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9095-9104: フローニンゲンからの便り 2022年9月11日(日)



No.3978 絶対無_Absolute Nothingness


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1788, A Diamond of Morning Celebration

A diamond of morning celebration is shining.

Everything is dancing together with the radiance of the diamond.

Groningen; 08:57, 9/11/2022


No.1789, A Sentence and the World

The world includes a sentence.

At the same time, a sentence can encapsulate the world.

Groningen; 09:14, 9/11/2022

No.1790, Homo Cyborgs

We are all Homocyborgian to some extent.

The degree would accelerate with technological advance.

Groningen; 09:18, 9/11/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9095. テクノロジー哲学の動画撮影に向けて

9096. 今朝方の夢

9097. 数学と物理学への学習欲求が芽生えて

9098. 離散的に捉えることの問題

9099. フーコーのテクノロジー哲学に関する備忘録

9100. ハイデガーのテクノロジー哲学に関する備忘録

9101. 箏の稽古(29):明日のレッスンに向けての調弦をして

9102. ハイデガーのテクノロジー思想:テクネーとゲシュテルとしてのテクノロジー

9103. ハーバマスのテクノロジー哲学に関する備忘録

9104. ハーバマスとマークーゼのテクノロジー哲学:テクノロジーの公共性や民主的性質についての問題


9095. テクノロジー哲学の動画撮影に向けて


時刻は午前7時半を迎えた。今、朝焼けが遠くの空に見えている。空は澄み渡っていて、辺りはとても静かだ。今は小鳥たちの鳴き声が聞こえてこない。外気の温度は12度と肌寒く、ここ最近は長袖長ズボンを履いて過ごすようになった。季節はもうすっかり秋である。今週の金曜日からはなんと最高気温が16度までしか上がらず、それくらいの気温の日々がそこから数日続く。日本と随分気温が異なるので、来月の一時帰国の際には注意をしようと思う。気がつけば、来月の今頃はもう日本にいる頃だ。ここからの1ヶ月間はあっという間に過ぎていくだろう。


日本への一時帰国に向けて、少し進めておきたい探究がある。日本に帰国している最中に、テクノロジー哲学に関するコンテンツの動画撮影を行う予定なので、それに向けて準備をしておきたい。撮影時に話す予定の、ハイデガー、フーコー、ハーバマスのテクノロジー思想についてまとめておく必要がある。彼らは元来テクノロジーだけを取り扱ったのではなく、むしろテクノロジー以外のテーマに関する哲学的仕事で功績を残したため、それほど文献は多くないが、彼らのテクノロジー思想を垣間見ることのできる文献を紐解いて、彼らのテクノロジー思想を整理しておきたい。その際に、大きな主張を押さえ、彼が考案した概念を押さえておきたいと思う。ハイデガーはテクノロジーに関する書籍を残しており、それを参照すれば良いし、彼のテクノロジー思想に関する解説書は随分とある。一方、フーコーはテクノロジーに関する哲学書を残したわけではないが、彼のテクノロジー思想を解説した書籍ならいくつかある。少し厄介なのはハーバマスであり、彼はテクノロジー哲学に関する書籍を残していないばかりか、彼のテクノロジー思想を解説した書籍もほとんどない。テクノロジー哲学を広範に扱う書籍の中で彼のテクノロジー思想について断片的に議論されていることがほとんだ。そうした事情のため、断片的な議論を掬い上げていき、自分なりにハーバマスのテクノロジー思想をまとめておきたいと思う。続々と届けられた学術書の初読も随分と済んだので、それをもう少し続けたら、来週末ぐらいからはテクノロジー哲学の探究を動画撮影に向かって集中的に取り組んでいこうかと思う。フローニンゲン:2022/9/11(日)07:41


