9236-9245: 日本滞在記 2022年10月12日(水)
- yoheikatowwp
- 2022年10月14日
- 読了時間: 17分

No.4096 円の出会い_An Encounter of Circles
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1886, Serenity of Hope
Serenity of hope is glittering gently.
It sheds light on the darkness of the society.
Akita; 07:02, 10/12/2022
No.1887, Farmer’s Mind
All people must have a mind as a farmer for their own intestinal flora.
It can determine the quality of our life.
It can also be grown anyway by our mind and behavior.
Akita; 08:44, 10/12/2022
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本日の2曲
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タイトル一覧
9236.【日本滞在記】有限さの価値/今朝方の夢
9237.【日本滞在記】青森に向けて/マスクを付け続ける人たちを見て
9238.【日本滞在記】食生活から分かることと農業マインド/王道政治
9239.【日本滞在記】リビドーと記号と資本主義
9240.【日本滞在記】最高善が具現化された日々
9241.【日本滞在記】所有と主客不可分性/駅の名
9242.【日本滞在記】テクノロジーが持つ文節作用と顕現作用/生成宇宙そのものとなること
9243.【日本滞在記】神の経路を擦り切らせる現代人/リビドーワークについて
9244.【日本滞在記】消費社会における贅沢な行為
9245.【日本滞在記】青森に到着して
9236.【日本滞在記】有限さの価値/今朝方の夢
時刻は午前6時を迎えた。この時間帯の秋田はもう明るい。オランダであれば、まだ真っ暗な時間である。幸いにも今日は秋田は晴れであり、今日から滞在する青森も晴れとのことである。昨日は風が強かったが、今日は風も穏やかで、朝空に浮かぶ雲の流れも緩やかだ。それを眺めていると、心が自然と落ち着いてくる。今朝方もまた印象に残る夢を見ていなかった。また、昨夜も少々寝付きが悪く、依然として時差ボケが完全に解消されていないことがわかる。だが、睡眠の質はそれほど悪くなく、目覚めはすっきりしていて、今も頭は爽やかである。自分の身体の適応を見ていると、やはり体内時計が狂うほどの長時間のフライトの旅はあまり体に良くないことがわかる。今はまだ若いのでそれほど問題はないが、高齢になってくれば問題は深刻化するかもしれない。一体何歳まで日本に帰ることができるのかを自ずと考えてしまう自分がいる。70歳、いや80歳ぐらいまでなら帰れるだろうか。それ以降はさすがに厳しいかもしれない。そう考えてみると、日本に一時帰国できることも有限であることが明快に理解される。有限であるからこそ、その1回1回が貴重で、思い出深いものになるのだろう。今回の旅もそれを実感している。
そのようなことを考えていると、今朝方の夢について思い出すことがあった。夢の中で私は、前職時代の上司と都心の国道で話をしていた。その方は東大の法学部を卒業していて、学生時代に運動をしていた話など聞いたことがなかったのだが、なんと駅伝選手だったことがわかった。その方は箱根駅伝に出場し、1区を担当したことを知って驚いた。また、隣にいた別の上司も同じく東大の陸上部に所属していて、その年は東大陸上部の黄金時代だったらしく、箱根駅伝に出場することができたという話を聞いた。ちなみにその上司は花の2区を走ったらしかった。2人の意外な一面を知った私は、2人の上司の駅伝話をもっと聞いてみたいと思い、そこからも色々と質問し、実際に今から軽くジョギングがてら一緒に走ってみようということになった。そのような夢を見ていた。日本に一時帰国して初めて記憶に残る夢を今朝方見た。ここからまた自分の内側の何かが変わっていくかもしれない。そして、時差ボケもいよいよ解消されるのではないかという期待がある。秋田:2022/10/12(水)06:26
