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8651-8656: フローニンゲンからの便り 2022年6月23日(木)



No.3743 宇宙の囲い_An Enclosure of the Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1633, A Morning Gentle Observer

A morning gentle observer is taking care of the world.

The world becomes tranquil and peaceful.

Everybody can be such a serving observer.

Groningen; 07:28, 6/23/2022

No.1634, Something Nameless

Something nameless is crucial for my transformation.

It is a good sign that I have something impossible to name.

Groningen; 09:53, 6/23/2022


No.1635, Playfulness and Poetry

I have to protect the playful use of language.

Only poetry can create a sanctuary for it.

This is especially important for this modern era where we lost playfulness and play itself.

Groningen; 17:23, 6/23/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


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楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8651. 川面凡児全集とビョンチョル・ハンの書籍の読解を進めながら

8652. 今朝方の夢

8653. 崇高なものが消失し、ますます滑らかになりつつある社会の中で

8654. 結合/言葉の源流/儀式の消失と儀式的な生

8655. 区切りをつけることの困難さと重要さ/休息の搾取

8656. 蠱惑性と遊戯性の喪失が進む言葉


8651. 川面凡児全集とビョンチョル・ハンの書籍の読解を進めながら


時刻は午前6時を迎えた。今、とても清々しい朝の世界が目の前に広がっている。朝日はすでに昇っているが、これからその輝きは強さを増すだろう。今日は気温が30度近くまで上がるようなので、完全に夏日である。今日と明日の最高気温の差は10度ほどあり、その落差は激しい。今日はせっかく天気に恵まれるので、午後には街の中心部のコーヒー屋に足を運び、コーヒー豆を購入したいと思う。久しぶりの夏日和の1日を大いに楽しもう。


昨夜より川面凡児の全集を読み始めた。到着後に全体を眺めていた時と違って、実際に読み始めてみると、その擬古文もさほど難解ではなく読み進めることができている。今読み進めているのが、とりわけ社会批判に関するものであり、それは自分の関心と合致しているがゆえに頭に入ってきやすい側面があるのかもしれない。いくつかの項目で、早速川面の論考を現代文明批判に活用できそうだと感じた。まずは川面の社会批判の論理を抑えていき、そこから川面の霊魂観に移っていきたいと思う。いずれにせよ、ゆっくりと理解を深めていくことが重要である。当面は、午前中から夕食までの時間をビョンチョル·ハンの書籍の精読と再読に充てていく。そして、夕食後に川面全集を読んでいこう。ハンの書籍の読解が落ち着いたら、川面全集を読むのと逆転させてもいいかもしれない。いずれにせよ、今はハンの書籍の読解を中心にし、川面全集はそれとの繋がりでそれを補完するような形で読み進めていく。嬉しいことに、両者の繋がりはすでに朧げながら見えていて、論文執筆の可能性も見えてきている。学術論文の執筆に向けては、兎にも角にも両者の思想を深く理解することが肝要である。もちろん、彼らの思想を理解しながら論文を執筆していくことも可能だが、自分としては彼らの思想を深く理解し、自ら設定したテーマに対して彼らの思想を自由自在に適用できるようになったときに論文を執筆したいという思いがある。これまで論文や書籍を執筆するときにはそのような形を採用していたことが多い。今後もその形を踏襲するか、あるいは新しい形を試してもいいが、今できることはとにかく彼らの思想を深く理解するための読書を継続していくことである。これは愚直に毎日続けていきたい。彼らの思想が自分の中に体現されてくればくるだけ、両者の思想の繋がりが見えてくるだろうし、文明批判に対するアイデアもより明確なものになり、筆が進みやすくなるに違いない。フローニンゲン:2022/6/23(木)06:27


8652. 今朝方の夢


朝日の輝きを正面に受けながら、朝の澄み渡る世界を眺めていると心が心底落ち着く。この深い落ち着きと共に、今日もまた充実した1日を過ごしていこうと思う。今日は気温が30度まで上がるということなので、真夏日がどのような日だったかを思い出すのにちょうどいい。二重窓の内側の扉はすでに開けていて、風が通りやすくなるようにしているが、今日は窓そのものを開けて風を通す必要があるかもしれない。