9096. 今朝方の夢


時刻は午前8時を迎えようとしているが、依然として朝焼けが遠くの空に残っていて、とても美しい。薄オレンジ色に輝く朝焼けを眺めながら、今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、小中高時代の女性友達(NI)と話をしていた。他愛もないことを和気藹々と話していると、今からテーマパークに行ってみようということになった。そのときに数人の友人を誘って彼らと一緒にテーマパークに出かけることになった。テーマパークに到着すると、そこは広大な敷地を持っていたが、ジェットコースターのようなアトラクションはなく、意外と静かな場所だった。アトラクションの代わりに美術館のようなものがいくつか建っていて、まずはそのうちの1つに行ってみることにした。どうやらそこは現代アートの展示をしているらしく、展示されている作品を見ていこうとすると、どうやら作品鑑賞の仕方が体験的であり、そこにテーマパークらしさがあるようだった。作品に触れたり動かしたりすることによって、その作品とのインタラクションを楽しむ仕掛けになっていた。ある部屋がまっさらな状態で何も置かれておらず、どうやらそこは曜日ごとに展示がされたりされなかったりするようだった。残念ながらその日は何も展示されておらず、本来ならば、ナポレオンに関する展示がされているようだった。その部屋から引き返し、一通り全ての部屋の作品を見たところで館内を後にした。すると、出口のところで女性友達の友人が、先ほどのまっさらな部屋にも作品が置かれていたと述べ、確かにあの部屋には何もなかったと思っていたのでおかしいなと思った。真実を確かめに、もう一度引き返してその部屋に向かった。その部屋に到着すると、よくよく部屋の隅を見ると、小さな箏が地面に置かれていた。弦は13本ではなく、わずか5本しかなったので、古代の箏かと思った。それも自由に触っていいみたいだったので、すぐに触ってみて音を出してみた。すると、自分が持っている箏と変わらない音色が出てきたので、とても嬉しく思った。その場で何か曲を演奏するというところまでしなかったが、その箏の音色を聞けただけでも満足であった。そのような夢を見ていた。この夢以外にも、小中高時代の友人とバスケをしていた夢があったように思う。場所は学校ではなく、どこかの街の片隅にある屋外コートだった。バスケをして気持ち良い汗を流したところで、シャワーを浴びて帰ろうとしていた場面があった。ひょっとしたらその他にも夢を見ていたような気がするが、それはもう記憶の最果てに行ってしまったようだ。フローニンゲン:2022/9/11(日)08:07


9097. 数学と物理学への学習欲求が芽生えて


昨日、無性に数学と物理学を勉強したくなり、その欲求に従って何か書籍を購入しようかと思った。大学レベルでの数学や物理学を学ぶのか、それともゲーム感覚で日本の大学受験の問題を解いて楽しむのか、そのあたりで迷った。前者に関して言えば、複雑性科学の観点から発達現象を研究していた際に用いていたダイナミックシステム理論に立ち返り、ダイナミカルシステムを扱う応用数学の学習を再度行ってみようかと考えた。しかしながら、それが今の自分の本当の関心事なのかと問うたときに、少し足踏みをした。確かに数学的な発想は重要だが、数学研究に時間を充てることはそれほど賢明なことではないように思えた。とは言え、数学や物理を学びたいと思った欲求の背後には重要なものがきっとあるであろうから、その欲求の背後にあるものを探求しながら、ある意味その欲求を昇華させる形で、違う研究や実践に従事したいと思う。芸術実践、とりわけ音楽は数学とも親和性が高いし、箏のチューニングや音の電波などはまさに物理学の賜物でもあるので、作曲実践や箏の演奏を通じて、数学や物理学を学びたいという欲求を代替させていこうかと思う。また、哲学的な考察を行っていくことでも代替できるように思う。確かに数学言語と自然言語との性質上の差はあるが、哲学において緻密に論を展開させていくことは数学的だとも言える。昨夜芽生えた数学や物理学への欲求を大切にし、そしてそれを原動力にして、哲学的な仕事に従事していこう。


