No.3969 星の夕暮れ_Starry Dusk
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1764, Credit and Debt
Negativity is always behind positivity.
Debt always exists behind credit in the modern monetary theory and practice.
Groningen; 09:39, 9/3/2022
No.1765, Zero as Something
Zero is not nothing.
But it is something for us.
Groningen; 11:37, 9/3/2022
No.1766, Symbolic Deaths
I experience a symbolic death every day.
I occasionally experience a large symbolic death.
That’s my life.
Groningen; 15:45, 9/3/2022
No.1767, Life is Live.
Our life is constantly live.
Life is live.
It is the essence of our life.
Groningen; 15:54, 9/3/2022
No.1768, A Scar
A scar has a crack.
Sacredness sheds light on it.
Groningen; 20:09, 9/3/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
9043. 活気づくキャンパス/今朝方の夢
9044. 書籍の再注文を終えて/今朝方の夢の続き
9045. ジョセフ·フーバーの主権通貨理論と社会的連帯経済の研究に向けて
9046. 自らのサイボーグ性/今朝方の夢の続き
9047. 仏教と神道の時間感覚/「遊戯(ゆげ」と「稽古」
9048. 箏の稽古(21):様々な奏法を楽しんで/脱力に魂が宿る
9049. 光の根源としての傷/良寛/客体視/麻薬としての宗教
9043. 活気づくキャンパス/今朝方の夢
時刻は午前6時半を迎えた。今、空の大部分に雲が覆っているが、今日もまた快晴に恵まれるようだ。ここから雲は晴れていき、昼過ぎからは雲1つない青空に恵まれるらしい。昨日、街の中心部のコーヒー豆·茶葉専門店に行ったところ、その道中でフローニンゲン大学のメインキャンパスの前を通り、新学期が始まったからか、キャンパスの近くは多くの学生でごった返している様子を見た。学生たちの姿から活気を感じることができ、みんなこれからの新学期に向けて希望に満ち溢れているように思えた。店に到着する間際に、フローニンゲンの街を代表する画家のギアート·ウォーターマン氏とすれ違った。彼は「天国の色を与えられた画家」と呼ばれていて、とても美しい色彩の絵を描く。彼の作品はフローニンゲンに来てしばらくした時に出会っていたので、その出会いはもう随分古い。ウォーターマン氏はギャラリーの前の椅子に腰掛けながらいつもニコニコと笑みを浮かべていて、昨日もすれ違った時に笑みを浮かべていた。仮に来年フローニンゲンを離れることになったら、彼に絵の制作を依頼し、1つ小さな原画を購入したいと思っている。フローニンゲンの街と人を抽象的かつ幻想的に描いた作品を依頼したいという思いがある。
今朝方の夢が消えないうちに振り返っておこう。夢の中で私は、一風変わったアトラクションに参加していた。ちょうど今からそのアトラクションの中に入っていくことになっていて、入り口に立っていた。入り口からすぐにアトラクションが始まるのだが、その始まりを説明するのは難しい。イメージとしては、時空間を移動するトンネルのようなものがあって、それは布とゼラチンを混ぜたような物質でできていた。地球上に存在する物質なのか不明なぐらい、初めてみる材質だった。トンネルの口はとても狭く、人が1人なんとか入るぐらいの大きさだった。私の前に立っていたのは小中高時代の親友(NK)で、彼がまずトンネルの中に入っていった。彼は身を縮めてなんとか中に入り、彼の姿はもう見えないが、自分も早くトンネルの中に入ってくることを促した。