No.3932 朝光の蕾_A Bud of Morning Light
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1720, A New Revolution
A new revolution always occurs.
One revolution offsets another.
That’s why we don’t notice a new revolution.
Groningen; 19:50, 8/18/2022
No.1721, Perversion & Sanity
Perversion is normal in this modern society.
Sanity is insane in this world.
Groningen; 20:54, 8/18/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8939. 今朝方の夢
8940. 今朝方の夢の続き
8941. 資本主義と奴隷制
8942. 神話の記号論的分析:ロラン·バルトの“Mythologies”を読んで
8943. 箏の稽古(4):左手の奏法と「うさぎ」
8939. 今朝方の夢
時刻は午前8時を迎えた。昨夜は雨が随分と降り、今朝方も強い雨が降っていた。今は雨が止み、とても穏やかな世界が広がっているが、空にはうっすらとした雲がかかっている。フローニンゲンは今日から秋に入ったようで、今日の最高気温は21度までしか上がらない。今日は曇りがちの天気のようだが、雨は降らないようなので、午後にはジムに行くことを考えている。もし今日ジムに行かなかったら、明日にはジムに足を運ぼうと思う。このところサウナを控えていたが、今日か明日にジムに行った際にはサウナに入ろうと思う。
今朝方は印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、最初に勤めていた会社のオフィスにいた。その日はオフィスのフロアでイベントがあり、私は司会を担当していた。壇上で司会をし、イベントがいったん休憩に入った時、天井から突然何かが落ちて来た。見ると、天井にぶら下がっていたと思われるよくわからない物体だった。それが何の目的で天井にぶら下がっていたのかは不明であり、またどのようにぶら下がっていたのかもわからない形で3つほど部品が床に転がっていた。私はそれらを拾い上げ、自分が壊したわけではないが、修理をしようと思った。近くにいた上司に声を掛け、事情を説明したところ、上司は今から修理のために石膏を買いに行こうと述べた。なるほど、接着剤として石膏が使えるのか私は思い、上司には忙しいところ大変恐縮だが、店に一緒に行ってもらうことにした。すぐにオフィスを離れ、上司の軽車に乗った。そこでふと、「いや~懐かしいですね、この車」と私は思わず述べた。以前、上司にその車に乗せてもらったことがあり、その時の記憶が蘇って来たのである。その時の話を含め、車が出発してからは昔話を少しした。
店に向かっている道中、電気屋の脇を通り抜けようとしたときに、軽トラックが店の駐車場から出てこようとしていて、運転手はこちらを見ていないようだったので危ないと思った。上司もそれに気付いていたが、反対車線にはみ出すことを一切せず、まるで軽トラックに突っ込んでいくかのように直進した。すると、軽トラックの運転手がハッとしてこちらに気づき、何とかぶつからずに済んだが、私は内心冷や冷やしていた。一方の上司は涼しい顔をしていて、むしろ何もなかったかのような無表情をしていた。
