うので、またハイドースに切り替えていきたいと思う。一応次回は副用量を半分にし、次々回以降にどうするのかはその時になって判断する。


今日からはまた地に足の着いた学習と実践をしていく。今日は月曜日ということもあってジムに行く日であり、ジムまでジョギングと散歩をして行くことは地面に足を着ける感覚を感じられる素晴らしい時間であり、ジムでのトレーニングでは自分の肉体を感じられる機会に恵まれるだろう。昨日のセッションで示されたように、実は自分の肉体と思っているものは自分の所有物ではなく、それは仮の入れ物に過ぎないのである。自分の脳も肉体も自分ではなく、自己という意味での自分という存在は純粋意識なのだ。それは物質性を一切持たず、脳や肉体を完全に超越している。非物質的な純粋意識としての自分が宿る場所。それが脳と肉体なのである。昨日のセッションでの体験を通じて、ますます唯識の思想と分析的観念主義の思想が真理を突いていることがわかる。やはり昨日の危険な橋を渡る体験は無駄ではなく、意識哲学の研究上非常に貴重なものだったのだ。


昨日のセッションの振り返りは今日も思いついたら積極的に行っていきたい。それで言うと、自我の完全喪失から純粋意識と化して、今の自分にとっては危ない体験世界に入っていく際に自分を救ってくれたのは、「感謝」という言葉に加えて呼吸だったことを思い出す。自己をこの世界に留めてくれたのは呼吸だった。直感的に呼吸をやめてはいけないと思って、呼吸に意識を向け、呼吸をしながら感謝という言葉をひたすらマントラのように唱えている自分がいたおかげで、無事に生還できたのである。感謝という言葉と呼吸。それは今日からの生活でより一層大切にしたいことであり、それらは日常生活の中で常に実践に移すことができるものである。感謝と呼吸の大切さを身に染みた体験だった。フローニンゲン:2024/1/29(月)05:45


11989. 第25回のシロシビン・セッション後に見た夢


時刻はゆっくりと午前6時に近づいている。通常意識においては時の進行を味わおう。自分はもう時というものが存在しないことを知ってしまっているが、幻想としての、虚構としての時にあえて従いながら生きることが通常の人間らしく振る舞えることに繋がる。シロシビン・セッションの時以外は時間の流れに沿って生きよう。今のところはそれが賢明のようである。仮に今後自分の器と胆力が磨かれれば、時を離れて日常生活を送ることもあるだろう。それまでは時の流れ、しかもできるだけ緩やかな流れに応じて日々を生きたい。ゆっくりとした呼吸と共に感謝のマントラを唱えながら、静かに進行する時に寄り添って生きていこう。


第25回のシロシビン・セッションによって無意識の世界が大荒れとなり、その大嵐が去ったことによって凪の状態が実現されたがゆえに、今朝方はほとんど夢を見ていなかった。覚えているのは今のところ1つの場面だけで、確かにその他にも何か見ていたような微かな記憶はあるが、明確な記憶の形として留まっているのは1つの夢だけである。


夢の中で私は、自分と同年代のある有名なユーチューバーの男性と話をしていた。場所は高校で、どうやら私たちは同じ高校に通っているらしかった。その高校は1学年12クラスあり、彼と私は違うクラスだった。大学入試に向けて本格的に勉強する学年となり、彼とは入試に関する話をしていた。どうやら日本も飛び級で大学入試ができるようになったらしく、私たちはまだ高校2年生だったが、彼はすでに受験を経験しているようだった。そして実際に慶應大学から合格通知を得ていたとのことである。彼は理系で、英数理の3科目と一芸を披露するという入試を突破した。彼の第一志望は慶應ではなく東大で、一応慶應には受かったが、実際に通うかどうはか迷っているとのことだった。彼に一芸入試では何を披露したのかと尋ねてみると、手品を披露したとのことだった。彼が手品ができるなんて私は知らず、驚いた。その場で何か手品を見せてもらうかと思ったが、引き続き入試の話をした。そして彼がうちの高校の特別クラスの話を持ち出したことも私を驚かせた。彼曰く、12クラスのうちの1つは特別進学クラスとのことで、自分はそのような話を聞いたことはないし、自分の学力からすればなぜ自分がそのクラスにいないのかが不思議だった。そこでふと、2つの理系のクラスのうちの片方が特別進学クラスなのかもしれないと思い、そうであれば文系を選択した自分には無縁の話だと思って自分1人で納得した。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/29(月)06:10


