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9071-9076: フローニンゲンからの便り 2022年9月7日(水)



No.3974 神の戯れ_Play of God


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1778, Potentiality

Don’t look outside.

Look inside you.

You can find your potentiality.

Groningen; 08:35, 9/7/2022


No.1779, Evening Refreshment

A wind is gently blowing.

It refreshes the world deeply.

Tomorrow will be glorious, too.

Groningen; 19:29, 9/7/2022


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本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9071. 今朝方の夢

9072. ノブレス·オブリージュの態度で/トレモロのコツ

9073. 今朝方の夢の続き

9074. 嘘と冗談/間主観的な無意識

9075. 映像の先にある実在界/視線がもたらす超越体験

9076. 時空間に折り畳まれた歴史


9071. 今朝方の夢


時刻は午前7時を迎えた。今、2羽の小鳥が高らかな鳴き声を上げていて、互いに応答している。昨夜は雨が降り、今目の前には雨で濡れた世界が広がっている。今日は夕方までは晴れとのことであり、夕方からは少し雲が出てくるようだ。そして明日の早朝からは激しい雨が降るようだ。今日は気温が24度まで上がるらしいが、明日は18度までしか上がらない。明後日以降からは、最高気温が21度の涼しい日がずっと続く。今日は晴れなので、午後にジムに行き、ジークンドーのトレーニングをしてからサウナに入ってこようと思う。


サウナで思い出したが、今朝方は銭湯にいる夢を見ていた。サウナで良い汗をかき、その後再び浴槽に入って体を温めていた。浴槽のお湯はぬるいぐらいの温度で、友人からは手先を冷やさないようにと言われた。そう言えばこれから、手先を使った競技に出場することになっていたので、手先がかじかんでいると競技に支障が出るため、友人の助言に従って、指を温めて競技に向けての準備をしていた。


それ以外にも、トイレの個室に入ろうとしていた場面があった。その場面をもう少し巻き戻して思い出してみると、薄暗い地下道を歩いていると、終わりの地点が見えた。そこにはエスカレーターがあって、上にあるホテルとつながっているようだった。私は、小中高時代の女性友達2人と一緒に地下道からそのホテルに向かった。ちょうどホテルで講演会か何かのイベントが行われているらしく、それに参加しようと思っていた。エスカレーターを上がっていくと、薄暗かった地下道とは対照的に、眩いばかりの光がホテル中を照らしていた。私たちはホテルの受付の前を通り、さらに上の階へエスカレーターで上った。このホテルには品揃えの良いお土産屋さんや立派なレストランがあって、エスカレーターで上がりながらそれらの店を眺めた。エスカレーターが目的階に到着すると、そこで突然鼻水がかみたくなり、トイレに向かった。トイレの前には何重もの自動扉があり、それは押しボタンを押すことによって自動で開く仕組みになっていた。次々と押しボタンを押していくと、ボタンは緑色に変わって次々と扉を開けていった。ようやく男女の個室が見えた時、私は女性用の個室の方に入った。というのも、男性用の個室に男性用の便器しかないとトイレットペーパーがない可能性があり、鼻水がかめないと思ったからである。とっさに女子トイレに入ってトイレットペーパーをもらってすぐに外に出た。すると、2人の女性友達が私が女子トイレに入ったことを怒っていた。私は事情を説明した。すると彼女たちも一応納得してくれたようで、事を荒げずに済んでよかったと思った。フローニンゲン:2022/9/7(水)07:31


9072. ノブレス·オブリージュの態度で/トレモロのコツ


小鳥たちの鳴き声がかくも美しいのかと感じさせられる朝だ。先ほどは離れたところにいる2羽が共鳴するかのように鳴き声を上げていたが、今は1羽の小鳥が清澄な鳴き声を上げている。その鳴き声が朝の澄み渡る世界に波紋のように広がっている。


