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9036-9042: フローニンゲンからの便り 2022年9月2日(金)



No.3968 無限の現れ_Emergence of Infinity


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1761, A Curtain of Morning Light

A curtain of morning light is now widely open.

Everything looks up at it.

We receive tremendous bliss from the curtain.

Groningen; 08:42, 9/2/2022

No.1762, A Noon Mystery

A noon mystery is now appearing.

The manifestation is rare.

I celebrate such a precious occasion.

Groningen; 13:22, 9/2/2022


No.1763, Eternal Light

Our existence is eternal light.

The light radiates forever.

Groningen; 14:23, 9/2/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9036. 今朝方の夢

9037. 今日の計画/今朝方の夢の続き

9038. 5冊の書籍を追加注文して

9039. 歴史法則の特性/遊びとしての武術・芸術・学術研究

9040. 遊びと神聖さ/遊びと戦争

9041. 憑依体質に感謝して/テクノロジー哲学の講座の開講に向けて

9042. 箏の稽古(20): 「すくい爪」「流し爪」「引き連」「トレモロ」の練習


9036. 今朝方の夢


時刻は午前7時を迎えた。今の気温は12度肌寒いが、今日は24度まで気温が上がるようだ。明日までは晴天だが、明後日は曇りとなり、明々後日からは雷を伴う雨が降る日々が続くみたいだ。秋の入り口に入ったフローニンゲンの季節の変動を実感する。


今朝方は、海外のプロサッカーチームのユースチームの練習に参加する夢を見ていた。練習の前に、今は亡き母方の祖母の家にいて、そこでゆっくりしていた。練習が始まる時間になると身支度を整え、出発に向けて準備を始めた。今日は練習初日ということもあり、身なりを小綺麗にしておこうと思った。髭を剃ろうと思って電動シェバーを使おうと思ったら、洗面台にそれがなく、どこにあるのかと探した。そこでふと、こちらの洗面台ではなく、もう一箇所の洗面台の方にそれが置いていあることを思い出し、シェービングクリームをつけたままそちらの洗面台に移動した。そして髭を剃ってさっぱりしたところで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、地元の「象鼻ケ岬(ぞうびがさき)」という象の鼻のような形をした岬の歩道を歩いていた。私の横には2人の中年女性がいて、彼女たちと話をしながら歩みを進めていた。そのうちの1人の女性が足が疲れたと言い始めたが、目的地までは後少しであることを伝え、足腰を鍛えることにつながると励ました。そこからは軽くジョギングをして目的地に向かった。すると、いつの間にか2人の女性は消えていて、私1人になった。そこでふと、これからマラソン大会に参加することを思い出し、スタート地点に向かった。スタート地点に到着すると、そこでエントリーをして、レシートをもらった。少し準備運動がてら近くをジョギングしようと思ってその場を離れた。すると、スタート地点がどこだったがわからなくなってしまい、しばらくジョギングをしながらスタート地点を探していると、先ほどと見かけは違うがもう1つ別のスタート地点があることを発見した。そちらのスタート地点に行って、受付で確認すると、そこもやはりスタート地点のようだった。先ほどもらったレシートを受付の女性に見せようとしたところ、別のレシートを出してしまい、改めて正しいレシートを探した。一旦列の横に外れてレシートを探していると、受付に態度と口の悪い中年男性が出てきて、彼が自分がレシートを探している様子を苛立って見ていた。ようやくレシートを発見し、彼に見せたとき、彼に一発ジークンドーの打撃をくらわそうかと思ったが、それはやめて、彼を無視するような形ですぐに控え室の方に向かった。そこではかなり多くの人が準備運動を含め、思い思いに時間を過ごしていた。そこで偶然私は外国人の友人を見つけ、彼に話しかけた。すると彼から、最近見て面白かったアメリカのテレビドラマについて教えてもらえた。彼がそのドラマの話をしている最中に、不思議とそのドラマが脳内で再現され、それを見る限りとても面白いドラマだと思った。話した言葉が形になったり、吐き出した唾が水鉄砲になったりと、一見すると荒唐無稽なのだが、それが面白く、コメディーの要素もあって是非一度試聴してみようと思った。彼と別れる前に、もう一度ドラマのタイトルを聞いて頭に入れておいた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/9/2(金)07:31


