No.3873 ストックホルムの優しさ_Tenderness of Stockholm
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1678, Soft Morning Light
Morning light is very soft this morning.
It is caressing the world.
Groningen; 11:18, 7/29/2022
下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。
本日の3曲
全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。
楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。
タイトル一覧
8835. 今朝方の夢
8836. 7年前の日記と32年前の父の文章から
8835. 今朝方の夢
時刻は午前9時を迎えた。今、微風が世界に顕現していて、それが木々の葉をそっと揺らしている。今日は少し雲が空全体を覆っている。雨雲はなく、朝日も雲の層を通り抜けて地上に幾分降り注いでいる。
今朝方は、スペインかポルトガルの町にいる夢を見ていた。そこで見知らぬ日本人の男女2人と一緒に宝探しをしていた。その町には貴重な骨董品が至る所に眠っていて、それを探していくことを3人で行っていたのである。それに従事しながら、2人とは色々と話をしていた。生い立ちのことや今の仕事のことなど、およそありとあらゆることを語り合いながら、のんびりと宝探しをしていた。宝物はゆっくりとだが着実に見つかっていき、しばらくしたところで街中のカフェに行って、ダブルエスプレッソでも飲んで寛ぎたいと思った。そこで夢の場面が変わった。
次の夢の場面では、私は迷宮の中にいた。迷宮と言っても、作りは町であり、町の中が迷宮のように入り組んでいたのである。町の雰囲気からすると、それはレイキャビクかダブリンのように思えた。直感的に、アイスランドの首都のその町か、アイルランドの首都のその町のような感じがしたのである。この迷宮に関しても、焦って脱出しようとする必要はなく、落ち着いて歩いていけばきっと脱出することができるはずだと心の中で思いながら歩いた。すると、案の定、無事に迷宮から脱出できた。今朝方はそのような夢を見ていた。
今日は正午からオンラインの説明会がある。その30分前から事前打ち合わせをすることになっている。それまでの時間は読書に充てたいと思う。その前に、いくつか目を通しておく資料があるので、そちらをまず見ておこう。午後からは、アントレプレナーファクトリーさんと一緒に行っている学習コミュニティーのADITIに関して、昨日セッションがあったので、そのアーカイブ動画を見て、必要に応じて音声ファイルを作成していきたい。フローニンゲン:2022/7/29(金)09:20
8836. 7年前の日記と32年前の父の文章から
時刻は午後3時を迎えた。先ほどまでオットー·ラスキー博士を迎えるプログラムに関するオンライン説明会があり、それに登壇していた。そして、その前後に、アントレプレナーファクトリーさんの学習コミュニティであるADITIのセッションのアーカイブ動画を視聴していて、それに対する補足の音声ファイルを9本ほど作っていた。今日はそのような形で時間を過ごしていた。そして先ほどからは、リープラジャパンさんの内面探求ワークであるIFD(Intensive Foundation Design)の実施に向けて、関連資料を読んでいた。このワークの実施にあたり、特に0歳から3歳までの記憶を自分で辿ることは難しかったので、昨日早速父と母に個別にメールをしたところ、母からは早速、自分が知らなかった自分らしさのエピソードについて教えてもらうことができ、それをIFDの実施に向けた記入シートに書き込んでおいた。このように、幼少期の自分の記憶を自分だけで遡ろうとすると限界があるので、特に身近にいた両親に色々とエピソードを尋ねてみることはとても有益だと思った。ここから夕食に向けて、関連資料としてもう1つ読んでおきたいものがあるので、それに目を通しておこうと思う。ワークシートへの記入は特に明日時間を取って行いたい。このIFDの実施にあたって、過去の日記を少し読み返してみたところ、今から7年前の日記で興味深いものを見つけた。そこでは父との関係性と父にまつわる思い出について言及していたのだが、父が33歳の頃に書いた文章が、今の自分の文体を彷彿させるようなものになっていて、感性としても父から受け継がれたものが多分にあることが窺われた。備忘録がてら、その時の日記を再掲しておきたいと思う。
*****2015年1月25日の日記*****
今回一時帰国した主な理由は、私がアメリカにいる間に日本から支えて下さった方々へ挨拶回りをするということでした。しかし、最大の理由は、今人生において大きな精神的課題に直面している父と私が腰を据えて対話をするということでした。今自分の人生のこの瞬間において父に伝えておかなければならないことがあり、それを伝えに今回日本に帰ってきました。自分の中でこれを伝えなければ、私だけではなく父の精神の縦糸が乱れたままにお互いの人生が過ぎていくと思ったのです。
海外で生きていくことを決意すると、「親の死に目に会えない」というのは正にそうであり、昨年父方の祖父が亡くなった際も、私はニューヨークにいることしかできず、「お祖父ちゃんがニューヨークの空から見守っているから」という母の言葉を胸に、その時に私が唯一できたのは、ニューヨークの夜空を眺め、祖父と過ごした日々を回想することだけでした。