昨日はジークンドーの稽古、そして箏のオンラインレッスンがありと大変充実していた。昨日は読書もまた充実していて、7冊ぐらいの書籍の初読を終えた。今日もまたそれくらいの勢いで読書に励むことができそうだ。昨日は追加で12冊の和書を購入し、先月と今月で300冊ほどの学術書を購入したが、大して積読になることもなく、ブルドーザーのように初読が着実に終わっていく。それを通じて、自分の脳内に各種の新たな引き出しができているのを実感する。それは今後研究や実践を重ねたいテーマに関する新たな引き出しであり、引き出しは乱雑に増えているというよりも、お互いが関連し合う形で増えているように思える。そうした知の連結を感じながら、知の体系が分厚くなっているのを身体感覚として感じる。一方で、昨日ふと、学術的スノビズムに陥らないようにすることの大切さを考えていた。日々これだけ書物と向き合っていると、それなりに思考や知識体系が磨かれていく。こうした活動に従事できることもまた自分の個性であり、環境を含めた自分以外の力による恩恵なのであって、それを棚に上げてスノビズムに陥ってはならないように思える。間違っても、獲得した知性を通じてスノビズム的態度を取らないようにしたいし、知性の涵養に向けてあまり人を強要しないようにもしたいと思う。そうしたことを避けながら、スノビズムではなく、取るべき態度はノブレス·オブリージュ的なものだと言えるだろうか。こうした知的鍛錬に日々従事できる個性と環境を得て、実際に知性が涵養されたのであれば、それを通じて社会に対して働きかけていく社会的責任が自分にはあるように思える。これからも継続して学術的な研究を続けていく自分には、特にそうしたことを自らに言い聞かせる必要があるのではないかと考えていた。


少し休憩をして鳴き声を上げることをやめていた小鳥がまた鳴き声を上げた。その声を聞いて、昨日の箏のレッスンを思い出した。先生から、少し早いがトレモロの技術についても簡単に指導してもらった。トレモロで長く音を響かせる場合は、小指を弦において安定させると良いと教えてもらった。トレモロで連続的に他の弦に移っていく場合には、小指を弦で押さえていると移動しにくいため、その辺りは臨機応変に対応したいと思う。トレモロの技術も先生にコツを教えてもらったことにより、ここからさらに精度を上げることができそうだ。今日の1人稽古も大いに楽しもう。フローニンゲン:2022/9/7(水)07:48


9073. 今朝方の夢の続き


時刻は午前9時を迎えた。今は少し空が曇っていて、ひんやりとした感じがする。これから今日の活動を本格的に始めていこうと思う。これから朝の読書に取り掛かろうと思うが、その前に今朝方の夢の続きを振り返っておきたい。夢の中で私は、屋内のスイミングプールにいた。そこには50mほどの大きさのプールがあり、よく使っている25mのプールとは奥行きが全然違って見えた。そこで私は、水泳に関する大事な選考会に参加することになっていた。ウォーミングアップがてら一度泳いでみたところ、奥行きがあるだけではなく、水深も随分と深く、まずはその感覚に慣れなければいけないと思った。そうこうしているうちに選考会が始まった。私は特段緊張することもなく、冷静な心持ちでいて、その状態であれば良いタイムが出せそうだと思った。いざ自分が泳ぐ番がやってきて、飛び込み台の上に立つと、心地良い緊張感が生まれた。そして、ピストルの合図と共にプールに勢いよく飛び込んだ。自分が参加した競技は、一般的な泳ぎ方ではなく、バタ足を使うことなく手をかくだけで進んでいく変わった泳ぎ方が求められていた。まずは飛び込んだ勢いを利用して潜水をしながら前に進んでいき、推進力がなくなりそうになったところで手をかきはじめた。自分はこの泳ぎ方が得意のようであり、スイスイと前に進んでいくことができた。壁のところで勢いよくターンをして、そこからも順調に泳ぎを進めていった。そのような夢の場面があった。


