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8674-8680: フローニンゲンからの便り 2022年6月27日(月)



No.3761 カウナスの宇宙_The Universe of Kaunas


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1643, JKD for Me

Since yesterday’s martial arts training, my body and mind have regained full of energy.

JKD training is one of my important practices to activate and rejuvenate my body, mind, and soul simultaneously.

Groningen; 10:14, 6/27/2022

No.1644, Existence as an Alchemist

The existence is passion.

The existence is an alchemist.

It accepts pain and transmutes it into active energy.

Groningen; 10:59, 6/27/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8674. 今朝方の夢

8675. 今朝方の夢の続き/アムステルダム空港の混雑の影響を受けて

8676. アムステルダム空港の混雑の状況/武術的接触の効能

8677. 武術と他者性

8678. 執筆と受苦と情熱/「免疫獲得時代」の中で

8679. ジークンドートレーニング114:昨日の復習を意識して

8680. 中国の模倣文化の背後にある思想に触れて


8674. 今朝方の夢


時刻は午前7時を迎えた。今朝は昨日以上に涼しい。空は曇っていて、どうやら昨夜には雨が降ったようだ。そして今日は、昼過ぎぐらいから雨が降り始め、夜まで雨が降るようだ。そのおかげか、今日は最高気温が19度までしか上がらず、最低気温は11度である。日本はもう梅雨明けをしてとても暑いという話を聞いたので、東京の気温を調べてみたところ、どうやら東京の今日の最高気温は35度、最低気温は25度らしく、フローニンゲンとは随分違うことがわかる。どうやら今年は歴史的に見ても非常に早い梅雨明けだったようだ。天気について書き留めたところで、ふと今朝方の夢について思い出した。今朝方は2つほど感動する夢を見ていて、そのうちの1つとその他の場面を覚えている。夢の中で私は、実際に通っていた中学校の教室にいた。生徒は全くおらず、私と1人の赤ちゃんだけが教室にいた。私は教室の左端の一番後ろの席に座っていて、赤ちゃんを抱き抱えながら世話をしていた。すると、教室に1人の見慣れない女性が入って来た。どうやらその女性は、小中高と付き合いのある女性友達(NI)の母親であることがわかり、その女性は私に、「そんな娘を可愛がってくれてどうもありがとう」と突然述べた。私はその赤ん坊がまさか彼女だとは知らず、何か無性に世話をしたいと思ったので可愛がっていたのである。また、彼女の母親の「そんな娘」という言葉に引っ掛かり、話を伺うと、彼女は不治の病を抱えていて、それは移るようなものではないが、大抵の人はそれを知ると、娘を抱っこしなくなるとのことだった。私はとてもいたたまれない気持ちになり、こんなにも可愛い赤ちゃんをなぜ人々が可愛がらないのか不思議だったし、逆にそうした偏見を持って接する人に対して義憤のようなものが芽生えた。相変わらずその赤ちゃんは笑顔でこちらに向かって微笑んでおり、私が背中をさすると、とても気持ちよさそうにして、嬉しそうにはしゃいでいた。その姿を見て、友人の彼女である赤ん坊をとても愛おしく思い、ふと感動の涙が溢れて来た。私は涙を流しながら、ずっと彼女の背中をさすっていた。そのような場面があった。


