
No.3971 朝光の輪_A Circle of Morning Light
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1769, Life, Transformation, and Movement
Life is movement.
But movement is not always life.
Transformation is movement.
Yet, the opposite is not always true.
Groningen; 10:28, 9/4/2022
No.1770, Post-I
I’m walking on the path of a sequence of infinite “post-” every day.
Tomorrow I will be the post-I.
The process keeps going forever.
Groningen; 10:48, 9/4/2022
No.1770, Welfare as Warfare
Is welfare in the modern world replaced with warfare automatically, isn’t it?
The automatic conversion looks very problematic to me.
What is the pathological converter?
Groningen; 11:45, 9/4/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
9050. 今朝方の夢
9051. 今朝方の夢の続き
9052. ベーシックインカムと宗教思想との関係に関する研究に向けて/ポスト現象学
9053. ポストヒューマンと暗号資産
9054. 宗教とベーシックインカム・宗教と農業/福田徳三・川面凡児とベーシックインカム
9055. ベーシックインカムと日本国憲法
9056. 箏の稽古(22):進歩の実感/稽古の本質
9050. 今朝方の夢
時刻は午前8時半を迎えようとしている。今、小さなカラスがカーカーと鳴く声が聞こえている。カラスはすぐにどこかに行き、今度は小鳥たちが鳴き声を上げ始めた。今朝方起床した時に、今日が何曜日だかわからなくなって笑ってしまった。曜日感覚は本当に崩壊しており、少し冷静になって考えてみなければ今日が何曜日なのかわからなかった。今日は日曜日である。来週からオットー·ラスキー博士とのプログラムが始まるため、来週から3週間ほどは少し忙しくなるが、たまにはこうした刺激があった方が良い。普段は自分の取り組みだけに集中できているが、そうした刺激が外部から与えられた時にどれだけ自分の取り組みに従事できるかを確かめたい。そこで優先するべきはジークンドーや箏の演奏だろう。とりわけ箏の演奏が最優先されるべきもので、学術研究の優先度合いはそうした忙しい時には少し下げてもいいだろう。
今朝方は夢の中で、リゾートホテルとテーマパークが一体となった場所に向かおうとしていた。そこに向かおうとしている場面とそこにいる場面が何度か入れ替わって現れた。ちょうどホテルに宿泊している時に、ある日本人の有名な投資家の方から電話があり、その電話で私は目覚めた。朝6時に電話がかかってきて、寝ぼけた声で応答したところ、そう言えばその方が車で迎えに来てくれるということを思い出した。ところがその方は先ほど自宅に帰宅したばかりで、迎えには行けないとのことだった。むしろ自分も今起きたばかりなので、すぐに迎えに来てもらっても困ると思っていたのでちょうどよかった。私は1人でテーマパークに行くことにした。電話を切った後、私は宿泊している高層ホテルの上層階の廊下にいた。廊下の窓から外を眺めると、テーマパークの姿が見えた。そこでふと、そもそもなぜ自分はその方に車で迎えに来てもらおうとしていたのかを疑問に思った。というのも、ホテルとテーマパークは隣接とまでは言わないまでも、歩いて行ける距離だったからだ。そこでふと、自分はその方と話をしたいと思っていたし、向こうも自分と話をしたいと思っていたからだと思った。なのでたとえ距離が短かったとしても、車の中でしかできない話をしようとお互い考えていたのだと思った。その方は高級車を何台も所持していて、一度その方のお気に入りの車に乗ってみたいという思いもあったのかもしれない。いずれにせよ、その方は迎えに来れなくなったので、テーマパークの中でゆっくり話をすることにした。もしそこで話し切れなかったから、メールでやり取りをしようと思っていた。ところが、電話番号は交換しているくせに、メールアドレスは交換していなかったので、メールアドレスの交換もまた後ほど行っておこうと思った。フローニンゲン:2022/9/4(日)08:37
9051. 今朝方の夢の続き