気がつくと、石膏が売られているらしいお洒落な文房具屋に到着した。何とこの文房具は巨大な遊園地の中にあり、入り口付近の看板の店として存在していた。文房具屋に入ると、そこはあまりにも広く、上司とはぐれてしまった。なんとなく石膏があるエリアは想像できたので、そちらに向かっていると、左の方にレストラン街が見えた。私は何かに吸い込まれるようにしてレストラン街の方に向かって行った。するとそこで一度足を滑らせ、尻餅をつきそうになった。何とか手をうまくついて尻餅をつくことはなかったが、誰かに見られていたら少し気恥ずかしいと思った。立ち上がって再び歩き出すと、とても暗いレストランの中に入り、そこを抜けて行こうとした。そこには20mぐらいの細長い楕円形のテーブルがあり、それは真ん中が切り抜かれていて、そこに料理が並べられていた。そのテーブルを取り囲むように外国人の客が地べたに座っていた。客のうちの大半はアフリカ系の人たちであり、頭には見慣れないターバンやベールのようなものを被っていた。彼らは黙ってテーブルの空洞部分に置いてある料理を眺めていた。
店を出ると、突然の土砂降りに見舞われた。激しい雨を何とか折り畳み傘で凌ぎながらも、随分と濡れてしまった。観覧車脇のトンネルのような場所を抜けてようとしたときに上司と遭遇し、上司の手には石膏があり、上司が無事に石膏を見つけて購入してくれたのだと思った。本来は自分が支払いをするべきところを上司が代わりに支払いをしてくれたようであり、とても感謝した。昼時になっていたので、何か食べて行こうかという話になった。しかし私はオフィスですでに早めの昼食を摂っていて、焼きそばを食べていたことを思い出し、上司にそれを伝えた。すると上司はじゃあ昼食を食べることなく今からすぐにオフィスに戻ろうということになった。上司の車が止められている駐車場に向かう最中に、上司はふと、「ここだけの話、さっきオフィスで株の取引をしてたんだろ?」と尋ねられた。それは詰問ではなく、上司は優しい人だったので、口調はとても柔らかかった。上司の質問に対して、「いえ、さすがにオフィスで株の売買はしないですよ。売買の板と価格を眺めることはあっても、仕事中にオンライントレードをすることは倫理的に良くないことかと思います」と述べた。すると上司は何も言わず、少し笑みを浮かべていた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/8/18(木)08:33
8940. 今朝方の夢の続き
今日から6日間は、最高気温が25度に満たない日が続く。その後、9月に入るまでは、最高気温が26度や27度の日が続くようなので、そのあたりは少し暖かさを感じられるだろうか。いずれにせよ、30度に到達する日は2階の気温も上がるので、夏らしさを感じられるが、27度ぐらいまでしか気温が上がらないというのは暑過ぎずとてもちょうど良い体感をもたらしてくれる。8月の最終日からはぐっと気温が下がり、その日は22度までしか気温が上がらず、翌日からは20度が最高気温となる。今のところ9月に入ってすぐにアイスランドとアイルランドに行ってみようと思っている。旅の計画は、明日と明後日に詰めていき、各種の予約を土日の間に行っておきたいと思う。さて今日は、ゆっくりと読書を進めていき、学術探究に力を入れたいと思う。午後には休憩がてら、昨日の旅のセミナーに参加してくださった方々向けに、直近数日間で読んだ書籍を紹介するような音声ファイルを作成しようと思う。
先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、そう言えば続きがあることを思い出した。夢の中で私は、見慣れないカフェにいた。そこは欧州のどこかの街のカフェだった。より厳密には、欧州のどこかの街にある大学の中のカフェだった。雰囲気はとても良く、内装はお洒落であり、静かにクラシック音楽のピアノ曲が流れていた。自分の席の目の前には女性が座っていて、自分の席の真後ろに大学時代のサークルの友人が座っていた。彼は自分の真後ろに座っていたというよりも、彼の膝の上に自分が座っていたという方が正確である。どうやら目の前の女性も自分と同じ大学を卒業していて、入学年も同じということがわかった。彼女は今、中国とイスラエルでの学術研究を終えて、学者としての道を歩み始めたようだった。しかし、所属大学がまだ決まっていないようであり、今は無職の状態なのだと笑って述べた。彼女の話し方からすぐに、彼女は聡明な人だと思った。彼女の話を聞いている最中に、私はどういうわけか後ろにいる友人の太ももを握ったりしていた。思わず手が動き、彼の太ももを掴んだり、軽く叩いたりしていると安心するようだった。そのような夢を見ていたことを思い出す。