9237.【日本滞在記】青森に向けて/マスクを付け続ける人たちを見て
いよいよ今日から青森に滞在する。秋田は2泊3日の短い旅であったが、それでも秋田を満喫することができた。昨日には平田篤胤の墓にも行くことができたし、秋田県立美術館で藤田嗣治の作品も鑑賞することができた。さらには、駅の中のショッピングモールの書店で、良書を2冊購入することもできて満足である。
秋田を出発するのは、昼の1時前である。厳密には、12時40分に出発する特急津軽に乗車する。秋田から青森までは、特急津軽に乗れば2時間半強で到着できてしまう。東京から秋田に来る途中において、東北地方に入ってから景色が変わったのと同じく、秋田から青森までもまた微細な変化を見て取ることができるかもしれない。特急津軽に乗車する時間までは、チェックアウトのギリギリまでホテルにいて、そこからは少し駅の中で時間を過ごそうと思う。駅の中のカフェにでも行き、そこで昨日購入した書籍を読みたいと思う。
昨日、秋田市内を歩いていると、車に乗っている人でさえマスクを付けていることに驚いた。その行動の奇怪さに、一体どうしてしまったのだろうかと思ってしまうほどである。そこでふと、マスクを同調圧力や空気に従って付け続けるという行為は、どこか伝統の表面だけを見て形骸化された行為を行い続けることに等しいのではないかと思った。残念ながら日本人にはその傾向が強く見られるような気がする。それは伝統の本随の価値を理解して、伝統を心から重んじる伝統主義的なあり方では決してなく、伝統の「で」の字も理解しないまま、単に周りが行っているからという理由だけである行為を継続してしまう精神性を指す。テクノロジーが進歩し、時代も大きく変わっているのだが、相変わらずそのあたりの精神性に何の進歩も感じられないところに、人間の発達の困難さを見て取る。そのようなことを考えながら、秋田県立美術館から平田篤胤の墓に向かっていたのを思い出した。秋田:2022/10/12(水)06:38
9238.【日本滞在記】食生活から分かることと農業マインド/王道政治
時刻は午前9時を迎えた。つい今し方朝食を摂り終えて自室に戻ってきた。今から荷造りをして、昨日訪れた書店に再び足を運ぼうと思う。というのも、昨日購入した書籍の内容が実に良く、著者のその他の書籍も購入してみたいと思ったので再度書店に足を運びたいと思った次第だ。宮脇書店に置いてなければ、ホテルに隣接する建物の6階にあるジュンク堂を覗いてみようと思う。まずは駅に行き、青森行きの列車のチケットを購入し、それから書店に足を運ぶ。
先ほど朝食を食べていた時にふと、人々が何をどれくらい食べるのかによって、その人の性格、行動特性、おおよその知性、そして寿命がわかると思った。その観点で人々の食べているものを観察することをしている自分がいた。それは旅行の際にはいつも何気なく行っていたことだが、人々の食事を見ただけで、少なくとも上記の変数のおおよその値が算出されることに改めて気づいたのである。現代人には種々のリテラシーが実に甚だしく欠如しているのだが、食に関するリテラシーも壊滅的な状況が見て取れる。年長世代であっても欧米式の食生活に堕してしまっている人が多く見受けられ、日本人は食から地盤沈下しているのかもしれないと思う。そのようなことを考えながら、私たちは1人1人が農家の精神を持っておかなければならないと思った次第だ。私たちはそれぞれ、畑と植物を育てているということを忘れがちなのではないかと思う。それは腸内フローラである。それは腸内にある花畑であり、花畑を育てているという明確な意識を持つ現代人は一体どれほどいるのだろうか。腸内フローラの性質如何によって健康の質が決まり、脳の働きも身体の働きも決まっていくのである。その意識が極めて希薄であることになんともしがたい気持ちになる。人々に農業マインドを獲得し、それを養ってもらうようにすることも自分が着手したいことである。
それ以外にも朝食を食べながら、自分の承認欲求や自己愛を満たすためだけに利己的に振る舞う小人による政治ではなく、矮小な自我の檻から抜け出た君子的な人物に国民が惹かれ、導かれていく王道政治が実現されないものかと考えていた。小人的指導者を批判するのではなく、彼らが自己愛を満たすことに躍起になり、小さな自我の檻の中に閉じ籠ってしまう社会的メカニズムを考えなければならない。今日の探究もそれに連なるものになる。秋田:2022/10/12(水)09:17
9239.【日本滞在記】リビドーと記号と資本主義