最近は朝夕がめっきり冷えるようになったが、今日は最高気温が26度まで上がるらしい。明日もまた同じぐらいの気温で、27度に到達するかもしれないという予報が出ている。ただし、明後日からは天気が変わり、小雨に見舞われる日々が続くようだ。そこからはまた20度前半の気温となる。来月の今頃は日本に一時帰国する直前の時期である。おそらく日本に滞在する10月の気温が今の気温ぐらいだろうか。ひょっとしたら、日本の10月の気温の方が今よりも少し暖かいこともあるかもしれない。いずれにせよ、フローニンゲンと日本の気温は随分と違うので、日本でどのような格好で過ごすべきかについては今の気温と服装を覚えておいて、一時帰国直前に持っていく服の種類を判断しようと思う。
先ほど今朝方の夢について振り返っていた。リゾートホテルとテーマパークに関する夢の続きとして、ホテルからどこか別の場所に向かおうとしていた場面があったことを思い出す。ホテルでは、大学時代のゼミの友人(TA)と同じ部屋で少し話をしていた。彼の姿は大学時代のままであり、まだ社会人になっていないこともあってか、表情は優しく、そして若々しかった。彼としばらく話をしている時に、廊下の外のエレベーター付近で子供たちを連れた団体がいて、その声が気になって廊下に出た。子供たちはとても元気そうにしていて、先導している外国人の比較的若い女性が大変そうに見えた。どうやら彼らはこれからテーマパークに行くらしいということがわかり、彼らは今から数分後にホテルの下にやって来るバスに乗ろうとしていることがわかった。それを見て、自分もそろそろ出発しようと思った。ホテルの部屋に戻ると、友人はどこかに消えていた。すると突然、ホテルが飛行機に変形した。厳密には、それはホテル型の飛行機になった。ホテル型の巨大な飛行機は、滑走路をゆっくりと移動していて、これから離陸体制に入るところだった。離陸するためには廊下の窓を全て閉めなければならず、乗客全員で協力して窓を閉める必要があった。それくらいに数が多かったのだ。乗客はそれぞれ部屋から出てきて、窓を閉めることに一丸となった。ところが窓の数がやたらと多く、それらが全て開いている状態だったので、窓を全て閉めることは思いの外難航した。離陸が迫っていたので、もう全ての窓を閉めることを諦めて、そのままの状態で空に飛び立ってもいいのではないかと思ってしまった。そのような夢を見ていた。
その前に、ホテルの部屋に一緒にいた友人と一緒に、テーマパークに行くための切符と、帰りに駅まで行くための切符を購入しようとしていた場面があったことを覚えている。ホテルの宿泊客はその切符を購入する必要ないと言われていたが、どうやらテーマパークに行くためには特別の切符が必要だという話もあり、どちらが正しいのかわからず、とりあえずテーマパークに行くための専用バスの切符を購入しておこうと思った。切符を購入した時、自分の財布にはすでに似たような切符があったので、混在しないように注意なければならないと思った。フローニンゲン:2022/9/4(日)09:06
9052. ベーシックインカムと宗教思想との関係に関する研究に向けて/ポスト現象学
制度的なものとして、ベーシックインカムとマネー発行権に関心を示して探究を続けている。とりわけベーシックインカムに関して、宗教側からの思想的貢献は何かないかと文献調査を進めようとしている。後者はあまりにもマクロ経済に寄っていて、宗教的な思想をそこに見出しづらいかもしれず、前者であれば公平性や正義の問題を含めて、宗教思想的なものとの接続を見出せるかもしれない。そんな思いで文献調査を進めている。結局のところ、自分の研究や実践で行えることには限りがあるのだから、自分の情熱と関心を鑑みた上で、最も社会に影響力がありそうな仕組みの変容や導入に向けての研究と実践に乗り出していきたいものである。社会と協創する研究·実践分野に関してはとかくそれを意識したい。
今、本日3冊目の書籍として、アメリカのテクノロジー哲学者のドン·アイディの書籍を読み進めている。アイディは、ポスト現象学の代表的な論客の1人であり、ポスト現象学というものがそもそも何かということについても気になっていた。そもそも現象学は、意識や主体の内面現象を探究する学問分野であり、そこからポスト現象学に移行すると、どんなところに探究の焦点が移っているのかが気になった。今読み進めているアイディの書籍にはそのあたりのことが書かれているわけではなく、書籍の内容から推察するに、テクノロジーとの関係でいけば、意識や内面現象とテクノロジーとの関係性を取り扱うことはポスト現象学のテクノロジー哲学における特徴の1つになるだろう。抽象的な定義において言えば、ポスト現象学はどうやら、主体の内面現象と世界、主体の内面現象と文化の関係性を探究していくものであると言えるかもしれない。ただし、主体の内面現象と文化の関係性であれば、社会学や文化人類学でも扱うことではあるが、それらの学問はどちらかというと個人というよりも集合の内面現象と文化の関係性を捉えることに強調点があるだろうから、そこにポスト現象学との違いがあるのかもしれない。もう少し明瞭にポスト現象学とは何かを掴みたいので、テクノロジー哲学のコンテクストにおいて幾つかの書籍を引き続き読み進めていこうと思う。フローニンゲン:2022/9/4(日)11:17