1つ前に見ていた夢は遊園地が舞台になっていて、遊園地が夢のシンボルとして立ち現れるのはとても珍しいことだと改めて思った。また、その夢の最後に出て来た株取引の話は何を象徴しているのだろうか。そうしたことを含め、書き出した夢の意味についてはさらに考えを巡らせてみようと思う。フローニンゲン:2022/8/18(木)08:58
8941. 資本主義と奴隷制
時刻は午後2時を迎えようとしている。今日は早朝から涼しさで満たされていて、今の気温も肌寒いぐらいである。夏がひと段落し、季節は秋に向けての準備を始めているようだ。
午前中から今にかけて、テクノロジー哲学に関する書籍と資本主義に関する書籍の合計3冊ほどの初読を終えた。先日注文した和書と洋書を合わせると210冊以上の書籍が今続々と到着しており、今日も2冊ほど受け取った。そして夜にはまだ10冊ぐらいの書籍を受け取ることになっている。それらの書籍の初読を今毎日行っている。先ほど読み終えた書籍は、資本主義と奴隷制度に関するものだ。資本主義の歴史を振り返ってみると、18世紀頃からの資本主義の隆盛の背後には、黒人奴隷の存在が基盤としてあった。実は現在における資本主義も奴隷を基盤にして成り立っていることには変わりなく、今は黒人奴隷の代わりに、全ての労働者がある種の奴隷として存在していることをその書籍は指摘している。この論旨はすでに広く知られたことだと思うが、改めてバブル崩壊後の新自由主義的な資本主義へ舵を切った日本の様子を見ていると、その主張がより説得力を増す。そしてこの主張はビョンチョル·ハンの主張と多分に重なる。現代の資本主義の根幹には自己責任論があり、賃金労働者は自分への教育にせよ、子供の教育にせよ、それらを賃金の保証と向上のための投資として行うことを迫られ、仮にそれを行うことを怠ったり、教育的投資が失敗すれば、全て自己責任という名の下で片付けられてしまうのが現代社会の1つの特徴である。ここで労働者は、教育へ投資する者としての資本家的性質を得るが、過度な自己責任論に基づく自由競争的な社会の中で、多くの労働者はその敗者になり、社会の隅へ追いやられる。格差も貧困も自己責任論と自由競争で片付けられてしまうことに対して、倫理観と道徳心が極めて希薄になってしまった社会の姿を見る。そのような社会の姿を見ていると、ルソーがかつて述べていたことを思い出す。「文明化の進展は、人間性が老衰していく歩みである」とルソーは述べており、人類はどうやら良薬としての文明化の進展を成すことに失敗し、毒薬としての文明化の歩みを邁進してしまったようだ。フローニンゲン:2022/8/18(木)14:09
8942. 神話の記号論的分析:ロラン·バルトの“Mythologies”を読んで
昨日読み進めていたロラン·バルトの“Mythologies”という書籍について改めて振り返っている。今後、神話とイデオロギーの違いとその関係性について考えていこうアイデアが芽生えた。そこから改めて本書を紐解くと、本書で一番興味深く読んだのは、131ページからの現代の神話に関する内在性質と構造に関する分析の箇所である。それまでのページには個別具体的な事例が非常に短い文章で取り上げられていて、それはそれで面白いが、今後現代社会の神話を分析していくためには、本書の末尾の“Myth Today”の箇所が最も参考になるのではないかと思う。とは言え、前半の個別具体的な事例を取り扱う箇所も洞察に溢れていて、例えば冒頭の3ページから始まる“The World of Wrestling”という章においては、プロレスとボクシングが対比されていて大変興味深かった。端的には、現代の政治や社会運営は、ボクシング的ではなく、プロレス的なのだ。例えば、先般の台湾を巡る米中の問題にせよ、その背後にはプロレス的に各種のプレイヤーが重要な決定事項や談議を秘密裏に行なっていて、私たちがニュースで見る事柄の大半はプロレス的な茶番なのである。バルトの論考をもう少し詳細に辿ってみると、バルトは神話作用を記号化して分析し、その構造的特性を紹介している。