時刻はもうすぐ12時半を迎えようとしている。先ほど、プラットホームに停車している特急津軽に乗車した。1号車のグリーン車に乗車したのだが、車内の座席に電源がなく、意外とレトロな感じがすると思ったが、それもまた一興である。別に2時間半ぐらいの時間であれば、パソコンの電源を気にする必要ないだろう。それくらいの時間であれば欧州内の旅でいつも経験していることである。
旅の最中は朝食をしっかり摂ることもあって、昼食は軽めにするか抜いている。今日の昼食はおよそ昼食とは呼びづらいものかもしれないが、先ほど駅のデパートのお土産売り場で購入した秋田名物の饅頭である。どうやらお菓子も生き物らしく、その旨の記載があって微笑ましい。購入したのは、一口サイズの黒蜜饅頭2つと山芋饅頭2つである。今日の昼食はそれで十分であり、その代わりに今夜は青森の滞在先のホテルの近くにある料理屋で、精を付けるためにうなぎでも食べようと思う。日本に来てからホテルの朝食で様々な食材を食べることによって、指先の肌の調子がとても良くなっている。オランダでの生活においてももう少し多様なものを食べるか、日本食をもう少し積極的に取り入れたいものだ。やはり日本の食の多様性は素晴らしい。食にこれだけ多様性があるのだから、精神的な偏狭性から早く抜け出し、真の意味で個人の多様性を承認し合う社会が早く到来すればいいのにと思ってしまう。
ホテルをチェックアウトしてからは、列車までの時間が十分にあったので、ホテルのロビーのソファーに腰掛けて書籍を読んでいた。昨日購入した書籍のうち、まずは1冊目を読み始め、3分の1ほど先ほど読み終えた。ひょっとしたら青森に到着するまでに300ページのこの書籍を全て読み終えることができるかもしれない。本書を読みながら、この世界の本質である諸行無常性と、自我の本質である自己保存性というのは相矛盾するものであり、それがゆえに自我は苦しみ、その苦しみを一時的に緩和させるために様々な試みをするのだろうと思った。また、現代の消費資本主義と金融資本主義について考えていく際に、リビドーの性質を押さえておかなければならないことも思った。どちらの資本主義形態も、リビドーに駆動され、リビドーによって成長を遂げていく。それから、ラカンの記号論の枠組みを拡張させ、現代の資本主義における記号の対象とその意味をより自覚的になって眺めてみようとも思った。現代の資本主義は、産業資本主義とは異なって、記号対象が極度に抽象化されている。最も抽象化された記号は金融商品かと思われるが、それ以外に極度に抽象化された記号を見つけ、分析をしてみることを企てたい。青森に向かう特急津軽の中で:2022/10/12(水)12:36
9240.【日本滞在記】最高善が具現化された日々
つい今し方、特急津軽が出発した。これから2時間半強の列車の旅となる。今日の秋田の天気は良く、青森の天気もすこぶる良いようだ。寒い地域で丸6年間過ごしてきたおかげか、はたまた健康な身体のためなのか、周りの人たちは長袖の上に何かを羽織っているが、自分は半袖姿である。本当に寒くなった時のためにカーディガンを絶えず携帯しているが、観光中はよく歩くのですぐにそれが必要でなくなり、今も列車の中なので半袖で十分である。さて、先ほど駅に到着した時に、自分がどれほど今回の東北旅行にワクワク感を感じているかを実感した。まだ見ぬ世界に向かっていく期待感と高揚感。きっとそれらの気持ちは、自己をより高次な存在に変えていくエロスの具現的現象なのだろう。旅行にせよ何にせよ、自分の日々の全活動は最高善を体現したものである。いつの間にかそうなった。そしてこれからもそうであり続けるだろう。逆に言えば、そうさせないものからは徹底的に距離を取るか、それらと戦う姿勢を見せる必要がある。最高善が具現化された活動の性質は明白単純である。端的には、何かを目的としないことであり、純粋にその活動を楽しむことだ。善きことを実現する手段としてそれに従事するのではなく、それ自体を善きこととして没入した状態でそれに従事すること。それが最高善が体現された活動のあり方である。人はよく、ある活動をする際に、それは何のためかと考えてしまう。目的を考えるのは人間精神のあり方としておかしなものでは決してないが、現代人は目的を考えなけれ何も行動できない矮小な存在に堕している。打算的で姑息な存在が大半の現代人の姿なのだ。そうした打算性や姑息性の鎧を脱ぎ捨て、最高善に一度全てを委ねてみてはどうだろうか。そのようなことを思う。青森に向かう特急津軽の中で:2022/10/12(水)12:53
9241.【日本滞在記】所有と主客不可分性/駅の名