私の後ろには別の友人(TK)が立っていて、トンネルそのものが宙に浮かんでいて、背伸びをしても届かないぐらいの高さだったので、後ろの友人の体に足をかけさせてもらい、中に入っていこうとした。すると、入り口が思った以上に狭く、身体を強引に押し込まないと中に入れなかったが、後ろに立っている友人がしっかりと支えになってくれていたおかげで無事に中に入ることができた。トンネルの中に入ってみると、そこはもう異空間であり、外の世界とは全く違っていた。トンネルの中は外からではわからないぐらいに広く、そこには様々な店が並ぶ大きな空間が広がっていた。今から色々な店を見て回ることにし、後ろから自分を支えてくれていた友人もちょうどトンネルに入ってきたので、彼には先ほどのお礼を述べた。そんな夢の場面があった。フローニンゲン:2022/9/3(土)06:54
9044. 書籍の再注文を終えて/今朝方の夢の続き
時刻は午前8時半に近づいている。早朝に見えていた雲は消え、今は雲1つない青空が広がっている。先ほど、先月注文した250冊以上の書籍のうち、まだ届いていない書籍がいつごろ届くのかをアマゾンの注文履歴から確認した。すると、2冊の書籍が紛失し、9冊の書籍が何らかの理由で届けられずにいることがわかった。早速カスタマーサポートに連絡し、アレキサンダーという男性にチャットで対応してもらい、2冊は返金ではなく新たに書籍を届けてもらうことにした。9冊の書籍は自動的に返金処理がなされていたらしいので、9冊は改めて購入し直した。その他の未到着の書籍に関しては到着の目安の日が記載されているのでちゃんと届くと思われる。早めに確認して正解だった。これでなんとかほぼ全ての書籍を日本に一時帰国する前に受け取れることができるだろう。数冊ほど受け取れない書籍があるかもしれないが、それは仕方ない。
今、改めて今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、リニューアルされた実際に通っていた小学校の校舎の中を歩いていた。私の横には野球部の友人(HY)がいて、彼と一緒に小学校2年生と3年生の時に使っていた教室辺りを歩いていた。懐かしさのあまりに教室に入ってみることになり、何気なく席に座った。すると、当時の記憶が一気に蘇り、しばらく時空間を超えた体験をしていた。ハッと我に帰ると、友人の彼は私にある仕事を依頼してきた。彼は保険会社に勤めていて、ある資料の文言リストを渡され、隅から隅まで文言を確認して欲しいと彼は述べた。私はあまり気乗りしなかったが、断るのも可哀想かと思ったので、その仕事を引き受けることにした。集中して一気に取りかかればすぐに終わると思い、集中して文言リストに向き合った。すると、教室の後ろから誰か女性が入ってきた。どこかで嗅いだことのある香水をその女性はつけていて、私が座っている席の横に立ったその女性は前職時代の上司だった。その方がなぜここにいるのかはわからなかったが、少し会話をした。その方はとても気さくな性格だったので、しばらく談笑を楽しんだ。その方からは、机の上のパソコン画面に映し出されている画像が如何わしいものであり、笑いながら突っ込まれたが、それは友人から依頼された文言リストの言葉を検索した際に表示されたものであり、それも仕事だと返答した。すると上司は笑ってどこかに消えた。ふと自分の机の引き出しを見ると、そこには立派な画集が数冊ほど入っていた。そのうちの1冊はゴッホの画集だった。画集を机の引き出しに入れっぱなしにしておくのも問題かと思ったので、数冊ほど家に持って帰ろうと思った。教室を出ると、そこはもう外であり、目の前にレストランがあった。そこは平日は賑わっているが、その日は休みとのことであり、とても静かだった。レストランの中を覗くと、昨日の残り物がセルフでもらえるとのことであり、ただしそれはただではなく、ちゃんとお金を置いておくことが義務付けられていた。残り物を見ると、美味しそうなカレー丼や和風丼などがあったが、それらに動物の肉が入っているかもしれないと思ったので、結局何ももらわずに外に出た。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/9/3(土)08:42
9045. ジョセフ·フーバーの主権通貨理論と社会的連帯経済の研究に向けて