その流れで言えば、昨夜はテクノロジー哲学の研究に向けて色々と準備をしていた。絶えず緩やかにその研究を進めているが、今朝方の日記で書き留めたように、成人発達理論やインテグラル理論とテクノロジー哲学を絡めた解説動画の作成に向けて、少しギアを変えてテクノロジー哲学の探究をしていこうと思ったところだった。理論というのもまた道具の側面があり、道具がテクノロジーに内包されたものだと捉えれば、テクノロジーとしての理論という性質が浮かび上がってくる。成人発達理論には、それに対応したアセスメントがあり、これなどはまさに心理テクノロジーに他ならない。そうした観点で眺めると、テクノロジーとしての発達理論の側面が浮かび上がってくる。テクノロジーの内在性質をつぶさに理解していくことは、理論の活用力を向上させるだろうし、理論使用上における各種の留意点を明らかにすることにもつながるはずだ。フローニンゲン:2022/9/11(日)11:24


9098. 離散的に捉えることの問題


先ほど、数学と物理学への学習に向けた欲求の高まりについて日記を書いていた。それに引き続き、そう言えば自分がフローニンゲン大学で研究していた時の人間発達観はひどく離散数学的なものに思えた。ダイナミックシステムアプローチはまさに離散数学的な意味での解析学を活用していて、当時は何も考えていなかったが、そのアプローチを活用する背後には、人間発達という現象を離散的に捉えている発想があったように思う。そうした発想が当時の自分の内側に内在していたとは思ってもおらず、それは完全に盲点だった。人間発達は確かに離散的に考えることが可能だが、その本質には連続性があり、とびとびではない性質を持っているのではないかと思う。この問題は非常に重要に思えるので、引き続き考えを深めていこう。人間発達を離散的に捉えていく問題は何なのか、それをより明瞭なものにしていきたい。


そのようなことを考えながら、その問題意識の延長として、コンピューターというのはそもそも離散的なアルゴリズムの産物であり、やはりそれが可能なことには限界があるのではないかと思った。本来離散的ではない現象を無理やり離散的なものに還元する形で各種のアプリケーションが存在しているのであれば、きっとそこに潜む問題がありそうだ。例えば、Zoomのようにコンピューターを用いた技術において、生身の人間同士がリアルな場で共有するのとやはり違う感覚をもたらすのは、媒介したコンピューターというものが離散的な産物であり、人間のコミュニケーションは離散的ではなく、連続的な要素が多分に内包されていることとも関係しているように思う。これも大変興味深いテーマだ。フローニンゲン:2022/9/11(日)11:58


9099. フーコーのテクノロジー哲学に関する備忘録


今、フーコーのテクノロジー哲学の整理を行っている。その思想の根幹には、管理や支配としてのテクノロジーという側面が色濃く浮かび上がってくる。ベンサムのパノプティコンの性質を紐解きながら、フーコーは「パノプティコン主義(panopticism)」が蔓延る社会状況を危惧していた。物理的な監視システムを超えて、現在では目には見えない形での監視システムがこの社会の中に蔓延っている。フーコーが提示したパノプティコン主義の観点を用いれば、現在の監視システムの様々な特性を分析することができる。昨日のヘンリー·ルファーブラの都市学に関する書籍の内容と絡めると、現代社会においては都市というものが構造的にパノプティコン主義の産物としての様相を持っていて、住人を監視する仕組みが出来上がっているように思う。フーコーもまた都市の構造的分析を行っていて、同様の事柄を指摘している。当然ながら人々の安全を守る意味での監視というのは重要な役割を果たすが、ある意味個人が個別個別に家に住んでいる様子は、囚人が個別個別の独房に入っているかのようであり、そこにはやはり分断と管理が逃れられないものとして存在している。パノプティコン主義の産物としての都市で生活を営むことは、何かしらの監視の目に絶えず晒されることであり、それを意識している場合もあれば、無意識的な場合もある。パノプティコン主義の産物は驚くべきマシーンであるというフーコーの指摘は、それが私たちが意識している時でも無意識的な状態でも関係なく働き続け、監視の権力を行使し続けていることに由来するのかもしれない。