今朝方の夢をいつものように振り返っておこう。夢の中で私は、大学のキャンパス内にいた。どうやらつい先日大学に入学したようで、今日が最初の登校日のようだった。そうしたこともあり、初日の今日はオリエンテーションが組まれていて、学内のどこに何があるのかを教えてもらうことになっていた。ところが私は、そのオリエンテーションに参加し損ね、コピー機のある講義棟の中にいて、手持ちの資料をコピーしようとしていた。私の近くには見知らぬ女子学生がいて、どうやら先輩のようだった。彼女も何か資料をコピーしようとしていたようだが、コピーの前に修正箇所が見つかったようで、慌ててそれを修正していた。私はその女子学生と少し会話をして、大学について色々と教えてもらった。彼女もそうだが、他の学生を見ていても、みんな勉強熱心に充実した表情を浮かべていて、とても良い印象を持った。コピーを取り終え、トイレに立ち寄ると、男子トイレの便器の配置が変わっていて、大小様々、形も様々な便器があちこちに配置されていた。私はどこで用を足そうか少し考え、目星の便器を見つけたのでそちらに向かった。そこで用を足し始めると、両隣に小中学校時代の友人が現れ、彼らに声を掛けられた。先ほどのオリエンテーションはどうしたのかと尋ねられたのである。彼らは親切にも、オリエンテーションで話された内容について教えてくれ、どうやら明日は歓迎会が街のホールを貸し切って行われるようだった。そこには日本のアニメ映画の声優さんたちがゲストでやって来るようであり、そんな粋な計らいがあることに驚いた。友人が歓迎会のパンフレットを渡してくれたのでそれを見ると、知り合いの敏腕ディレクターの名前がそこにあり、彼が色々とゲストを引っ張ってきてくれたのだとすぐに察した。トイレを後にすると、そういえば小中高時代の親友(SI)とこれから遊ぶことになっていたことを思い出し、彼にメッセージを送ろうと思った。ところがそれが面倒に思えたので、すぐに彼に電話をした。彼は電話にすぐに出てくれたので、午後1時半にうちに来てもらうようにお願いした。本当は一緒に昼食を摂ろうと思っていたのだが、お互いに今いる場所が遠かったのと時間的に厳しそうだったので、各自で昼食を摂り、集合場所は自宅にした。今朝方はそのような夢を見ていた。この夢の中ではそう言えば、同年代の女性アナウンサーが大学構内にいて、彼女とは知り合いだったので彼女と話をしていたのを覚えている。また、紙と鉛筆を一切使わず、データだけで実験を進めていく理科系の男子学生とも話をしていたのを覚えている。フローニンゲン:2022/6/23(木)06:44


8653. 崇高なものが消失し、ますます滑らかになりつつある社会の中で


崇高なものは、まず私たちを圧倒するという形で、否定性を通じて立ち現れる。一方、美しいものは、私たちに肯定的な感情を与えるという形で、肯定性を通じて立ち現れる。崇高な美というのは、否定性の次に肯定性が立ち現れる形で生まれるのかもしれない。ハンの書籍を読み進めながら、そのようなことを考える。今、ハンの美学思想に関する書籍“Saving Beauty”を読み進めているのだが、その書籍の中でハンは、現代の何でもかんでも滑らかにする現象に対して批判を加えている。例えば、スマホの画面の滑らかさや、ブラジリアンワックスなどの脱毛クリームもまた身体の滑らかさを促すものである。昨日の痛みや苦痛の話と絡めると、私たちの深層的な発達を促すのは、そうした肯定性に満たされた滑らかさではなくて、ある意味私たちを傷つける否定性なのだ。現代においては、ソーシャルメディアにおける「いいね」を含め、肯定性に溢れていて、否定性がますます影を潜めている。否定性は過度に毛嫌いされ、心地良い滑らかさに社会が覆われ尽くし始めている。そんな時代においては、否定性を通じて立ち現れる崇高なものも絶滅に追い込まれ、私たちは崇高なものを通じて心を豊かにしていくことがますます難しくなっている。そんな時代を生きていることを実感する。身の回りに肯定性の産物としてどのようなものがあるかを観察してみよう。滑らかさが体現されたものがどれだけ身の回りにあるのかも観察してみる。それに加えて、貴重なものとして現存している滑らかではないもの、つまり否定性の産物についても探す努力をしてみよう。もはやそちらは探す努力をしてみなければ見つけることができないようなものになってしまっているように思える。さらには、自己の存在を圧倒するような崇高なものについても観察の意識を伸ばしてみる。さて、このような取り組みをしてみて、何を発見し、また何を考えるだろうか。フローニンゲン:2022/6/23(木)09:19