9037. 今日の計画/今朝方の夢の続き


鮮やかな朝日が空に浮かんでいて、輝きを地上にもたらしてくれている。書斎の窓から外を眺めると、先日までは青々としていた木々の花の中に紅葉し始めているものを見つけた。ここ最近は特に朝と夜に冷え込んでいてので、木々たちも秋の訪れを察知したのだろう。


今日は起床直後にどういうわけかトイレ掃除をした。いつもは部屋に掃除機をかけるタイミングでトイレ掃除をしているのだが、今朝方は朝一番にトイレを掃除しておきたいと思った。トイレ掃除をしてみると、気持ちが新たになり、朝の時間帯にトイレ掃除をすることの効能を実感した。今日は昼前に一件だけオンラインミーティングが入っているだけなので、その他の時間は自分の取り組みに専念できそうである。創作活動、読書、そしてジークンドーと箏の稽古が自分の中で大切な取り組みである。今日はブルーノ·ラトゥアーの書籍を読み始め、そして昨日届いたハイエクの師匠にあたるルートヴィヒ·フォン·ミーゼスの書籍を読み進めていこうと思う。昨日は随分とマウリツィオ·ラッツァラートの書籍を読んでいた。彼の英訳された単著は全て購入し、すでにそれらの初読を終えたが、共著の書籍もあるようなので、それらについてもこのタイミングで購入してしまってもいいかもしれない。8月の一括注文を終えたので、ここからは良著を見つけ次第購入していくというこれまで通りの書籍の注文の仕方をしていこう。今日は午後に、コーヒー豆と茶葉を買いに街の中心部の専門店に足を運ぶ。これまでは深煎りのコーヒー豆を選ぶことが多かったが、先日に中煎りのものを購入して飲んでみたところ、味がマイルドでなかなか美味しかったので、今回も中煎りの豆を2種類ほど購入したいと思う。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、もう1つ夢を見ていたことを思い出した。それはとても断片的なものだったが、せっかくなので書き留めておこう。夢の中で私は、見慣れないイギリス人の男性と話をしていた。確かに自分はアメリカ英語に長らく親しんできたが、イギリス英語が聴き取りにくいということはもはやさほどない。むしろ、イギリス英語の方が綺麗に響くことがあるぐらいだ。しかし、彼の英語は訛りが強く、理解できないところがちらほらあり、自分でもどうしたものかと思った。それはイギリスの地方の方言なので仕方ないと言えば仕方ないのだが、彼には自分があまり彼の話を理解していないと悟られないように、うまく相槌を打ちながら彼の話を聞いていた。そんな夢の場面があったことを、先ほどBBCのポッドキャストを聴きながら思い出した。フローニンゲン:2022/9/2(金)08:01


9038. 5冊の書籍を追加注文して


昨日いくつかの書籍を文献購入リストに加えた。そのうちの5冊を先ほど購入した。それらの書籍をまた次回の書籍の一括注文まで待つ必要はなく、今の自分が強く読みたいと思った本はその都度購入する方向性で今回も書籍を追加で購入した。先月は250冊以上の学術書を取り寄せたが、今月はそこまで注文することはもはやないだろう。とりわけ今月の中旬以降に書籍を注文してしまうと、来月初旬の日本の一時帰国までに受け取れないこともあるだろう。そうしたことから、今すぐにでも読みたいものはできるだけ早めに購入しておくことが賢明かと思った。先ほど購入した書籍のうち2冊は、イタリアの哲学者かつ社会学者のマウリツィオ·ラッツァラートの書籍である。それらの書籍を購入している際に、お勧めとして挙がってきた書籍を精査して見たところ、さらに2冊ほど資本主義とテクノロジーを絡めた良書が見つかり、最後の1冊としては金融危機を餌にして膨張する資本主義の性質について解説した書籍を購入することにした。書籍のお勧めを提示するアルゴリズムもあながち悪いことばかりではなく、むしろそうした表示をしてもらうことによって初めて出会える書籍があることを思う。やはりテクノロジーは毒薬と良薬の両側面を持っていることを忘れてはならない。推薦表示をするアルゴリズムを賢明に活用しながら、自分の研究分野を開拓していこう。