また、フーコーの主要な関心事項に権力と暴力というものがあり、その観点でもテクノロジーを捉える必要がある。前述のパノプティコン的な都市構造には権力と暴力の要素が確かに混入している。本来は暴力を抑止するための監視が暴力として人々に働いてしまうことがある。監視を通じて人々の行動を改変·矯正していくというのもまた暴力的であり、それを行使する権力の存在が浮かび上がる。パノプティコン的な性質を内包しないテクノロジーであっても、フーコーの権力と暴力の理論は参照図式として持っておこう。最後に、調教というのもまたフーコーの思想における重要な概念であり、物理的な行動や心理を調教させるという意味でのテクノロジーについても関心を持っておこうと思う。テクノロジーからのフィードバックによって私たちの行動や心理は何かしら変化する性質を持っていて、そこにテクノロジーからの歪んだ調教圧力がないかを検証することは重要であろう。調教というのは元来、序列付けを孕むものであって、序列によって人々を管理するためにあったという歴史がある。確かに、学校教育におけるテストという名の評価システムとしてのテクノロジーは、そうした序列付けの際たるものとして浮かび上がってくる。フーコーのテクノロジー哲学に触れていると、学校も、会社も、病院も、工場も、どれもが独房のような監視システムを内包していることに気づかされ、それには思わず驚いてしまう。フローニンゲン:2022/9/11(日)14:45


9100. ハイデガーのテクノロジー哲学に関する備忘録


フーコーのテクノロジー哲学について少し備忘録を書いたところで、今度はハイデガーのテクノロジー哲学の整理に取り掛かることにした。ハイデガーは、“The Question Concerning Technology”という有名な書籍を残している。それを紐解きながら、ハイデガーのテクノロジー哲学についても備忘録を書き留めておきたい。こうした備忘録から出発して、徐々に考えを深めていく。備忘録の集積が自分の思想を形成していくことに大きな役割を果たしてくれるだろう。ハイデガーのテクノロジー哲学についてどこから切り込んでいこうかと考えたところ、ハイデガーが本質主義的な考え方を採用して、あらゆるテクノロジーに通底する本質を考えることから論を展開させていることに注目した。現代においては無数のテクノロジーが社会の中に存在しているが、それらのテクノロジーに共通している本質は何かを考えてみることは重要だろう。ハイデガーが生きていた時代は、まだまだ産業テクノロジー程度しか存在せず、情報テクノロジーが加わった現在においては、テクノロジーの性質もまた多様なものになってきている。なのでハイデガーが想定していた産業テクノロジーやそれ以前のテクノロジーから抽出した本質が、現代の情報テクノロジーにも当てはまるのかを考えてみると、思考を展開させやすいのではないかと思う。


ハイデガーの論として、テクノロジーは必ず何かしらの道具的手段として活用されるという性質があり、文化人類学的な発想から、テクノロジーは人間活動そのものでもあると定義している。確かに、テクノロジーを考案することにせよ、使うことにせよ、それは人間活動という性質を内包している。ところが、人間活動としてのテクノロジーという性質は、ハイデガーも指摘するように、高度な産業機械も既に人間の手を離れて動く性質を持ち始めており、コントロール不能という性質を持ってしまった。現代においては、AIを含め、人の手を完全に離れて活動しているテクノロジーの方がむしろ多いぐらいである。そうなってくると、人間が考案したという意味での人間活動性は残っていながらも、使用に関する人間活動性は随分と希薄なものになっているように思う。今後は、実は前者の性質さえ希薄なものになっていく可能性がある。すなわち、もはや人間がテクノロジーを考案することを離れて、人間よりも賢いAIがテクノロジーそのものを作っていくという事態である。道具的手段としての性質に戻ってみると、確かに多くのテクノロジーを私たちは道具のように使っているが、道具のように使っているというよりもむしろ、そのような意識は全くなく、むしろテクノロジーによって私たち自身が使われているようなテクノロジーも存在するように思う。社会システムとしてのテクノロジーの中には確かにそのようなものがありそうだ。これはすなわち、私たちがテクノロジーの世界を作っているというよりも、テクノロジーの世界に私たちが投げ込まれているという事態である。このように考えてみると、道具的手段としてのテクノロジーや、人間活動としてのテクノロジーというのもまた、テクノロジーの本質とは言い難いように思えてくる。それではテクノロジーの本質は何なのだろうか。それについてさらにハイデガーの論を辿りながら考えてみよう。フローニンゲン:2022/9/11(日)15:16