プロレスにおいては、観客はどちらが勝つかという最終的な帰結を知った上で、レスラーの技の掛け合いを楽しむ。重要なことは、結局どちらが勝つかは事前に決められたことなのだが、観客はその帰結を忘却することが大事であり、忘却しながらその場で繰り広げられる茶番劇を楽しむことが求められる。一方ボクシングは、どちらが勝つかなどは八百長でもない限り観客にはわからない。プロレスは予定調和的に事が進められるが、ボクシングのような格闘技ではそうはいかないのだ。バルトの興味深い記号論的分析は、プロレスの技をシニフィアン(能記:記号表現)と捉え、勝利という意味的帰結をシニフィエ(所記:記号内容)と区分していることだ。神話が作用するためには、シニフィエを忘却することが重要であり、シニフィアンに人を縛る必要がある。プロレスにおいて言えば、どちらが勝つかは事前に決められているので、勝利という帰結を忘れる形で、茶番的技の掛け合いを楽しむが、ボクシングにおいてはどちらが勝つかわからない状況の中で、勝利という帰結に向かってのプロセスを絶えず意識しながら観戦をする必要があるゆえに、ボクシングには神話作用が働かないというバルトの分析は興味深い。現代社会の様々な事例や国際政治の現場で起こっていることにこの分析の観点を当てはめてみると、これまで見えていなかったことが色々と見えてくるのではないかと思う。フローニンゲン:2022/8/18(木)15:36
8943. 箏の稽古(4):左手の奏法と「うさぎ」
時刻は午後5時半を迎えた。今朝は早朝に雨が降っていて、曇りがちな1日だったが、夕方からは晴れ間が顔を覗かせ、今は優しげな夕日が微笑んでいる。夕方に買い物に出かけ、そのついでにおもちゃ屋に立ち寄り、日本から届けられた和書を受け取った。まだ箱を開封していないが、おそらくは先日注文した福田徳三先生の書籍や、寺西重郎先生の日本型資本主義に関する書籍、そして蓼沼宏一先生の厚生経済学に関する書籍が届けれたのだと思う。夕食後に開封し、到着日の記入をしたい。
さて、先ほどはジークンドーの鍛錬を行い、その後に箏の稽古をした。毎日少しではあるが、必ずジークンドーと箏の稽古をしていると、日々の充実感が増している。武術と芸術の双方の鍛錬を毎日行っていると、片方の実践では生み出されないような治癒·変容効果が自分の内側にもたらされているのを感じるのである。これまでは確かに作曲実践を行なっていたが、楽器を演奏するということはなかったので、武術の鍛錬と合わせて楽器の演奏も行ってみると、どこかお互いに親和性があり、シナジー効果をもたらしているように感じる。そう言えば、ロビンさんもまたジークンドーのトレーニングだけではなく、ギターの演奏をしていることを思い出した。武術と芸術には深層的に深いつながりがあるのだろう。
さて、今日の箏の稽古に関して記録をしておくと、指の動かし方の基本的な動画を視聴しながら音を出していった。今日は左手の奏法についても動画を通じて学んだ。こちらに関しては想像以上に種類が多く、まだほとんど左手が使えない状態だが、左手の奏法の全体像を知れたことは良かったことである。明日もこの動画を見ながら、左手の奏法に親しんでいきたい。ここ数日間は、とにかく「さくら」に絞って練習をしていた。今日は新たに、「うさぎ」の曲を練習し始めた。明日からは、「さくら」と「うさぎ」を課題曲にして練習を楽しもう。正直なところ、すでに購入した楽譜を眺めて演奏をしようと思っても全く持って歯が立たず、それらの曲に取り掛かるのはもっと先のことだろうと思った。今はとにかく焦らずに、基本的な指の動かし方を含め、奏法を1つ1つ丁寧に学んでいきたい。稽古の仕方はジークンドーと同じく、基本を大切にして、それを磨き上げながら積み重ねていくことである。これは全ての学習と実践に通じる王道的原理である。明日の稽古もまた楽しみだ。明日に楽しみが待っていると展望しながら1日を終えられることの有り難さに感謝したい。フローニンゲン:2022/8/18(木)17:42
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