先ほど購入した書籍は下記の5冊である。


1.Wars and Capital

2.The Cybernetic Hypothesis

3. Experimental Politics: Work, Welfare, and Creativity in the Neoliberal Age

4. The Violence of Financial Capitalism

5. A Thousand Machines: A Concise Philosophy of the Machine as Social Movement


ここから昼前のオンラインミーティングまでは読書に励もうと思う。学術研究もジークンドーや箏の稽古と同じく、焦らず着実に進めていこうと思う。フローニンゲン:2022/9/2(金)09:01


9039. 歴史法則の特性/遊びとしての武術・芸術・学術研究


最近は歴史学的なアプローチを採用して、資本主義の歴史、テクノロジーの歴史、マネーの歴史、日本経済史などを探究している。その中で、歴史の中にある種の法則性を見出せるのだが、歴史における法則は物理学的な法則と性質を胃にしているように思う。例えば、重力の法則などはある意味不変的かつ普遍的に機能し続けるが、歴史上の法則はそうではなく、変化しうるものもある。ある時代まで当てはまっていた歴史法則が新たな時代には当てはまらなくなっていることなどよくあることである。もちろん、歴史法則においても今のところは不変的かつ普遍的に機能しているものもあるだろう。そのあたりの峻別が重要に思われる。その峻別ができていないと、無用に歴史法則に縛られたり、それを盲目的に信奉することを通じて思わぬ損失を被ることもあるだろう。物理法則と違って歴史法則に変動が見られるのは、やはりそれが社会的な産物だからだろうか。社会は複雑な生命体であり、何かの条件が変わればこれまで見せなかったような性質を見せる。そうした性質を生み出している法則性もまた複雑な要因の相互作用によって変動しうるという認識を持っておこう。これから様々な分野における歴史研究をしていく際には、法則性の可変度合いに注目したいと思う。


ルートヴィヒ·フォン·ミーゼスの経済学上の認識論的諸問題に関する書籍を読み終えた後、フローニンゲン大学での先輩でもあるヨハン·ホイジンガの書籍を読み始めた。ホイジンガの“Homo Ludens”はかつて日本語で読んだ記憶があるが、それは遠い昔のことであり、英訳版を購入して読み進めることにした。本書の中でホイジンガは遊びの5つの特徴を紹介し、それらの特徴を持つ遊びがいかに社会を豊かにする上で貢献を果たしたかを説明している。ホイジンガの遊びの定義を眺めていると、今の自分が従事している武術と芸術活動は、ホイジンガが述べる遊びに近しいものだということがわかる。その活動に従事している際には、非日常時空間に自分を誘ってくれることは遊びの特徴の1つを満たす。また、ジークンドーや箏の稽古そのものに金はかからない。確かに、どちらの実践も先生に師事してレッスンを受けることはあるが、日々の稽古は1人で行っており、そこには費用は一切発生しない。また、それらの活動に従事することが何か物質的な欲求を満たすわけではなく、むしろ精神的な欲求を満たすためにあるという点でもホイジンガの遊びの定義に合致する。そう考えてみると、自分が行っている学術的な研究もまた多分にホイジンガが述べる遊びの定義に合致しそうである。引き続き本書を読み進めていき、日々の遊びとしての実践活動をより有意義なものにしていきたいと思う。フローニンゲン:2022/9/2(金)10:13