9101. 箏の稽古(29):明日のレッスンに向けての調弦をして


時刻は午後5時を迎えた。今し方、今日の箏の稽古を終えた。明日は、オンラインレッスンの2回目があるので、その前に箏の調弦をした。先生に教えてもらったことだが、新しい箏は弦の音が慣れていないので狂いやすいとのことであり、確認したところ、やはり今日もまた少し音が狂っていた。高い方の音は安定しているようだったが、低い方の音に狂いが生じていたので調弦をした。1番目の弦の柱が時折落ちそうになることがあり、安定した位置に置くことも行って、明日のレッスンに向けて準備を整えた。そこからは、いつものようにテクニック集を参照して、指の準備運動をした。今日をもって一度もミスなく2曲を弾くことができ、そこに大きな進歩を見た。ジークンドーと同じく、身体を伴った実践はこのようにして目に見える形で進歩が分かるのが面白い。特に音楽の演奏においては、音によるフィードバックもあるので、尚更それが面白い。ここからは単に正確な音を鳴らせるようになるだけではなく、音に深みを持たせるなどの芸術的側面にも意識を向けたいところである。1音に自分の実存性や霊性を響かせるようになること。それが究極的な目標の1つである。ジブリの曲やJ-POPの曲を演奏するのはまだ先だが、そうした曲を演奏する日が待ち遠しい。幸いにも、今取り掛かっている楽譜には、自分の好きなクラシック音楽が目白押しなので、まずはそれらを1箏パートだけではなく、2箏パートまで完璧に演奏できるようになりたいものだ。徐々にレパートリーを増やしていき、将来的には自分が演奏したいと思う曲を箏の楽譜に編曲し、それを演奏することもしてみたい。それについては今朝方もバッハのピアノ曲を聴きながら思っていたことである。編曲がどれほど難しいのかわからないが、それも学習と慣れによって十分に可能なのではないかと思う。編曲についても先生にいつか尋ねてみよう。フローニンゲン:2022/9/11(日)17:11


9102. ハイデガーのテクノロジー思想:テクネーとゲシュテルとしてのテクノロジー


先ほど、ハイデガーの哲学に関する備忘録を書き留め、そこからまたハイデガーの論を辿っていた。結局、テクノロジーの本質は、道具的なものでも、人間活動的なものでもなさそうだと考えていた。そこからハイデガーは、テクノロジーの語源でもある「テクネー(techne)」という言葉を分析していく。この言葉は元々は、古代ギリシアのプラトンが用いたものであり、重要なことは、それが「知(episteme)」と密接に結びついていたことであるとハイデガーは指摘する。そこから非常に目を開かされたこととして、知ることは世界を顕現させることであり、この顕現させるという力がテクノロジーの本質であるとハイデガーが見抜いていたことである。産業時代のテクノロジーを見つめていたハイデガーが、テクノロジーの本質は製造ではなく、顕現させることであると見抜いていた慧眼に驚く。要約すると、テクノロジーの本質はテクネーであり、それは何かを作ることでも操作をすることでもなく、さらには使用することでもなく、この世界に何かを顕現させることなのだ。今、他動詞としての「何かを顕現させる」と書いたが、自動詞としての「存在として顕現する」ということもまた重要な本質のように思える。テクノロジーはテクノロジーとしての存在としてこの世界に顕現するということが、テクノロジーの見逃すことはできない重要な本質と言えるのではないかと思う。テクノロジーは、立ち現れる存在としての本質を持っている。それを押さえておこう。