先ほど、貨幣システム分析を専門にするドイツの経済学者のジョセフ·フーバー氏の“Sovereign Money: Beyond Reserve Banking“という書籍をさらに追加で購入した。フーバー氏は、「グリーン倫理銀行(green ethical banking)」の先駆者であり、オランダのトリオドス銀行を含めたオルタナティブバンクに関心を持っていた自分の興味に合致する取り組みをしている。また、フーバー氏が提唱する生態学的現代化理論は、どこかハーマン·デイリーの生態学的経済学とも親和性がありそうであり、そうした関心から本書を購入することにした。もっと根源的なところで言えば、現代貨幣理論(MMT)の構造的問題について研究する際に本書は非常に有益だと思ったことも本書の購入動機である。現代貨幣論においては、政府による信用創造が根幹にあり、それは信用によって貨幣を生み出した瞬間に債務を発生させる。すなわち、マネーは借金と一緒に生まれ、ポジティブとネガティブを同様に生み出すということである。ところが多くの人は、ポジティブの背後にネガティブが存在し、ネガティブの背後にポジティブが存在することを見落としがちである。そんな認識的歪みが付き纏うのがこの現代貨幣論の1つの特徴なのではないかと思う。現代貨幣論も1つの専門領域として極めようとなると相当の学習量が要求され、今の自分は初学者もいいところだが、ここから手持ちの現代貨幣論の書籍を再読しながら、同時にフーバー氏の上記の書籍を読んでいこうと思う。
この書籍は、現在の貨幣システムに対して批判的な分析をまず加えていく。通称「銀行マネー」とでも呼べるマネーの生成システムについて詳細な分析をし、過去と現在におけるマネー理論の過ちを指摘していく。それに伴って、インフレ、デフレ、バブルなどの経済現象について論じ、マネー政策として何が実行的ではなく、何が実行的なのかを論じていく。現在の金融システムを正しいものにしていくためには、まずは現在のマネー政策についての限界と過ちを理解することから始めなければならないとフーバー氏は指摘する。
さらなる知識を得るために、フーバー氏のこちらのウェブサイトを参照しようと思う。こちらのウェブサイトに掲載されている情報は、今後本格的にマネー政策の研究をする時に有益になるだろう。また、フーバー氏が提唱するマネー理論(主権通貨理論)に加えて、社会的連帯経済の思想と取り組みについても研究をしてみようと思う。フローニンゲン:2022/9/3(土)10:15
9046. 自らのサイボーグ性/今朝方の夢の続き
時刻はゆっくりと正午に向かっている。今、オーナーのフレディさんが倉庫の上に上がって何か作業をしている。どうやら倉庫の上の掃除と補修をしているようだ。フレディさんはそのために幾つかの道具としてのテクノロジーを使っている。そこでふと、ドナ·ハラウェイの「サイボーグマニフェスト」を思い出した。ハラウェイは、「私たちはみんなサイボーグである」という宣言を“A Cyborg Manifesto”という論文を通じて1985年に行った。そこでふと、今このようにしてパソコンを使っている自分、メガネをかけて生活をしている自分、冷蔵庫に入った食べ物を取り出して、それを各種の道具を用いて調理して食べる自分を見た時に、テクノロジーと自分がまるで一体化しているように思えた。自分がサイボーグであることの気づきにハッとさせられたと述べてもいい。パソコンも冷蔵庫も調理道具も、普段は自分の肌身に触れているものではないが、メガネはまさに自分の視力を拡張させるものとして存在しているし、イヤホンは聴覚機能を拡張させるものとして存在している。仮に自分の体の中に人工透析などが埋め込まれているのであれば、それは尚更テクノロジーと自分の存在が一体化していることの現れなのではないかと思う。そう考えると、やはりハラウェイが述べるように、私たちは何らかの意味において全員サイボーグなのだという主張はあながち間違ったものではないと思う。ハラウェイのサイボーグ宣言を目にしたときは、少しラディカルに思えたが、よくよく自分自身を観察してみると、テクノロジーにより自分の能力や生活そのものが拡張されていることに気づき、ハラウェイの指摘がとても真っ当に思えたのである。