今回の旅もまた、ロック的な観点で言えば、自己を涵養するものになるだろう。ロックが『人間知性論』の中で、人間は白紙状態から生まれ、白紙の人間に違いをもたらすのは経験のみであると述べたように、経験はその人を形成していく。今回の旅もまた固有の経験を自分に与えてくれ、その固有性が自己の固有性を涵養することになる。
今座っているのは窓際の席である。列車の車窓からふと外を眺めると、美しい畑がどこまでも広がっていることに気づく。自分の心と身体が不可分であるのと同じく、人間と自然は不可分であり、ゆえに心も身体も自然と不可分なのだ。窓の外の広大な畑を眺めていると、自ずと土地の所有に関する問題について考えていた。そこから、英語表現で“I have a thought”という表現があることについて考えていた。そこでは思考というものが所有対象になっているのである。所有対象というのは客体物であり、思考というのは本来主体物であるはずなのにも関わらず、それがひとたび芽生えると客体物に変化するというのは実に面白い。そして、人は思考を所有することを通じてこの世界を生きていることもまた興味深い姿として浮かび上がってくる。思考が主体性と客体性の双方を持っているところにも主客不可分の原理をそこに見て取ることができる。
列車は順調に運行している。次の停車駅は、鷹の巣という駅だ。日本の駅名はいずれもその背後に深い意味が込められてそうで、とても関心が湧く。また愛着も湧く。次の駅の名前にはどのような意味が込められているのだろうか。それは調べてみないとわからないことかもしれないが、その意味をあれこれ想像したり、考えたりすることそのものが楽しく、旅の時間を豊かにしてくれる。駅は意味の貯蔵庫であり、旅に趣を与えてくれる存在だ。青森に向かう特急津軽の中で:2022/10/12(水)13:44
9242.【日本滞在記】テクノロジーが持つ文節作用と顕現作用/
生成宇宙そのものとなること
列車はあと1時間ほどで青森に到着する。先ほど途中通過した下川沿(しもかわぞい)は、小林多喜二の生誕地らしい。車窓から眺められる景色は引き続き長閑である。
「技術」の本来の意味は、この茫漠とした現実世界からある対象を取り出してくるということである。技とは本来そのような意味を持っており、テクノロジーの本質とはまさに、リアルとしての全体世界から何かを取り出してくることなのだ。この抽出作用とハイデガーが述べるテクノロジーの顕現作用は似ているように思える。ハイデガーはテクノロジーの本質を考察したが、そもそもある事物の本質は1つしか存在し得ないのか、それとも複数存在しても問題ないのかを少し考えていた。存在の階層性を考えれば、存在論的に本質が複数存在しても決しておかしくはないように思える。
事を分けるという意味での言葉もまた技術の本質を体現している。言葉もまたこの全体世界から何か対象を切り出してくるという文節作用を本質に持っているのだ。なるほど、技術には文節作用があり、技術の本質には言葉と同じく文節作用と顕現作用の双方があるのだ。言葉を生み出すことによって初めて立ち現れる世界があるのと同じように、その技術があることによって初めて顕現する世界があるのだ。当面はテクノロジーに内包された文節作用と顕現作用に注目してみよう。
生成を続けるこの内外宇宙。生成はまさに神と呼ばれるものであったり、大いなる存在と呼ばれるものであったり、上述の世界そのものと呼ばれるものであったりと、名前はたくさんある。いずれにせよ、人間が真に幸福感を感じるというのは、こうした生成する全体性に溶け込むことなのではないかと旅をしながらつくづく思う。人間は常に何かに成る存在である。私たちの内側にも生成の原理が貫かれていて、その原理を重ねるかのように生成世界と同一化してみるのだ。するとなんとも言えない安心感と幸福感が滲み出してきて、自分という存在は安心感と幸福感という感情の大海そのものになり、生成宇宙そのものとなる。青森に向かう特急津軽の中で:2022/10/12(水)14:30
9243.【日本滞在記】神の経路を擦り切らせる現代人/リビドーワークについて
列車が終点の青森に近づくにつれ、ますます心が穏やかになってくる。一時帰国してすぐに東京に滞在していたが、やはり東京は異常かつ過剰な刺激によって生成された巨大な生命的な町であることを改めて思う。そこでは人々が常に神経を擦り切らせて毎日を生きている。「神経」とは、神の経路である。それを擦り切らせる冒涜行為に多くの現代人は従事しているし、それを奨励している神なき社会の姿はとても嘆かわしい。日本は八百万の神を大切にするというのは全くもって嘘である。神経にも八百万の神が宿っているのだから、これだけ神経を擦り切らせる人間が跋扈する国が神々を大切にしているなど言えるはずもない。