8654. 結合/言葉の源流/儀式の消失と儀式的な生


人間の脳と意識には、全く無関係なものを結びつけ、新たなものを生み出そうとする力を持っている。ゆえに、現在の探究が一見無関係のように思えることで構成されていたとしても心配はいらない。こと学術研究を取ってみても、ビョンチョル·ハンの文明批判と川面凡児の神道神学の間に何ら関係性が見つけられなさそうであっても、それはいつか明瞭な関係性を通じて結びつく。脳と意識には、異質なものを繋ぎ合わせる力があるのだ。それを肝に銘じながら探究を継続していこう。


言葉の乱れと社会の乱れ。言葉が乱れると、心が乱れ、それは社会の乱れとも密接に繋がっているように思う。英語の学術書を読んでいると、よく言葉の原義が書かれているのだが、それは大抵ギリシャ語やラテン語に由来がある。おそらく歴史の経過を通じて、言葉が乱れてしまったのだろう。何か力を持った言葉を持つ古代ギリシャ人の暮らしぶりと社会の在り方を思う。それと同時に、日本語においては言霊学にあるように、言霊としての日本語にまで遡って、日本語本来の姿を見つめ直していきたいと思う。


神道の探究をしていると、儀式というのは不可欠な主題として存在している。ちょうど今、ビョンチョル·ハンが儀式について思想を展開している“The Disappearance of Rituals”という書籍を読み始めたところだ。過去に自らが様々な儀式に参加した経験からすると、儀式には自我を超出させ、自我の働きを一時的に停止させるような力があることに気づく。現代の自我肥大化社会において、儀式は非常に重要な役割を果たすことがすぐにわかるのだが、問題はその儀式が消失の一途を辿っていることである。型としての儀式が持つ特殊なエネルギー。それは今述べたような自己超出的な力に加えて、共同体形成を促すような結束力も持ち合わせている。現代において儀式というのはどのように復活させることができるのだろうか。この点において、例えば神道はどのような取り組みをしているのだろうか。そうした関心事項を持ちながら、引き続き本書を読み進めていこう。こうした形で日々を静謐さと共に自己超出的に生きていることそのものが儀式的と言えるかもしれない。日々を旅として過ごすだけではなく、儀式として生活を営んでいくことができないだろうか。それは何も具体的な儀式的行為をするという意味ではなくて、儀式の本質に則った生活をするという意味である。自分なりに儀式の本質というものを発見し、汲み取っていかなければならない。本書の読解は、その一助になるだろう。フローニンゲン:2022/6/23(木)12:09


8655. 区切りをつけることの困難さと重要さ/休息の搾取


終焉や区切りをつけさせてくれない社会の仕組み。現代の歪んだ新自由主義的資本主義においては、人生は絶えず足し算的に進行させられ、終わりを設けることや区切りを設けることがますます難しくなっている。人間の死でさえも延長され、その延長過程においてマネーが必ず媒介される。また、ひとたび死を迎えても、その弔いの儀式さえもが金銭獲得のために行われるようになっている有様であり、人は死んでもマネーの対象に成り下がってしまっているようだ。マネーは死後も追いかけて来る。弔いの儀式でそれが終わるのではなく、そこからも各種様々なサービスや商品によって、人間は死後もまた商品化と消費の波に飲まれ続けることになる。そのような構造が浮かび上がって来る。個人として、区切りをつけることや終わりにすることを含め、その意味と実践を深めていこうと思う。