実際にはもう1つ感動の涙を流す夢があったのだが、それについては覚えていない。しかしそれ以外には、テストを受けている夢の場面があった。映画館のような場所に行くと、そこにはいくつもの部屋があり、小中高時代の友人(SN)と一緒に幾つかの部屋を回ってみた。外国人の女性が宝石と観光地に関するプレゼンをしている部屋があったり、最近公開された日本のアニメ映画を上映している部屋があったりと、各部屋でそれぞれ行われていることが違った。友人と私はどの部屋に入るかを悩んだ。いずれにせよ、すでにプレゼンや映画の上映が始まっている部屋に関しては、途中から入りにくいかと思ったので、どこか入りやすい部屋を探すことにした。すると偶然、まだ何も始まっていないような部屋があったのでそこに入った。どうやらその部屋では、これから大事な資格試験が始まるようだった。ひょんなことから私はその試験を受けてみようと思い、友人はその部屋からすぐに去ったが、私は残ってその試験を受けることにした。座席の配置が変わっていて、4人で1つのテーブルを囲む形で受験者が着席した。私の真ん前には中年の男性がいて、試験が始まると同時に、彼は問題文を大きな声で読み上げた。私はあまり気にしなかったが、それが他の2人にとっては迷惑だったらしく、2人はその男性に声を出して問題文を読むことをやめてもらうようにお願いした。すると男性は渋々声を出すことをやめて、大人しくなった。そこから私は第1問の問題に取り掛かった。第1問の問題はなんと、「この問題を時始めた時刻とそこからちょうど1時間後の時刻を記入せよ」というものだった。なんと簡単な問題かと思ったが、どういうわけか私を含めて全員が、何度も記入しては消すということをしていた。問題を解き始めた時間などいつでもよく、そこから1時間を計算するなどいとも簡単なことのはずなのだが、どういうわけか自分が記入した答えに違和感があり、その違和感が消えるまで解答を消しては書くということを繰り返していた。フローニンゲン:2022/6/27(月)07:21


8675. 今朝方の夢の続き/アムステルダム空港の混雑の影響を受けて


時刻はゆっくりと午前8時に近づいている。まだ雨は降っておらず、午前中は天気が持ちそうだ。朝の涼しげな雰囲気と静けさがとても心地良い。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、その後、その他の夢についても思い出した。夢の中で私は、大海原に浮かぶ船の上にいた。その日は晴れており、海の上は穏やかだった。すると、少し大きな船がこちらに近寄って来た。その船は一見すると普通の船なのだが、なんと中から幼少期に見ていたアニメの悪役が数人出て来た。彼らは地球人ではなく、いずれも尋常ではない力を持っていた。ところが船の上の彼らはお互いに争い合い、いずれも傷ついていた。それを見た私は、彼らにエネルギーを分け与えて彼らを回復させようと思った。こちらの船からあちらの船の上にいる彼らにエネルギーを送ると、彼らは見違えるように元気になった。するとどうやら、彼らはお互いに戦い合っていたのではなく、ある1体の強敵と戦っていたようだった。元気を取り戻した彼らは、私の存在には気づいていないのか、すぐさまその強敵のところに向かって行った。そのような夢の場面があった。


昨夜メールを確認した時に、今から2週間後に迫ったスウェーデン旅行の行きのフライトに関するキャンセルの連絡があった。先日カウナスにいる時に、アムステルダム空港のセキュリティーが混雑し、大行列ができているというニュースを見かけたのだが、どうやらその状態がまだ改善されていないようで、コペンハーゲン行きのフライトがスケジュール変更になったのである。面倒なことになったなと思い、良さげなフライトをまた見つけないといけないのかと思ったが、KLM側が自動的にフライトを変更してくれていて、そのフライトを見ると、当初予定していたフライトよりも2時間ぐらい遅めの便であり、全く問題なかったので一安心した。むしろそちらのフライトの方が空港のラウンジでゆっくりできるし、仮に2週間後もまだセキュリティーが混雑している状態が続いているのであれば好都合かと思った。いずれにせよ、コールセンターに電話をしてフライトを変更する必要がなく、面倒がなかったので助かった。そんなことが昨日あり、スウェーデン旅行も気づけた2週間後に迫っていることに驚く。今回は10泊ほどスウェーデンに滞在するので、十分に当地を楽しめるかと思う。アムステルダムのスキポールの混雑の問題は、コロナによって空港職員を解雇したことと、現在旅行客が大幅に増えていることの差分で問題が発生しているとのことだ。この問題の早期の解決を祈る。フローニンゲン:2022/6/27(月)08:04


