No.3744 宇宙の風景_A Scenery of the Universe
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1636, Disappearance of Play and Myth
Play is disappearing in this society.
So is myth.
I wish this world would become playful and mythic again.
Groningen; 09:12, 6/24/2022
No.1637, Detour
Machines don’t make a detour.
On the other hand, humans do it and can do it.
We must enjoy the privilege.
Groningen; 09:16, 6/24/2022
No.1638, Wings
I’ll give my wings to you.
You’ll be able to fly then.
Both you and I can meet in the sky.
Groningen; 20:45, 6/24/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8657. 今朝方の夢
8658. 雷雨の訪れ
8659. 非生産的・非パフォーマティブであることの価値
8660. 儀式と時間/物質の価値の再考
8661. 他者であり続けること
8662. 終末を思いながら
8657. 今朝方の夢
時刻は午前7時を迎えた。今、小鳥たちの鳴き声に加えて、カエルか何かの鳴き声も聞こえる。この瞬間は、優しい朝日が地上に降り注いでいて、青空が広がっている。ところがどうやら、今日は午前中から雨が降るようである。今の空の様子からすると、それはにわかに信じられないが、午前中から夜にかけてしっとりとした雨が降るらしい。昨日は真夏日よりだったこともあり、今もまだその温かさが残っているのだが、午前中から降る雨によってまた随分と涼しくなるだろう。
朝の穏やかな世界を眺めながら、早速今朝方の夢について振り返ってみよう。夢の中で私は、高校2年生の時のクラスメートの男女数名と見慣れない街にいた。どうやら私たちは、卒業を祝ってクラス会をしているようだった。クラスメート全員ではなく、そのメンバーだったのは、私たちが仲が良かったからだろう。目の前に広がる見慣れない街は、東京のようでいて、同時に外国のどこかの街のようでもあった。しばらく街を歩いていると、時刻は夕方になり、あるキャンプ地に到着した。そこは小さな野原であり、そこでキャンプができるようになっていた。どうやら私たちは、クラス会の前にはここで宿泊をしていて、クラス会の後に後片付けのためにここに戻ってくることが最初から予定されていたようだった。私はそのようなことを知らず、キャンプ地をぶらぶら歩いていると、突然記憶を取り戻したかのように、そう言えば自分はスーツケースを3つ持参していて、それらをちゃんと持って帰らなければならないと思った。辺りはもう随分と片付いていて、他のクラスメートの友人たちが撤収作業を頑張っていたことが伝わってきた。キャンプ場の原っぱを見渡してみると、遠くの方に自分のスーツケースを見つけた。私は、無事にそれらがそこにあったことを内心喜び、そこに駆けつけた。すると、スーツケースの脇に、自分が今回のキャンプで持ってきた数冊の楽譜と書籍が地面に重ねられて置かれていた。一体誰がこんなところに置いたのだろうかと不思議に思いながらも、とりあえずそれらがちゃんとそこにあったことを喜び、撤収作業を進めた。そのような夢の場面があった。この他にも、この夢の延長線上に、少し近未来な街を訪れ、そこからまた別の街に向かっていく夢の場面があった。そこは欧州の街の雰囲気を感じさせ、親近感があったの同時に、目新しさもあったのを覚えている。フローニンゲン:2022/6/24(金)07:14
8658. 雷雨の訪れ
時刻は午前8時半を迎えた。先ほど、辺りが暗くなり、雷が落ちた。そして、地上を浄化させるかのような激しい雨が降ってきた。それはしばらく降り続け、今はまた穏やかさを取り戻している。早朝はあれだけ天気が良く、朝日も拝めていたのだが、突然の天気の変化を見て、自然の力を思う。こちらの想像を超えるような力を自然は持っていて、それが畏怖心を引き起こす。そして、自分を超え、自己を圧倒するような力の前に、何とも言えない美的感覚が湧き上がってくる。まさにビョンチョル·ハンが指摘するように、美とは超越的なものであり、自己を自らの殻の外に引き剥がすようなある種の痛みの感覚が付き纏うものなのだ。さらに美は、その体験に深く留まらせてくれるという働きも持つ。これがいかに大切なことか。現代は、刹那的かつ消費的な体験で埋め尽くされていて、1つの体験に留まることが本当に難しくなってしまっている。体験そのものに持続がないのである。持続がないというのはすなわち、そこには意味がほとんどなく、事物との繋がりもほとんどないのである。意味や事物は、本来持続を持つものなのだ。そうなって来ると現代は、意味と事物の本質を喪失した時代と言えるだろうか。いずれにせよ、雷1つ取ってみても、そこに留まることを可能にしてくれるという点においてそれは貴重である。雷という自然の産物には、改めて畏怖な気持ちと敬虔な気持ちになる。