この夢の場面の前に、プール脇に向かうときに、天からそこに舞い降りたのを覚えている。その時に、書籍が積み重なった山を足場にしてプール脇に降り立ったことが印象的だ。書籍が積み重なった山は安定しておらず、グラグラしていたが、ある見知らぬ若い男性が体を左右に動かしながら、必死にその場に留まっていて、彼の力を借りてプール脇に降り立った。彼の肩にまずは足を乗せさせてもらい、そこから自分はうまく下に滑り落ちていって地上に着地した。彼の足場は相当に悪そうだったので、近くの本の山の中から土台として安定しそうな大きくて分厚い書籍を何冊か取って来て、彼の足場の補強をした。すると彼はそれに対してお礼を述べ、随分と安定した足場を喜んでいた。この場面について思い出してみると、今自分が本の山に囲まれて生活をしていることと何か関係があるように思えた。実際に、家の2階の書斎には机の上だけではなく、至る所に本の山がある。こうした環境の中で生活をし、ここ最近は毎日かなりの書籍を読んでいることが無意識に影響を与えたのかもしれない。それにしても、夢の中の本の山が一連の繋がりを持って連なっていたことが興味深い。やはり全ての書籍は何かの縁で結ばれており、相互に影響を与え合っているのだろう。そんな仏教的な考えが芽生える。フローニンゲン:2022/9/7(水)09:31


9074. 嘘と冗談/間主観的な無意識


今、マネーと精神分析との関係性に関する書籍を読み進めている。その中で、フロイトが嘘をつくことは何ら驚くに値しない日常的な現象であるとみなしていたという記述が目に止まった。フロイトにとって嘘とは、口から滑り降りた、あるいは夢ないしは無意識から滑り落ちたものだったのだ。冗談と嘘を眺めていると、両者は確かに無意識からこぼれ落ちる特性が共通しているように思う。もちろんそれらを意識的に出すことはあるが、冗談を述べることや嘘をつくことの根幹に無意識的な何かがやはりある点では共通している。そして興味深いのは、大抵の場合、冗談を言われたらそれが冗談とサッと気付くし、嘘をつけば相手にサッと見抜かれたり、こちらもサッと見抜くことができるはずである。しかし、昨今は現代人の感覚が劣化しているためか、冗談が通じない相手が増えている印象を受けるし、嘘が嘘だと見抜けない人も増えている印象だ。これは感覚の劣化に合わせて、無意識の劣化も起こっているのかもしれないという重大な問題を孕んでいるように思う。


嘘が嘘だと見抜けないのは、マネーの性質とも関わってくる。マネーの虚偽性に気づけないというのは1つの代表的な例である。マネーの虚偽性が見抜けないのは、単に知性の問題だけではなく、感覚的な問題もあるように思えてくる。マネーの虚偽性の直感的に把握については引き続き探究していこう。知的にマネーの複雑な性質を紐解いていく方向性と、直感を用いてマネーの虚偽性に気付いていく方向性の双方を大切にしよう。


ラカンが精神分析家とクライアントの無意識を合算して捉えていたというのは興味深い。転移や逆転移の現象を含め、片一方の無意識に焦点が当てられがちであるが、2人の人間がその場を共有する時、そこでは2人の無意識が1つの間主観的な無意識を作り出すというのは何か納得がいく。実際のところは転移や逆転移というのも、主観的な無意識だけによって生じるわけではないし、間主観的な無意識を想定した方が理解が進む現象も日常でよく経験していることから、ラカンの無意識の捉え方に共感する部分がある。例えば、この文章を読んでいる人と自分の間にも何かしらの間主観的な無意識次元での共鳴が起こっているとしても不思議なことではない。確かに、文章の場合はそれを書き終えると、書き手は文章と一旦切断されるが、それは完全な切断ではなく、文章を媒介にして見知らぬ人の無意識が共鳴し合い、大きな間主観的無意識を醸成するというのはあり得なくもない話である。そのようなことを考えながら読書を進めていた。フローニンゲン:2022/9/7(水)10:18