8676. アムステルダム空港の混雑の状況/武術的接触の効能


今改めてアムステルダムのスキポール空港について調べてみると、セキュリティーの混雑の問題は相当に深刻らしく、オランダ政府の意向によって、この夏の期間はフライトの本数を減らすという措置を講じすることにしたらしい。ところが、各種航空会社は空港の利用料を支払っていて、フライトの本数を勝手に減らされるのは困ると抗議をしているらしい。4月にも同様の問題があったようだが、バルト三国に旅行に出かけた時にはセキュリティーが混雑するという問題はなかったように思う。いずれにせよ、本日時点ではまだまだ空港の混雑は収まっておらず、連日空港の外にまで人がはみ出す形で長蛇の列ができているようだ。今から約2週間後のスウェーデン旅行まで、空港の状態は注視しておこう。もし出発の日まで空港が混雑し続けているようだったら、当日は随分と早めに出発しなければいけないかと思う。幸いなことは、すでにスケジュール変更になったフライトが14時のものなので、全く早くないことである。また、オランダ政府によってフライトの本数を減らすという処置によって、空港の混雑も出発日までには随分と収まっているのではないかと思う。いずれにせよ、セキュリティーでは少し並ぶことも覚悟しておこう。空港スタッフの削減により、新たに再雇用に向けた動きも出ているようだが、一度離れた空港に戻ってくることを嫌がる人が多いようだ。コロナによって突然解雇され、空港の混雑によってまた戻って来て欲しいというのは、確かに虫のいい話である。空港スタッフの増員が難しいという判断からフライトの本数を削減するという処置を講じたらしいが、やはりそれは抜本的な解決策になっておらず、今後も同様の問題に見舞われるのではないかと思う。抜本的な問題解決をせず、表層的な手段を講じて同種の問題が何度も立ち現れるというのは、現代社会の種々のところで見られる文明の病のようなものなのかもしれない。


昨夜、改めてロビンさんとのプライベートセッションについて振り返っていた。ジークンドーの稽古の最中は、肌と肌の触れ合いが自然と行われるのだが、その接触がまた武術トレーニングの魅力かと思った。もちろん、サッカーやバスケのように接触が行われるスポーツはあるが、武術における接触はスポーツと異なり、生きるか死ぬかがかかった接触である点が特徴的である。緊張感のある接触を経験すると、自分の中の生存本能のようなものが活性化され、それが生命力の活性化につながっている感覚を昨日改めて持った。ロビンさんとのセッションの後はいつも、脳と全身が蘇るような感じになり、もちろん稽古の最中にアドレナリンが分泌されているからなのだろうが、それ以外にも、接触を通じた何かの刺激を得ていることが想像される。これからも引き続き、武術鍛錬の意義や価値について考察を進めていきたいと思う。フローニンゲン:2022/6/27(月)08:31