先ほどまで降っていた雨が排水溝に流れていく音が聞こえて来る。そして、再び小鳥たちの声が聞こえて来る。そんな中、昨日購入したブルーマウンテンの豆を挽いて煎れたコーヒーをゆっくりと味わっている。こうした形で朝のゆったりとした時間を楽しんでいる。そこには観想的な生の在り方が体現されている。この在り方のままで、これから午前中の読書を進めていこうと思う。引き続きビョンチョル·ハンの書籍の精読をしていく。夕食までの時間をハンの書籍に充て、夕食後には川面凡児全集を読み進めていく。川面凡児全集の中でも、今はおそらく川面の社会批判に的を絞って読解していくのが賢明かと思う。その方法を採用すれば、ハンの書籍との繋がりも見えやすく、ここから宗教においては神道の観点を軸に据えて文明学の探究をしていく足掛かりになる。今日もまた、読書を通じて喚起された事柄を日記にまとめていきながら、観想的な1日を送っていこう。フローニンゲン:2022/6/24(金)08:46
8659. 非生産的・非パフォーマティブであることの価値
詩の持つ非生産的な性質、さらには非パフォーマティブな性質の価値を再考している。世の中は、本当にこうしたものに価値を見出さなくなってしまった。生産的であろうとすることを過剰に求め、パフォーマティブであろうとすることを過剰に求める。詩というのは面白い性質を内包していて、それが真に詩であれば、意味を汲み取らせることをまるで拒否するかのように、容易にはその意味を開示してくれない。こんな言葉の用法は、企業社会の中では見出せない。これは企業社会だけではなく、現代の社会そのものが生産性とパフォーマンスを追い求めているのだから、社会の隅々で見られることである。言葉の秘匿さが消失してしまったのが現代社会の言語的な特徴と言えるだろうか。言葉の秘匿さは、官能的な美的感覚をもたらすことを考えてみると、言葉による官能的な美が消失してしまっているのが現代だと言えるように思える。言葉の曖昧さに耐えられないような人が増えている印象を持つ。仕事を通じて交流する人たちの様子を見ていると、その傾向は加速度的に進行している。言葉の曖昧さこそ、言葉を通じた官能的な美の源泉なのであって、それを否定する社会というのは、美を否定する社会であるように映る。いずれにせよ、言葉から美が消えゆく様を見ているのはとても辛いことであり、この点に関しても何か実践的な処方箋がないかを探っていこう。個人的な1つの試みとしては、言葉の秘匿さが内包された言葉を用いながら日々の日記を綴っていくことが挙げられる。それは自分の中にある美的感覚を目覚めさせ、涵養する試みでもあり、時代と格闘する方法でもある。
雷雨が去って、とても穏やかな雰囲気が辺りに漂っている。そうした中で、記憶と感覚を大切にしようとする自己の姿を見る。情報やデータを至上のものとみなすこの社会の中で、記憶や感覚といった自分の内側の中にある主観的なものを大切にしようとする自分がいる。残念ながら、そうした主観的なものですら、現代においては客観的な魔の手が伸びてきており、それに対抗する形で自らの純粋記憶や純粋感覚とでも呼べるようなものを自分は何としても守りながら育んでいこうとしているのだろう。この現代社会においては、失われていくものがあまりにも多すぎる。その代わりに生まれて来る新たなものにはどこか生気がなく、実存性や霊性に響いてこないものばかりである。今聞こえて来る小鳥たちの鳴き声と、それを澄み渡らさせているこの環境もまた失われていくものなのだろうか。そうあってはならないという気持ちが沸々と湧き上がって来る。フローニンゲン:2022/6/24(金)10:12
8660. 儀式と時間/物質の価値の再考
過度に画一化し、絶え間なく流動的に流れていく現代の時間の中で、固有の時間を生み出すものとして儀式の存在価値の一端がある。儀式は、固有の時間を生み出す箱のようなものであり、同時にそこで生み出された時間が箱のように1つの形となる。儀式にはそんな働きがあるように思えて来る。でなければ、過去に自分が参加した諸々の儀式に関する記憶がこれほどまでに強固に保持されているはずはないのだ。
情報という非物質的なものへの傾きが激しい現代社会において、もう一度物質的なものの価値を見出す必要があるのではないかと思う。確かに現代は、物質の消費が激しいが、それは物質主義ではなくて単に消費主義なだけであって、真の物質主義というのは、物質が本来持っている価値や質感を大切にする思想と在り方のことをいうのではないかと思う。その点において、現代社会は消費主義的でありながら、決して物質主義的ではないのだと思う。日々スマホやソーシャルメディアによって、非物質的なものに晒され続けている私たちのどこが物質的だというのだろうか。私たちはおそらく、魂を喪失してしまったというよりも、真っ先に物質的なものを喪失してしまったのではないかと思う。まさに、存在の入れ子の下部構造が骨抜きにしてしまったのである。神道的な発想をすれば、物質もまた霊の顕現であり、そこには霊が宿っているのである。それを忘れてしまうと、物質の存在を蔑ろにしてしまう傾向が生まれて来る。