また、ハイデガーのテクノロジー哲学で忘れてはならないのは、「ゲシュテル」としてのテクノロジーという側面だろう。ゲシュテルというのは、スケルトン、すなわち骨組みを元来表す。そこからハイデガーは、テクノロジーの本質にこのゲシュテルを挙げ、テクノロジーが人間を駆り立てる性質を持っていると指摘する。ハイデガーは、産業時代のテクノロジーを主に念頭に入れていたためか、ゲシュテルとしてのテクノロジーは人間を生産に駆り立てると述べているが、現代の情報テクノロジーは生産への駆り立てだけではなく、消費への駆り立ても促すという性質を持っている。さらに探究してみたいのは、ゲシュテルとしての駆り立ての力と、アフォーダンスとしての作用力との違いについてである。テクノロジーは何かに駆り立てるだけではなく、単純に何かをアフォードしてくる存在だと捉えることはできないだろうか。生産や消費と直接結びつかない行動に人間を促すアフォーダンス力というものをテクノロジーはその本質に内包しているのではないかという観点でさらに考察を進めていこう。フローニンゲン:2022/9/11(日)17:26


9103. ハーバマスのテクノロジー哲学に関する備忘録


ハイデガーのテクノロジー哲学に関する論文を読みながら、テクノロジーの本質にテクネーがあることを先ほど書いていた。ハイデガーの論文の最後の方に、テクネーはかつて、真を美に変換するものとして捉えられていたことを知った。また、芸術の創造もまたテクネーであることが言及されていた。この言及を見た時、ハーバート·マークーゼのテクノロジーによる人間解放の思想に考えが及んだ。マークーゼは、テクノロジーを人間支配の道具としてではなく、人間に解放をもたらす形でそれを活用する道を訴えた。その発想は、テクネーに内在する美的な何かと関係しているように思う。マークーゼのテクノロジー思想についても探究し直し、同時に、前述のマークーゼの考え方にはハーバマスが反論をしていたので、その論理も追っておこうと思う。


早速、ハーバマスのテクノロジー哲学に関する論文を読み始めた。ハーバマスが指摘するように、確かにテクノロジー、とりわけ科学技術は一部の専門家が独占的な知を有し、その利用に関しても半ば独占的な力を持っているがゆえに、公共的なものとは言い難い。端的に言えば、そこには科学技術と市民との間に父権的な関係性が存在していると言えるだろう。そこでハーバマスが提唱するように、市民が専門家とコミュニケーション的対話を行なっていくことは重要だが、そもそも科学技術に関する知識が十分ではない市民と専門家の間で有意義な対話が実現されるのだろうかという疑問がある。そうした困難さがあったとしても、これまでの歴史を振り返ると、テクノロジーの暴走は専門家でも予測し得ないものであり、市民側が問題意識を絶えず持っておくことは重要であろう。原発の問題を含め、専門家でさえもが対処不能なことが起こるのであるから、市民は専門家の語るある種の物語を信奉するのではなく、それを絶えず疑うような心の在り方と、物語のおかしさを指摘するための知性の強靭さが求められるように思う。また、市民と専門家が直接的に対話をすることが難しかったとしても、原発やAI、さらにはメタバースなどのテクノロジーについて市民同士で活発な対話を行えるような空間と機会を醸成することは非常に重要かと思う。有事の際にいきなり対話をせよと言われても困難であろうから、平時の時からどれだけ市民同士で対話を積み重ねることができるかどうか、さらにはそこでの対話を専門家に持ちかけたり、逆に専門家がそこでの対話を汲み取ったりする試みも重要だろう。科学者を含めたテクノロジーの専門家の物語の真偽を吟味する際に、そこで語られていることが共同体内の常識、ないしは共同体が共有可能な信念に矛盾していないかを吟味したり、過去の時代におけるテクノロジー思想の物語との整合性を確認すること、さらには同時代における倫理や道徳、さらには社会正義に関する哲学思想との整合性を確認することは重要な試みだろう。哲学的な参照点だけではなく、テクノロジーがもたらす危険性に関しては、過去にどのようなことが起こったのかという情報や、今現在リアルタイムで変化している出来事に関する情報を集め、それとの整合性の観点からテクノロジーを取り巻く物語を考察していくことが重要だろう。フローニンゲン:2022/9/11(日)18:08