9053. ポストヒューマンと暗号資産
人類誕生以来、人間はずっと技術と隣り合わせで生活を営んできた。人間は絶えず新たな技術を通じて世界と付き合ってきた歴史がある。それを見た時、人間と技術を分けて考えるのではなく、人間と技術は一体のものであったという考え方から、人間は技術的存在であるという考えが芽生える。神話的にも、プロメテウスがゼウスから火を盗み、火の技術を人間に与えて以降、人間は絶えず技術と隣り合わせで生活を営み、文明を発展させてきた。そのようなことを考えながら、技術というものが世界と人間を媒介にしているという見方もできる一方で、技術は世界そのものであるという見方も成り立つのではないかと考えていた。人間は技術的な存在であり、世界もまた技術的な時空間であるという認識がふと立ち上がる。そこからさらに、ポストヒューマンに関する事柄を考えていた。手元には結構な数のポストヒューマンに関する学術書があるが、前提として、人間がそもそも技術的な存在であり、技術の革新に合わせて変容していく存在であれば、人間は太古からポストヒューマンであり続けていたのではないかと思い、ポストヒューマンの哲学領域で繰り広げられている言説を改めて冷静に辿っていこうと思った。技術的な存在としての人間は、絶えずポストヒューマンの変容プロセスを歩んでいたのであって、それは殊更新しいことではないように思えたのである。もちろん、昨今の技術革新の速度とその影響力が大きいためにポストヒューマンの議論が繰り広げられるのはわからなくもない。しかし今一度、そもそも人類は絶えずポストヒューマンのプロセスを生きてきたという観点で手持ちのポストヒューマン関係の学術書を読み返してみようと思う。
話題は全く変わるが、暗号資産の種々のプロジェクトを見ていると、ビットコインを愛好する人たちはアルトコインを毛嫌いする傾向があったり、アルトコインの中は中で、お互いを嫌悪しあったり、不干渉であったりする姿が見える。お互いに嫌悪し合い、自分が関与しているアルトコインだけを強く愛するというのはどうもナショナリズム的な精神性を感じる。こうした姿を見ていると、確かにブロックチェーンを活用した暗号資産は革新性に満ちているが、同時にそれを活用する人間は一向に進化していないことが見えて来る。そのギャップが大きくなればなるほどに、何か大きな問題が起こりそうだという予感がする。人間の内面的成熟と技術進化との溝が生み出す問題は、歴史上何度も見られたものであり、そこからも歴史は繰り返すという格言的な法則性の存在が浮き上がって来る。人間はいくらポストヒューマンの歩みを進めたとしても、欠陥だらけであることには変わりないという不変·普遍法則も見えて来る。フローニンゲン:2022/9/4(日)11:38
9054. 宗教とベーシックインカム・宗教と農業/福田徳三・川面凡児とベーシックインカム
個人や社会の変容に向けて、ただ一つの有効的な処方箋など存在しないのだが、それでも生存と経済の問題は密接に結びついていて、結局のところ個人におけるマネーの問題は最重要課題として存在しているように思う。ゴータマ·シッダールもかつて、飢えた人に説法を説くのは無駄だから、まずは飢えを満たすことの重要性を説いた。それでいくと、現在においてはやはりベーシックインカムと農業の重要性が浮かび上がって来る。飢えないための食料とその循環は重要であるし、食料を得られるだけの手段としてのマネーが人々に行き渡っていることも重要である。ただし、あくまでもベーシックインカムも農業もそれらが仕組みであることには変わりなく、そうした仕組みを活用する人々の精神性というのも決定的に重要になることを忘れてはいけない。それゆえに、自分の研究と実践の焦点として、宗教とベーシックインカム、宗教と農業に光を充てていきたいと思う。とりわけ日本の宗教家がマネーの循環と再配分をどのように考えていたのか、農業についてどのように考えていたのかを研究していこうと思う。その研究の一環として、シュタイナーのバイオダイナミクスの思想を活用した共同体の研究や、日本の新興宗教である幸福会ヤマギシ会——組織形態としては宗教法人ではなく農業組合法人——の農業実践と同会が抱える問題についても研究してみたいと思う。生活基盤を支える農業はとかくカルト宗教と結びつきやすいという問題もあり、そのあたりの研究も進めてみたい。