自分は電子書籍を購入することは決してなく、物質的な実際の本を購入する。絵画に関しても、NFTが叫ばれる現代において、デジタルデータとしての絵画ではなく、実際の原画を購入することを好む。こうしたところに、自分がなんとか物質的なものを守り、それを生活の中に取り入れようとしていることがわかる。魂は、存在の入れ子に宿るのであって、決して情報に宿るのではない。そのようなことを思いながら、現代の情報主義的社会の有り様について思いを馳せる。フローニンゲン:2022/6/24(金)15:07
8661. 他者であり続けること
様々な次元において同質化が進む現代社会において、自分は頑なに他者にとっての他者であろうとする。その姿勢はとても重要なのかもしれない。他者というのは否定性の顕現であって、自分は他者にとって否定性を突きつけるような存在であり続けたいと思う。そして、自分が望むのはまたそうした他者である。同質な存在と触れ合い、付き合うことは、近親相姦的な自己破壊をもたらす。とにかく他者を求め、他者であり続けること。それを自らに課したいと思う。
時刻は午後4時を迎えた。先ほど、部屋全体に掃除機をかけ、綺麗になった部屋の中でジークンドーの鍛錬を行なっていた。先ほどのトレーニングでは、これまで習ったフットワークと手技を色々と絡めて行なったり、3種類のキックを連続して出す練習をしていった。掃除で体を動かし、ジークンドーで体を動かしたことにより、精神がまた活力を取り戻し、再び読書に戻るにふさわしい状態になった。そんな状態の中、ふと川面凡児の神道神学とテクノロジーやマネーとの繋がりについて考えていて、テクノロジーやマネーの内在性質を川面の霊魂観をもとに探究していくと色々と重要な洞察が得られるような道筋が見えてきた。この直観的な道筋を大切にしたいと思ったので、すぐに全集の第1巻を取り出し、第7巻と第9巻を読んだ後に、第1巻の霊魂に関する章を精読していこうと思った。今のところ、このアプローチは研究の方向性として筋が良さそうだという感覚がある。神道の考え方に基づけば、テクノロジーやマネーにも霊が宿っており、そもそもそれらは霊的な産物なのであるから、川面の詳細にわたる霊に関する考察は役に立つだろう。今夜もまた全集に取り掛かり、少しずつ神道神学の応用について新たな道を見出していければと思う。フローニンゲン:2022/6/24(金)16:26
8662. 終末を思いながら
間も無く午後9時を迎える。空はまだ明るく、夕日がこれからゆっくりと沈んでいく。日が伸びたこの頃は、午後11時ぐらいまで明るい。振り返ってみると、今日は朝に雷雨がやって来た。それがもう昔のように思える。今日1日の時間密度はとても濃く、充実していた。それは今日に限ったことではないが、今日はとりわけ朝の出来事が遠くの思い出のように思い出される。それにしても、朝に見舞われた雷雨について思い出すと、夏の雨というのはなんとも言えない趣があるものである。雨の後は涼しさがやって来て、とても心地が良いのが特徴だ。遠くの空をゆっくりと動く入道雲を眺めながら、今朝方の情景を思い出していた。こうした思い出すという行為そのものが自然と行えているのも、ここに観想的な生があるからだろうか。きっとそうだろう。観想的な生には、充実した内省と想起があるのである。
道を模索する日々。正直なところ、どこからどう考えても、この地球のことを本当に思い、宇宙のことを本当に思うのであれば、すなわち地球中心主義や宇宙中心主義的な立場に立つのであれば、人間などいない方がいいと思うのだが、どうも簡単にはそうはいかない。今のところ、全ての人間が痛みを感じず、平穏に同時に消滅する手立てを人為的に生み出すことは難しそうなので、地球にとってのウィルス的な人間存在が生きながらにして地球や惑星にどのようにすれば共存共栄できるのかの道を探していくしかない。人は愛する人がこの世からいなくなったとき、悲しみに暮れる。そうした悲しみに暮れる時間を与えず、痛みなく平穏に全人類が一瞬にして抹消される道があれば本当はもっとも楽で、全人類にとっても、地球や他の惑星にとっても最も望ましいと思うのだが、どうもそれは難しそうなのだ。そうしたことから自分は今の探究を進め、実践的な処方箋の創出に向けて尽力しているのだと思う。自分は悲観主義者でもなく、厭世的でも、厭人的でもないのだが、それでも現代人の振る舞いや心の有り様を客観的に見て、上記のようなことを思わざるを得ないし、きっと冷静に考えてみれば、誰でも上記のような手段があれば最も幸福な終末だと思うのではないかと思うが、現実的にはそうもうまくいかないというのが正直なところなのではないだろうか。本当に人類にとっての終末というのは絶望的のようなのだ。そうした絶望的な終末を絶えず視野に入れながら、これらの探究と実践は淡々と進んでいく。
しばらくは、朝から夕食までの時間を文明学の探究に充て、夕食後の時間を神道の探究に充てる。文明学に関しては、ビョンチョル·ハンの思想を中心にして、テクノロジー哲学やマネー神学に関する書籍も併せて読み進めていく。再読に再読を重ねていく形で理解を少しずつ重層的に深めていこう。それにしても、キリスト教の終末論の慧眼にはやはり感服してしまう。終末思想を持つ他の宗教においては、人類の終末をどのように描いているのかも調べてみよう。そこには見過ごせない超越的な真実があるはずである。フローニンゲン:2022/6/24(金)21:05
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