資本主義は物語を生み出さない。それは計測し、数え上げるだけである。自分は物語を紡ぎ出す。自己はそれを心底望み、物語ることを通じて自己をこの世界に定位させようとしている。資本は四六時中休みなく動く。動くことによって自己増殖をしていき、休みなく動くことがその養分になっている。それに対して、自己はその流れに抗おうと、積極的に休息しようとする。自己が資本化されることを逃れる道として、観想的な休息を取ることが求められる。しかし現代においては、休息そのものが消費や搾取の温床になっており、休息のその先にあるのはより効率的·生産的な労働であることが大いに問題かと思う。本来、休息は休息として完結する意義や価値を持っていたはずなのだが、現代ではそれは完全に骨抜きにされ、より効率的·生産的に働くために休息があるような状況が見える。これはよくよく考えてみれば今に始まったことではなく、ピラミッドを作るための奴隷に休息が与えられていたのと同じなのかもしれない。だが現代は、奴隷の主人が奴隷に休息を与えるという構造ではなく、自らが自らに休息を与えるという一見すると自由に休息を取れているという構造の中で、休息の本来の意味がより見えにくくなり、自由の名の下に取った休息が実は自分をさらなる搾取に駆り立てていることに気づきにくくしているのではないかと思う。休息1つ取ってみてもこのようなことがすぐに思いつき、今度は旅についてもまた少しばかり考えを巡らせてみよう。旅を取り巻く問題も色々と山積みのように思える。フローニンゲン:2022/6/23(木)15:15


8656. 蠱惑性と遊戯性の喪失が進む言葉


私たちの言葉というものがますます機能的になり、単なる情報伝達のためのツールに成り下がると、言葉が本来持っている蠱惑的な力はますます消失してしまう。歪んだネオリベラリズムは、言語をますます機能的なものにし、言葉の魔力や魅力を排除する形で中身のないものにしてしまう。こうした言葉を使うことを強制され、蠱惑的な性質のない言葉ばかりに触れることによって、人々の実存性や霊性はますます貧困化していく。また、言葉にはそもそも遊戯性が備わっていたはずである。遊びというのもまた、歪んだネオリベラリズム的な世界においては生産にとっての邪魔なものにしか過ぎず、言葉から遊戯性も剥奪されている。そうした状況に対抗する形で、言葉の蠱惑性と遊戯性を守る取り組みに従事していこう。それはこのようにして執筆されている日記を通じてすでになされていることでもあり、詩というのはまさにそれらの両側面を最も大切にしている言語表現である。それにしても、歪んだネオリベラリズムは、人間の諸活動の隅々にまで悪しき影響を与えていることに愕然としてしまう。


今日は夕方に、街の中心部のコーヒー屋に足を運んでコーヒー豆を購入してきた。その時には気温が28度を超えていて、真夏の感じを味わった。運河には船やボートで往来する人たちの姿が多く見え、太陽の光を目一杯浴びながら、その瞬間を思いっきり楽しんでいるように映った。街の雰囲気全体として夏の感じが漂っていて、時間もいつも以上にゆったりとした感じがした。こうしたフローニンゲンの表情は良いものである。もちろん、この街もまた歪んだネオリベラリズムの影響を完全に脱却することはできず、その影響が見られることは確かだが、それでも、その落ち着きを見ていると安心するものがある。歪曲したネオリベラリズムに完全に毒されていない聖域のような街がここにある。こうした街を守っていくこと。その実践に意識が向かう。明日からは一転して気温が10度以上下がり、そして朝から雨が降るようだ。この変動もまたフローニンゲンらしいと言えばらしいものであり、こうした変動性も含めて、街の味わい深さを感じる。フローニンゲン:2022/6/23(木)17:52

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