9104. ハーバマスとマークーゼのテクノロジー哲学:テクノロジーの公共性や

民主的性質についての問題


夕食後、再びテクノロジー哲学に関する論文を読み進めている。その中で、以前より注目していたアンドリュー·フィーンバーグの指摘が言及された。フィーンバーグは、ハイデガーのテクノロジー哲学は本質主義に陥っていると指摘し、その問題点に言及している。確かにハイデガーは徹底的にテクノロジーの本質を突き詰める方向に論を展開させていたが、逆にそれによってテクノロジーの重要な性質が浮かび上がってきたことは確かである。ゲシュテルとしてのテクノロジーやテクネーとしてのテクノロジーなどはまさにそうした重要な性質に該当する。また、テクノロジーそれ自体の中に合理性や効率性、さらには計算可能性が内包されているという主張も見逃すことはできない。しかしこの点については、テクノロジーの本質としてそれらが備わっていると見るのか、認識主体である私たちがそれらを付与していると見るのか、考え方が別れるように思うため、さらなる考察が必要である。フィーンバーグの考え方で興味深いのは、テクノロジーを「事物の立法府(parliament of things)」と捉えていることである。すなわち、テクノロジーとはテクノロジーの考案から使用まで、多様な選択肢を内包した政治的なものであるということだ。そうした政治的なものとしてのテクノロジーに関して、ハーバマスの述べるコミュニケーション的な対話や公共性に関する議論はやはり重要な意味と役割を持っているように思う。


これまで読み進めていたテクノロジー哲学に関する書籍や論文の内容が行ったり来たりしており、議論が錯綜としてくるが、逆に文献の内容がごた混ぜになること通じて徐々に見通しが良くなってきていることも確かだ。マークーゼが問題にしていたテクノロジーと支配体制との癒着について考える。元々この考えは、支配体制と生産性拡大の癒着を問題とするマルクス的な発想から来ているのだと思われるが、現代においては確かにテクノロジーが支配体制と癒着している一方で、SNSの種類や使い方によっては一概に支配体制と癒着しているとは言えないものもある。この点において、マークーゼが希求したテクノロジーによる人間解放の可能性もまだ残されていると言えるのだろうか。体制批判を通じた革命ツールとしてのテクノロジーがどれだけ機能するのかについてはより考えていく必要がありそうだ。マルクスにとっては、生産力の実体は労働だったが、現代においてはむしろテクノロジーが生産力の実体になっている。そうなると、テクノロジーと支配体制の癒着の問題のみならず、テクノロジーと資本主義の癒着の問題についても考えなければならないように思える。その問題に合わせて、先ほど考えていたように、現代のテクノロジーは政治的なものでありながらも、民主的なものとは到底言えず、市民の討議の蚊帳の外にある。市民がテクノロジーのデザインや導入、そして使用に関して何か意見を述べるようなことはほとんどできず、テクノロジーに関する議論の非民主化が推し進められている。テクノロジーと民主主義というのもまた考えなければいけない重要なテーマである。フローニンゲン:2022/9/11(日)20:32

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