そのようなことを考えていると、今朝方の夢の続きを思い出した。夢の中でそう言えば、小中学校時代の小柄な友人(KS)が見知らぬ中年男性に身体検査を受けている場面があった。彼はそれを嫌がっていたが、検査を受けないと建物の先に進めないようになっていた。その場にいた私と、彼以外の2人の友人はスーツを着用していて、パリッとした身なりだった。小柄の友人の彼は身体検査の後に、同じ人物に荷物の検査をされ、彼は相当に抵抗していた。荷物の検査を終えた後、彼は不満を爆発させて、荷物検査をした男性に殴りかかった。男性の顔面を何度かパンチしたが、男性はびくともせず、彼のパンチは全く効いていないようだった。今度は、2人の友人と私が身体検査と荷物検査を受けることになった。身辺には特に危ないものを持っていたわけではないので、速やかに検査を終えた。ところが、自分のリュックの中には漫画が入っていて、そこは漫画禁止の決まりがある建物のようで、友人の1人が私に小さな声で、漫画をどうにかした方がいいと述べた。なので私は列の後ろに行って漫画を取り出しどこかに置いておこうと思った。漫画をサッとリュックから取り出し、近くの机の引き出しの中にしまおうとしたところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2022/9/3(土)11:50
9047. 仏教と神道の時間感覚/「遊戯(ゆげ」と「稽古」
時間を円環的に捉える仏教の時間感覚と、始まりと終わりのない無限として捉える神道の時間感覚が自分の内側で同居している。始まりと終わりをどこにも定められない、あるいはどこにでも定められる円周上の上を絶えず循環しているような時間感覚が自分の内側に生起している。仏教や神道に特徴的な時間感覚は、社会現象とどのように結びついているのかの関心が芽生えてくる。
先ほど、ジークンドーの鍛錬と自重トレーニングを行った。自重トレーニングを1セット行うごとにジークンドーの接触法を練習し、自重トレーニングは合計で5セットほど行った。そのため、ジークンドーの稽古も随分と多くの技をカバーすることができた。次回のプライベートレッスンの際のランク2の試験に向けて、着々と稽古が進んでいる。ロビンさんが17年前に作った動画も参考にさせてもらい、日々技の精度が高まっているのを実感できている。今読み進めている書籍を読み終えたら、今日もまた箏の稽古を楽しもと思う。ジークンドーも箏の稽古も、仏教用語でいうところの遊戯(ゆげ)の境地を感じさせてくれる。そこでは何かの利得を求めて実践がなされるのではなく、純粋にその実践を楽しみ、実践そのものと化すという体験が起こる。そうした体験の中に日々絶えず身を置けていることを嬉しく思う。また、そのことに多大な感謝の念を持つ。ジークンドーの稽古も箏の稽古も、五感を活性化させ、美意識を涵養するという点で共通している。これが自分の心を育み、善意識の醸成につながる。そして、美的感覚と善意識を持って学術的な真理の探究に向かっている自分がいる。それはとても調和の取れた在り方なのではないかと思う。
ふと、「稽古」という語源が気になったので調べてみた。 何やら、「稽」は考えることを意味するらしい。なので、「稽古」というのは古くから伝わっている事柄を考えるという意味があるのかもしれない。それは武術、芸術、学術に通底する在り方だ。それらはいずれも先人の業績によって成り立っているのだから。自らの感覚と頭を持って、昔から伝承される事柄に当たり、それを今の自分や現代という時代に照らし合わせて体験現象を考えていくことが稽古の真義なのかもしれない。古き良き伝統に立脚しながら、その伝統を通じて得られた事柄を絶えず自分の感性と頭で解釈していくという意味での稽古にこれからも励んでいこう。フローニンゲン:2022/9/3(土)15:40
9048. 箏の稽古(21):様々な奏法を楽しんで/脱力に魂が宿る