先日、福田徳三先生の全集が随分と届けれられた。注文した全てのものが届けられ、少しばかり中身を紐解いてみると、福田先生が述べる生存権とベーシックインカムは深いつながりがあるように直感した。また、福田先生の厚生経済学につながる発想は、ベーシックインカムの深層に流れる発想に相通じるように思えたのである。これから全集を紐解く際にはその点に特に意識を向けた。また、川面凡児の全集を紐解く際にも同様の意識を持っておきたい。川面の神道神学の発想とベーシックインカムや厚生経済学の発想との連関を絶えず意識した読みを行っていく。それを続けていった先に論文の執筆や書籍の執筆が実現されるのではないかと思う。フローニンゲン:2022/9/4(日)14:07
9055. ベーシックインカムと日本国憲法
福田徳三先生の生存権とベーシックインカムとの関係性について色々と考えている最中に、日本国憲法第27条をふと眺めた。そこには「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」ということが書かれていた。法律の素人からすると、権利と義務が同居しているというのはどういうことなのだろうかと考えた。権利にはそれを行使する場合と行使しない場合があって、勤労の権利を行使しない場合には勤労に従事しないでもいいように思えるのだが、義務を負うというのはどういうことなのだろうかと考えていた。小室直樹先生が述べるように、憲法とは国家権力への国民からの命令である説に立つと、ここで義務を負っているのは国家であり、国家が国民が勤労に従事できるようにするための義務を負っていると解釈できるのかと思ったが、「義務を負ふ」の前に「国家は」という重要な主語が欠落するはずはないと考え、やはり国民が勤労の義務を負っていると解釈するのが妥当のように思えたが、そうだとするとやはり権利と義務の関係がよく掴めない。国民の全てが勤労の義務を負う義務がある場合、働きたくても働けない身体障害者における勤労義務はどのように捉えるべきなのだろうか。この条文の謎が深まる。憲法の歴史を眺めてみると、どうやら原案は「すべての国民は、勤労の権利を有する」という形で、義務規定はなかったようである。ところが、日本社会党の修正提案において、「すべて健全なる国民は労働の権利と労働の義務を有する」とされ、それが現行の憲法の文言になったようなのだ。
「働かざる者食うべからず」という言葉はもともと新約聖書の中に見られ、レーニンの社会主義的国家思想においても見られる。そこでは不労所得が禁止され、労働が賛美されていたのである。「働かざる者食うべからず」という考え方は、儒教における労働を推奨する発想にも見られ、こうした考え方は古今東西において見られるものなのだろう。いずれにせよ、こうした考え方が強ければ強いほどベーシックインカムの導入の思想的障壁になるだろうし、働きたくても働けない人がますます社会の周辺に追いやられてしまうのではないかと危惧する。しばらくはベーシックインカムを起点にして、憲法の探究もしながら、福田徳三先生の経済·哲学思想や川面凡児の神道神学の考え方を探究していこうと思う。最後に、冒頭の話に戻ると、ベーシックインカムに関しては、日本国憲法の第27条の勤労の権利・義務に関する話と、それから第25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」というものに深く関係するものであるということを書き留めておく。その他にベーシックインカムの導入に際して関係しそうな条文はないかを探してみよう。フローニンゲン:2022/9/4(日)14:33
9056. 箏の稽古(22):進歩の実感/稽古の本質
つい今し方、今日の箏の稽古を終えた。その前に、ジークンドーの稽古を20分ほど行い、箏に関しては1時間ほどの稽古をした。明後日は箏のオンラインレッスンがあり、それに向けて明日は弦のチューニングをしておこうと思う。今日の最後に押し手の練習をする際に、チューナーを使って音を確認していたところ、どうやら少し音が狂い始めているようだったので、明日はまず調弦から始めたいと思う。今日の稽古の中での収穫は、トレモロのコツが少し掴めたことだ。もちろんまだ連続して綺麗な音を出し続けることはできないが、昨日よりも小刻みな音が出せるようになってきたことは進歩であった。明日の練習では、「故郷」の曲から練習を始め、「喜びの歌」「ジュピター」と移っていこう。奏法としては、引き色の練習をし、それを活かして「モルダウ」を演奏する。
今日の稽古を終えてみて、稽古とは、古の伝統に対して実践を通じて考察を深めていくだけではなく、自らのこれまでの実践や考察の蓄積に対して内省していく取り組みを指すのだと思った。集合的な蓄積と個人的な蓄積の双方に対して真摯に向き合い、実践を通じて絶えずそれらの蓄積を内省していく試みが稽古の本質なのだろう。そのようなことを思わせてくれる本日の稽古だった。フローニンゲン:2022/9/4(日)17:14
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