今日、埼玉の祖父のお墓参りに行き、帰宅後、祖母から一冊のノートを渡されました。そのノートは、私の誕生日や事あるごとに手紙を送ってくれた祖父が書いた手紙の草案でびっしりと埋まっていました。その草案と祖父·父·私の3人が映った写真を見て、私は涙が止まりませんでした···。そんな私に祖母は、「洋平くん、こんなものも出てきたよ」と手渡してくれたのは、1990年に教育報道社から出版された「月間家庭教師」という雑誌でした。
折り目のついたページを開いてみると、東京帝国ホテルにて父が誇らしげに表彰されている姿がそこにあったのです。由緒ある東京帝国ホテルにて父は、北海道から沖縄まで約1400人の方が応募した「21世紀の子どもたちに「夢」と「希望」を与える《創作絵本コンテスト》」の最優秀賞を受賞したのだと、その記事を読んで知りました。
当時33歳の父は、25年前の表彰式の後、記事の中で下記のようなことを述べていました。
*****
雲のようにフカフカな分厚い絨毯とどこまでも高い天井。そして、上気と緊張で霞んだ我が目に映るのは、湯川スミさんやコロンビア·トップさんを始めとした各界の著名な方々ばかり。
その日、帝国ホテル孔雀·西の間は、私にとって、途轍もなく深遠な宇宙だった。
【夢見心地から感激·感動】
司会の隅部まち子さんのアナウンスに導かれ、私は、壇上に溢れる光の束の中に吸い込まれていった。
目が眩むほどに明るいスポットライトと会場を包み込む拍手の渦。ふと気が付くと、にこやかで優しいふくろう博士の前に、私は立っていた。
その時、私は、この受賞は本物のファンタジーではないかという錯覚に捕らわれた。このまま、宇宙に飛び出せそうな、そんな気がした。
ふくろう博士からどのように表彰状·トロフィー·賞金を頂いたのかも、また、水島裕さんのインタビューに何を答えたのかも覚えていないし、大画面で私の絵本がスライド上映されたときですら、ほとんど上の空だった。
夢見心地が収まって、感激·感動に変わったのは、騒然とした帰りの電車の中だった。「俺は、本当に、1363編の頂点に立ったのだ。しかも、これ以上はない素晴らしい舞台で」
私は、胸の鼓動がどんどん高まっていくのを感じた。
翌日は、前日の感激·感動を連れたまま禁多浪クラブのラジオ収録。憧れのふくろう博士と直接お話がしかも40分間にわたってできたなんて、今、思い出しても夢のようだ。ともかく、ファンタスティックでエキサイティングな日々だった。
【お父さん、僕の絵本描いてよ】
私が、絵本を描き始めたのは、ちょうど1年半前。当時3歳の誕生日を迎えた息子(洋平)がクレパスが欲しいと言うので、デパートに買いに行ったところ、隣に透明水彩絵の具を見つけた。懐かしさの余り、パレット、鉛筆三本、スケッチブックとともに、衝動的に買ってしまった。
翌日、奥多摩にバーベキューに行った際、写生をしたところ、洋平が「お父さん、絵が上手だね、僕の絵本を描いてよ。」と言うのだ。
仕事に追われ、洋平とのコミュニケーションが不足しがちだったことを反省していた私に、その一言は雷鳴のように響いた。
多分、洋平から、クレパスを買ってよと言われなかったら、あるいは、僕の絵本を描いてよと言われなかったら、この感動は味わえなかっただろう。
私に、絵本の世界の素晴らしさとこの感動を与えてくれた洋平と私を支えてくれた妻に、心から感謝している。
【忘れ得ぬ人生の一ページ】
「21世紀の子ども達に夢と希望を」これが、今回の創作絵本コンテストのテーマだったが、一番夢と希望を与えてもらったのは、私自身ではないだろうか。
この感動を胸に、今後とも、洋平のために、そして、できれば世界中の子ども達のために、一つ一つ地道に絵本を描き続けたい。
いつまでも、子ども心を忘れずに、夢とロマンを追い続ける夢追人でいたい。
最後になってしまいましたが、私に生涯忘れえぬ人生の一ページを下さった日本家庭教師センター学院ならびに禁多浪の会の、今後ますますの御発展をお祈りいたします。
*****
今日のこの日まで、3年前にサンフランシスコの坂道を下っている時に突然天空から受けた啓示的なメッセージは、当時の私の精神が錯乱していたからだと思い込んでいたのですが、1990年に父が私に送ってくれたこのメッセージと時空を超えて結びついた結果だったのではないかと強く思ったのです。これから私は、29年間伝えられなかったことを伝えに父のところに行こうと思います。私が自分の思いを心の底から伝えることができた時、そこにお互いにとっての救済がもたらされ、父と私は新たな人間として生まれ変わり、残りの人生を再度足取り強く歩み始めることができるのではないかと信じています。
********
そのようなことを7年前の日記で綴っていた。引用した父の文章は、今からもう32年ほど前のものになる。改めてそれを読むと、当時の父の思いがひしひしと伝わってきて、なんとも言えない感動に包まれる。同時に、「文体は人となりを表す」とよく言われるように、父の文体は父の人柄を表していながらも、どこか自分と重なるものを見て取ることができる。ここに強い血の繋がりを感じる。仮に自分にも子供ができたら、この日記そのものをどんな気持ちで読むのだろうか。そこに家族の深い繋がりを感じてくれるだろうか。血の繋がりを超えて、そこには精神や魂の繋がりが確かにある。そんなことを感じてもらうことができたら、この日記を書き残しておいた意義が多少なりともあったと言えるのではないかと思う。フローニンゲン:2022/7/29(金)15:34
コメント