時刻は午後5時を迎えた。今日もまた箏の稽古を1時間強楽しんだ。まずは、指ならをした後に、昨日学習した「すくい爪」の練習から始めた。その後、「流し爪」の練習に移った。この奏法は通称「か~らりん」と呼ばれるため、楽譜上では「カ」と表記される。その次に、流し爪と仲間である「引き連」を練習した。これは洋楽では「グリッサンド奏法」と呼ばれるものである。これら3つはさほど難しくないのだが、次に鬼門の「トレモロ」を練習した。これは洋楽では「トリル」と呼ばれる奏法であり、楽譜上でも「tr」で表記されることが多い。トレモロでは、まだまだ滑らかな音が出せず、時折ぶつ切りな音が響いてしまうため、基礎に立ち返り、原理原則的な奏法のコツをまずは掴みたい。おそらく今の自分は、爪の角が糸に並行に当たってしまっているため小刻みな音が出せていないのだろう。明日からは、爪の角を糸に対して直角に当てるようなイメージを持って稽古に励みたい。次に、改めて「押し手」を練習した。押し手には2種類あり、半音音程を挙げる「弱押し(ヲ)」と全音上げる「強押し(オ)」があるが、もっぱら楽譜に現れるのが弱押しの押し手なのでそれを練習していった。練習しながら気づいたのは、押し手をした後にすぐに手を離して次の音を演奏しようとすると、奇妙な余韻が残るので、弾き終えた後には少し待つか、次の弦を演奏したタイミングで離すかするように心がけようと思う。押し手において半音上がっているかを感覚で確認しているのだが、最初からそれをやってしまうと、きちんと半音上がっているのか曖昧なままにしてしまいがちなので、明日はチューナーを使って音程がきちんと半音上がっているかを確認したい。しばらくはその作業をして、半音上がる感覚を身体に覚え込ませたいと思う。そこからは、トレモロと同じく自分にとって難解な「引き色」という奏法を練習した。箏においては、余韻を変化させることが醍醐味の1つであり、引き色はその1つの奏法だ。解説文を読むだけとちんぷんかんであるが、一応記載しておくと、「ヒ」と記載されている対象の弦を弾いた後、左手で柱の左側の弦を握って、柱に向かって弦を引き寄せ、張力を緩めることで余韻の音程を下げ、その後に左手の力を抜いて音程を戻す、というものだ。目を閉じて、引き色の場合とそうでない場合を何度か実験してみてようやくその違いがわかる程度にしかまだ感覚が掴めていない。これもトレモロと同じく要練習である。
最後に、今日の演奏を通じて、ジークンドーと同じく脱力の重要性を感じた。雅楽も古武術と同じく身体操作に技の奥深さがあるはずだ。できる限り脱力を意識しながら明日からの練習を楽しみたい。脱力に本質という魂が宿る。無駄な力が抜けた後に魂が入ってくるのだ。フローニンゲン:2022/9/3(土)17:40
9049. 光の根源としての傷/良寛/客体視/麻薬としての宗教
傷にはひびがあり、光はそこに差し込む。そして光はそこから生まれる。光の根源には傷があるのかもしれない。
気がつけば、今日も夕方の時間を迎えていた。時刻は午後8時を回り、ここから1時間ほどかけて夕日が沈んでいく。今となっては午後9時になるともう随分と暗い。9月を迎えたからそれは仕方のないことかもいれない。来月の日本に一時帰国している最中に、欧州はサマータイムが終わりを迎える。日本から欧州に戻ってきてからは寒さと共に日が暮れる時間もめっきり早くなるだろう。
江戸時代後期の禅僧である良寛が自らを紅葉に喩えていたように、人は裏と表を見せながら生きていく。紅葉は表面を見せるだけでも、裏面を見せるだけでもなく、両面を見せながらはらはらと散っていく。人間もまたそのように表裏一体となって生きていく生き物だ。シャドーワークとは基本的に自らの裏面を見るものだが、深層的なシャドーワークは往々にして自らの光の側面にも気づかせてくれるため、表面を見せてくれるものだとも言えるだろう。
客体視というのは、心にスペースを設け、ゆとりをもたらすことに繋がる側面がある。客体視の本質は、決して自己や世界に対してよそよそしく距離を取ることなのではなく、ゆとりをもたらした上で自己と世界と深く繋がることにあるのだろう。相対主義的な客体視は道半ばなのだ。一回転して再び自己と世界に戻ってくるような客体視が必要なのだ。
麻薬としての宗教の否定的な側面だけではなく、麻薬としての宗教の肯定的な側面にも光を当てていく。前者は現実を捉える認識を歪ませる。一方の後者は認識そのものを超えて超越的なものを知覚させる。宗教の麻薬性についてはより深く探究していこう。確かに人々は宗教を盲信することによって現実を見誤る。一方で宗教の良薬としての麻薬性を活用するのであれば、現実をより明瞭に捉え、超現実を捉えることさえ可能にする。そんなことを思いながら、もう1時間ほど読書をしてから入浴をしたいと思う。フローニンゲン:2022/9/3(土)20:17
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