11990. 阿頼耶識の深淵さに触れて


阿頼耶識は通称、蔵識とも呼ばれる。それは宇宙の万有を保つ存在で、万有が展開して生起していくための根幹の場所である。阿頼耶識は唯識思想が説く8織の第8番目に該当する識だ。万有を蔵することから蔵識と名付けられ、万有発生の種子を蔵することから種子識ともいわれる。昨日のセッションは、純粋意識としての究極的な目撃者としての自己がこの阿頼耶識を絶えず覗き込むようなセッションだったと形容してもいいかもしれない。まさに阿頼耶識には宇宙の過去・現在・未来の森羅万象の全てが蔵されており、それを覗き込み、それに触れるという体験をした。当然ながら通常の意識状態ではそうした体験は錯乱を引き起こすだろう。あまりの情報量の多さに脳も精神も押し潰されてしまうはずである。その時の自分は完全に手放しを行っており、純粋意識もまた阿頼耶識から生成される1つの存在だという認識の元、母なる大地に還っていくような形で、純粋意識が生まれた阿頼耶識に還っていく体験をした。今こうやって冷静になって文章を綴ってみると、そのような体験だと捉えることができれば、あの体験は恐怖体験ではなく、むしろそれ以上にない至福体験だったのだと思う。恐怖と至福は表裏一体であり、生と死は表裏一体なのである。そして正気と狂気もまた表裏一体なのだ。


唯識思想に深く影響を受けたのは法相宗であり、法相宗もまた唯識思想の8識の考え方を大切にする。8識を構成する最初の6つは順に、眼、耳、鼻、舌、身、意による認識である。7番目の識は、阿頼耶識を自我と誤認してしまう末那(まな)識と呼ばれるもので、8番目が阿頼耶識である。昨日のセッションでは、自我と阿頼耶識の混同をすることなく、両者が差異化を経た上で、純粋意識が阿頼耶識を目撃し、そこに溶け還っていくという体験だったと解釈している。それは確かに体験後の解釈であり、どれだけ正確かはわからないが、少なくともあの広大無辺で無限の情報量を持つ阿頼耶識を自我だと錯覚するようなことはなかった。間違いなくそれは自我を圧倒し、自我を遥かに超えた存在だったのだ。


8つの識のうち最初の7つは表層的かつ意識的なものであるのに対し、阿頼耶識は深層的かつ無意識的なものである。そうした阿頼耶識にアクセスするためには変性意識状態が求められ、昨日の体験はシロシビンによる深い変性意識状態、とりわけ究極的な目撃者の意識状態と非二元の意識状態に誘われたがゆえにもたらされたのだと思われる。


阿頼耶識の奥深い性質についてはこれから先人が残した書物をもとに深く調査していこう。阿頼耶識は私たちの自我や純粋意識そのもの、そして自然現象を含めて、ありとあらゆるものを表象として生み出す。またそれらの表象を自らの内側に蓄え込むという性質を持っているゆえに種子として形容される。自分を通じて現れた表象もまた集合的な阿頼耶識に蓄えられる。自分はできるだけ阿頼耶識に良い種子をもたらしたい。日頃の想念や行動を見つめ直していこう。フローニンゲン:2024/1/29(月)07:19


11991. 阿頼耶識の知覚体験を振り返って/

ショーペンハウアー、弥勒、無著、世親、玄奘への深い敬意


あの無数の細胞のようなもの。そう、それは阿頼耶識における1つ1つの種子だったのだ。それはまだ表象としてこの世界に顕現していないドロドロとした、あるいはブヨブヨとした液状的な存在可能性的基体であって、昨日のセッションで知覚していた無限空間において眺められたそれは阿頼耶識そのものとそこに蔵している無限の存在可能性的根本体だったのである。それらの種子はまるで生き物のように動いていた。それは絶えず運動を続けていて、世界に表象することに向けて準備を進めているようだった。あれらの種子が何らかのメカニズムとプロセスを経て果実となった結果が、私たちが現実世界だと思っている世界に表象として現れるのである。この世界は外的な実在ではなく、阿頼耶識の表象的実在なのである。自分はその立場において実在論者だ。