9040. 遊びと神聖さ/遊びと戦争


ホイジンガの“Homo Ludens”を読みながら、遊びと神聖さの関係について考えていた。ひょっとしたら、人が生み出す神聖さは遊びから生まれるのかもしれない。ホイジンガ述べる遊びの定義を眺めていると、その定義に従った遊びは、神聖さをこの世界に降ろしてくる力を持っているように思う。非日常的な時空間の中に入る遊びを通じて、私たちは超越的なものとの出会いを果たし、その遊びが仮に創作活動と紐付いたものであれば、創作物には聖性が宿りうるのは納得がいく。また、物理的な欲求なしの混じり気のない気持ちで遊びに従事することによって、その純粋さが体現された創造物が生み出され、そこに聖性が宿るというのも合点がいく話である。遊びと神聖さの関係は引き続き考察を深めていきたい。


ホイジンガはフローニンゲン大学を卒業後、ライデン大学で教鞭を執っていた。ライデン大学の日本語·日本文化研究の質はオランダ国内において随一であり、ホイジンガが日本語と遊びを絡めて議論を展開していることの背後にはそのような事情もあるだろうか——江戸時代に、シーボルトが出島から戻った地がライデンであり、ライデン大学は世界初の日本研究の機関を立ち上げたと言われている——。いずれにせよ、日本語を用いた俳句や和歌には確かに遊戯性があり、それは以前から注目していたが、ホイジンガの論考を読みながら、また新しい発見があった。その発見事項を生かして、日々の日本語の活用においても、話し言葉·書き言葉を問わず、遊戯性を持たせるような試みに着手してみよう。


ホイジンガの洞察で興味深いのは、遊びと法律との関係を見出したことである。法律の世界における訴訟は、二者間(あるいは複数の関係当事者間)での競い合いがそこで行われており、こうした競い合いは遊びの定義の1つを満たしている。法律には生殺与奪権があるが、現在行われている訴訟の中には、茶番的な裁判があり、それはまるでゲームのように映ることがある。そのような裁判は、よく映画にもモチーフとして描かれているものだ。ホイジンガは芸術などの文化を豊かにする遊びについて言及するだけではなく、遊びと戦争の関係についても考察を加えている点は見逃せない。現在の軍事戦争や経済戦争はひょっとすると、遊びに起源を持ち、遊びの延長として行われている側面があるかもしれない。ホイジンガの遊びと戦争との結びつきに関する論考を丁寧に辿ってみよう。フローニンゲン:2022/9/2(金)10:39


9041. 憑依体質に感謝して/テクノロジー哲学の講座の開講に向けて


フローニンゲンの午後の世界はとても優しい。秋を感じさせる太陽の光が地上に降り注いでいて、風もまた秋を感じさせてくれるには十分である。今日はもうしばらくしたらコーヒー豆と茶葉を買いに出かけようと思う。その前にできれば書籍の受け取りをしたいものである。和書が数冊ほど届く予定なのだ。それを受け取ったら、先月注文した全ての和書を受け取ったことになり、あとは25冊ほど洋書を受け取れば全ての書籍を受け取ったことになる。


先ほど、自分にとって全ての探究活動も実践活動も等しく憑依の体験から出発していることを思った。その分野そのものやある学者や実践者に取り憑かれたかのようにして全ての活動が始まる。自分はおそらく憑依体質なのだろう。憑依の体験はいつも強烈な強度を持ってやってきて、その強度の強さゆえに探究も実践も強い情熱を持って行われる。この憑依体質にはとても感謝している。それがなければ今の自分はないと言っても過言ではないし、これからの自分もないと言えるだろう。これからも様々なものに憑依しながら、熱烈な情熱を持って日々の取り組みに従事したいと思う。


今後の研究についてふと閃いたことを書き留めておく。神学大学院に進学したら神道を核に据えて研究をしたいと思うが、日本的霊性を取り上げた研究をする際には、やはり鈴木大拙の論考は見逃せないだろう。ちょうど2年前に一時帰国した際には、鈴木大拙と西田喜太郎の記念館を訪れ、両者の文献を随分と購入していた。その体験はきっとこれからの神学大学院での研究につながっていたのである。確かに鈴木大拙は仏教者であり、神道に関心を持っている自分からすると中心として取り上げる人物ではないが、大拙の功績は非常に意義のあるものである。彼の研究成果をどのように自分の研究に取り入れていくか、その方向性についてぼんやりと考えていた。