9075. 映像の先にある実在界/視線がもたらす超越体験


マネーと精神分析に関する書籍を読んだ後に、精神分析という点では共通な流れとして、ラカンの精神分析と映画に関する書籍を読み始めた。これまで映画を鑑賞しているときに、その映画が象徴していることは何かを考えることは多かったが、ラカンにとってみれば、象徴界は欠落だらけなのであり、その不完全さを超えたところに実在界を捉えていたことを考えてみると、映画を通じて、その作品が生み出す象徴界に注目するというよりも——それを理解することはもちろん重要だが——、作品を通じて喚起される実在界を捉えることの方が重要なのではないかと思った。当然ながら、実在界は人間の認識を持って全て把握できるわけではない。できるのはそれに触れたという感覚だけかもしれないが、そうだとしても、象徴界の把握にだけ焦点が当たっていると、実在界に触れる機会を逸してしまうのではないかと思う。今後映画を見るときには、いやドキュメンタリーやアニメを含めた映像作品全般を見るときには、その作品を通して明らかになる実在界の眼差しを向けてみようと思う。


また、映画においては作り手の個人の欲望だけではなく、集合的な欲望もそこに投影されている場合が多分にあり、それを政治的なプロパガンダとして片付けてしまうのではなく、欲望の性質にまで深く入っていく形で理解に努めたい。ここでは映像の背後にあるものとして、まずは個人と集合の欲望の双方を捉え、そこから実在界に入っていくという流れがありそうだ。


さ今読み進めている書籍の中で取り上げられているように、視線というのは映画においても重要なトピックであり、視線と無意識の関係を理解することは、日常生活においても重要な意味を持つように思う。何かに眼差しを向けるとき、時に何かを求めて対象を見たわけではなく、思わずそれを見てしまうということがある。そして、見た対象について即座に何かを掴めるわけではなく、何か自分の存在が宙ぶらりんになるような体験をすることがある。興味深いのは、視線を向けた瞬間に主体が客体と化し、その客体がすぐに把捉不能のものであった場合、自己の存在は実存空間の中で宙吊りにされる。それはある種の自己超越体験だと言えるだろう。こうした体験もまた実在界に触れるための貴重なリソースになるかもしれない。視線には何か重要なことがある。視線の現象学というものを日常の体験に紐付けて探究してみようと思う。フローニンゲン:2022/9/7(水)10:42


9076. 時空間に折り畳まれた歴史


時刻は午後5時を迎えた。今の気温は25度と暖かく、今日は今朝方に雨が降ったためか少し湿った感じがする。湿度の高さを感じながら、今日は午後にジムに行った。ジークンドーの稽古をして、そこから念入りに自重トレーニングをした。良い汗をかいた後に、さらに一汗かくためにサウナに入った。サウナの温度設定が高くなりすぎないようにシールが貼られていて、温度を高くしすぎないような警告文も貼られていた。きっと誰かが温度を上げすぎて何か問題があったのだろう。サウナから上がってしばらくは更衣室で涼みながら時間を過ごしていた。そこから帰り道に買い物をして先ほど自宅に戻ってきた。


フローニンゲンの街を歩きながら、空間の中に折り畳まれている豊かな時間を読み解くことが散歩の楽しみの1つかと思った。それはまた旅行の楽しみでもある。辺りをぶらぶら歩いると、色々と面白い発見がある。 とりわけその街や場所に関して知識があればあるほどに、その場から得られる体験が変わり、知覚そのものが変化することが興味深い。ここにその場所や街の歴史を知ることの意義があるように思う。その場所や街が織り込んでいる時空間情報を知れば知るほどに、そこから得られるものがもっと豊かになるのだ。知覚が重層的なものになり、その場所で今感じられる体験もまた重層的なものとして立ち上がってくる。これは、ここ最近様々な分野における歴史に注目していることの副産物としての気づきなのかもしれない。今後はできるだけ、自分が住む街や訪れる場所の歴史を調べ、そこを歩くときの体験をより実りあるものにしたいと思う。時空間に折り畳まれた生者として歴史を蘇らせるのは自分自身の調査·探究にかかっており、それがなければ時空間に折り畳まれた歴史は死者となる。フローニンゲン:2022/9/7(水)17:11

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