ウパニシャッド哲学を敬愛し、そこから深く影響を受けたショーペンハウアー。ヘーゲルは意図的に難解な文章を書いたと言われるが、ショーペンハウアーはその逆で、誰が読んでもわかりやすい明瞭な文章で自らの哲学思想を展開し、世に共有した。ウパニシャッドからの影響を含め、そんなショーペンハウアーに共感する。彼の主著である“The World as Will and Representation”はまだ読んだことがないので、どこかのタイミングで必ず読もう。この書籍は東西の意識哲学を架橋する上で重要になるはずだ。


本来純粋な精神作用としての識。全ての存在は元来実体はなく、仮の存在としての空である。万有は識の顕現である。その最も奥深くに存在するのが阿頼耶識なのだ。私たちの我執は、末那識が万有を生み出す阿頼耶識と未分化な形で渾然一体として混同してしまうことから生じる。昨日のセッションでの体験は、阿頼耶識というものが自分の自我や純粋意識を遥かに超越した存在であることをまざまざと見せつけてくれる体験だった。それにより、自分の我執を見つめ直す最良のきっかけを得たと言える。今日からは我執と阿頼耶識を対象にして観察と内省を進めていこう。再び井筒俊彦先生の英文書籍に戻り、識の解説について説明をよく読んでおきたいと思う。唯識思想は本当に深淵であり、この思想を深く学ぶために玄奘が命がけで何年もかけて中国からインドに渡ったのも理解できる。今私たちは、唯識思想を開いた弥勒(マイトレーヤ)、そしてこの思想を展開させた無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟のおかげもあり、さらには玄奘の命がけのインド渡航のおかげもあって、その奥深い思想を学ぶ恩寵に恵まれていると言える。この思想を学ばない理由はない。フローニンゲン:2024/1/29(月)07:43


11992. 末那識の奥深さ/大円鏡智/AIと唯識思想    


阿頼耶識に加えて末那識もまた奥深い。末那識の説明を字面だけ受け取ると、それを排斥したくなったり、悪者にしたくなるかもしれないが、末那識があるおかげで自我があるとも言える。末那識とは端的に、自我を自我たらしめる意識なのだ。これは本当に自我に関する真理を突いている。私たちの自我はどのように存在しているのかという疑問を持ったことはないだろうか。なぜ自分は他の誰かではなく、自分という誰かなのかという問いにも答えてくれるのが末那識なのではないかと思う。少なくとも自我の存在メカニズムについては末那識の性質を深く追っていけば理解できる。後者のより実存的な問いについては、末那識の性質に加えて、純粋意識と阿頼耶識を説明変数として加える必要がある。それができれば、自分がなぜこの世界で他の誰かではなく、自分という1人の意識体なのかの理由が説明できるだろう。それは自分の存在理由に深く関係するもので、その理由が自分なりに説明することができれば、自分はこの世界の中で絶対的安心感を持って生きていけるのではないかと思う。

大円鏡智。巨大な丸い鏡が万物の影と形をことごとく映すように、全てを明瞭に照らす智慧の獲得に向かってここから地に足を着けて日々の学びと実践に精進していこう。その智慧の獲得過程で得られたことを広く世の中に共有し、なんとかこの表象的現実世界をより良いものにしたい。自分の使命・天命はただ一点、それに尽きる。


唯識思想においては一切の衆生に8織があるとするが、仮にAIが人間と同じような意識を体現するのであれば、8織を体現させなければならない。果たしてAIに8つの織を動員させることができるのだろうか。もちろんAIの知性を人間の知性とは別のものと見立て、無理に人間の意識と同じような性質を持たせる必要はないが、仮にAIに人間と同じ意識を持たせるとするのであれば、8織を完備させなければならないだろう。果たしてAIにそれが可能なのだろうか。現状、AI研究の中で言われている意識というのは8織のうちの6つ目の「意」ぐらいのもので、そこから末那識や阿頼耶識の実装に向けて技術的に相当に困難なものが立ちはだかっているように思う。意識哲学とAI研究は深い部分でリンクしており、ここからのAI研究の進展を絶えず観察しながら、それを意識哲学の観点から常に考察していきたいと思う。


万有は阿頼耶識からの縁起の展開によって生じる。自分は毎日そうした阿頼耶識の縁起的展開世界の中で生きているのだ。その点に畏怖の念を感じ、感謝の念を持ちながらここからの日々を過ごしていこう。フローニンゲン:2024/1/29(月)08:27