8677. 武術と他者性


そこに確かに自分ではない他者がいるという感覚。他者と対峙しているというその実存的感覚。おそらく、ジークンドーを含めた武術鍛錬の中に内包されている現代的な意義や価値の1つはそれなのではないかと思う。他者性が崩壊し、他者を見出し、他者を感じる取ることが難しくなって来た現代社会において、武術的鍛錬がもたらす他者との出会いと、それを通じた自己の存在規定感覚というのは非常に重要な意味を持っているように思う。目の前に自分ではない他者がいて、それと真剣に向き合うことによって、他者が肯定的な意味での否定性を発揮し、それは「自分ではない何者か」の存在をこちらに感じさせる。それを通じて自己は、自らが何者であるかを知るというきっかけになる。ビョンチョル·ハンが指摘するように、病理的なナルシシズムは、自己と他者との間に境界線がなく、全てを自己に取り込もうとする。一方、健全な自己愛は、適切な境界線というものが自己と他者との間に引かれていて、他者の固有の存在を尊重しながら、同時に自分のこともまた尊重する。武術の稽古の現場においては、健全な境界線の線引きがなされるのと同時に、熟達すればするほどに、病理的な境界線の溶解現象ではなく、ある種エロス的な形での、すなわち脱自的な形での境界線溶解現象が起こる。その時に、目の前の相手はもはや敵ではなく、自己そのものであることに気づく。繰り返しになるが注意としては、この現象と病理的なナルシシズムの境界線溶解現象をきちんと区別することである。ケン·ウィルバーの言葉を借りれば、そこでは「前超の虚偽(前後の混同)」が生じる危険性があるのである。言い方を変えれば、病理的なナルシシズムにおいては、単に自己と他者が未分化な状態であり、適切な分化を経ていない。病理的ナルシシストには、他者との分化をするための能力がないのである。一方で、武術の熟達者が見せる自他の一致現象とは、自己と他者の分化を経ての融和の状態であり、両者は次元が全く違う現象なのである。昨日のロビンさんとのセッションを振り返ってみた時に、ロビンさんと自分との間に、自他の境界線を超えるような瞬間が見られ、その時にはロビンさんが決まって、「見事!」というフィードバックの声を掛けてくれたのを思い出す。おそらくその瞬間にこそ、ブルース·リーが指摘するところの誠実·真正な自己表現ないしは自己顕現が実現されていたのだと思う。それは技の威力云々ではなく、その瞬間にはそれしかないという誠実かつ真正な表現の実現がなされたということなのである。そのような瞬間があったなぁということをふと思い出す。ここからはジークンドーの鍛錬を通じて、武術と人間発達や、武術と現代社会さらには現代文明について考察を深めていきたいと思う。フローニンゲン:2022/6/27(月)08:56


8678. 執筆と受苦と情熱/「免疫獲得時代」の中で


書くことは常に、向こうの世界の異質な自己との出会いをもたらし、異質な存在としての自己との出会いは、ある意味苦の引き受けでもあるという点において、情熱的でもある。受苦としての文章執筆行為という意味がどうやらあるようだ。書くことの真価の1つは、そこにあるかもしれない。自己は絶えず自己を超えた存在なのだが、普段私たちはなかなかそれに気づくことができない。しかしひとたび文章を書き始めてみると、これまで知っていた自己とは違う自分の側面が見えてくるはずである。書くことを通じて絶えず新しい発見があるのは、自己が自己を常に含みながらも超えているからであり、書くことによってその側面が明らかになるからである。書くという営みは本当に不思議な性質を帯びているものだ。絶えず文章を書くことは、絶えず自己を超えていくことを意味する。そしてそれは、絶えず産みの苦しみを伴うという受苦的な側面も持っている。そうした側面を持つ文章執筆行為をこれからも継続していこう。


加速度的な情報や時間の流れに対する免疫機能を高めていくことの大切さ。物理的なウィルスへの身体的な免疫機能を高めるだけではなく、目には見えない情報や時間の過剰な流れというウィルス的なものへも私たちは免疫機能を高めていかなければならない時代を生きているように思える。それはかなり急務であり、そうしたウィルスの蔓延は著しい。少なくとも観想的な生を営むことは、その対抗手段になる。だが重要なことは、それをしているだけでは単なる個人的な防衛でしかなく、重要なことは時代のそうした病理に働きかけていくことである。日々の探究と実践は、常にそこに焦点を当てたものである。現代社会は種々の免疫機能を高めることを迫る「免疫獲得時代」なのかもしれない。本来は必要のないそうした努力が強いられるのは残念であるが、種々の免疫を獲得しながら、ウィルスの性質の分析と、ワクチンに該当する実践的な処方箋を個人レベルと社会レベルの双方で生み出していく試みにこれからも邁進していく。フローニンゲン:2022/6/27(月)11:24


8679. ジークンドートレーニング114:昨日の復習を意識して


時刻は午後4時に近づいている。天気予報が少し外れ、今この時間帯はまだ雨が降っていない。つい今し方、ジークンドーの鍛錬を行った。先ほどの鍛錬は、昨日のロビンさんとのプライベートセッションの復習を念入りに行った。集中力を保ちながら、1つ1つの技のリズムを変えることによって変動性を設けるなどの工夫をした。それと、普段の一人稽古の時には呼吸と共に技を出せているのだが、ロビンさんが対峙すると、呼吸ができていないことがあり、これまで毎回それを指摘されていた。どんな時にも呼吸が伴った形で技が出せるようになるまでマッスルメモリーに動作を覚え込ませていく必要がありそうだ。