この秋から冬から、テクノロジー哲学を正面から扱う講座を開講しようと思っている。そのためのテキストとして、今2冊手元にあり、そのうちのどちらかをメインテキストに据えようと考えている。1冊は、ルートリッジ出版から出版された“Philosophy of Technology”というものである。もう1冊は、オックスフォード大学出版から出版された“Introduction to Philosophy of Technology”というものだ。どちらの出版社も第一線級の学術書を扱っていて、上記の2冊の質はとても高い。そして、どちらも様々なテクノロジー哲学者を網羅的にカバーしている点が魅力である。それでいて英語がわかりやすいのも好感を抱く。これから再度両者の書籍を眺めて見て、事前教材としての音声ファイルをどれだけ作る必要があるのかを見積もりを立ててみようと思う。テクノロジー哲学を網羅的に扱う和書は未だ見たことがないことを考えると、今回の講座と取り上げるテキストは大きな意味を持つのではないかと思う。フローニンゲン:2022/9/2(金)14:55


9042. 箏の稽古(20): 「すくい爪」「流し爪」「引き連」「トレモロ」の練習


今日も充実した形で1日が終わりを迎えようとしている。時刻は午後9時を前を迎えていて、辺りはもうず随分暗くなっている。こうしたところからも秋の訪れを感じる。夕食を食べながら、ゴッホと日本の関係について紹介したドキュメンタリー番組を見ていた。ゴッホは自分に大きな影響を与えてくれた画家であり、彼と弟のテオとの間で交換された全ての手紙が収められた全集は、自分が持っている文献の中でも非常に貴重な文献である。ドキュメンタリーを見ながら、ゴッホの画家としての内面的成長は早すぎたのかもしれないということを思った。画家として活動した10年という短い時間の中に画風をあれだけ変化させていったということが、内面世界の早すぎる変容を物語っているように思えたのだ。ひょっとしたらゴッホが夭逝した理由の1つには、そうした尋常ではない速度での内的変容があったのかもしれないということを考えていた。


さて、今日もまた箏の演奏を大いに楽しんだ。今日は予定通り、「すくい爪」「流し爪」「引き連」という奏法を練習した。それぞれの奏法を個別に練習した後、それぞれの奏法が使われている曲を実際に演奏していった。「ロング·ロング·アゴー」というイギリスの作曲家トーマス·ヘインズ·ベリーが作曲した曲には「すくい爪」と「流し爪」が用いられている。そして、「思い出のアルバム」という懐かしの曲には、「すくい爪」と「引き連」が用いられている。それぞれの曲を楽しみながら練習した後、再び個別個別の奏法の練習に戻った。その時に「流し爪」と「引き連」においては、龍頭と平行にして弾く場合と弧を描くように弾く場合があり、それぞれに音色が異なることがとても興味深った。曲想に合わせてそれらの弾き方の使い分けができるようになっていきたいと思う。そこから今日はさらに欲張って、「トレモロ」という奏法を練習した。まだ小刻みなトレモロができていないので、ここから色々と試行錯誤をしていく必要がありそうだ。そうした試行錯誤という創意工夫の過程もまた楽器の演奏の楽しみである。トレモロの練習曲として、「アメイジング·グレイス」という非常に有名な曲を演奏していった。楽器の演奏と学術書の読み方、そして単語の覚え方が重なることがあり、1つの奏法を完璧に習得してから次の奏法に移行するというのはとても効率が悪い。というのも、演奏において完璧というものはそもそも存在しておらず、様々な奏法を学ぶ過程の中でその他の奏法の演奏力が相乗的に高まることがあるからだ。そうしたことからも、明日もまたいくつかの新しい奏法を学んでいきたいと思う。主体的に、とにかく楽しみながら箏の稽古を続けいきたい。フローニンゲン:2022/9/2(金)20:56

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