11993. 平和と平穏が体現された世界の実現に向かって/

ナーランダ僧院への想い/八正道を実践する生き方


色々と調べ事をして、考え事をしていると気がつけば午前9時を迎えていた。小鳥たちの清澄な鳴き声を聞きながら、朝日を拝んでいる。先ほど15分ほど瞑想実践をしている最中に、自らの名前である「洋平」の「平」の字から、平和と平穏の実現に尽力していきたいという思いが湧いてきた。それは純粋意識の願いのようであった。調和的共存世界の実現に向けて自分にできることを全て行っていく意気込みである。肩肘を張ることなく、自らが平穏な心を体現する形でその実現に向けた取り組みをしていこう。


かつて玄奘がインドに渡って学んだナーランダ僧院への想い。その創立は427年とのことで、世界最古の大学の1つである。ナーランダ僧院に倣って、2010年にインド政府が国家プロジェクトとして王舎城(ラージギル)市に復興設立したナーランダ大学でいつかインド哲学を学びたいという思いが湧いてくる。こうした各種の思いは阿頼耶識から生まれてくるものなのだろう。それが純粋な思いであればあるだけ、自分の人生を良い方向へ導く働きをしてくれる。自分の人生は全て縁起的阿頼耶識によって導かれているものなのだ。

「ナーランダ」は蓮の意味らしい。蓮は智慧の象徴であり、ナーランダ僧院及びナーランダ大学は智慧を授け、智慧を受け取る場所なのである。惜しみなく智慧を与え続け、絶え間なく智慧を受け取り続けるというその円環的学習サイクルの中で自分もこれからの学問道・実践道を歩みたい。


仏教を貫く実践の徳目としての八正道を実践する生き方。それらは順に、(1)正見(しょうけん)正しい見解、人生観、世界観。(2)正思(しょうし)正しい思惟、意欲。(3)正語(しょうご)正しい言葉。(4)正業(しょうごう)正しい行い、主体的行為。(5)正命(しょうみょう)正しい生活。(6)正精進(しょうしょうじん)正しい努力、修養。(7)正念(しょうねん)正しい気遣い、思慮。(8)正定(しょうじょう)正しい精神統一、禅定(ぜんじょう)とされる。意識哲学を起点とした日々の学びと実践は、これら八正道の徳目に収斂される。これら8つの徳目は、自分の日々の学びと実践の非常に重要な参照点として存在している。8つの徳目への感謝の念と共に、八正道の実践を心掛けた生き方を定着させていく。フローニンゲン:2024/1/29(月)09:44


11994. 唯識論と唯心論との違い       


先ほど仮眠から目覚め、あと1時間ほど読書をしたらジムに向けてジムに出発しよう。今日は昨日のシロシビン・セッションを受けて、無理をすることなく、それでいて気持ちの良い汗をかいてきたい。自分の純粋意識が宿る身体を喜ばせる実践としたい。


インド大乗仏教史上、空の思想を説く中観派と唯識の思想を説く唯識派は2大思想として君臨している。今、それら2つの思想にとりわけ力を入れて探究をしている。両者は論争をしていた時期もあり、その論争が両者の思想を磨いた。現代を生きる私たちは、弁証法的な両者の論争過程を経て、より統合的な仏教思想を学ぶ幸運な機会に恵まれている。


唯識思想のおさらいを改めてしている。唯識思想においては、私たちが認識するありとあらゆる存在は、ただ(唯)8つの識によって成立していると考える。まず、5感に対応した識が5つある。それらは順に、眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)と呼ばれる。その次に想定されるのが自覚的意識である。それらの背後に2つの潜在意識が想定される。7つ目の識は末那識(まなしき)と呼ばれる。これは、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるとされる。夢を見ない深い眠りの意識状態においては、6つ目の意識の作用は停止するとされているが、その間も末那識は活動し、自己に執着するとされる。なるほど、夢を見ないコーザルの意識状態においては顕在意識として立ち現れる6番目の識は活動を停止し、その代わりに7つ目の末那識はずっと活動を続けているというのは腑に落ちる。そして最後に、末那識のさらに奥に阿頼耶識(あらやしき)という万有を生じさせる根本の識があるとされる。それは前5識・意識・末那識を生み出し、他の識と相互作用して私たちが世界であると思っているものも生み出していると考えられている。全ての存在が阿頼耶識とその他の識の相互作用によって生み出されたものならば、それらは究極的に主観的な存在であり、客観的な存在ではない。またそれらの諸存在は主観的であるがゆえに無常であり、正滅を繰り返す。それが諸行無常の根本的な教えなのだろう。また、諸存在(色)は空であり、全ては仮の存在で、固定的な実態を持たないという色即是空というのはそういう意味なのだ。