昨日のセッションを改めて思い出すと、昨日は1つ新しい試みが始まった。昨日は、初めてヘットギアを付けながら行うトレーニングをしたのである。その意図は、ロビンさんからのカウンターの攻撃の衝撃に慣れるものであり、実際にヘットギアを付けるのは初めてだったので、それに慣れていないこともあって、ヘットギアに意識が向かっていたのか、カウンター攻撃を食らう回数が増えてしまったが、そこからの学びは多かった。前回からの変化としては、徐々により実践的な形でトレーニングが始まったことを実感する。まだロビンさんとスパーリングをするようなことはしていないが、昨日のヘットギアを付けた稽古はそれに近しいものだった。明日は天気が良さそうなので、ジムに行き、鏡のある部屋で昨日と今日の稽古で意識したことをより時間をかけて行ってみようと思う。ジークンドーの鍛錬においても、日々新しい発見を楽しみながら、長い時間軸で実践を続けていこうと思う。フローニンゲン:2022/6/27(月)16:00


8680. 中国の模倣文化の背後にある思想に触れて


時刻は午後7時を迎え、先ほどから少し小雨が降り始めた。小雨により、涼しさが増し、今は肌寒いほどである。ちょうど今日の昼ごろに日本の協働者の方とオンラインミーティングをしたのだが、歴史的に早い日本の梅雨明けの話をし、今とても気温が高くなっていることについて話を伺った。住む場所によって随分と気候が異なり、それが心身に与える影響が随分と違うことを改めて思った次第である。


今日もまたビョンチョル·ハンの書籍を読み進めていた。今日は、ハンの芸術論と絡めた社会批判に関する論考が収められた書籍を読んでいた。その書籍のテーマは、中国の模倣品の製作の背後にある歴史と思想を取り上げていて、随分と面白い指摘が随所になされていた。その書籍を読むまでは、中国はビジネス上の目的で様々な模倣品や模倣的サービスを展開しているのだろうと思い込んでいたが、どうやら中国の歴史や文化を紐解いてみると、もっと深い理由が横たわっていることがわかった。それらを全て取り上げることはしないが、1つとして、本質的なものは絶えず変化するという、ある意味道教的な発想が中国の模倣文化の背後にあることを挙げることができる。ある対象を模倣すればカネが儲かるとか、そんな短絡的な発想だけではなく、その対象を尊重し、その対象を永続的に変化させていくことによってその対象を保持していくという発想が中国の模倣文化の背後にあることを知った。ハンは、現代の中国が模倣している商品やサービスなどを列挙しながらも、それと同時に、古代中国から脈々と受け継がれる芸術上における模倣の歴史についても取り上げている。そうした歴史的事実を目の当たりにすると、中国の模倣行為のより深い側面を知る。また、模倣に関する認識の差異についても概説があり、興味深いのは、日本の神道の歴史において重要な伊勢神宮は20年ごとに改築作業が行われていて、どうやらユネスコ側の西洋的な論理としては、その行為が模倣行為に類するものであり、世界遺産たり得ないという認識をしていることを知ってハッとさせられるものがあった。どうやら西洋においては、原物(オリジナル)に少しでも手を加えることがその原物性を毀損し、その瞬間に原物足り得ないとする発想があるらしい。この発想は西欧社会で長らく暮らしていても気付いていない盲点であった。この背後には必ず宗教的な発想があり、それについてもう少し調査と考察をしていこうと思う。


ハンの中国の模倣文化に対する論考は、作曲実践を含め、広くは学術論文の執筆を含めた自分の創作活動全般に大きな影響を与えうるものかと思う。日々の創作活動とこれからの創作活動において、何がオリジナルであり、何がコピーなのかといったその線引き問題を含め、考えなければいけない点がたくさんある。フローニンゲン:2022/6/27(月)19:29

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