列車大鰐温泉を抜け、弘前に向かっている。弘前も温泉が有名だったと記憶している。今、時刻は午後3時に近づいてきており、穏やかな太陽の光が心地良い。遠くの方に大きな山が見えるがあの山の名前は何て言うのだろうか。
先ほど、自分の心の内側にあるシャドーを見ていくだけでは現代社会において力不足であり、シャドーに加えて、自らのリビドーを見ていくことの大切さについて考えていた。むしろ今の自分は、自らのリビドーをつぶさに精査していきたいという思いがある。リビドーで駆動するこの現代社会の中で、そうしたリビドーワークに従事することは、リビドーに絡めとられることを防ぐだろうし、リビドー社会の餌として搾取されることからも自己を守ってくれるに違いない。当面は、リビドーの根源の特定と、リビドーの生成過程を観察することに注力してみよう。それはシャドワークと同じく、いつどこでも実践できることである。とりわけ対人関係の際に、さらには消費行動を発動させる際にそれに自覚的になってみよう。青森に向かう特急津軽の中で:2022/10/12(水)14:44
9244.【日本滞在記】消費社会における贅沢な行為
今回の旅を通じて、改めて次々と消費を煽り、1つの物やサービスに寛がせない資本主義の在り方に対抗するような試みの大切さを実感している。本日、ホテルの横の建物に入ったジュンク堂に足を運んだ時、新刊本の量の多さにまずもって圧倒された。そこでは、次々に新しい書籍や雑誌、そして漫画が大量に生み出され、それらが陳列されている光景は幾分常軌を逸したものに思えた。来年の初旬に書籍を出版する身としては心苦しいのだが、1冊の本と深く向き合わずに次々に本を取っ替え引っ替えしていく姿はやはりどこか異常に思える。かく言う自分も日々大量に本を読んでいるが、それは何度も繰り返し読むに値する書籍を探すという意味合いがあって、実際に良著に出会えば、それを何度も読み込むことをしている。現代は、速読が過度に求められるような時代になっており、そこでは精読が持つ魅力や意義が喪失しているのではないかと心配になる。昔において当たり前であった精読という行為が、今となっては贅沢な行為になっているのかもしれない。旅においても同様のことが当てはまり、ゆっくりと列車に乗って旅をすることや、方々を歩くということが持つ意義や価値も忘れられがちであり、現代において旅は、目的地にどれだけ早く効率的に到着できるか、そして目的のものをどれだけ早く効率的に消費できるかに堕してしまっているように思えて仕方ない。読書、そして旅以外にも、ここ最近は映像作品をじっくり味わうようになった。以前は2倍速から3倍速で次々と映像作品を鑑賞していたが、今は等倍速で視聴している。それをもたらしてくれたのは、東京で足を運んだ映画館での鑑賞体験だった。やはり映画固有の時間に身を委ね、その流れの中で映画を鑑賞するということが持つ計り知れない効能と喜びを感じたのである。ここからは映像作品を等倍速で鑑賞することを心掛けたい。経験をゆっくり味わうことは、この消費社会における最良の贅沢な行為であり、それは消費社会に飲み込まれることを防ぐ自己防衛策でもある。いよいよ次の駅は新青森、そしてその次は終点かつ目的地の青森だ。青森に向かう特急津軽の中で:2022/10/12(水)15:01
9245.【日本滞在記】青森に到着して
時刻は午後7時に近づきつつある。先ほどホテル近くの地元の定食屋で、3色マグロ丼と地元青森で採れたホタテを食べた。とりわけホタテの新鮮さが素晴らしく、舌鼓を打ちながら美味しくいただいた。明日の夕食はこれまたホテル近くのうなぎ専門店でうな丼を食べようと思う。きっと精がつくだろう。
宿泊しているホテルの1階にある観光案内地図を見た時に、明日行く予定であった青森県立美術館が、残念ながら現在工事中のようなので、もう1箇所の三内丸山遺跡をゆっくり巡りたいと思う。改めてその他に行きたい場所を調べてみたが、近くの市立美術館も現在無期閉館のようなので特に行きたい場所はなく、明日は朝食をゆっくりと摂り、ホテルの自室で今週末から始まるゼミナールに向けての準備をしたり、読書をしたりしようと思う。今夜もまだ時間があるので、読書をしたり、ゆっくりと入浴を楽しんだりして過ごしたい。青森に到着すると、やはりここは東京よりも寒くなっている印象だ。明日からは格好に気を付けようと思う。青森:2022/10/12(水)18:52
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