ここで、この世界の全てが識による表象現象だとすると、唯心論と混同してしまうことが起こる。唯識論と唯心論は根本的に異なる思想である。唯心論においては、存在論的には存在するのはただ心だけと考え、心は物質に還元することはできず、物質の存在はあくまでも心の作用によるものであるとする。しかし唯識論においては、心の存在そのものも仮のもので空的なものとする点で、存在論的に異なるのである。また、認識論的には唯心論においては末那識や阿頼耶識などの潜在意識は想定されておらず、唯心論ではあくまでも唯識論でいうところの前5つの識と6番目の識が対象を認識するという点で、認識の深さの点でも異なる点を書き留めておきたい。フローニンゲン:2024/1/29(月)13:39


11995. ジムで幸福感を感じて   

   

時刻はゆっくりと午後5時に近づいている。今、夕方の穏やかな世界に小鳥の鳴き声が聞こえてくる。それは心を平穏なものにしてくれる。


先ほどジムから帰ってきてシャワーを浴びた。昨日のシロシビン・セッションのために購入したレモン汁はクエン酸が豊富で、そう言えばクエン酸は筋トレ後の疲労回復に効果的であると聞いたことがあるので、それを少々摂取した。ここからは月曜日と木曜日のジムの後にはレモン汁を水に溶かしたものを摂取して疲労回復を早めたいと思う。クエン酸には血流の促進やミネラルの吸収を促す効果もあるらしいので、筋トレ後には非常に有り難い効果がある。


シロシビン・セッション翌日の今日のジムでのトレーニングを振り返ってみると、まさにグラウンディングするのにふさわしい時間を過ごすことができた。ジムには顔見知りも多く、彼らと挨拶をしたり、会話を楽しんだりすることができる社交の場としてもジムは素晴らしい。自分の心の健康はストレスのない生活や充実した日々のライフワークがあるだけではなく、人々との関わり合いがあることを忘れないでおきたい。ここからVRゲームの世界やメタバースの世界においてのコミュニケーションは物理的な世界でのコミュニケーションと何がどう違うのかを検証したい。目の前にいる人を相手にしたサトルレベルでのエネルギーの交換は、人の心を落ち着けたり、癒したりする価値があるように思えるため、依然として物理的世界での人々との交流を大切にしたい。


木曜日のパーソナルトレーニングでは必ず下半身を追い込んで鍛えることになるため、月曜日の自主トレーニングでは下半身よりも上半身をメインに鍛えている。今日は大胸筋、広背筋、上腕二頭筋、上腕三頭筋を主に鍛えていき、腹筋も鍛えた。下半身は全く鍛えていないかというとそうではなく、下半身に関してはハムストリングをレッグカールマシンを使って鍛えた。あらかたトレーニングを終えたら、そこからローイングマシンを7分漕ぎ、2分半ほどスキーマシンを使い、20分強ランニングマシンで走った。30分弱の有酸素運動をすると相当に汗をかき、大変気持ち良かった。有酸素運動を終えてクールダウンをしているときに、ドイツ人のトレーナーのエレンが声をかけてきた。エレンは今週の金曜日からシンガポールに8日ほど旅行に出かけるらしく、そこから少し間を開けて1ヶ月間ほどフィリピンに滞在するらしい。彼女にとって今回が初めてのアジア訪問とのことで、とても楽しみにしているようだった。その他に印象に残っていることは、ジムのオーナーのルウェルが婚約したことである。彼は見た目は若いがすでに54歳とのことで、30歳ぐらい年下の中国人男性と婚約したとのことである。オランダでは同性結婚が認められており、これは至って普通のことである。ルウェルの婚約はとても嬉しい知らせで、受付にルウェルがいたので婚約を祝福した。エレンが嬉しそうにアジア旅行について語っている姿を見たり、婚約したルウェルの幸せそうな笑顔は自分も幸せな気持ちにしてくれる。こうして幸せの輪が波のように世界にどんどんと波及してくれることを祈り、自らの幸福感を社会に伝えていきたい気持ちで一杯になった。フローニンゲン:2024/1/29(月)17:09

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